All Chapters of 攻略終了、愛だけ残して私は消えた : Chapter 11 - Chapter 20

20 Chapters

第11話

胃の奥から、激しい吐き気がこみ上げた。奏人は1階の洗面所へ駆け込み、洗面台に身を屈めて、何度もえずいた。吐き出せたのは酸っぱい胃液だけだった。喉が焼けるように痛んでも、止められない。内臓まですべて吐き出してしまいそうなほど、何度も繰り返した。目の前には、電流を流されて激しく痙攣する紗良の体が浮かんでいた。爪を剥がされた指からあふれ出した血。そして最後に、紗良が自分へ向けたあの目。違う。自分を見ていたのではない。化け物を見ていたのだ。奏人は鏡を見た。映っていたのは、血の気を失った自分の顔だった。額には冷たい汗が浮かび、その目にはまだ、奏人自身さえ見覚えのない残虐さと冷酷さが残っていた。ほんの数時間前。奏人はこの目で、苦しむ紗良を見ていた。何も感じないまま。「うっ……」再び吐いた。今度は胆汁まで込み上げ、あまりの苦さに涙がにじんだ。奏人はリビングへ駆け戻り、スマホを拾った。震える手で、もう一度動画を開く。きちんと見直さなければならなかった。あれは紗良ではない。自分の見間違いだ。映る角度や、暗い照明のせいだと確かめたかった。だが、何度見ても違わなかった。再生するたび、心臓を重い槌で叩き潰されるようだった。目に焼きついた一つ一つの光景と紗良の悲鳴が、奏人の胸を容赦なくえぐった。紗良だった。今日の午後、倉庫で「真帆を傷つけた女」だと思い込み、電流を流させ、両手の爪を剥がさせた相手。あれは紗良だった。3年間、狂ったように捜し続けた紗良。残りの人生を懸けて償うと誓った紗良。誰より愛していると、何度も口にしてきた紗良だった。「俺は……何をしたんだ……」奏人は呟いた。声はかすれ、自分のものとは思えなかった。「紗良に……俺は何をした……」なぜ、あのとき気づかなかったのか。倉庫は暗かった。顔はひどく腫れ、口もふさがれていた。それでも、あの目があった。どうして紗良の目だと分からなかったのだ。ほんの一瞬でも見れば、気づくべきだった。真帆だ。真帆に騙された。電話で真帆は、欲しかったワンピースを奪われ、殴られたと泣きついた。ボディーガードがその「おかしな女」を捕まえたとも言った。だが最初から最後まで、それが紗良だと
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第12話

真帆は一時的に、都心の高級マンションで暮らしていた。奏人は合鍵を持っていたが、鍵を使おうとはしなかった。拳で何度も扉を叩き、激しい音が静まり返った廊下に響き渡った。扉が開いた。真帆はシルクのナイトドレス姿で、髪も少し乱れていた。奏人の姿を見ると、嬉しそうな表情を浮かべた。「奏人くん?こんな朝早く、どうして……」最後まで言い終える前に、奏人は真帆の首をつかみ、そのまま壁へ強く押しつけた。「うっ!」不意を突かれた真帆は、後頭部を壁へぶつけた。目の前が暗くなり、たちまち息ができなくなる。恐怖に目を見開き、目の前の男を見た。奏人の両目は真っ赤だった。まるで地獄からはい上がってきた修羅のようで、声も恐ろしいほどかすれていた。「昨日、倉庫にいたのは紗良だった。そうだな?お前は最初から知ってたんだろ?!」真帆の顔は首を締められて紫色に変わっていった。両手で奏人の腕を必死に引っかき、涙を流しながら何度も首を振った。「言え!」奏人はさらに力を込めた。こめかみには血管が浮かんでいた。「は、離して……」真帆は喉の奥から、かすかな声を絞り出した。顔は涙で濡れていた。奏人は少しだけ力を緩めたが、手はまだ首にかけたままだった。真帆は激しく咳き込み、必死に息を吸った。泣きながら、途切れ途切れに言った。「わ、私……知らなかった……奏人くん……倉庫は暗かったし、顔も腫れてたから……本当に分からなかったの……あの女にワンピースを取られて腹が立って、少し懲らしめてやろうと思っただけ……紗良さんだなんて、知らなかった……」「嘘をつくな!」奏人は怒鳴り、もう片方の拳を真帆の耳元の壁へ叩きつけた。鈍い音が響いた。「電話では、『欲しかったワンピースを奪われて、殴られた』と言っただろう!わざと俺を誘導したんだ。お前を傷つけた赤の他人だと思わせるために!」「違う……」真帆は全身を震わせながら泣いていた。弱々しく、いかにも哀れに見えた。「奏人くん、信じて……本当に知らなかったの……紗良さんだって分かってたら、そんなことできるはずないでしょう……怖くて、顔も痛くて、頭が混乱してただけなの……奏人くん、痛い……」また、この顔だ。奏人は、涙に濡れた真帆の顔を見つめた。以前なら守
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第13話

それから奏人は、使えるものをすべて使って紗良を捜した。裏社会にも表社会にも懸賞金を出し、その額は誰もが言葉を失うほどだった。駅、空港、バスターミナル。あらゆる防犯カメラの映像を集め、一場面ずつ確認させた。所有するプライベートジェットもヘリコプターもすべて出動させ、北央市を中心に、外へ向かって捜索範囲を広げていった。紗良が以前、いつか絵を描きに行きたいと話していた、人里離れた場所にも人を向かわせた。奏人自身も、疲れを知らない機械のように動き続けた。眠ることも休むこともなく、目は充血し、伸びたひげも剃らないまま。高価なスーツはしわだらけで、身だしなみに一分の隙もなかった以前の姿は、もう見る影もなかった。眠るのが怖かった。目を閉じれば、動画の中の紗良が浮かんだ。苦しげな呻き声が、耳元に蘇った。立ち止まることもできなかった。少しでも動きを止めれば、胸を食い破るような恐怖と後悔にのみ込まれそうだった。奏人は、紗良から送られてきた動画をスマホに保存し、待ち受け画面に設定した。画面がつくたび、胸を切り刻まれるようだった。それでも奏人は、自分に見ることを強いた。何度も、何度も。自分を痛めつけるようにして、罰を与え続けた。見かねた秘書が、恐る恐る待ち受けを変えるよう勧めた。奏人はスマホを壁へ叩きつけた。画面は砕け、今の奏人の心そのもののようだった。やがて、幻を見るようになった。書斎で書類を処理していると、ふと顔を上げた先に、紗良が向かいのソファに座っているように見えた。静かに本を読み、横顔には陽射しが落ちている。穏やかで、静かな姿だった。奏人は狂喜して駆け寄った。だが、腕の中にあったのは何もない空間だけだった。深夜に家へ戻り、寝室の扉を開けると、ベッドの上に人の形が浮かんでいるように見えることもあった。奏人は音を立てないように近づき、震える手を伸ばした。触れたのは、冷たい布団だけだった。会社の経営会議でも、部下が買収案件について報告している途中、突然その言葉を遮った。「昨夜、雷が鳴ってた……紗良は雷が一番苦手なのに……一人でどうしてる……手はまだ痛むのか……」会議室にいた役員たちは互いに顔を見合わせ、誰も声を出せなかった。見かねた優太が、無理やり奏人
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第14話

奏人の動きが止まった。ゆっくり顔を上げると、充血した目で優太を見た。「どういう意味だ?」「ただの推測だ。でも、そうでも考えないと説明がつかない」優太は言葉を選びながら続けた。「一人の人間が、二度もここまで完全に姿を消せるものか?最先端の追跡技術を使っても、あらゆる人脈を使っても、手がかり一つ見つからない。考えられるとすれば……」優太は一度言葉を切り、奏人の目を見た。「俺たちには理解できない何かを使って、この世界から離れたのかもしれない。どこか……別の場所へ」奏人は雷に打たれたように、その場で固まった。この世界の人間ではない?その考えは鋭い雷鳴のように混乱した頭を切り裂き、ずっと目をそらしてきた恐怖をむき出しにした。確かに、あまりにも不自然だった。紗良は何の前触れもなく現れた。奏人の人生が最も暗く、絶望に閉ざされていたとき、何もないところから差し込んだ光のように、その世界を照らした。紗良には、過去と呼べるものがほとんどなかった。親族もおらず、社会とのつながりも、すべて奏人を中心に築かれていた。奏人が誰にも明かさなかった傷を、紗良はすべて理解していた。そして、何一つ惜しまずに温もりを与え、奏人を救った。まるで――初めから奏人のためだけに、この世界へ来たかのようだった。そして、消え方も不可解だった。何の理由もなく、何の痕跡も残さない。3年前も。今回も。本当に別の世界から来たのだとしたら、今回姿を消したのは――元いた世界へ帰ったということなのか。今度こそ永遠に。そんなことは許せない。絶対に。奏人は激しく首を振った。目には執着が極限まで高まり、狂気に近い光が浮かんでいた。「捜す。本当に別の世界へ行ったとしても、その世界ごと見つけ出す。俺の紗良を連れ戻す」優太は、奏人の目に宿る恐ろしい光を見つめた。これ以上何を言っても無駄だと悟り、深いため息をつくしかなかった。1か月後。奏人は執務室の大きな窓の前に立ち、はるか下を行き交う人や車を見下ろしていた。人々は蟻のように小さく見えた。街は今も変わらず、華やかで騒がしい。だが、そのすべては奏人とは無関係だった。奏人の世界は1か月前に崩れ落ちた。残っているのは、ただ一つ。紗良を見つけ
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第15話

奏人の声はすぐにかれ、やがて潰れた。呼びかけるたび、血を吐くような声になった。手や顔には、とげのある低木や鋭い岩で切った傷がいくつも走り、泥と汗が混じって、見る影もない姿になっていた。足の裏には水ぶくれができ、それが破れて化膿した。一歩進むたびに、胸まで突き抜けるような痛みが走った。それでも奏人は歯を食いしばり、適当にガーゼを巻くだけで、また歩き続けた。体の痛みを感じている間だけは、骨まで食い尽くすような後悔と恐怖を、わずかに忘れられるようだった。夜になると、隊員たちは野営地にテントを張り、火を起こして食事を作った。だが奏人は食べることも眠ることもなく、強力な懐中電灯を手に、暗い山の中をあてもなく歩き回り、紗良の名を呼び続けた。何度も崖から落ちかけ、そのたびに隊員たちが必死で引き戻した。「朝倉社長、少し休んでください。続きは明日にしましょう」隊員が懸命になだめた。「駄目だ。紗良は暗いところが怖い。それに雷も苦手なんだ」奏人は空を見上げた。黒い雲が集まり始めていた。「雨が降って雷まで鳴ったら、一人でどうするんだ……」隊員に話しているのか、独り言なのかも分からない。その目は焦点を失い、意識もかなり曖昧になっていた。低い雷鳴が空を渡った。続いて、大粒の雨が降り始めた。奏人は全身を震わせ、勢いよく顔を上げた。その顔から、たちまち血の気が引いた。「紗良――!」人の声とは思えない叫びを上げ、雨の中へ飛び出した。さらに深い闇へ向かって、何もかも振り切るように駆けていく。「紗良、怖くない!俺が来た!ここにいる!雷なんか怖がらなくていい!紗良!返事をしてくれ!頼む!一度でいいから答えてくれ!」雨と涙が入り混じり、顔を流れていた。奏人は何度もよろめき、木の根につまずいて泥の中へ倒れた。それでも必死に起き上がり、また前へ走った。懐中電灯は、いつの間にかどこかへ落としていた。稲妻が照らすわずかな光だけを頼りに、闇の中を手探りで捜し続けた。隊員たちは懐中電灯を持って追いつき、完全に自制を失った奏人を無理やり押さえた。「朝倉社長、落ち着いてください!雨が激しすぎます!危険です!」「放せ!紗良は雷が怖いんだ!きっとどこかで泣いてる!捜しに行かないと!放せ!」
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第16話

ある日、険しい崖の近くで、連日の高熱と疲労のせいで奏人は足を滑らせ、そのまま崖下へ落ちかけた。「朝倉社長!」一番近くにいた隊員が目を見開き、飛びつくようにして奏人の手首をつかんだ。奏人の体は宙に浮き、足元には底の見えない谷が広がっていた。風が乱れた髪を吹き上げる。その下に現れた目は、不気味なほど穏やかで、どこか安堵さえ浮かべていた。このまま落ちれば、紗良に会えるのだろうか。それで、罪を償えるのだろうか。「しっかりつかまってください!」隊員は声を張り上げた。腕には血管が浮き、全身の力を込めて奏人を引き上げようとしている。ほかの隊員たちも駆け寄り、力を貸した。ようやく引き上げられた奏人は、崖際に倒れ込み、激しく咳き込んだ。「朝倉奏人!」背後から怒鳴り声が響いた。奏人がゆっくり振り返ると、優太が少し離れた場所に立っていた。急いで駆けつけたのか、全身に旅の疲れをにじませ、目は赤く、顔には疲労と怒りが浮かんでいた。優太は大股で近づくと、奏人の襟元をつかみ、地面から引き起こした。興奮で声が震えていた。「今の自分がどんな姿か見てみろ!人間なのか幽霊なのかも分からないじゃないか!女一人のために、命まで捨てるつもりか!」奏人は虚ろな目で優太を見たまま、何も答えなかった。「紗良が山にいるはずないだろ!」優太は、どうにか正気に戻そうと怒鳴った。「少しは考えろ!あれだけひどいけがをして、両手の爪まで失ったんだぞ!そんな状態で、どうやって山へ登る!お前から逃げて傷を治すつもりなら、医療設備の整った街か、国外へ行くはずだ!こんな人里離れた山奥へ来るわけがない!お前は紗良を捜してるんじゃない。死に場所を探してるだけだ!」奏人の目に、ようやくわずかな反応が戻った。優太の腕を、救いを求めるようにつかんだ。声はかすれ、今にも砕けそうだった。「なら、紗良はどこにいる?病院にもいない。ホテルにもいない。移動した記録も何一つない……ほかにどこへ行ける?山しかない。まだ捜していない山のどこかにいるはずだ……紗良は痛くて、怖がってる……俺が見つけないと……」「初めから、お前に見つかるつもりがないとしたら?本当に俺たちが考えたとおり、この世界の人間ではなかったとしたら?やるべきことを終えたのか、それ
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第17話

奏人はキッチンへ駆け込み、果物ナイフをつかむと、リビングの中央へ戻った。ためらうことなく、刃を左の掌へ滑らせる。たちまち血があふれ、淡い色のカーペットへ滴り落ちた。鮮やかな赤い花のような染みが、次々と広がっていく。奏人は痛みを感じていないかのように、血の流れる掌で床に何かを描き始めた。インターネット上の閉鎖的な掲示板で見つけた、得体の知れない召喚の陣だった。線は歪み、血と混ざり合い、不気味で禍々しいものに見えた。「紗良……戻ってきてくれ……俺の血で、お前の魂を呼び戻す……紗良……戻ってきてくれ……」奏人は陣の中央に跪き、何もない空間へ向かって叫び続けた。何度も紗良の名を呼ぶ声は、夜の闇に響く鳥の鳴き声のように凄まじかった。血は流れ続け、奏人の顔からは次第に血の気が失われていった。視界も何度も暗くなった。それでも奏人は構わなかった。体の痛みと失われていく血が、紗良のいる世界へ通じる橋を作ってくれるとでも信じているようだった。やがて失血のために視界が完全に暗くなり、奏人はその場へ倒れ込んだ。そのまま意識を失った。次に目を覚ましたとき、奏人は冷たい病室にいた。優太がベッドの脇に座っていた。目は落ちくぼみ、顔にはひげが伸びている。奏人と比べても、ほとんど変わらないほど疲れ切っていた。奏人が目を覚ましたのを見ても、優太は怒鳴らなかった。ただ目を赤くしたまま、疲れた声で尋ねた。「そこまでする価値があるのか?」奏人は天井を見つめた。目は虚ろで、何も答えなかった。長い沈黙が続いた。優太が、また口を閉ざしたままなのだろうと思い始めた頃、奏人はようやく話した。声は異様なほど穏やかだった。その静けさが、かえって寒気を覚えさせた。「前に、紗良はこの世界の人間じゃないかもしれないと言ったな。どういう意味なのか、具体的に話せ。調べたことを、全部教えてくれ」優太は奏人を見つめ、何か言いかけては口を閉ざした。「話せ」奏人は顔を向けた。その目には、死んだような静けさの中にも、消えない執着があった。優太はため息をつき、書類袋を取り出した。中から数枚の薄い紙を抜く。「使える人脈はすべて使った。中には……普通なら使わない手段も含まれてる」優太は低い声で話し始め
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第18話

数か月後の、重苦しい午後。奏人はいつものように、家の中をあてもなく歩き回っていた。長い間、使用人の手も入っておらず、あちこちに薄く埃が積もっている。空気には、古びたような、死んだような匂いが漂っていた。気づけば、奏人は2階の書斎まで来ていた。そこは、紗良が時折、本を読んだり絵を描いたりしていた場所だった。紗良がいなくなってからは、思い出すのがつらくて、ほとんど入っていなかった。だがその日は、何かに導かれるように扉を開けた。奏人はあてもなく室内を見回した。やがて視線が、机のそばの目立たない一角で止まる。そこには、さほど大きくないブリキの箱が置かれていた。色は少しくすみ、小さな錠前がかかっている。奏人は歩み寄り、箱を手に取った。見覚えがあった。ずっと以前、紗良がこの箱を取り出していたことがあった。窓辺に座り、箱を見つめながら物思いにふけっていた。奏人に気づくと、紗良は笑って箱をしまい、女の子だけの秘密だと言った。あの頃の奏人は紗良のプライバシーを尊重し、中を見ようとは一度も思わなかった。だが今、この箱は奏人に残された最後の希望だった。同時に、奏人を完全に打ちのめす最後の一撃になるかもしれなかった。道具を探し、簡単に壊れそうな錠前をこじ開けた。中に入っていたのは、宝石でも、秘密の手紙でもなかった。分厚く、縁が少し擦れたスケッチブックが数冊あるだけだった。奏人の胸が大きく跳ねた。震える指で一番上の一冊を取り、表紙を開いた。最初のページに描かれていたのは、少年時代の奏人だった。色あせるほど着古した制服を身につけ、まだらに汚れた路地の壁にもたれている。口元には傷が残っていたが、その目には狼のような気丈さが宿っていた。絵は驚くほど生き生きとしており、目元にある小さなほくろまで、はっきり描かれていた。その横には、整った字で短い言葉が添えられていた。【今日も奏人が殴られた。見ているだけで胸が痛い。ばか。勝てないのに、どうして逃げないの?】奏人は息を止め、急いで次のページをめくった。熱を出し、粗末なアパートのベッドで体を丸め、苦しそうに眉を寄せる奏人。その横には、こう書かれていた。【奏人が悪い夢を見て、ずっとお母さんを呼んでいた。こっそりキスした。今度は私の夢
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第19話

奏人は、完全に正気を失った。それが、周囲の者たちの共通認識だった。会社には行かず、誰にも会おうとしない。一日中、あのブリキの箱と古い服を抱え、リビングの中央――紗良が最後に消えた場所に座り込み、冷たい壁にもたれていた。目は焦点を失い、口からは同じ言葉ばかりが、何度も繰り返しこぼれた。「紗良、俺が悪かった……戻ってきてくれ。何でも渡す……会社も、金も、命も、全部やる……真帆は始末した。お前を傷つけた奴らも、全員始末した……紗良、手が痛い……爪が痛い……お前が痛いのか?まだ痛んでるのか?」奏人は自分の手を持ち上げ、光にかざした。10本の指に残る無傷の爪を、じっと見つめる。やがてその目に戸惑いが浮かび、次第に狂気じみた納得へ変わっていった。「そうだ……お前が痛いなら……俺も痛まないと……一緒に痛むんだ……」奏人は顔を伏せ、親指の爪を歯で強くかんだ。そのまま力任せに引き剥がす。「うっ!」激痛とともに、爪が皮膚の一部ごと剥がれ、血が一気にあふれ出した。それでも奏人は痛みを感じていないようだった。顔には、子どものように無邪気でありながら、残酷な笑みさえ浮かんでいた。そして、次の指へ口を寄せた。「紗良……見てくれ……俺も痛い……こうすれば……お前の痛みも、少しは軽くなるだろ……」緊急連絡を受けた優太と医師たちが扉を破って入ってきたとき、目にしたのはその光景だった。奏人は床に座り込んでいた。周囲には血が点々と落ちている。顔を伏せ、薬指の爪を歯で引き剥がそうとしていた。顎もシャツの胸元も血で赤く染まっているのに、その顔には不気味なほど満ち足りた笑みが浮かんでいた。「奏人!」優太は目を見開き、止めようと駆け寄った。奏人は勢いよく顔を上げた。その目は、獲物を奪われまいとする獣のように険しかった。「来るな!俺は紗良の痛みを引き受けてるんだ!紗良が痛がってる!俺も一緒に痛まないと!」その隙に、数人の医療スタッフが一斉に取り押さえ、強制的に鎮静剤を注射した。奏人は激しく抵抗し、叫び続けた。血にまみれた自分の指から、最後まで目を離さなかった。やがて薬が効き始め、ゆっくりと意識を失っていく。それでも口からは、無意識のうちに言葉が漏れていた。「紗良……痛い…
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第20話

陽射しを受けた刃が、冷たく鋭い光を反射した。奏人は顔を伏せ、細く青ざめた自分の指を見つめた。その目は、恐ろしいほど穏やかだった。左手を差し出し、右手に持った小刀の先を、親指の爪の根元へ当てる。そして、ゆっくりと、迷いなく、力を込めて剥がしていった。刃が皮膚を切り、爪とその下の組織を引き離していく。かすかに、耳を塞ぎたくなるような音がした。血がたちまちあふれ、指を伝って流れ落ちた。鮮やかな緑の芝生に、目を刺すような小さな赤い染みがいくつも広がっていく。激痛に、額から一気に冷たい汗が噴き出した。体は意思に反して震え、顔は青ざめていた。それでも奏人は止めなかった。呻き声すら漏らさない。その表情は祈りを捧げるように静かで、どこか解放されたような不気味な笑みさえ浮かんでいた。慎重に、手元をぶらすことなく、親指の爪を一枚そのまま剥がし取り、隣の石のベンチへ置いた。次は人差し指。中指。薬指。小指。左手が終わると、右手へ移った。10枚の爪が、石のベンチの上に整然と並べられていた。陽射しの下で、健康的な淡い桃色を帯びている。ただ、その縁には血が付着していた。奏人の10本の指は傷だらけになり、血が絶え間なく滴り落ちていた。痛いのか。もちろん、痛かった。視界が何度も暗くなり、今にも気を失いそうなほどだった。それでも、紗良が受けた苦しみを思えば、この程度の痛みなど何だというのだろう。「紗良……」奏人は傷だらけの両手を陽射しへかざし、そっと笑った。声は、溶けるほど優しかった。「これで……少しは痛くなくなったか?俺もそっちへ行く……今度は、俺がお前を待つ。お前がどの世界にいても……地獄でも、天国でも……必ず見つける。永遠に……」奏人は大量の出血によって、再び庭で意識を失った。すぐに発見され、救命処置を受けたことで、一命は取り留めた。だが、この一件を境に、奏人は完全に心を閉ざした。一言も話さなくなった。外からどんな働きかけを受けても、何の反応も示さない。食事を口へ運ばれれば食べる。支えられて歩かされれば歩く。眠るよう言われれば、目を閉じる。精巧に作られた人形のようだった。生きてはいても、すでに死んでいるような人間だった。
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