All Chapters of 契約満了の日、彼女はすべてを手放した: Chapter 1 - Chapter 10

16 Chapters

第1話

依織が退院したという噂は、たちまちSNSへ広がった。これまでと同じように寧々のもとへ乗り込み、また騒ぎを起こすのだろうと、面白半分に待ち構える者までいた。暴露系のアカウントには、こんな投稿まで上がっていた。【久世夫人が退院。今度は白石寧々に何をすると思う?】コメント欄には、心ない言葉が次々と並んだ。「これまで流産してきたのも、全部白石のせいなんだろ?99人目にして、ようやく久世社長の本命が現れたってこと?」「久世依織って、金目当てで久世家にしがみついているだけじゃない。今の扱いも自業自得でしょ。早く離婚されればいいのに」ところが依織は反論するどころか、離婚を勧めるそのコメントへ静かに「いいね」を押し、自分のアカウントから、たった一言だけ返した。【皆さんの言うとおりです】その返信は瞬く間に拡散され、ネット上がにわかにざわめき始めた。暁人と親しい動画配信者まで、生配信をしながら本人のもとへ押しかけた。「暁人、やるじゃないか。あれだけ騒いでいた依織を、とうとう黙らせたのか?視聴者にも、その方法を教えてくれよ」暁人は答えず、届いたばかりのメッセージへ冷ややかな視線を落とした。【社長、奥様が久世家の本邸へ戻り、地下金庫へ入られました】暁人は鼻で笑った。配信のURLを依織へ送りつけると、カメラに向かって嘲るように言い放つ。「おとなしくなったわけじゃない。金を積めば黙る、それだけだ。昔から何も変わっていない。今回のことを水に流させるなら、2億円は必要だろうな。そうだろう、依織?」送られてきたURLを開き、夫が大勢の前で自分を笑いものにする姿を目にした依織は、そっと顔を伏せた。胸の奥を鈍く締めつける痛みが、暁人にとって自分は今も、金のためなら何でもする卑しい女でしかないのだと告げていた。つい先日、暁人との子どもを失ったばかりだった。妊娠8か月まで育った命を失ったというのに、彼は今も、金さえ渡せば依織は黙ると思っている。依織は頬を伝う涙を拭い、配信を閉じると、本邸の地下金庫へ足を踏み入れた。室内には有価証券や宝飾品、古美術品が厳重に保管されていた。どれも莫大な価値を持つものばかりだったが、依織は一度も目を向けず、最奥の棚から黄ばんだ書類を1通取り出した。8年前、久世家へ嫁ぐ際に署名した契約書は、実は2通あ
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第2話

法律事務所を出た途端、横殴りの雨が依織の頬を打った。ビルの谷間を吹き抜ける風にあおられ、依織は歩道の端で思わず身をすくめた。そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。画面に表示されたのは、久世暁人の名前だった。「本邸の地下金庫まで行ったそうだな。目当てのものは手に入ったか?」聞き慣れた嘲りが胸へ刺さる。依織は数秒黙り込み、かすれた声で尋ねた。「何の用?」「用件?本邸まで行って金を持ち出したんだろう。その分くらい言うことを聞け。今すぐ戻って夫婦の寝室を整えておけ。今夜は寧々を泊める」離婚を決めたはずなのに、胸はみっともないほど強く締めつけられ、鼻の奥がつんと痛んだ。依織はこみ上げる苦しさをのみ込み、しばらくしてから小さく答えた。「分かった」素直に従えば満足すると思った。けれど、暁人の苛立ちは収まるどころか、かえって強まったようだった。「ずいぶん素直じゃないか。金さえ手に入れば、俺が誰を連れ込もうと、どうでもいいらしいな」暁人は吐き捨てるように言い、依織の返事も待たずに電話を切った。依織は降りしきる雨の中へ立ち尽くした。どれほどそうしていたのか、通りかかった女性に肩を叩かれるまで、自分がずぶ濡れになっていることさえ気づかなかった。「ちょっと、大丈夫?具合でも悪いの?」我に返ると、握りしめた手のひらがじんじんと痛んでいた。いつの間にか爪が深く食い込み、皮膚には赤い三日月形の跡が残っている。――まだ、こんなにも傷つくのね。屋敷へ戻る頃には、依織の服から雨水が滴っていた。熱いシャワーを浴びてから寝室を整えようと、玄関の指紋認証へ指を置く。だが、短い警告音とともに【指紋を認証できません】と表示された。依織はその場で動きを止めた。自分の解錠権限が外されているのだと理解するまで、少し時間がかかった。乾いた笑いを漏らしながら扉を叩き、何度も呼び鈴を鳴らしたが、誰も応じない。薄手の服1枚で、依織は吹き込む雨を避けるように玄関脇へうずくまり、そのまま2時間近く待ち続けた。体は芯まで冷え切っているのに、額だけが異様な熱を帯び、視界が何度も揺らいだ。やがて重い扉が開き、執事が無表情のまま姿を見せた。その目には、わずかな同情さえ浮かんでいない。「奥様、お入りください。2時間は外で反省させろとの、旦那様のご命令です。久
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第3話

「やめて!私への罰なら何でも受ける。お願いだから、お父さんだけは巻き込まないで!」依織は目を見開き、もはや体面を気にする余裕もなく、その場へひざまずいて暁人にすがった。だが暁人は一瞥すらせず、扉の外に控えていた使用人へ冷たく命じた。「こいつを連れ出せ。これ以上、寧々の前に置いておくな」使用人はすぐに依織の腕をつかみ、寝室から乱暴に引きずり出した。次の瞬間、重い扉が目の前で閉ざされる。依織は廊下へひざまずいたまま、扉に向かって必死に声を張り上げた。「暁人、お願い!お父さんを傷つけないで。もう何年も意識が戻らないの。今の体では、少しの負担でも命に関わるわ!」返事の代わりに、扉の向こうから寧々の甘い笑い声が漏れてきた。最後までどこかに残っていた期待が、その声に押し流されていく。屈辱よりも先に、胸の奥で何かが粉々に砕けた。ここで泣いている場合ではない。依織は高熱と全身の痛みに耐えながら立ち上がり、屋敷を飛び出した。雨はますます激しさを増していた。まったくタクシーが捕まらず、依織は土砂降りの中をひたすら走り続けた。何度も足を取られ、そのたびに濡れた路面へ手をついた。ようやく長期療養施設へたどり着いた頃には、服も髪も泥と雨にまみれていた。依織が駆け込むと、父は個室から移され、裏手の救急搬入口にある一時待機スペースへ、搬送用ベッドごと置かれていた。開け放たれた扉から雨が吹き込み、薄い毛布の半分が濡れている。酸素チューブは外され、点滴も止められたままだった。転落防止用のベルトは必要以上にきつく締められ、手首には赤黒い跡が残っている。長く意識を失ったままの父は、かすかな呼吸を繰り返していた。その目尻には、涙の跡が細く残っている。その姿を見た瞬間、依織の胸は鋭くえぐられた。夢中で駆け寄り、雨の当たらない場所へベッドを移そうとしたが、車輪にはブレーキがかかり、解除の仕方も分からない。熱で力の入らない手では、びくとも動かせなかった。このまま必要な処置を止められれば、父の命が危ない。依織は震える手で暁人へ電話をかけた。「暁人、お願い。私にできることなら何でもするから、お父さんの処置を元に戻して……!」ところが、電話に出たのは寧々だった。「依織さん。私を殴って、郊外の別荘へ閉じ込めたこと、忘れたとは言わせないわ
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第4話

あまりにも苦しかった。過去の記憶と目の前の現実が重なり、依織は生きたまま地獄へ落とされたようだった。本能のまま体をよじって逃れようとしても、拘束具はきつく締められている。暴れるほど皮膚へ食い込み、傷口からにじんだ血が処置台の縁を伝った。数人がかりで体を押さえつけられ、指一本動かすことさえできない。電流が頭から足の先まで一気に突き抜けた。依織は痛みに耐えようと唇を強く噛み、口の中へ鉄の味が広がった。「いやっ……あああっ!」違法な処置は長時間に及び、やがて悲鳴は、かすかな吐息へ変わっていった。意識を失いかけるたびに冷たい水を浴びせられ、再び電流を流される。それが何度も繰り返され、床へ血が落ちる頃、ようやく依織は父の病室へ戻された。枕元へ放られたスマホが頬に当たり、その痛みで意識が戻った。必死に顔を上げると、父の体には再び酸素や点滴がつながれ、呼吸も落ち着いている。依織はようやく、細く息を吐いた。そのときスマホが鳴り、寧々からのメッセージが表示された。添えられていたのは、黄ばんだ日記帳の写真だった。依織自身の日記だ。【暁人さんは、こんな古いものをゴミだと思って燃やしかけたの。私が親切に残しておいてあげたわ】【あなたのいちばんの夢は、暁人さんとオーロラを見ることだったのね。偶然ね。私たちが今どこにいると思う?】続いて何十枚もの写真が、画面を埋め尽くすように送られてきた。オーロラの下で、暁人と寧々が寄り添い、親密そうに笑っている写真ばかりだった。暁人は星の命名サービスまで利用し、記念としてひとつの星に【暁寧】と名づけていた。暁人が寧々を慕う――その名に込められた意味は、あまりにも明白だった。愛する人と一緒にオーロラを見ること。2人の名前をつけた星を持つこと。どちらも依織が、日記へ一文字ずつ書き記した憧れだった。それが今は、すべて寧々のものになっている。依織は無表情のまま画面を消し、父の世話へ意識を戻した。暁人が寧々と旅行している間に、依織は海外の療養施設へ連絡を取り、父の受け入れに必要な手続きをオンラインで進めた。それでも寧々から届く自慢は止まらない。極北の地を離れた2人は、南米の大瀑布、孤島の巨石像、丘にそびえる巨大な聖像へと、依織の日記に書かれていた場所を順番に巡っていった。2人が次の土地
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第5話

依織は、何を言われたのか分からず、呆然と暁人を見返した。「私は何もしていない!」だが、その言葉が終わるより早く、寧々が部屋へ飛び込んできた。依織を指さし、声を張り上げて責め立てる。「奥様、私はずっと我慢してきました。それなのに、どうして何度も私を破滅させようとするんですか!」寧々は服の襟元を大きく開き、鎖骨の周りに残るひどいあざと、不自然な赤い跡をさらした。「これでも、何もしていないと言うんですか?暁人さんが間に合わなければ、私はもう……」その痕跡を目にした暁人の顔は、さらに険しくなった。「依織、どうしてここまでできる?寧々へ手を出したら許さないと、あれほど言っただろう!」依織は必死に首を振った。「違う!調べれば分かるわ。私がやったんじゃない!」「まだ言い逃れをするのか!」暁人は目を赤くし、依織の首を強くつかんだ。「思い出まで焼いたから、ようやく俺への執着を捨てたのかと思った。だが、あれも全部、俺を油断させて寧々を狙うための芝居だったんだな。忘れるな。今のお前が持つものは、すべて俺が与えたものだ。俺の金で、俺に刃向かえると思うな!」そう言うと、廊下に控えていた護衛たちへ命じた。「こいつを例の地下施設へ連れていけ。自分の立場を、よく分からせろ」頭の中で雷鳴が炸裂したようだった。喉を固いもので塞がれたように、呼吸さえ止まる。依織は全身を震わせながら、かすかな笑い声を漏らした。「暁人……私を、あそこへ送るの?」「寧々を傷つけた時点で、代償を払う覚悟はできていたはずだ」暁人は何の感情も見せずに言い放った。その施設は、権力者が人目を避けて制裁に利用する非合法な場所だった。暴力沙汰が絶えず、連れ込まれた者が無事に戻ることはほとんどないと噂されている。それでも暁人は、寧々のために依織をそこへ送ろうとしている。依織は目を見開き、残った力で暁人を突き飛ばした。テーブルへ駆け寄り、果物ナイフをつかむと、自分の喉へ刃を押し当てた。「私をあそこへ送るくらいなら、ここで殺して!」暁人の瞳が大きく揺れ、全身がこわばった。その目には隠しきれない恐怖が浮かび、反射的に声を上げる。「やめろ!依織、落ち着け。話せば分かるから……」暁人が心を揺らしたことに気づき、寧々の目に鋭い憎悪が宿った。唇を噛
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第6話

鞭が空気を切り裂き、鋭い音を立てた。次の瞬間、依織の背中へ激痛が走り、傷口から血がにじんだ。口には布を詰められ、叫ぶことさえできない。声にできない苦しみは逃げ場を失い、全身へ広がっていった。息をつく間もなく、次の鞭が振り下ろされる。乾いた音が何度も響き、閉ざされた部屋の中で不気味に反響した。依織は床へ体を丸め、耐えきれない痛みに震えた。やがて口元の布が緩むと、どうにか顔を上げ、かすれた声を絞り出した。「こんなこと……許されるはずがない……」誰も耳を貸さない。床へ落ちた血の匂いが、よどんだ空気と混じり合っていた。暴行は途切れることなく続き、意識は次第に遠のいていく。気を失いかけるたび、冷たい水を浴びせられ、無理やり目を覚まされた。依織は意識をつなぎ止めるため、心の中で数を数え続けた。999。そこまで数えたところで、もう次の数字は浮かばなかった。絶望にのみ込まれそうになっても、歯を食いしばって耐えるしかない。父が待っている。ここで死ぬわけにはいかなかった。やがて男たちは手を止め、床で小さく丸まった依織を足先で小突きながら笑った。「久世社長の言ったとおりだ。金のためなら、どんな苦しみにも耐える女らしい」「奥様、これからはよく覚えておくんだな。逆らわず、言われたとおりにしていればいい」依織は返事もせず、静かに目を閉じた。これで終わると思ったとき、再び扉が開いた。今度は数人の女性が入り、依織を取り囲んだ。「久世さん、騒ぎを起こしたらどうなるのか、よく分からせるようにと命じられています。悪く思わないでくださいね」熱湯や熱を持った器具まで使われ、依織は生きていることさえ恨みたくなるほどの痛みに襲われた。床をつかんだ指へ力を込めすぎ、爪の何枚かが割れた。壁の時計は、とっくに約束の3時間を過ぎている。それでも、誰も依織を解放しに来なかった。依織は自嘲するように口元をゆがめた。――どうして、まだ暁人の言葉を信じたのだろう。空が白み始め、水をかけても反応しなくなった頃、ようやく暴行は終わり、依織は病院へ運ばれた。再び意識が戻ったとき、近くで看護師2人が小声で話しているのが聞こえた。「聞いた?久世社長、白石さんを助けるために、意識の戻らない義父まで連れてきたそうよ」「聞いたわ。白石さんと
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第7話

暁人は、病院の個室で寧々に付き添いながら、1週間を過ごした。彼女の傷も、ようやくほとんど癒えていた。「暁人さん。今回のことがあっても、依織さんと離婚する気はないの?ずっと一緒にいるって言ってくれたでしょう。でも、このままじゃ永遠どころか、いつか本当に命まで奪われかねないわ」暁人の表情がこわばり、その声も次第に冷たくなっていった。「寧々、最初からはっきり言っていたはずだ。俺の妻は依織だけだ。お前も、立場も財産も望まないと言っただろう。二度と同じことを口にするなら、俺たちの関係もここまでだ」寧々は胸を鷲づかみにされたように息をのみ、きつく拳を握りしめた。一瞬、その目の奥に暗い感情がよぎる。だが、すぐに涙を浮かべると、暁人の腰へすがりついた。「そんなこと言わないで。久世家の妻になりたいわけじゃないって、分かっているでしょう?私はただ、ずっと暁人さんのそばにいたいだけなの。もう依織さんを愛していないのに、どうして自分まで苦しめるの?怖いの。次は何をされるのかと思うと、本当に怖くて……」暁人は、血の気を失った寧々の顔を見下ろした。だが、胸に湧いたのは愛おしさではなく、なぜか抑えきれない苛立ちだった。そのとき、8年前、依織へプロポーズし、受け入れてもらった日の光景が脳裏によみがえった。花に囲まれ、晴れやかに笑う依織は、息をのむほど美しかった。自分が心から望み、ようやく妻に迎えた女性だ。愛していないはずがない。彼女のためなら、何もかも差し出せる。それほど深く愛していた。依織が自分の人生へ現れた日から、この世のすべてを彼女に与えたいと願っていたのだ。だからこそ、依織が自分を愛しておらず、久世家の財産目当てで結婚したのだと思ったとき、どうしようもないほど彼女を憎んだ。2人の愛を汚されたことが許せなかった。自分の思いを踏みにじった依織が憎かった。そして何より、なぜ自分を愛してくれないのかと思うと、苦しくてたまらなかった。それでも暁人は、離婚だけは一度も考えたことがなかった。たとえこの先、互いに傷つけ合いながら生きていくことになっても、依織を手放すつもりはなかった。――このまま、お互いを苦しめ合う必要があるのだろうか。そう思った瞬間、暁人の迷いは消えた。寧々に何も告げないまま立ち上がり、病室を飛び出していった。寧々の
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第8話

「退院した?」暁人は眉を寄せた。まだ意地を張っているらしい。退院したことさえ、何も言わなかったのか。ため息をつき、依織へ電話をかけたが、応答はない。何度かかけ直しても結果は同じだった。暁人は怒りを通り越し、乾いた笑いを漏らした。「やるようになったな、依織」このところ従順にしていたのは、やはり芝居だったのだ。それなら、どちらが先に痺れを切らすか、試してやる。暁人は秘書の桐谷湊(きりたに みなと)へ電話をかけた。「手配しろ。寧々の快気祝いのパーティーを開く。俺の名義で、経済誌と芸能メディアにも案内を出せ」通話を終えると、荒れていた心がようやく落ち着いた。依織は、あれほど自分を愛している。報道を目にすれば、黙っていられるはずがない。……パーティー当日、寧々個人に関心のない者まで、久世グループへ近づく機会を逃すまいと集まっていた。華やかなドレスをまとった寧々を連れ、暁人は会場へ入った。まだ完全に治っていない体をいたわるように支え、穏やかな笑みを浮かべている。集まった人々はすぐに近寄り、口々に褒めそやした。「久世社長は白石さんを本当に大切になさっている。それなのに奥様ときたら、こんなけがを負わせて、本当にひどいですね」「まったくです。あんな人間とは、早く離婚なさったほうがよろしいでしょう」その瞬間、暁人の表情から温度が消えた。腕へ寄り添っていた寧々を支えることさえ忘れ、先頭にいた男の襟をつかみ上げる。「お前が依織を語るな。あいつがどんな人間だろうと、久世家の妻だ。貴様、死にたいのか?」男は顔色を変え、すぐに深く頭を下げた。「申し訳ございません、久世社長。失言でした。二度と口にいたしません」支えを失った寧々は倒れかけ、隣のテーブルへ手をついてどうにか立った。その目には不安が浮かんだが、感情を押し込め、弱々しく呼びかける。「暁人さん、脚が痛いの。支えてくれない?」暁人は反応しなかった。会場の入口を見つめたまま、ぼんやりと立っている。どれほど待っても、依織は現れなかった。やがて湊が近づき、声を落とした。「社長、ホテルへ続く道にも人を配置しましたが、奥様は来ていません。ご指示どおり、今夜のパーティーは各社のウェブ記事とSNSで大きく取り上げさせています。人を向かわせ、直接お知ら
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第9話

暁人は深く眉をひそめ、胸を強く殴られたような衝撃に息を詰めた。だが、ほどなくして、くだらない冗談でも聞かされたかのように鼻で笑う。「依織に頼まれたんだろう?芝居が下手すぎる。今夜のパーティーをやめてほしいなら、自分で俺のところへ来いと伝えろ。こんなくだらない真似はするな、とな」一方的に電話を切ると、その番号まで着信拒否にした。それでも、先ほどまでの重苦しい気分は幾分晴れていた。やはり依織も、何も感じていないわけではないのだ。暁人は会場の外へ目を向け、彼女が姿を現すのをますます待ち望んだ。そこへ寧々が近づき、暁人の腕にそっと絡みつく。「暁人さん、また依織さんが怒っているの?ごめんなさい。私のせいで、あなたを困らせてしまって……」暁人はその腕を軽く押しのけると、寧々の顔を見ることもなく、会場の正面玄関へ向かった。外へ出ると、夜風が頬をなでた。暁人は階段の上に立ち、行き交う車を一台ずつ、食い入るように見つめる。そのときの暁人は、自分がどれほど依織の姿を待ち望んでいるのか、まだ自覚していなかった。どれかの車から飛び出し、指を突きつけて怒鳴ってくれさえすれば、この胸のざわめきもきっと静まる。結婚したばかりの頃、依織は暁人の帰りがどれほど遅くなっても、ソファの上で小さく身を丸めながら待っていた。その姿が気がかりで、暁人は何度となく言ったものだ。「遅くなると伝えただろう。先に寝ていればいいのに」すると依織はいつも笑いながら、甘えるように暁人の首元へ身を寄せた。「だめよ。暁人を抱きしめないと、安心して眠れないもの」その光景を思い出すと、暁人の口元には自然と笑みが浮かび、入口へ向ける眼差しにも熱がこもった。もしかすると、依織も本当は自分を愛しているのかもしれない。きちんと向き合って話せば、長年積み重なった誤解を解き、もう一度、穏やかな日々を取り戻せるかもしれない。だが、どれほど待っても、入口に依織が姿を見せることはなかった。後を追ってきた寧々が、背後から暁人の腰へ腕を回し、その背中に顔を押しつけた。「暁人さん、まだ分からないの?依織さんは、あなたを愛していないわ。あの人が欲しいのは、あなたのお金と、久世家の妻という立場だけ。でも私は違う。私が愛しているのは、最初から最後まで暁人さんだけよ!
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第10話

「何だと?そんなはずがあるか!」暁人は大きく目を見開き、信じられないものを見るように湊をにらみつけた。湊は顔を真っ青にし、しばらく言いよどんだ末、ようやく声を絞り出した。「詳しいことは私にも分かりません。ただ、奥様は有効な合意書をもとに、正式に離婚の手続きを進めたと聞いています……」「当事者である俺が知らないうちに、離婚が成立するはずがない!」暁人には、それ以上聞いていられなかった。頭の奥で轟音が鳴り響き、今すぐ依織に会って問いただしたいという思いだけが胸を占める。湊から車の鍵を奪い取ると、そのまま車を飛ばして会場をあとにした。焦りにせき立てられるまま車を走らせ、ようやく久世家の屋敷へたどり着く。エンジンを止める間さえ惜しみ、車から飛び降りると、そのまま家の中へ駆け込んだ。屋敷の中は、しんと静まり返っていた。暁人は屋敷中を駆け回り、部屋という部屋を一つずつ確かめた。それでも、依織の姿はどこにもなかった。物音を聞きつけた使用人たちが集まってきたとき、暁人は行き場を失った獣のように、リビングを何度も行き来していた。「お帰りなさいませ、旦那様」暁人は何度目かの電話をかけていたが、やはり依織は出ない。使用人の声に、救いを求めるように振り返る。その目は赤く充血していた。「依織はどこだ。どこへ行った!」使用人はその剣幕におびえ、言葉を詰まらせた。「奥様は……もう何日も、お戻りになっていません……」暁人の足が止まった。「何日も戻っていないとは、どういうことだ」依織は東雲市にほかの家を持っていない。父のほかに身内はおらず、頼れる友人もほとんどいない。病院にも屋敷にもいないのなら、いったいどこへ行けるというのか。得体の知れない恐怖が一気にこみ上げ、暁人は声を荒らげた。「何をぼんやりしている!今すぐ捜せ。東雲市中をひっくり返してでも、必ず依織を見つけろ!」使用人たちが一斉に散っていくと、リビングには再び静寂が戻った。胸の奥で、心臓が激しく脈打っている。それは、失うことへの恐怖が上げる悲鳴のようだった。そのときになって、暁人はようやく思い知った。自分は、依織なしでは生きられない。力が抜けたように床へ座り込み、両手で髪をつかんだ。「依織……どこにいるんだ!」そのとき、不意に療養施設のこと
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