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4話

Author: Amy
last update publish date: 2026-08-07 20:08:29

社内チャットに、茜から一枚のスクリーンショットが届いた。

「これ、匿名掲示板。見たくなければ見なくていい」

茜は、見るかどうかを私に選ばせてから送ってくる。こういうところが好きだ。

【白鳥有栖は新CEOを籠絡して契約を勝ち取ったらしい】

【営業というより接待。女の武器は強いね】

笑ってしまうほど雑な文面だった。

証拠はひとつもない。

書いた人間は、証拠がなくても効くことを知っている。

──噂は、証拠がそろうのを待ってくれない。悪意のほうが、いつも先に広がる。

「どうする?」

「歩く」

「……は?」

「走ったら、追われてる側になる」

そう返したものの、その日は何もしなかった。

翌朝10時、人事部に内線を入れた。正面から潰すつもりだった。

私の職業人生でいちばん確実なやり方は、いつも記録と手続きだ。感情ではなく、書式で殴る。

人事の担当者は、40代の女性だった。話は最後まで聞いてくれた。それだけは良かった。

「投稿の削除申請と、発信元の調査をお願いします」

「白鳥さん。お気持ちは分かります」

「気持ちの話ではありません。業務上の名誉に関わる問題です」

「ただ、これ、社外の掲示板なんですよね」

彼女はモニターを私のほうへ向けた。

「社内システムの投稿なら、こちらで対応できます。でもこれは業界向けの匿名掲示板です。会社に削除権限はありません」

「では、発信元の開示を」

「法務には共有します。ただ、現時点で会社として開示請求まで進められるかは判断が必要です」

「理由は?」

「社外サイトで、投稿者も分かっていません。業務との関連や、発信元を絞る手がかりも必要です」

「業務への影響は、まだ出ていません」

「そうですよね。だから、今の段階では証拠を保存して、法務の判断を待つことになります」

会社が本気で動くのは、被害が数字になってかららしい。

「もうひとつだけ、これは私見ですけど」

彼女は声を落とした。

「東邦アドワークスさんとは、うちも複数案件で取引があります。正直、社内では角を立てずに収めたいという声が出ています」

樫村の顔が浮かんだ。

あの人が私に忠告した理由が、いま分かった。あれは親切ではなく、通告だったのだ。

「分かりました」

私は立ち上がった。

「お時間ありがとうございました」

会社はすぐには動かない。なら、火元に近い人間へ直接聞くしかない。

昼休み、私は別れてから初めて、自分から悠真に電話をかけた。

3コールで出た。声が弾んでいた。

「有栖。よかった、やっと……」

「掲示板の投稿、知ってるでしょう?」

「……ああ、見た。ひどいな」

「止めて」

電話の向こうで、悠真が言葉を止めた。

「俺が書いたと思ってるのか」

「書いたとは言ってない。止められる人だと思って言ってる」

悠真はまた黙り込んだ。

それから、ゆっくり息を吸った。

「……有栖。ちょっと考えたんだけどさ」

その言い方を、私は知っている。

7年間、彼が私との話を取引に変えようとするときの前置きだった。

「あの掲示板、たぶん、うちの誰かが面白がって書いてるんだと思う。俺が言えば止まると思う」

「じゃあ言って」

「言う。言うけどさ」

来た。

「そのかわり、1回ちゃんと会って話そう。戻ってこいとは言わない。ただ、俺がそばにいれば、こういうのからお前を守れる。実際いま、守れてないだろ」

スマホを持つ手に力が入った。

この男は、火を消す代わりに私を返せと言っている。

そして本人は、自分がひどく親切なことを言っていると信じている。

「悠真」

「うん?」

「あなた、その言い方、火をつけた人間の言い方よ」

「は? おい、待て、俺は……」

私は切った。電話を切ると、スマホを握る手が震えていた。

怖いからではない。久しぶりに湧いた、まっすぐな怒りだった。

そして同時に、はっきり分かってしまった。噂は、私を削るためだけのものじゃない。

悠真にとっては、私を戻すための資産だ。私が困れば困るほど、彼の「守ってやる」の値段が上がる。

火を消せる人間が、火を消したがっていない。

これが、いちばん厄介な種類の敵だった。

昼過ぎ、陸から呼び出しがかかった。

会議室に入ると、彼はスマホを机に伏せて置いた。

「噂、聞いたか」

「ええ。よくできた物語だと思いました」

「放っておくつもりか」

「人事に申し入れました。法務には上げるそうです。ただ、すぐには動けないと言われました。火元にも連絡しました。交換条件を出されました」

陸の眉が動いた。

「1人で動いたのか」

「動かないと、誰も動かないので」

彼はしばらく黙り、それから書類を机に置いた。

「この件は俺が処理する。有栖は仕事に集中しろ」

初めて、陸が私を名前で呼んだ。

思わず、彼の顔を見返した。

「……名前で呼ぶなんて、珍しいですね」

「仕事のパートナーは、肩書きじゃなく名前で呼んだほうがいい」

けれど、引っかかったのは「処理する」という言い方だった。

私は「相談する」とも「一緒に考える」とも言われていない。

誰が、何を、どこまで処理するのか。

それすら知らされていなかった。

「処理とは、具体的に何をするんですか?」

「知らないほうがいい」

「知らないほうがいいと言われて、知らないままでいた7年があります」

彼の視線が、初めて揺れた。

「……悪かった」

陸は一度、言葉を切った。

「ただ、今は俺に任せてほしい」

悠真の「守ってやる」と言葉は違っても、文法は同じだった。

会議室を出るとき、廊下の角に人影があった。

「仕事熱心ね」

黒いコートの女が立っていた。

細身で、姿勢がいい。落ち着いた笑みの奥に、冷たい光がある。

顔に見覚えがあった。

3年前の記事で、この会社のロゴの前に陸と並んで写っていた人だ。3年前にヨナリスラボを離れ、現在は東邦アドワークスの外部戦略顧問を務めている。

「氷室玲花さん」

「あら。調べたのね」

「名前を知られたくないなら、記事に載らないことですね」

彼女は小さく笑って、一歩近づいた。

「あの会社、私が半分作ったの。ロゴも、最初の商品名も、私。3年前に、陸が私から全部買い取った。安かったけれど」

穏やかに言うからこそ、かえって怖かった。

「返してほしいの?」

「取り戻したいの。返してもらうのは、あげた人の言い方でしょう」

玲花は笑ったまま、私を見た。

「私がいちばん怖いのは、私が作った会社が、私を忘れたまま大きくなることよ」

そこで彼女は、初めて私の左手を見た。

「あなた、婚約指輪を返したんですってね」

「ええ」

「派手なやり方。嫌いじゃないわ」

「褒め言葉として受け取ります」

「褒めてないの。目立つやり方をする人は、写真に撮られやすいって話」

エレベーターが来た。彼女は乗らずに、私を先に乗せた。

扉が閉まる直前、玲花が言った。

「彼、あなたを守ろうとするわよ。あの人の『守る』は、相手の話を聞かないことだから」

その夜、私は残業して10時過ぎに会社を出た。

雨は上がり、街灯が濡れたアスファルトへ細長く映っていた。

駅までの道は人通りが少ない。

ヒールの音だけが、ビルの壁に反射して返ってくる。

四つ角の手前で、陸から着信があった。

「まだ会社か」

「もう出ました」

「俺も近くにいる。送る」

「歩ける距離ですよ」

「距離の問題じゃない」

赤信号になり、私は横断歩道の手前で足を止めた。

「仕事は仕事です。線を引ける人でないと、私は組めません」

電話の向こうで、一瞬の間があった。

「俺も近くにいる。交差点までは行く。嫌なら車には乗らなくていい」

陸の声が少し低くなった。

「越えるときは、必ず君に確認する」

通話を切って、スマホをバッグに入れた。

数分後、交差点の手前に黒い車が止まった。

後部座席から、陸が降りてきた。

「送ると言っただろう」

「断ったはずです」

言い返しながら歩道へ上がろうとして、濡れた縁石にヒールを取られた。

身体が傾く。

陸の手が、私の腰を支えた。

「大丈夫か」

「ありがとうございます」

私はすぐに身体を離した。

そのときだった。

カシャ、と乾いた音がした。シャッター音に聞こえた。

振り返っても、私たち以外に人影はない。

向かいのビルの窓は、ほとんど暗かった。風が、コートの裾を鳴らした。

気のせいかもしれない。そう思うことにして、私は歩き出した。

歩幅は変えなかった。

──走らない女は捕まえにくい。

追う側にとって、それが一番の罰だ。

けれど翌朝、私は自分の思い違いを知ることになる。

音は、私の背中側から聞こえたのではなかった。

上から降ってきたのだ。

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