先王妃の温室を出ると、王宮の廊下は夕方の冷気に包まれていた。硝子の中に満ちていた湿った土と葉の匂いが衣服へ残っているせいか、磨かれた石床と蝋燭だけの廊下がひどく乾いて感じられる。ティルヴァンは温室の鍵を内ポケットへ戻し、リディエラは少し離れた位置でその動きを待った。先ほどまで話していた「泣くことは王族の失敗なのか」という問いは、答えの出ないまま二人の間に残っていたが、どちらも無理に続きを求めなかった。 黒ミッションはまだ終わっていない。視界の隅へ意識を向ければ、残り時間が減り続けているのは分かっている。けれどリディエラは表示を呼び出さなかった。ティルヴァンが母について自分から話した直後に数字を確認すれば、今交わした言葉まで成功か失敗かに置き換えてしまいそうだったからだ。「今日は、ありがとうございました」 回廊へ戻ったところでリディエラが言うと、ティルヴァンは僅かに首を傾けた。「水やりを?」「温室へ入れていただいたことです」「君が許可を求めたから許可しただけだ」「それでもです。以前の私なら、入れることを当然だと思ったのでしょう」 ティルヴァンは否定しなかった。数歩並んで歩き、やがて「以前の君なら、母上の鉢を見つけた時点で質問を始めた」と静かに言った。リディエラの身体に残る記憶を考えれば、その通りだっただろう。亡き王妃が何を好み、どんな思い出を息子へ残したかを知れば、婚約者として一歩有利になれると考えたはずだった。「聞かない方が、不自然でしたか」「不自然ではある」「嫌でした?」「それも、まだ分からない」 また分からない。少し前のティルヴァンなら、その言葉を口にする前に何らかの答えを決めていたのかもしれない。リディエラは「そうですか」とだけ返し、その曖昧さを埋めなかった。ティルヴァンも何も付け足さず、二人の足音だけが長い石廊下へ一定の間隔で響いた。 角を曲がる前に、甘い花の香りが流れてきた。 温室にあった冬薔薇とは違う。もっと小さく、野に近い匂いだった。リディエラが顔を上げると、向こう側から白いドレスの少女が歩いてくる。付き添いの侍女を一人だけ後ろに従え、両腕には薄紫色の小さな花を束ねた花束を抱えていた。「ティルヴァン様。お姉様」 ミレシアは足を止め、柔らかく微笑んだ。「偶然ですね」 偶然。 その言葉を聞いた瞬間、リディエラは花
最終更新日 : 2026-09-04 続きを読む