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契約満了の日、彼女はすべてを手放した
契約満了の日、彼女はすべてを手放した
Author: 宗正安奈

第1話

Author: 宗正安奈
依織が退院したという噂は、たちまちSNSへ広がった。これまでと同じように寧々のもとへ乗り込み、また騒ぎを起こすのだろうと、面白半分に待ち構える者までいた。

暴露系のアカウントには、こんな投稿まで上がっていた。

【久世夫人が退院。今度は白石寧々に何をすると思う?】

コメント欄には、心ない言葉が次々と並んだ。

「これまで流産してきたのも、全部白石のせいなんだろ?99人目にして、ようやく久世社長の本命が現れたってこと?」

「久世依織って、金目当てで久世家にしがみついているだけじゃない。今の扱いも自業自得でしょ。早く離婚されればいいのに」

ところが依織は反論するどころか、離婚を勧めるそのコメントへ静かに「いいね」を押し、自分のアカウントから、たった一言だけ返した。

【皆さんの言うとおりです】

その返信は瞬く間に拡散され、ネット上がにわかにざわめき始めた。

暁人と親しい動画配信者まで、生配信をしながら本人のもとへ押しかけた。

「暁人、やるじゃないか。あれだけ騒いでいた依織を、とうとう黙らせたのか?視聴者にも、その方法を教えてくれよ」

暁人は答えず、届いたばかりのメッセージへ冷ややかな視線を落とした。

【社長、奥様が久世家の本邸へ戻り、地下金庫へ入られました】

暁人は鼻で笑った。配信のURLを依織へ送りつけると、カメラに向かって嘲るように言い放つ。

「おとなしくなったわけじゃない。金を積めば黙る、それだけだ。昔から何も変わっていない。今回のことを水に流させるなら、2億円は必要だろうな。そうだろう、依織?」

送られてきたURLを開き、夫が大勢の前で自分を笑いものにする姿を目にした依織は、そっと顔を伏せた。

胸の奥を鈍く締めつける痛みが、暁人にとって自分は今も、金のためなら何でもする卑しい女でしかないのだと告げていた。

つい先日、暁人との子どもを失ったばかりだった。妊娠8か月まで育った命を失ったというのに、彼は今も、金さえ渡せば依織は黙ると思っている。

依織は頬を伝う涙を拭い、配信を閉じると、本邸の地下金庫へ足を踏み入れた。

室内には有価証券や宝飾品、古美術品が厳重に保管されていた。どれも莫大な価値を持つものばかりだったが、依織は一度も目を向けず、最奥の棚から黄ばんだ書類を1通取り出した。

8年前、久世家へ嫁ぐ際に署名した契約書は、実は2通あった。暁人が知っていた出産報奨の契約とは別に、婚姻の終了について定めた書類も保管されていたのだ。

【契約満了時に子どもがいない場合、夫婦のいずれかが婚姻の終了を申し出れば、双方が署名済みの離婚届を代理人が提出できるとする】

その文面を追ううちに視界がにじみ、依織の意識は8年前へ引き戻されていった。

当時、神崎家は競合企業の不正を押しつけられ、倒産へ追い込まれた。重傷を負って入院した父はやむを得ず、依織を婚約関係にあった久世家へ託した。

幼い頃から依織を特別に思っていた暁人との結婚生活は、最初の1年だけは甘く、穏やかだった。

春には海外の花祭りを訪れ、夏には南半球の雪山で涼み、秋には北国の紅葉を眺め、冬には砂漠のリゾートを旅した。

2人の結婚は、大企業グループの跡取り同士とは思えない恋愛結婚だと、世間からもてはやされた。

だが、依織の最初の妊娠が分かった日、静江と交わした契約書を暁人に見つけられ、2人の幸せは音を立てて崩れた。

「依織、お前は最初から俺を愛していなかったのか?金のために結婚しただけなのか!」

怒りに我を忘れた暁人は、言い争いの最中に依織を突き飛ばした。依織はそのまま転倒し、2人の最初の子どもを失った。

退院後、夫婦の間には深い溝が生まれた。父を救うため、ほかに方法がなく契約へ署名したのだと何度説明しても、暁人は聞く耳を持たず、依織を金に執着する、愛情のない女だと決めつけた。

それから暁人は別人のように変わり、依織への当てつけのように、次々と別の女性を人前へ連れ出した。相手が変わるたび、その女性の着替えや私物を屋敷へ届けさせ、ときには使った客室の片づけまで依織へ命じた。

初めの頃、依織は泣き、怒り、何度も取り乱した。久世家の妻という立場を使って女性たちを遠ざけ、そのたびに騒動は週刊誌やネットニュースをにぎわせた。

暁人は依織が傷つく姿を冷ややかに眺め、また別の女性を連れてきた。そうして2人は、互いを傷つけ合う日々を重ねていった。

3年前、99人目の愛人として白石寧々が現れた。

依織はこれまでと同じように寧々のもとへ乗り込み、護衛に命じて郊外の別荘へ連れて行かせ、数日間、外へ出られないようにした。寧々が行方不明になったと知った暁人は、依織を壁際へ追い詰め、その胸元をつかんだ。

「言え。寧々をどこへやった?無事に戻らなければ、ただでは済まさない」

戻ってきた寧々に挑発され、依織は思わず平手打ちをした。その夜、依織は暁人の命令で郊外の別邸地下へ連れ込まれ、護衛たちから何時間も暴行を受けた。

翌朝、ようやく解放されたとき、授かったばかりの子どもは、また失われていた。

その後も似たような出来事は繰り返された。そして今回、5人目の子どもまで失ったことで、依織はようやく悟った。暁人はもう、本当に自分を愛していない。2人の愛は、とっくに根元から腐りきっていたのだ。

8年の契約は今日で満了する。長い茶番に、自分の手で終止符を打つ時が来た。

依織は契約書を手に本邸を出ると、その足で法律事務所へ向かった。

「預けてある離婚届を提出してください」

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