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2話

Author: Amy
last update publish date: 2026-08-03 02:49:54

でも、恋じゃなく、仕事で上書きする。

指輪を返した翌朝、私の婚約破談が広告・PR業界のSNSトレンドに載った。

午前8時15分。出社前に待ち合わせた駅前のカフェで、茜がスマホをテーブルの中央へ滑らせた。

私の名前は出ていない。代わりに、悠真の肩書きと裏切りだけが、乱暴な見出しにされていた。

【#某広告代理店の婚約者裏切り男】

画面には、悠真と見知らぬ女がホテルから並んで出てくる写真が映っていた。

ホテル名と通行人には丁寧なぼかしが入っている。

けれど、悠真と女の顔だけは鮮明だった。悠真は、首から社員証まで下げたままだ。

「顔も社員証も丸見えじゃん。ほんっと、救いようのないバカ」

茜は写真を拡大し、悠真の顔を指で弾いた。

「これ、有栖が流したの?」

「結論から言うと、違う」

私はアイスコーヒーのグラスを持ち上げた。

「撮った人も、最初に投稿した人も知らない。指輪を返して、まだ1日も経ってないのに。ネットは仕事が早いね」

「そこ、感心するところ?」

「でも、私の手は汚れてない。そこは大事」

嘘ではない。私は何もしていない。

浮気相手の名前を追うつもりもなかった。私が取り返すのは男ではない。

7か月かけて育ててきた、yonalisの仕事だ。

問題は、火が私のほうにも回っていたことだった。

出社後、会社の給湯室の手前で足が止まった。

「聞いた?白鳥さん、婚約破棄されたって」

「式、来月だったらしいよ。ドレスとかどうするんだろ」

「かわいそう」

かわいそう。その言葉が、いちばんたちが悪い。

私は足音を立ててから給湯室へ入った。2人が黙る。

マグカップを洗い、湯を注いで出た。何も言わなかった。

説明すれば、傷ついていることになる。怒れば、余裕がないことになる。

どちらも、あの2人が欲しがっている物語だった。

昼過ぎ、上司に呼ばれた。

「白鳥さん。yonalisのコンペ、担当を外れる選択肢もあるけど」

「なぜですか」

「いや、その、いろいろ大変な時期でしょう。無理をしなくても」

無理。悪意はないのだろう。悪意がない人ほど、私の仕事を私から取り上げようとする。

「昨年9月から、商品設計の上流工程に入っています」

「知ってるけどさ」

「7か月です。降りません」

上司は困った顔をして、それ以上は言わなかった。

私はデスクへ戻り、プレゼンのスライドを開いた。

18枚。数字も、根拠も、絵もそろっている。けれど、数字だけでは足りない。

コンペ会場に来る人間のうち、何人が悠真の写真を見たのか分からない。何人が、私を「婚約破棄された女」として見るのかも。

それでも、私の左手へ落ちる視線だけは予想できた。なら、その視線ごと企画へ連れていく。

……

都心のホテルにある大宴会場には、約150人の業界関係者が集まっていた。

アオイ製薬と株式会社ヨナリスラボが共同で開く、事業説明会を兼ねた公開最終ピッチ。

アオイ製薬の役員と宣伝部、ヨナリスラボの経営陣、出資会社、流通、EC運営、販売代理店。最終候補4社の社員たちは、社名入りのストラップを首から下げ、会場の四隅に分かれている。

各社に与えられた時間は、プレゼン20分、質疑応答10分。

機密性の高い予算表と媒体計画は事前提出済みだ。壇上では、ブランドの核と、実行責任者の力量が試される。

午前中に、映像の投影とマイクの接続確認は終えていた。

いまは本番。私たちの登壇まで、あと5分だった。

「白鳥さん、そろそろ舞台袖へお願いします」

アオイ製薬の運営担当者に呼ばれ、タブレットを抱え直したときだった。

「その18枚、本当に全部必要か」

背後から、低い声が飛んできた。

振り返ると、黒いジャケットを着た男が立っていた。仕立てのいいスーツを無駄なく着こなし、視線だけで資料の弱い場所を探している。

事前資料で見た顔だった。

株式会社ヨナリスラボ代表取締役、九条陸(くじょう りく)。35歳。今日の発注側で、審査側だ。

「初対面の相手にする質問としては、ずいぶん高圧的ですね」

「20分に18枚。説明することと、伝えることは違う」

「必要かどうかを決めるのは、私です」

「そうだ。だから聞いた」

陸の視線が、タブレットの8枚目で止まった。

「そこへ着く前に、客席を手放さない自信は?」

「あります」

「なら、見せてもらう」

陸はそれだけ言うと、審査席へ戻っていった。助言ではない。答えもくれなかった。

私が、自分の18枚に責任を持てるか確かめただけだ。

前の会社のプレゼンが終わった。拍手は大きかった。スクリーンには、著名人を起用した華やかな広告映像が残っている。

「制作費だけで、相当いってる」

後ろで誰かが囁いた。

スタッフが壇上のデータを切り替える。大型スクリーンに、私の勤務先と名前が映った。

【クレイン・アンド・カンパニー】

【企画責任者 白鳥有栖】

客席の左後方で、小さなざわめきが起きた。

「あの人じゃない?」

「例の婚約破棄の……」

声はすぐに消えた。けれど、前列の何人かが私の顔から、左手の薬指へ視線を落とした。

壇上まで、あと10歩。この20分で負ければ、7か月かけて集めた調査も、私が書いた言葉も、別の代理店へ渡る。

発売実績に残るのも、別の誰かの名前だ。

私はマイクを持ち直した。

「『好き』という気持ちには、領収書がありません」

前列で資料をめくっていた手が止まった。

「私も先週、7年間信じた相手の『好き』が、何の保証にもならないと知りました」

会場を見渡した。

「商品も同じです。一度『好き』と言わせるだけでは、ブランドは育ちません」

スクリーンを次のページへ送る。

照明を落とした部屋。眠る前、鏡の前に立つ女性の後ろ姿。

【今日を、ここで終わらせていい】

「yonalisが売るのは、夜用美容液1本ではありません」

画面に、帰宅から就寝までの生活時間を表示した。

「仕事も、家事も、人間関係も終えられないまま眠る女性に、自分のためだけに使える最後の1分を売ります」

次の画面には、初回購入率、28日後の継続購入率、紹介率の3つを並べた。

「一度選ばれるのは、広告の仕事です。もう一度選ばれるのは、信用の仕事です」

視線が、私の左手からスクリーンへ移った。

アオイ製薬の営業部長が手を挙げた。

「初月の認知目標が低くありませんか。広告費を増やせば、もっと取れるでしょう」

「認知だけなら取れます」

私は初回購入率の隣に、28日後の継続購入率を表示した。

「ただし、広告費で買った認知は、広告を止めれば消えます。今回見るべき数字は、最初に何人が買ったかではありません。28日後に、何人が自分の意思でもう一度選ぶかです」

別の審査員が資料から顔を上げた。

「予算を3割削られたら、何を落としますか」

「大型広告を1本削ります。試供品の導線と、購入後のフォローは残します」

「なぜです?」

「話題になっただけの商品は、翌月には忘れられるからです。yonalisに必要なのは、一晩の注目ではなく、毎晩の習慣です」

最後に、陸が口を開いた。

「起用した発信者が炎上した場合は?」

「1時間以内に予約投稿を停止。3時間以内に事実関係を確認し、24時間以内に最初の説明を出します」

「契約を切って終わりか」

「いいえ」

私は陸をまっすぐ見た。

「切るか守るかは、事実を確認してから決めます。信用を守るために、誰かを急いで悪者にすることはしません」

数秒の沈黙があった。

陸は腕を組んだまま、一度だけ深く頷いた。

持ち時間を示す時計が、残り10秒になった。

私は最後のスライドを映した。

【好きと言わせるのではなく、もう一度選ばれるブランドへ】

「以上が、私たちの提案です」

時計がゼロになった。

一拍遅れて、拍手が起きた。

結果が発表されたのは、最終候補4社のプレゼンがすべて終わった午後5時だった。

大型スクリーンに、選定結果が映し出される。

【yonalis新ブランドPR業務】

【選定企業 クレイン・アンド・カンパニー】

その下に、もう一行。

【指定責任者 白鳥有栖】

息を吐いた。7か月を、ひとまず他人の名前に渡さずに済んだ。

控室へ戻ると、陸が缶コーヒーを2本持って現れた。

陸は隣ではなく、椅子を1つ空けて座った。

「さっきの言葉、よかった」

「実体験なので、説得力だけはありました」

「災難だったな」

「もう処理しました。いま残っているのは、仕事だけです」

プルタブを起こす音が、ほぼ同時に響いた。

「正式な発注条件を相談したい。月曜の午前10時、ヨナリスラボの会議室で」

「それなら伺います」

彼はコーヒーを一口飲み、立ち上がった。

……

帰りのタクシーがホテルを離れた直後、スマホが震えた。

悠真からだった。

【受注、おめでとう】

【九条と直接組むんだって?】

【月曜、うちの樫村部長とそっちへ行く】

【仕事を続けたいなら、俺とのことは円満にしておいたほうがいい】

私は、最後の1行をもう一度見た。

指輪は返した。

それなのに悠真は、今度は私の仕事へ入ってこようとしていた。

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