Share

第3話

Author: 宗正安奈
「やめて!私への罰なら何でも受ける。お願いだから、お父さんだけは巻き込まないで!」

依織は目を見開き、もはや体面を気にする余裕もなく、その場へひざまずいて暁人にすがった。

だが暁人は一瞥すらせず、扉の外に控えていた使用人へ冷たく命じた。

「こいつを連れ出せ。これ以上、寧々の前に置いておくな」

使用人はすぐに依織の腕をつかみ、寝室から乱暴に引きずり出した。次の瞬間、重い扉が目の前で閉ざされる。

依織は廊下へひざまずいたまま、扉に向かって必死に声を張り上げた。

「暁人、お願い!お父さんを傷つけないで。もう何年も意識が戻らないの。今の体では、少しの負担でも命に関わるわ!」

返事の代わりに、扉の向こうから寧々の甘い笑い声が漏れてきた。

最後までどこかに残っていた期待が、その声に押し流されていく。屈辱よりも先に、胸の奥で何かが粉々に砕けた。

ここで泣いている場合ではない。依織は高熱と全身の痛みに耐えながら立ち上がり、屋敷を飛び出した。

雨はますます激しさを増していた。まったくタクシーが捕まらず、依織は土砂降りの中をひたすら走り続けた。

何度も足を取られ、そのたびに濡れた路面へ手をついた。ようやく長期療養施設へたどり着いた頃には、服も髪も泥と雨にまみれていた。

依織が駆け込むと、父は個室から移され、裏手の救急搬入口にある一時待機スペースへ、搬送用ベッドごと置かれていた。

開け放たれた扉から雨が吹き込み、薄い毛布の半分が濡れている。酸素チューブは外され、点滴も止められたままだった。転落防止用のベルトは必要以上にきつく締められ、手首には赤黒い跡が残っている。

長く意識を失ったままの父は、かすかな呼吸を繰り返していた。その目尻には、涙の跡が細く残っている。

その姿を見た瞬間、依織の胸は鋭くえぐられた。

夢中で駆け寄り、雨の当たらない場所へベッドを移そうとしたが、車輪にはブレーキがかかり、解除の仕方も分からない。熱で力の入らない手では、びくとも動かせなかった。

このまま必要な処置を止められれば、父の命が危ない。

依織は震える手で暁人へ電話をかけた。

「暁人、お願い。私にできることなら何でもするから、お父さんの処置を元に戻して……!」

ところが、電話に出たのは寧々だった。

「依織さん。私を殴って、郊外の別荘へ閉じ込めたこと、忘れたとは言わせないわ。これから一つずつ返してあげる。この程度でつらいなんて、まだ早いんじゃない?」

依織が言葉を返すより先に、寧々は突然、怯えたような声を張り上げた。

「奥様、私は暁人さんを困らせたくなくて、仲直りしたいと思っただけなんです。それなのに、どうしてそんなひどいことを言うんですか?私はただ、心から暁人さんを愛しているだけです。お金も、久世家の妻という立場も望んでいません……」

あまりに不自然な芝居に、依織は息をのんだ。だが、もう遅かった。

「依織、お前はどこまで救いようがないんだ!」

受話器から、暁人の怒声が響いた。

「違うの。私はただ、お父さんを助けてほしくて……」

「もういい!」

荒い呼吸の向こうに、抑えきれない怒りがにじんでいた。

「お前がどんな女か、俺が知らないとでも思っているのか?寧々は十分に我慢している。それなのに、久世家の金と立場にしがみつくため、まだあいつを追い詰めるつもりなのか。心の底から見損なった」

胸の中へ重いものを押し込まれたように、息ができなくなった。何を言っても言い訳としか受け取られないことを、依織はもう知っている。

暁人は初めから、依織を悪者だと決めつけていた。真実を確かめる気など、どこにもないのだ。

再び聞こえた声は、感情を削ぎ落としたように冷たかった。

「父親の処置を再開してほしいんだろう?なら、お前もそこで診察を受けろ。今のお前には治療が必要だ。少しは頭を冷やしてこい」

依織は暁人の意図を悟り、背筋を冷たいものが走った。

「やめて……暁人、分かっているでしょう。電気だけは、本当に無理なの……」

依織は長年、重い抑うつ症状と強い心的外傷に苦しんでいた。

神崎家が破産へ追い込まれた頃、父と依織は悪質な債権回収業者に倉庫へ監禁され、スタンガンを使った暴行を受けた。救出されたときには、恐怖で自分の腕をかきむしり、爪も何枚か割れ、全身が血と泥にまみれていた。

それ以来、放電音や機械の作動音を聞くだけで呼吸が乱れ、体が動かなくなることがある。

暁人が依織を愛していた頃は、テレビから似た音が流れただけでもすぐに消し、発作が治まるまで黙って抱きしめてくれた。

依織は、2人の間に残っているかもしれない最後の情けへすがるように、かすれた声を絞り出した。

「暁人……お願い……」

受話器の向こうで暁人は黙り込んだ。昔のことを思い出してくれたのかもしれない。そう期待した直後、冷えきった声が落ちてきた。

「それが何だ。そうでもしないと、お前は学ばないからな」

依織の心は、音もなく深い闇へ沈んだ。

彼は寧々のためなら、自分をどこまで傷つけても構わないのだ。

依織はその場へ崩れ落ち、手から滑ったスマホが水たまりへ沈んだ。画面は数度ちらついたあと、真っ暗になった。

間もなく施設の職員たちが現れた。依織を隔離棟へ連れて行き、抵抗する腕を押さえつけて処置台へ固定する。

「久世社長のご意向です。処置を受けて落ち着けば、お父様の酸素と点滴は元へ戻します」

依織は、ようやく抵抗するのをやめた。唇の端から、かすかな笑いがこぼれる。

数多くの愛人のうちの1人にすぎなかった寧々は、いつの間にか、暁人にとって何にも代えがたい存在になっていた。

そして彼が自分を傷つける理由も、もはや契約書を見つけたときの、愛するがゆえの憎しみではなかったのだ。

それに気づくのが、あまりにも遅すぎた。

機械が低いうなりを上げて起動する。依織は絶望の中で目を閉じた。

次の瞬間、強い電流が全身を貫いた。

「いやあああっ!」

喉が裂けるほどの悲鳴が、閉ざされた処置室に響き渡った。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 契約満了の日、彼女はすべてを手放した   第16話

    寧々は、残酷な笑みを浮かべた。「神崎依織、どうして今のあなたは何もかも持っていて、私は何ひとつ持っていないの?暁人さんは、ずっと私を大切にすると言った。それなのに最後には、こんな姿になるまで私を壊した。全部あなたのせいよ!私が地獄へ落ちたのに、あなただけ幸せになれると思わないで!」寧々は爆発物を抱えたまま、依織へ飛びかかった。恐怖に駆られた依織は、背を向けて走り出した。だが追いつかれそうになった、その瞬間、暁人と尚哉が駆けつけた。2人は同時に寧々へ飛びかかり、完全に正気を失った体を泥の上へ押さえ込んだ。汚れた水が顔へはねても、寧々は呪いの言葉を吐き続けていた。寧々が確実に拘束されたのを確認すると、尚哉はすぐ依織へ向き直り、安心させるように強く抱きしめた。暁人は顔を上げ、寄り添う2人を苦しげに見つめた。依織が尚哉へ向ける信頼と愛情が、痛いほど伝わってくる。嫉妬で気が狂いそうになっても、自分はまだ過去を完全に清算できていない。依織をもう一度求める資格さえ、持てないままだった。それでも暁人は立ち上がり、少し離れた場所から依織を見つめた。「一度、お前を失った。二度目だけは絶対に嫌だ。依織、あと1日だけ待ってくれ。すべてを片づけて、必ず戻ってくる。どうしてもお前を手放せない。もう一度だけ、やり直す機会をくれ。たった一度でいい」依織は何も答えなかった。その目には、わずかな揺れさえ浮かばない。暁人は胸を引き裂かれるような痛みに耐えながら、寧々を護衛へ引き渡し、その場を離れようとした。異変が起きたのは、その瞬間だった。寧々が突然激しく暴れ出し、自分を押さえていた護衛の手首へ噛みついた。痛みに男の手が緩んだ隙に、隠し持っていたナイフを抜き、暁人めがけて突進する。「依織を守りたいんでしょう?なら、あの女の代わりに死になさい!」暁人の意識は、まだ依織へ向いたままだった。異変に気づいたときには、ナイフが腹を深く貫いていた。鮮血が噴き出し、寧々の傷んだ顔へ飛び散った。寧々はナイフを引き抜き、もう一度突き刺そうとする。だが護衛たちが一斉に押さえ込み、ようやくその動きを止めた。暁人はその場へ崩れ落ち、体の下には大きな赤い染みが広がっていった。それでも顔を上げ、必死に依織の姿を探した。尚哉は依織の目を手で覆い、やさしく

  • 契約満了の日、彼女はすべてを手放した   第15話

    依織は、暁人の狂気を甘く見ていた。暁人は生配信を始めると、警備犬の訓練施設にある檻へ自ら入り、興奮した大型犬たちを中へ放たせた。「俺は愛する人を裏切り、5人の子どもが失われるのを止められなかった。だから、この体で子どもたちに償う」視聴者の数は増え続けた。暁人は、カメラの向こうにいる依織を見つめるように、まっすぐレンズへ目を向け、穏やかに笑った。「許してもらえるとは思っていない。ただ、できる限り償いたい。俺が本当に後悔していることを、見ていてほしい……」そう言い終えると、鉄の棒で檻を何度も叩き、わざと犬たちをあおった。コメント欄は凄まじい速さで流れ、誰もが暁人の狂気に飲まれた。依織は勢いよく立ち上がった。スマホを握る手は、抑えようとしても震えが止まらない。暁人は、依織を追い詰めようとしている。彼女の優しさを知ったうえで、自分の命を見捨てるか、憎しみを捨てるか、そのどちらかを選ばせようとしているのだ。暁人が依織を訪ねてきたと知り、尚哉は仕事を切り上げ、急いで戻ってきた。依織のそばへ歩み寄ると、その手からそっとスマホを抜き取り、配信を閉じる。「誰にでも、自分で選ぶ権利がある。そして、その結果に責任を負うのも本人だ。依織がどんな答えを選んでも、僕は味方だよ」その頃、檻の中では一頭の大型犬が暁人へ飛びかかり、ふくらはぎへ牙を突き立てていた。暁人は鉄の棒を振るい、必死に抵抗した。彼の心を支えていたのは、ただひとつの思いだった。ここから出る。必ず生きて出て、依織のもとへ戻る。そうすれば、きっと許してもらえる。2人はもう一度、幸せになれる。血が飛び散り、傷ついた体からさらに力が失われていく。血の匂いに興奮した犬たちは、何度も暁人へ襲いかかった。やがて、配信のコメントがぴたりと止まった。画面越しの誰もが、息を呑んだ。暁人の体は、とうに限界を超えていた。全身を血に染めながら、それでも一歩も退かず、檻の外で待機する護衛や湊へ助けを求めようとはしなかった。長いあいだ、暁人はひとりで狂犬たちに立ち向かい続けた。やがて犬たちも疲れ果て、床へ伏して動かなくなった。暁人は残った力を振り絞って立ち上がり、血に濡れた顔でカメラへ近づいた。「依織、ごめん。愛している」そう告げると、そのまま前へ倒れ、動かなくなった。

  • 契約満了の日、彼女はすべてを手放した   第14話

    尚哉の手厚い看護を受け、依織は少しずつ、自分の足で歩けるまでに回復していった。尚哉は心の傷を診る専門家も手配し、依織は長年抱えてきた抑うつ症状の治療を受け始めた。尚哉が暮らす海央共和国は、国土こそ小さいものの、高度な技術と整った社会制度を持つ島国だった。体が回復すると、依織は一条グループで働かないかという誘いを断り、自分の力でゲーム会社へ応募した。長い間、依織の暮らしは暁人を中心に回っていた。大学時代、学生向けのゲーム開発コンテストで金賞を取ったことさえ、自分でも忘れかけていたほどだ。依織はもともと、人並み外れた才能を持っていた。久しぶりの仕事は、決して楽ではなかった。それでも努力を重ね、自分の手で一つずつ成果を積み上げるうちに、これまで知らなかった安らぎを感じられるようになった。それから数か月。穏やかな日々の中で、依織と尚哉の距離も少しずつ縮まっていった。2人はたびたび一緒に食事をし、言葉を交わし、街を歩き、ときには酒を飲んだ。傍から見れば、穏やかな恋人同士のようだった。尚哉が自分へ特別な思いを寄せていることを、依織も感じていた。けれど、壊れきった結婚を終えたばかりで、すぐに新しい恋へ踏み出す気にはなれなかった。幸い、尚哉も答えを急かさない。2人は、いつか自然に答えが出ると信じていた。ある日、依織が仕事を終えたのは、午後11時を回ろうとする頃だった。尚哉はちょうど出張中で、依織はひとり、歩いて帰ることにした。しばらく歩いたところで、背後から誰かの足音が聞こえた。依織が歩みを速めると、後ろの足音も速くなる。2人の距離は、少しずつ縮まっていた。恐怖に背を押されるように小走りになった、そのときだった。聞き覚えのある声が、背中へ届いた。「依織、怖がるな。俺だ!」全身が強ばり、振り返ることもできないまま、依織は足を止めた。暁人だった。背後の男はしばらくその場に立ち尽くしたあと、再びゆっくりと近づいてきた。震える声には、こらえきれない涙がにじんでいた。「依織なのか?本当に依織なんだな。俺は、お前が死んだなんて信じていなかった。周りはみんな死んだと言った。警察にも、生存は絶望的だと言われた。それでも信じられなくて、ずっと探していたんだ。いくつもの国を回っても見つからなかった。それでも、諦めなくて

  • 契約満了の日、彼女はすべてを手放した   第13話

    依織は、はっと目を覚ました。海の中で息を奪われた感覚が、まだ胸の奥に残っている。依織は両手で胸元を押さえ、信じられない思いで辺りを見回した。「目が覚めたんだね」扉のほうから声がして、品のある男性が部屋へ入ってきた。手には、水を張った洗面器とタオルを持っている。「2週間も眠っていたんだ。医師の話では、命に別状はなく、体の傷も回復しつつあるらしい。ただ、心が目覚めることを拒んでいたのかもしれない、と言っていたよ」依織は呆然と、その男性を見つめた。彼はベッド脇まで来ると、慣れた手つきで椅子へ腰を下ろした。その一連の動きは、同じことを何度も繰り返してきたかのように自然だった。目が合うと、男性は穏やかに笑った。「そんなに見つめないで。沖合を航行していたとき、君を助けたのは僕だよ。救助してからも毎日顔を出して、眠っている君へいろいろな話をしていたんだ」依織はしばらく声を出せなかった。ようやく開いた喉は、紙やすりでこすられたようにひりついた。「ありがとう……ございます。あなたは……誰ですか?」男性は洗面器を置くと、依織の目の前でひらひらと手を振り、わざといたずらっぽい表情を浮かべた。「ずいぶん薄情だな、後輩。本当に僕を覚えていないの?」依織は眉をひそめ、改めて彼の顔を見つめた。整った顔立ちに、深い色の瞳。彫刻を思わせる輪郭は美しく、暁人よりも人目を引くほどだった。これほど印象に残る人を知っていたなら、忘れるはずがない。依織は正直に首を横へ振った。「ごめんなさい。覚えていません……」男性は笑みを収め、仕方がないと言いたげに首を振った。それからスマホの中から1枚の写真を探し出し、依織へ差し出す。「これなら、覚えている?」写真には、山でごみを拾う10数人の大学生が写っていた。誰もが汗だくで、疲れきった顔をしている。依織はすぐに思い出した。大学時代、単位を取るために参加したボランティア活動だ。「覚えています。このとき、足を滑らせて谷へ落ちかけた、少し太った男の子を助けました」男性はほっとしたように息をつき、別の写真を画面へ映した。「君が助けたのは、この人?」そこには、丸々と太った少年が写っていた。頬の肉に顔立ちが埋もれ、目鼻立ちさえよく分からない。それでも依織には、あのとき助けた少年だとす

  • 契約満了の日、彼女はすべてを手放した   第12話

    静江は、すっかり青ざめた孫の顔を見つめ、静かに首を横へ振った。「もう芝居はおやめなさい。この契約書は、ずっと本邸の金庫室に保管していました。依織さんが取りに戻った日、あなたは配信をしていたのでしょう?知らなかったはずはないわ」暁人の喉から、かすれた笑いが漏れた。静江の言葉が、毒を塗った矢のように一本ずつ胸へ突き刺さっていく。頭の中で、これまでの出来事をつなぎ合わせようとする。だが耳鳴りがやまず、何ひとつまともに考えられなかった。SNSで離婚を勧めるコメントに、依織が自分のアカウントから「いいね」を押していたことを思い出した。あのとき暁人は、依織がわざと平静を装っているのだと決めつけた。その後おとなしくなったのも、本邸の金庫室から多額の金品を持ち出したからだと思い込んでいた。今夜のパーティーでさえ、依織は久世家の金を手に入れるため、契約の条項どおり自分の女性関係へ口を出さず、嫉妬も騒ぎも見せないのだと考えていた。けれど依織は、金など一円も受け取っていなかった。彼女が持ち出したのは、2通目の契約書だけだった。依織は、ずっと前から暁人との離婚を決めていたのだ。暁人は、ようやく自分の気持ちに気づいたばかりだった。依織と落ち着いて話し、2人でもう一度やり直す道を探したかった。この何年、愛人として連れ歩いた女たちとは、一度も本当の関係を持っていないことも伝えるつもりだった。依織に愛されていないことが苦しくて、傷つけ返すためだけに、女たちを人目につく場所へ連れ出していたのだ。寧々でさえ、例外ではなかった。彼女を特別だと思ったのも、その目元が依織によく似ていたからにすぎない。――どうしてだ。どうして依織は、説明する機会さえ与えず、自分の人生から消えてしまったのか。やはり、父親の死が原因なのか。そう思った途端、本邸になどとどまっていられなかった。静江の制止も聞かずに外へ飛び出し、東雲市で評判の高い調査事務所へ向かった。「1億円払う。依織とその父親の身に、最近何があったのか、すべて調べろ。急げ」3日後、調査員の佐藤仁(さとう ひとし)は分厚い資料を抱えて現れた。最初の報告書を取り出すと、事務的な声で説明を始めた。「久世さん。調査の結果、神崎さんのお父様は、以前、生命維持に必要な処置を止められた時点で

  • 契約満了の日、彼女はすべてを手放した   第11話

    暁人は、その場に縫い止められたように動けなくなった。「誰が死んだというんだ」そんなはずはない。次の瞬間、こみ上げた怒りのまま、施設長の襟をつかみ上げた。「そんな大事なことを、どうして誰も俺に知らせなかった!」施設長は暁人の剣幕におびえ、声を震わせた。「お、奥様が、社長にお知らせする必要はないとおっしゃって……お義父様は病院で亡くなられ、そのままこちらへは戻っておりません。葬儀も、奥様がすでに済ませたと……」その瞬間、周囲の音が遠のいた。施設長の言葉は、一つひとつなら理解できる。けれど、それがひとつの事実として胸へ落ちてこなかった。暁人は両手をきつく握りしめた。目の奥が赤く染まり、心臓を鷲づかみにされたような痛みが胸いっぱいに広がっていく。義父は、死んだ。依織と自分をつないでいた最後の糸まで、これで完全に切れてしまった。視界がぐらりと揺れ、暁人は数歩よろめいた。そこへ駆けつけた湊が、慌ててその体を支える。「社長、お祖母様から、今すぐ本邸へお連れするよう申しつかっています。奥様について、お話があるそうです」「奥様」という言葉を耳にした途端、暁人は迷うことなく、湊とともに本邸へ戻った。静江は仏間に座っていた。暁人が入ってくると、使用人に命じ、書類の束を運ばせる。「ここにあるのは、名家の未婚の女性たちよ。依織さんとの結婚が終わったのなら、早く次の相手を選び、久世家の跡継ぎをつくりなさい。そうでなければ、あの世のお祖父様に顔向けできないわ」暁人は弾かれたように顔を上げた。「何を言っているんですか。誰が終わったと決めたんです?俺は一度も、そんなことを言っていません!依織は俺の同意もなく離婚の手続きを進めたんです。そんなもの、認められるはずがない。必ず連れ戻します。俺の妻は、これからも依織だけです!」静江は眉をひそめ、理解できないものでも見るように孫を見つめた。「何を馬鹿なことを言っているの。ここ何年、あなたがどれほど愚かな真似をしてきたか、私が知らないとでも思っているの?次々と愛人を替え、依織さんを傷つけたのはあなたでしょう。だから依織さんは、8年の契約が終わった時点で、夫婦関係も終わらせると決めた。それなのに、今さら何を騒いでいるの?」暁人の胸へ、重いものが沈んだ。「どういう意

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status