LOGINでも、恋じゃなく、仕事で上書きする。
指輪を返した翌朝、私の婚約破談が広告・PR業界のSNSトレンドに載った。
午前8時15分。出社前に待ち合わせた駅前のカフェで、茜がスマホをテーブルの中央へ滑らせた。
私の名前は出ていない。代わりに、悠真の肩書きと裏切りだけが、乱暴な見出しにされていた。
【#某広告代理店の婚約者裏切り男】
画面には、悠真と見知らぬ女がホテルから並んで出てくる写真が映っていた。
ホテル名と通行人には丁寧なぼかしが入っている。
けれど、悠真と女の顔だけは鮮明だった。悠真は、首から社員証まで下げたままだ。
「顔も社員証も丸見えじゃん。ほんっと、救いようのないバカ」
茜は写真を拡大し、悠真の顔を指で弾いた。
「これ、有栖が流したの?」
「結論から言うと、違う」
私はアイスコーヒーのグラスを持ち上げた。
「撮った人も、最初に投稿した人も知らない。指輪を返して、まだ1日も経ってないのに。ネットは仕事が早いね」
「そこ、感心するところ?」
「でも、私の手は汚れてない。そこは大事」
嘘ではない。私は何もしていない。
浮気相手の名前を追うつもりもなかった。私が取り返すのは男ではない。
7か月かけて育ててきた、yonalisの仕事だ。
問題は、火が私のほうにも回っていたことだった。
出社後、会社の給湯室の手前で足が止まった。
「聞いた?白鳥さん、婚約破棄されたって」
「式、来月だったらしいよ。ドレスとかどうするんだろ」
「かわいそう」
かわいそう。その言葉が、いちばんたちが悪い。
私は足音を立ててから給湯室へ入った。2人が黙る。
マグカップを洗い、湯を注いで出た。何も言わなかった。
説明すれば、傷ついていることになる。怒れば、余裕がないことになる。
どちらも、あの2人が欲しがっている物語だった。
昼過ぎ、上司に呼ばれた。
「白鳥さん。yonalisのコンペ、担当を外れる選択肢もあるけど」
「なぜですか」
「いや、その、いろいろ大変な時期でしょう。無理をしなくても」
無理。悪意はないのだろう。悪意がない人ほど、私の仕事を私から取り上げようとする。
「昨年9月から、商品設計の上流工程に入っています」
「知ってるけどさ」
「7か月です。降りません」
上司は困った顔をして、それ以上は言わなかった。
私はデスクへ戻り、プレゼンのスライドを開いた。
18枚。数字も、根拠も、絵もそろっている。けれど、数字だけでは足りない。
コンペ会場に来る人間のうち、何人が悠真の写真を見たのか分からない。何人が、私を「婚約破棄された女」として見るのかも。
それでも、私の左手へ落ちる視線だけは予想できた。なら、その視線ごと企画へ連れていく。
……
都心のホテルにある大宴会場には、約150人の業界関係者が集まっていた。
アオイ製薬と株式会社ヨナリスラボが共同で開く、事業説明会を兼ねた公開最終ピッチ。
アオイ製薬の役員と宣伝部、ヨナリスラボの経営陣、出資会社、流通、EC運営、販売代理店。最終候補4社の社員たちは、社名入りのストラップを首から下げ、会場の四隅に分かれている。
各社に与えられた時間は、プレゼン20分、質疑応答10分。
機密性の高い予算表と媒体計画は事前提出済みだ。壇上では、ブランドの核と、実行責任者の力量が試される。
午前中に、映像の投影とマイクの接続確認は終えていた。
いまは本番。私たちの登壇まで、あと5分だった。
「白鳥さん、そろそろ舞台袖へお願いします」
アオイ製薬の運営担当者に呼ばれ、タブレットを抱え直したときだった。
「その18枚、本当に全部必要か」
背後から、低い声が飛んできた。
振り返ると、黒いジャケットを着た男が立っていた。仕立てのいいスーツを無駄なく着こなし、視線だけで資料の弱い場所を探している。
事前資料で見た顔だった。
株式会社ヨナリスラボ代表取締役、九条陸(くじょう りく)。35歳。今日の発注側で、審査側だ。
「初対面の相手にする質問としては、ずいぶん高圧的ですね」
「20分に18枚。説明することと、伝えることは違う」
「必要かどうかを決めるのは、私です」
「そうだ。だから聞いた」
陸の視線が、タブレットの8枚目で止まった。
「そこへ着く前に、客席を手放さない自信は?」
「あります」
「なら、見せてもらう」
陸はそれだけ言うと、審査席へ戻っていった。助言ではない。答えもくれなかった。
私が、自分の18枚に責任を持てるか確かめただけだ。
前の会社のプレゼンが終わった。拍手は大きかった。スクリーンには、著名人を起用した華やかな広告映像が残っている。
「制作費だけで、相当いってる」
後ろで誰かが囁いた。
スタッフが壇上のデータを切り替える。大型スクリーンに、私の勤務先と名前が映った。
【クレイン・アンド・カンパニー】
【企画責任者 白鳥有栖】
客席の左後方で、小さなざわめきが起きた。
「あの人じゃない?」
「例の婚約破棄の……」
声はすぐに消えた。けれど、前列の何人かが私の顔から、左手の薬指へ視線を落とした。
壇上まで、あと10歩。この20分で負ければ、7か月かけて集めた調査も、私が書いた言葉も、別の代理店へ渡る。
発売実績に残るのも、別の誰かの名前だ。
私はマイクを持ち直した。
「『好き』という気持ちには、領収書がありません」
前列で資料をめくっていた手が止まった。
「私も先週、7年間信じた相手の『好き』が、何の保証にもならないと知りました」
会場を見渡した。
「商品も同じです。一度『好き』と言わせるだけでは、ブランドは育ちません」
スクリーンを次のページへ送る。
照明を落とした部屋。眠る前、鏡の前に立つ女性の後ろ姿。
【今日を、ここで終わらせていい】
「yonalisが売るのは、夜用美容液1本ではありません」
画面に、帰宅から就寝までの生活時間を表示した。
「仕事も、家事も、人間関係も終えられないまま眠る女性に、自分のためだけに使える最後の1分を売ります」
次の画面には、初回購入率、28日後の継続購入率、紹介率の3つを並べた。
「一度選ばれるのは、広告の仕事です。もう一度選ばれるのは、信用の仕事です」
視線が、私の左手からスクリーンへ移った。
アオイ製薬の営業部長が手を挙げた。
「初月の認知目標が低くありませんか。広告費を増やせば、もっと取れるでしょう」
「認知だけなら取れます」
私は初回購入率の隣に、28日後の継続購入率を表示した。
「ただし、広告費で買った認知は、広告を止めれば消えます。今回見るべき数字は、最初に何人が買ったかではありません。28日後に、何人が自分の意思でもう一度選ぶかです」
別の審査員が資料から顔を上げた。
「予算を3割削られたら、何を落としますか」
「大型広告を1本削ります。試供品の導線と、購入後のフォローは残します」
「なぜです?」
「話題になっただけの商品は、翌月には忘れられるからです。yonalisに必要なのは、一晩の注目ではなく、毎晩の習慣です」
最後に、陸が口を開いた。
「起用した発信者が炎上した場合は?」
「1時間以内に予約投稿を停止。3時間以内に事実関係を確認し、24時間以内に最初の説明を出します」
「契約を切って終わりか」
「いいえ」
私は陸をまっすぐ見た。
「切るか守るかは、事実を確認してから決めます。信用を守るために、誰かを急いで悪者にすることはしません」
数秒の沈黙があった。
陸は腕を組んだまま、一度だけ深く頷いた。
持ち時間を示す時計が、残り10秒になった。
私は最後のスライドを映した。
【好きと言わせるのではなく、もう一度選ばれるブランドへ】
「以上が、私たちの提案です」
時計がゼロになった。
一拍遅れて、拍手が起きた。
結果が発表されたのは、最終候補4社のプレゼンがすべて終わった午後5時だった。
大型スクリーンに、選定結果が映し出される。
【yonalis新ブランドPR業務】
【選定企業 クレイン・アンド・カンパニー】
その下に、もう一行。
【指定責任者 白鳥有栖】
息を吐いた。7か月を、ひとまず他人の名前に渡さずに済んだ。
控室へ戻ると、陸が缶コーヒーを2本持って現れた。
陸は隣ではなく、椅子を1つ空けて座った。
「さっきの言葉、よかった」
「実体験なので、説得力だけはありました」
「災難だったな」
「もう処理しました。いま残っているのは、仕事だけです」
プルタブを起こす音が、ほぼ同時に響いた。
「正式な発注条件を相談したい。月曜の午前10時、ヨナリスラボの会議室で」
「それなら伺います」
彼はコーヒーを一口飲み、立ち上がった。
……
帰りのタクシーがホテルを離れた直後、スマホが震えた。
悠真からだった。
【受注、おめでとう】
【九条と直接組むんだって?】
【月曜、うちの樫村部長とそっちへ行く】
【仕事を続けたいなら、俺とのことは円満にしておいたほうがいい】
私は、最後の1行をもう一度見た。
指輪は返した。
それなのに悠真は、今度は私の仕事へ入ってこようとしていた。
「戻ってきてください」アオイ製薬の宣伝部長は、電話の一言目にそう言った。2週間前、同じ声で私を切った人だ。「名義を戻します。発売は2週間後のままですが、リリースに企画者としてお名前を入れます」私はロビーの窓の外を見た。葉桜が風で裏返り、白く光っている。「即答はしません。3日ください」電話を切っても、手の震えはしばらく止まらなかった。2週間前に同じ声で切られた記憶が、まだ体に残っていた。戻れる場所が差し出されたことに、ほっとした自分もいた。名義も報酬も、慣れた組織の後ろ盾も戻る。昨日まで欲しかったものだ。だからこそ、今すぐ受け取ってはいけない。失う恐怖だけで選べば、また恐怖に決めさせることになる。私は3日間、自分が戻りたいのか、それとも戻れると証明したいだけなのかを考えた。翌日から、東邦アドワークスの社内調査が始まった。会議室の予約履歴や社内ネットワークの接続記録が照合され、匿名投稿への悠真の関与が確認された。樫村も事前に投稿内容を把握していたことが分かった。さらに、玲花側から悠真へ、私の動向に関する情報が共有されていた記録も見つかった。あの四つ角を、悠真が知っていた理由もこれでつながった。のちに悠真は停職処分を受けたうえで営業職を外され、樫村も管理責任を問われて降格となった。玲花には、ヨナリスラボと私の代理人がそれぞれ通知を出した。今回の件を受け、玲花が以前から進めていたヨナリスラボへの再出資計画から資金提供者が離れ、計画そのものも止まった。悠真から謝罪は来なかった。来なくてよかった。私はもう、彼の謝罪まで受け取る役を引き受けたくなかった。茜とは、あの路地裏の居酒屋で会った。違うのは、彼女が先に泣いていたことだった。「担当、戻った」「知ってる。会社の告知に出てた」茜はおしぼりで目を押さえて、笑った。「あたし、あんたを庇ったこと、後悔してないから」「知ってる」「でも、あの日の『ごめん』は嫌だった。あんたが謝ると、あたしが選んだことまで、あんたのせいになる」私は箸を置いた。守られたくないのは、私だけではない。茜も、自分の選択を誰かに取り上げられたくなかったのだ。「……ごめん」「また言った」「今のは、いい謝罪でしょ」「70点」熱い餃子を食べた。舌の上を痛みが走る。今度は、何かを飲み込むため
4月16日。葉桜の季節だった。yonalisの商品発表会は、午後4時に終わった。30分後、同じ建物の別会議室に、説明会への参加を希望した報道関係者が70人ほど集まった。私は前方の説明者席に座っていた。目の前の卓上札には、こう書いてある。【説明者/白鳥有栖】会社名のない卓上札は、驚くほど軽く感じた。演台の上には、薄いタブレットが1枚。入っているのは、11枚のスライドだ。昨夜、4時間かけて代理人確認後の最終版にした。7年間、何百回もプレゼンを作った。自分の潔白を説明するためのものを作ったのは、初めてだった。開始10分前、通路に影が落ちた。「有栖」悠真だった。スーツは新しい。ネクタイは、私が選んだものだった。「本当にやるのか」「そのために、あなたにも回答の機会を知らせたの」「こんな場所で、何を言うつもりだ」彼は膝を折って、私の座席の高さに顔を合わせてきた。周囲には聞こえない、2人だけの声だった。こうした使い分けが、7年ぶん染みついている。「今ならまだ間に合う。ここを出よう。俺と戻れば、全部なかったことにできる」&n
4月5日。本来なら、私は今日、白いドレスを着ているはずだった。式場から、キャンセルに伴う最終精算書が朝いちばんに届いた。事務的で、丁寧で、返金額が明記されていた。私はそれを最後まで読んで、削除しなかった。「保留」フォルダに入れた。今日という日付は、使える。人生でいちばん惨めになる予定だった日を、いちばん動いた日に書き換える。それくらいの意趣返しは、してもいいはずだ。顔を洗って、化粧をして、いちばん隙のない色のジャケットを着た。昨夜の1行は、まだ画面に出したままだった。【あの四つ角、雨のあと滑るから気をつけろよ】4月2日、20時06分。悠真。1件だけなら、偶然でも成立する。人は心配して、そういう言い方をすることがある。だから私は、他の日のメッセージも並べた。3月29日。【あの九条ってCEO、バリュエーションが高すぎるって話が出てる】「バリュエーション」という単語が引っかかった。悠真がそんな言葉を使うのを、7年で一度も聞いたことがない。誰かの話し方が、悠真の文面に混ざっている。その候補のひとりとして、玲花の顔が浮かんだ。私は、3年前の記事をもう一度開いた。株式会社ヨナリス
明かりは、結局つけなかった。窓の外で、雨が降り続いている。4月の雨は音が細い。屋根を叩くのではなく、空気を湿らせるように降る。桜が散る音は聞こえない。桜は、散るときに音を立てない。私は床に座って、膝を抱えた。数えてみる。担当していたブランド。7か月。もうない。会社での居場所。7年。棚上げ。親友のキャリア。彼女が積んだもの。私の件に巻き込まれて削れた。契約。最後の紙1枚。止まっている。それから、婚約者。それは、私が自分で捨てたものだ。数に入れないことにする。残っているものを数えようとして、指が止まった。──何も持っていない。3月12日、私はロビーで7年を返却した。あのとき、私は自分がとても強いことをしていると思っていた。今日、4月4日。返却した側の私が、今度は持っていたものを次々と取り上げられて、床に座っている。膝の上で、右手が勝手に動いていた。左手の薬指を、上から下へなぞっている。指輪はない。日焼けの跡も、3週間で消えてしまった。何も、残っていない。なぜ、こうなったのか。順番に考えれば、答えは出るはずだった。記事が出たから。写真を撮られたから。目立つやり方をしたから。──目立つやり方をしたから。そこで、思考が止まった。受付に指輪を置いたのは、私だ。壇上で7年を公言したのも、私だ。玲花に「派手なやり方ね」と言われたときも、私は褒め言葉として受け取った。私は、なぜあんなことをしたのだろう。理由なら、いつでも言えた。人の目は一番の噂屋だから。同情のラベルは、自分で読み上げれば効力を失うから。全部、本当だ。そして全部、後から作った説明でもある。本当のところは、たぶん、もっと単純だった。私は、誰にも値切られたくなかった。かわいそうと言われたくなかった。捨てられた女だと思われたくなかった。だから先に、自分で値札を貼った。高い値札を。誰にも手が届かない場所に。母が死んだのは、私が24歳のときだった。化粧品の販売をしていた人で、口の悪いところが私にそっくりだった。病室で、最後の週に一度だけ、こんなことを言った。「有栖。あんた、人に選ばれたがる癖があるでしょ」「ないよ」「あるの。値札は、貼られるものじゃなくて、貼るものよ」私はその言葉を、鎧の作り方として受け取った。自分の価値は
「あたし、担当外された」茜の声が急に遠く聞こえた。「……なんで」「今日の昼、うちのアカウントで書いたの。あの記事は事実と違うって」茜は、匿名ではなく、自分の名前が分かるアカウントで私を擁護していた。【一緒に働いたことがある人間として言います。あの人は、そういうやり方で仕事を取る人じゃない】たった2行だった。その2行に、400件の引用がついていた。「会社に問い合わせが来たの。編集者が特定の関係者を擁護するのは中立性に反するって。上が謝罪文出した。あたしの名前で」「消して。投稿、消して」「消さない」「茜」「消したら、あんたを庇ったことまで嘘になる」返す言葉が見つからなかった。「ごめん」「謝んないでよ。あんたが謝ったら、あたしが間違えたみたいじゃない」通話が切れたあと、私はしばらくスマホを握ったまま座っていた。私が受付に指輪を置いた。私が壇上で言い切った。私が、目立つやり方を選んだ。その選択の請求書が、私ではなく茜のところに届いた。私が動いたことで、被害が私だけでは済まなくなった。これは、想定していなかった。自分が撃たれることは計算していた。撃たれるのは私の仕事の一部だと思っていた。
4月3日、朝7時12分。記事が出た。【独占】アオイ製薬 新ブランドPR担当、契約先CEOと深夜の密会写真は2枚あった。1枚目は、夜道で陸と向かい合う私。2枚目は、彼の手が私の腰にあり、顔の距離が近い。どちらも本物だった。それが、いちばん厄介だった。2枚目は、信号待ちで私がよろけて、彼が支えた3秒だ。けれど写真は、それが3秒だったとは伝えない。1枚目と2枚目のあいだに何があったのかを、写真は説明しない。説明しないまま、読む人の頭のなかで勝手につながる。私はその記事を、自分とは無関係な資料のように3回読み返した。そして、3回目に気づいた。これは、私が毎日やっている仕事だった。素材を選び、順番を決め、余白を残して、読む人に結論を作らせる。私が7年やってきたことを、今日は誰かが私に対してやっている。構図はきれいだった。プロの仕事だと思った。8時40分、アオイ製薬から電話が来た。「白鳥さん。本件、しばらく対外窓口と登壇から外れていただきます」「事実関係の確認をお願いします。私は……」「写真については確認しました」宣伝部長の声は、怒っていなかった。むしろ気の毒そうだった。それが答えだった。「白鳥さん個人を疑っているわけでは