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第2話

Author: 宗正安奈
法律事務所を出た途端、横殴りの雨が依織の頬を打った。ビルの谷間を吹き抜ける風にあおられ、依織は歩道の端で思わず身をすくめた。

そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。画面に表示されたのは、久世暁人の名前だった。

「本邸の地下金庫まで行ったそうだな。目当てのものは手に入ったか?」

聞き慣れた嘲りが胸へ刺さる。依織は数秒黙り込み、かすれた声で尋ねた。

「何の用?」

「用件?本邸まで行って金を持ち出したんだろう。その分くらい言うことを聞け。今すぐ戻って夫婦の寝室を整えておけ。今夜は寧々を泊める」

離婚を決めたはずなのに、胸はみっともないほど強く締めつけられ、鼻の奥がつんと痛んだ。依織はこみ上げる苦しさをのみ込み、しばらくしてから小さく答えた。

「分かった」

素直に従えば満足すると思った。けれど、暁人の苛立ちは収まるどころか、かえって強まったようだった。

「ずいぶん素直じゃないか。金さえ手に入れば、俺が誰を連れ込もうと、どうでもいいらしいな」

暁人は吐き捨てるように言い、依織の返事も待たずに電話を切った。

依織は降りしきる雨の中へ立ち尽くした。どれほどそうしていたのか、通りかかった女性に肩を叩かれるまで、自分がずぶ濡れになっていることさえ気づかなかった。

「ちょっと、大丈夫?具合でも悪いの?」

我に返ると、握りしめた手のひらがじんじんと痛んでいた。いつの間にか爪が深く食い込み、皮膚には赤い三日月形の跡が残っている。

――まだ、こんなにも傷つくのね。

屋敷へ戻る頃には、依織の服から雨水が滴っていた。熱いシャワーを浴びてから寝室を整えようと、玄関の指紋認証へ指を置く。だが、短い警告音とともに【指紋を認証できません】と表示された。

依織はその場で動きを止めた。自分の解錠権限が外されているのだと理解するまで、少し時間がかかった。

乾いた笑いを漏らしながら扉を叩き、何度も呼び鈴を鳴らしたが、誰も応じない。

薄手の服1枚で、依織は吹き込む雨を避けるように玄関脇へうずくまり、そのまま2時間近く待ち続けた。体は芯まで冷え切っているのに、額だけが異様な熱を帯び、視界が何度も揺らいだ。

やがて重い扉が開き、執事が無表情のまま姿を見せた。その目には、わずかな同情さえ浮かんでいない。

「奥様、お入りください。2時間は外で反省させろとの、旦那様のご命令です。久世家の金を受け取った以上、今後は勝手な真似をなさらぬように」

依織の唇から、すっと血の気が引いた。熱に浮かされた頭でも、暁人が意図的に自分を締め出し、雨の中へ放置したのだということだけは、嫌になるほどはっきり分かった。

依織は自嘲するように口元をゆがめ、壁へ手をつきながら屋敷の中へ入った。

シャワーを浴びて服を替えても、頭にかかった靄は晴れなかった。それでも残った力を振り絞り、夫婦の寝室を整え終える。だが、客室へ戻ろうとしたところで膝から力が抜け、その場へ倒れ込んだ。

意識の底で、焼けつくような熱と、氷水へ沈められたような寒気が代わる代わる襲ってきた。息を吸おうとしても胸が押し潰され、どれほどもがいても、深い闇から抜け出せない。

夢と現実の境目を切り裂くように、頭皮へ鋭い痛みが走った。髪をつかまれ、無理やり上体を起こされたかと思うと、頬を2度、強く打たれた。

耳をつんざくような寧々の悲鳴が、寝室に響いている。寧々は乱れた服の胸元を押さえ、床には脱いだ上着が散らばっていた。

その傍らで、目を血走らせた暁人が依織をにらみつけた。

「いつまで倒れたふりをしている。俺たちが来るのを待ち構えて、寧々に恥をかかせるつもりだったのか!」

頬を打たれた痛みで、依織の意識はようやく現実へ引き戻された。客室までたどり着けず、床で気を失っていたのだ。

顔を真っ赤にした寧々は、目に涙をためて叫んだ。

「暁人さん、依織さんってば、絶対わざとなのよ。あとで外へ言いふらされたら、私、もう人前に出られない!」

寧々は泣きながら身を翻したが、足をもつれさせて倒れかけた。暁人はすぐに駆け寄ってその体を抱き止め、険しい目を依織へ向けた。

「依織、お前もいつまでそこにいる。目障りだ。さっさと出ていけ!」

だが、寧々の怒りは収まらなかった。暁人の腕の中でもがきながら、手近な物を次々と投げつける。そのうちの1つ、重いクリスタルの花瓶が依織の額を直撃した。

硬い音を立てて花瓶が砕け、額から流れ出した熱いものが頬を伝った。もともとめまいのしていた依織の視界が大きく揺れ、膝が折れかける。どうにか踏みとどまり、ぼんやりと傷口へ指を当てた。

指先に触れた肌は、驚くほど熱かった。

――私、熱があったんだ。

以前なら、依織が高熱を出すたび、暁人は誰よりも取り乱した。氷枕や濡れたタオルを何度も替え、一晩中そばを離れず、その手を握ってくれた。

「代われるものなら、俺が代わってやりたい。依織が苦しんでいるのを見ているほうが、ずっとつらい」

あの頃は、その言葉だけでどんな不安も消えた。けれど、胸を震わせた優しさは、もうどこにも残っていない。今の2人をつないでいるのは、消えない傷と、互いを傷つけるためだけの時間だった。

額から血を流し、今にも倒れそうな依織を見て、暁人の顔から一瞬だけ怒気が消えた。手を伸ばしかけたものの、寧々の涙声がそれを遮った。

「暁人さん、もう放して。もう帰してよ!今までは顔を上げることさえ許されなかったのに、あんな目で見てくるなんて……この家の奥様は自分で、私はここにいる資格ないって辱めたいだけでしょう?」

暁人は寧々を抱き上げ、その髪へ優しく口づけた。

「もう泣くな。俺がきっちり償わせる。あとは任せろ」

暁人は依織を肩で押しのけ、寧々をベッドへ運んだ。

依織は何歩もよろめき、腰を低い棚の角へ強く打ちつけ、その場へ崩れ落ちた。まるで、この家に居場所のない招かれざる客は、自分のほうであるかのようだった。

痛みをこらえて立ち上がり、依織は静かに言った。

「わざとじゃないわ。具合が悪くて……」

「具合が悪い?」

暁人は険しい顔で、依織の言葉を遮った。

「今さら病人のふりか?地下金庫で欲しいものを手に入れた途端、言い訳までお粗末になったな。昔から、そういうところが反吐が出る」

あまりに冷たい言葉に、依織は弁解する気力さえ失った。何を言っても信じてもらえないと分かっている。その沈黙を、暁人は後ろめたさの表れだと受け取ったらしい。

「黙っているなら、認めたも同然だ。娘の不始末は、父親にも償ってもらう。療養施設へ連絡しろ。俺の許可があるまで、義父への特別処置を止めさせろ」

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