LOGIN最も愛し合っていた頃、高瀬紗良(たかせ さら)は朝倉奏人(あさくら かなと)の世界から姿を消した。 深い悲しみに打ちのめされた奏人は、彼女によく似た女・小野寺真帆(おのでら まほ)を身代わりとしてそばに置いた。 3年後、紗良が戻ってくると、奏人は真帆に金を渡し、迷うことなく紗良のもとへ戻った。 ところが、真帆が別の男と結婚する日、奏人は魂が抜けたようになり、ためらうことなく式場へ乗り込んだ。 紗良は気づかれないよう、そのあとをついていった。 奏人が扉を蹴破り、バージンロードの中央に立つウエディングドレス姿の真帆のもとへ、まっすぐ歩いていくのを見つめていた。 「奏人くん……」 突然現れた奏人を見て、真帆の目がたちまち潤んだ。 「どうしてここに?」 奏人は真帆の手首をつかんだ。その目には、狂気じみた怒りと独占欲が渦巻いていた。 「俺が来なかったら、本当にそいつと結婚するつもりだったのか?そいつを愛してるのか?真帆、お前が一番愛してるのは、俺じゃなかったのか?」
View More陽射しを受けた刃が、冷たく鋭い光を反射した。奏人は顔を伏せ、細く青ざめた自分の指を見つめた。その目は、恐ろしいほど穏やかだった。左手を差し出し、右手に持った小刀の先を、親指の爪の根元へ当てる。そして、ゆっくりと、迷いなく、力を込めて剥がしていった。刃が皮膚を切り、爪とその下の組織を引き離していく。かすかに、耳を塞ぎたくなるような音がした。血がたちまちあふれ、指を伝って流れ落ちた。鮮やかな緑の芝生に、目を刺すような小さな赤い染みがいくつも広がっていく。激痛に、額から一気に冷たい汗が噴き出した。体は意思に反して震え、顔は青ざめていた。それでも奏人は止めなかった。呻き声すら漏らさない。その表情は祈りを捧げるように静かで、どこか解放されたような不気味な笑みさえ浮かんでいた。慎重に、手元をぶらすことなく、親指の爪を一枚そのまま剥がし取り、隣の石のベンチへ置いた。次は人差し指。中指。薬指。小指。左手が終わると、右手へ移った。10枚の爪が、石のベンチの上に整然と並べられていた。陽射しの下で、健康的な淡い桃色を帯びている。ただ、その縁には血が付着していた。奏人の10本の指は傷だらけになり、血が絶え間なく滴り落ちていた。痛いのか。もちろん、痛かった。視界が何度も暗くなり、今にも気を失いそうなほどだった。それでも、紗良が受けた苦しみを思えば、この程度の痛みなど何だというのだろう。「紗良……」奏人は傷だらけの両手を陽射しへかざし、そっと笑った。声は、溶けるほど優しかった。「これで……少しは痛くなくなったか?俺もそっちへ行く……今度は、俺がお前を待つ。お前がどの世界にいても……地獄でも、天国でも……必ず見つける。永遠に……」奏人は大量の出血によって、再び庭で意識を失った。すぐに発見され、救命処置を受けたことで、一命は取り留めた。だが、この一件を境に、奏人は完全に心を閉ざした。一言も話さなくなった。外からどんな働きかけを受けても、何の反応も示さない。食事を口へ運ばれれば食べる。支えられて歩かされれば歩く。眠るよう言われれば、目を閉じる。精巧に作られた人形のようだった。生きてはいても、すでに死んでいるような人間だった。
奏人は、完全に正気を失った。それが、周囲の者たちの共通認識だった。会社には行かず、誰にも会おうとしない。一日中、あのブリキの箱と古い服を抱え、リビングの中央――紗良が最後に消えた場所に座り込み、冷たい壁にもたれていた。目は焦点を失い、口からは同じ言葉ばかりが、何度も繰り返しこぼれた。「紗良、俺が悪かった……戻ってきてくれ。何でも渡す……会社も、金も、命も、全部やる……真帆は始末した。お前を傷つけた奴らも、全員始末した……紗良、手が痛い……爪が痛い……お前が痛いのか?まだ痛んでるのか?」奏人は自分の手を持ち上げ、光にかざした。10本の指に残る無傷の爪を、じっと見つめる。やがてその目に戸惑いが浮かび、次第に狂気じみた納得へ変わっていった。「そうだ……お前が痛いなら……俺も痛まないと……一緒に痛むんだ……」奏人は顔を伏せ、親指の爪を歯で強くかんだ。そのまま力任せに引き剥がす。「うっ!」激痛とともに、爪が皮膚の一部ごと剥がれ、血が一気にあふれ出した。それでも奏人は痛みを感じていないようだった。顔には、子どものように無邪気でありながら、残酷な笑みさえ浮かんでいた。そして、次の指へ口を寄せた。「紗良……見てくれ……俺も痛い……こうすれば……お前の痛みも、少しは軽くなるだろ……」緊急連絡を受けた優太と医師たちが扉を破って入ってきたとき、目にしたのはその光景だった。奏人は床に座り込んでいた。周囲には血が点々と落ちている。顔を伏せ、薬指の爪を歯で引き剥がそうとしていた。顎もシャツの胸元も血で赤く染まっているのに、その顔には不気味なほど満ち足りた笑みが浮かんでいた。「奏人!」優太は目を見開き、止めようと駆け寄った。奏人は勢いよく顔を上げた。その目は、獲物を奪われまいとする獣のように険しかった。「来るな!俺は紗良の痛みを引き受けてるんだ!紗良が痛がってる!俺も一緒に痛まないと!」その隙に、数人の医療スタッフが一斉に取り押さえ、強制的に鎮静剤を注射した。奏人は激しく抵抗し、叫び続けた。血にまみれた自分の指から、最後まで目を離さなかった。やがて薬が効き始め、ゆっくりと意識を失っていく。それでも口からは、無意識のうちに言葉が漏れていた。「紗良……痛い…
数か月後の、重苦しい午後。奏人はいつものように、家の中をあてもなく歩き回っていた。長い間、使用人の手も入っておらず、あちこちに薄く埃が積もっている。空気には、古びたような、死んだような匂いが漂っていた。気づけば、奏人は2階の書斎まで来ていた。そこは、紗良が時折、本を読んだり絵を描いたりしていた場所だった。紗良がいなくなってからは、思い出すのがつらくて、ほとんど入っていなかった。だがその日は、何かに導かれるように扉を開けた。奏人はあてもなく室内を見回した。やがて視線が、机のそばの目立たない一角で止まる。そこには、さほど大きくないブリキの箱が置かれていた。色は少しくすみ、小さな錠前がかかっている。奏人は歩み寄り、箱を手に取った。見覚えがあった。ずっと以前、紗良がこの箱を取り出していたことがあった。窓辺に座り、箱を見つめながら物思いにふけっていた。奏人に気づくと、紗良は笑って箱をしまい、女の子だけの秘密だと言った。あの頃の奏人は紗良のプライバシーを尊重し、中を見ようとは一度も思わなかった。だが今、この箱は奏人に残された最後の希望だった。同時に、奏人を完全に打ちのめす最後の一撃になるかもしれなかった。道具を探し、簡単に壊れそうな錠前をこじ開けた。中に入っていたのは、宝石でも、秘密の手紙でもなかった。分厚く、縁が少し擦れたスケッチブックが数冊あるだけだった。奏人の胸が大きく跳ねた。震える指で一番上の一冊を取り、表紙を開いた。最初のページに描かれていたのは、少年時代の奏人だった。色あせるほど着古した制服を身につけ、まだらに汚れた路地の壁にもたれている。口元には傷が残っていたが、その目には狼のような気丈さが宿っていた。絵は驚くほど生き生きとしており、目元にある小さなほくろまで、はっきり描かれていた。その横には、整った字で短い言葉が添えられていた。【今日も奏人が殴られた。見ているだけで胸が痛い。ばか。勝てないのに、どうして逃げないの?】奏人は息を止め、急いで次のページをめくった。熱を出し、粗末なアパートのベッドで体を丸め、苦しそうに眉を寄せる奏人。その横には、こう書かれていた。【奏人が悪い夢を見て、ずっとお母さんを呼んでいた。こっそりキスした。今度は私の夢
奏人はキッチンへ駆け込み、果物ナイフをつかむと、リビングの中央へ戻った。ためらうことなく、刃を左の掌へ滑らせる。たちまち血があふれ、淡い色のカーペットへ滴り落ちた。鮮やかな赤い花のような染みが、次々と広がっていく。奏人は痛みを感じていないかのように、血の流れる掌で床に何かを描き始めた。インターネット上の閉鎖的な掲示板で見つけた、得体の知れない召喚の陣だった。線は歪み、血と混ざり合い、不気味で禍々しいものに見えた。「紗良……戻ってきてくれ……俺の血で、お前の魂を呼び戻す……紗良……戻ってきてくれ……」奏人は陣の中央に跪き、何もない空間へ向かって叫び続けた。何度も紗良の名を呼ぶ声は、夜の闇に響く鳥の鳴き声のように凄まじかった。血は流れ続け、奏人の顔からは次第に血の気が失われていった。視界も何度も暗くなった。それでも奏人は構わなかった。体の痛みと失われていく血が、紗良のいる世界へ通じる橋を作ってくれるとでも信じているようだった。やがて失血のために視界が完全に暗くなり、奏人はその場へ倒れ込んだ。そのまま意識を失った。次に目を覚ましたとき、奏人は冷たい病室にいた。優太がベッドの脇に座っていた。目は落ちくぼみ、顔にはひげが伸びている。奏人と比べても、ほとんど変わらないほど疲れ切っていた。奏人が目を覚ましたのを見ても、優太は怒鳴らなかった。ただ目を赤くしたまま、疲れた声で尋ねた。「そこまでする価値があるのか?」奏人は天井を見つめた。目は虚ろで、何も答えなかった。長い沈黙が続いた。優太が、また口を閉ざしたままなのだろうと思い始めた頃、奏人はようやく話した。声は異様なほど穏やかだった。その静けさが、かえって寒気を覚えさせた。「前に、紗良はこの世界の人間じゃないかもしれないと言ったな。どういう意味なのか、具体的に話せ。調べたことを、全部教えてくれ」優太は奏人を見つめ、何か言いかけては口を閉ざした。「話せ」奏人は顔を向けた。その目には、死んだような静けさの中にも、消えない執着があった。優太はため息をつき、書類袋を取り出した。中から数枚の薄い紙を抜く。「使える人脈はすべて使った。中には……普通なら使わない手段も含まれてる」優太は低い声で話し始め
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