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第10話 告解を誘導する聖職者

 王立警備隊の男が掲げた捜索許可証には、学院長代理と王宮記録局の印が並んでいた。 ティルヴァンの署名はない。 生徒会室の扉の前で、リディエラは封書の末尾まで目を通した。捜索対象は学院内の個室と私物保管箱。目的は東棟で検出された毒物と同種の薬品、容器、購入記録の発見。立会人として女性教員か侍女を置くこと。押収品は品名と発見場所を記載し、本人へ控えを渡すこと。「捜索を拒むつもりはありません」 許可証を男へ返す。「ただし、ユディト先生か、私付きではない女性職員を立ち会わせてください。持ち出す物は、その場で一覧にしてください」 男は僅かに眉を上げた。「ご自身の侍女では不足ですか」「私を恐れている者に、私の不利益となる証言を求めるべきではありません。反対に、私へ忠実な者だと判断されれば、記録そのものを疑われます」「承知しました。学院事務官へ手配させます」 警備隊は先に女子寮へ向かった。 硬い靴音が階段の奥へ消えていく。廊下に残ったのは、リディエラと、生徒会室から出てきたセフィランだけだった。 ティルヴァンは証言書の再確認を始め、ヴァルシェは剣へ手をかけた件について騎士科長のもとへ出頭する。ミレシアは気分が優れないとして、別の侍女に付き添われて休憩室へ移った。「お一人で向かわれるのですか」 セフィランの声は、陽だまりのように柔らかかった。 廊下の高窓から入る午後の光が、淡い金茶の髪へ薄い輪郭をつくっている。胸元の聖印が歩くたびに揺れ、衣服へ触れて微かな音を立てた。「警備隊が先におります。立会人も来ます」「そうではありません」 彼はゆっくり首を横へ振った。「心細くはないのかと、お尋ねしたのです」 責める色はない。 庭園での行為を非難するでも、毒物について問いただすでもない。ただ、疲れている者を見つけ、休む場所を差し出すような声だった。 過去のリディエラなら、その一言だけで足を止めていただろう。 身体に残る記憶の中で、セフィランはいつも最後に現れた。 母エネファから王妃教育をやり直せと命じられた日。ティルヴァンに予定を変更され、理由も知らされなかった夜。ミレシアを責めたことで皆から遠巻きにされた礼拝堂。 誰もが去ったあと、彼だけが静かに隣へ座る。「おつらかったのでしょう」 そう言われると、リディエラは自分を理解する者をようやく
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第11話 天才魔術師の毒入り紅茶

 女子寮の捜索が終わったのは、午後の鐘が2度鳴ったあとだった。 警備隊は衣装箱の底から机の引き出しまで調べ、香水瓶、常備薬、封蝋、インク壺を一つずつ記録した。毒物も、それを入れていたと思われる容器も見つからなかった。 無実が証明されたわけではない。 あらかじめ処分したのではないか。 別の場所へ隠したのではないか。 疑おうと思えば、何も発見されなかったことさえ疑いの材料になる。 女性事務官から押収品一覧の控えを受け取った時、リディエラは紙の余白まで確かめた。持ち出されたのは、朝の茶器に付着していた研磨剤と同じ粉を入れた掃除用の缶だけだった。使用人の共用品であり、彼女の私物ではないことも記載されている。 部屋に残ったのは、開け放たれた引き出しと、知らない手に触れられた衣服の匂いだった。 窓から差す午後の光は弱い。舞い上がった埃が細く光り、乱された寝台の上へ落ちていく。 マルタが黙って衣装を畳み直していた。「今日は、もう学院をお休みになってはいかがでしょう」 彼女は小声で言った。「お顔の色がよくありません」「そう見えますか」「はい」 以前なら、元気に見せるため微笑んでいたかもしれない。 リディエラは鏡へ視線を向けた。頬は白く、目の下には薄い影がある。左手の包帯も、庭園にいた時より赤く滲んでいた。「少し疲れています」 認めると、マルタは驚いたように瞬きをした。「片づけが終わったら休みます。あなたも、すべて元へ戻す必要はありません」「ですが、お嬢様のお部屋ですから」「今日中に整っていなくても困りません」 マルタは返事をせず、手にしていたドレスを衣装箱へ収めた。その動きは先ほどより僅かにゆっくりになった。 窓硝子を小さな音が打った。 鳥がぶつかったような乾いた響きだった。 振り返ると、青白い紙で作られた小鳥が窓の外に浮かんでいる。羽ばたくたび、折り目に刻まれた術式が淡く光った。 マルタが窓を開ける。 紙の鳥は室内へ滑り込み、リディエラの机の上へ降りた。翼を畳むと、自ら折り目を解き、1枚の便箋へ戻る。 文字は細く、整いすぎていた。〈中央庭園における衝撃波形の記録を保有している〉〈接触の有無を知りたければ、第4魔術実験室へ〉 差出人の名はない。 だが便箋の右下には、複雑な数式を簡略化した印が押されていた。 イェルク
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第12話 悪役令嬢の帳簿

 魔術実験室から戻った時には、窓の外はもう夕暮れへ沈み始めていた。 西の空に残った赤紫の光が、細い窓硝子を通して部屋の床へ長く伸びている。警備隊の捜索で乱された衣装箱は、マルタの手によってほとんど元へ戻されていた。けれど引き出しの取っ手には他人が触れた痕が残り、閉じられた寝台の天蓋からも、いつもの香とは違う乾いた布の匂いがした。 リディエラは扉を閉め、鍵をかけなかった。 机の上へ、イェルクから受け取った青い記録紙を置く。 魔力を僅かに流すと、中央庭園の光景が薄く浮かび上がる。黒檀の扇子が振り下ろされ、その衝撃はミレシアの頬ではなく、リディエラの左掌で発生していた。〈対象Aへの接触:0〉〈衝撃発生点:リディエラ・オルヴェイン左掌〉〈観測対象の行動予測に失敗〉〈継続観測を推奨〉 証拠を得た安堵より、その二行の方が胸に冷たく残った。 拒絶したから、イェルクは離れたのではない。 むしろ近づいた。 好感度は62から65へ上がった。 安全から遠ざかるように。 リディエラは椅子へ腰を下ろした。 左手の包帯をほどく。黒檀の骨が当たった場所は赤紫色に腫れていた。ユディトから渡された軟膏を塗ると、薬草の青い匂いが立つ。 恐怖の中にいる時、人は目の前の痛みを避けることへ意識が偏る。それだけを繰り返せば、相手の感情を操作することが目的へ変わる。 リディエラは机の一番下の引き出しから、黒い革表紙の帳簿を取り出した。 フェルニカへの返還額を書いたものとは別だった。 最初に五人の名と数値を書き、40から60の範囲へ収めると決めた帳簿。 表紙を開く。 以前書いた数字が並んでいる。 ティルヴァン・エルグレード 34。 ヴァルシェ・ネイグラン 17。 セフィラン・アウレクシス 51。 イェルク・ローディアス 62。 ネレス・カルヴァディン 8。 その横へ、現在の数字を書き加えた。 ティルヴァン 29。 ヴァルシェ 18。 セフィラン 48。 イェルク 65。 ネレス 11。 数字だけを見れば、状況は悪化している。ティルヴァンは排除域へ近づき、ヴァルシェはまだ排除域。イェルクは執着域を進み、ネレスも殺意が消えたわけではない。 では、48のセフィランだけが安全なのか。 リディエラは筆を止めた。 違う。 数値と態度は一致しないことが
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第13話 過去の罰金を返す

 朝の公爵邸には、磨いた銀と焼いたパンの匂いが満ちていた。 学院へ向かう馬車の時刻まで、まだ余裕がある。普段なら侍女が制服を整え、朝食を済ませればすぐ玄関広間へ降りる時間だった。 だがリディエラは、食堂とは反対側の廊下を歩いていた。 腕には、昨夜まとめた黒い帳簿がある。 窓の外では薄い霧が庭園を覆っていた。靴底が大理石を打つ音が、高い天井へ返る。 公爵家の会計室は、使用人棟へ近い一階の奥にあった。 扉を開けると、紙と蝋、古い革の匂いが鼻へ届く。壁一面の棚には年度ごとの帳簿が並び、中央の長机では3人の会計係が羽根筆を動かしていた。 突然現れた公爵令嬢に、全員が立ち上がる。「お、お嬢様。こちらへ何か」「過去一年分の使用人記録を確認したいのです」 最年長の男が瞬きをした。 四十代半ばほど。細い眼鏡の奥に疲れた目があり、袖口にはインク染みが重なっている。「使用人記録、と申されますと」「私の命令によって科された罰金、減給、解雇、治療費の本人負担。それから休暇取消に伴う賃金処理です」 会計室の空気が止まった。 3人の視線が、ほんの一瞬だけ交わされる。 その沈黙だけで、少なくない数があると分かった。「すべてです」「記録が残っているものは、一件ずつ確認します」「しかし、本日は学院が」「遅刻しない範囲で始めます。終わらなければ帰宅後に続けます」 最年長の男はなおも迷っていたが、やがて深く頭を下げた。「会計主任のドメル・ハーシュでございます。お嬢様がお望みでしたら、準備いたします」 棚の鍵が開けられた。 厚い帳簿が一冊、二冊、三冊。 さらに使用人名簿、医療費記録、給与台帳。 長机へ積まれていく。 革表紙が重なるたび、鈍い音がした。 リディエラは椅子へ座り、最初の頁を開いた。 日付、氏名、基本賃金、控除、理由、承認者。整然と並ぶ記録の承認欄には、見慣れ始めた自分の名が続いている。 リディエラ・オルヴェイン。 筆跡は今の自分とは違う。長く伸びた最後の線に、苛立ちまで残っているようだった。 花瓶破損、銀貨14枚。 寝具交換遅延、銀貨8枚。 呼び出し不応、給与3日分。 髪飾り紛失、金貨1枚。 廊下清掃不備、給与7日分。 ページをめくる。 また同じ名が出る。 フェルニカ・ロウゼ。 別の名。 リネア・ベル。 マル
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第14話 許さないまま辞める侍女

 退職願の紙は、朝になっても机の端に置かれたままだった。 昨夜、何度読み返しても文面は変わらなかった。〈リディエラ・オルヴェイン公爵令嬢のもとで、これ以上勤務する意思はありません〉 たった一行。 理由を詳しく書く必要も、主人を納得させる必要もないはずなのに、リディエラはその短さの中へ、書かれなかった言葉を探しそうになっていた。 それをやめる。 退職したい。 それだけで十分だった。 机の引き出しには、夜中に一度だけ書いた手紙が入っていた。〈申し訳ありませんでした〉から始まる、短い謝罪文。 書き終えた時には、それを渡すつもりだった。顔を合わせれば聞きたくないと言われるかもしれない。ならば紙なら、読むか捨てるかをリネアが決められるのではないかと考えた。 けれど明け方になり、封をする前に手を止めた。 退職の手続きへ来た相手へ、主人からの手紙を持たせる。それだけで、捨てにくいものになる。読まない自由を与えたつもりでも、公爵家の封蝋があれば、どこかで返事を求められていると感じるかもしれない。 リディエラは便箋を細く裂き、暖炉へ入れた。 謝罪したい自分の気持ちより、聞きたくないと言われた時に止まることを優先する。 それが今朝、最初に決めたことだった。 朝の光は薄く、窓硝子には夜露が残っている。暖炉の火が消えかけた室内には、灰と薬草の匂いが混じっていた。 リディエラは退職願の横へ、会計室から届いた書類を並べた。 未払い治療費。 不当に科された罰金。 未消化の休暇分。 本来受け取るべきだった賃金。 規定に基づく退職金。 数字を確認し、合計額をもう一度計算する。 金貨4枚と銀貨36枚。 紙の上では、それで精算できる。 けれど、身体に残った傷や、熱湯を浴びた時の恐怖は、どの欄にも入らない。 リネア・ベル。 二十二歳。 公爵家に仕えて4年目。 記録によれば、昨年の冬、リディエラが夜会から戻った夜に、温度が低いという理由で茶を淹れ直させた。 二度目の茶は熱すぎると怒った。 そして、カップの中身をリネアへ浴びせた。 そこまで読んだ時、身体の奥に他人の記憶が浮かんだ。 白い磁器のカップ。 苛立った手。「こんなものを飲ませるつもり?」 悲鳴。 床へ落ちた銀盆。 焦げたような布の匂い。 右肩から胸元へ広がる赤い皮膚。
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第15話 妹が教えた王太子の好み

 リネアが屋敷を去ってから二日後の夕刻、リディエラの部屋へ、珍しい訪問者がやって来た。 扉を叩いたのはマルタだった。「お嬢様。ミレシア様がお見えです」 机へ向かっていたリディエラの筆先が止まる。 窓の外では、雨が細く降っていた。石造りの窓枠を伝う水滴が、薄暗い庭園の景色を何本もの線に分けている。暖炉には火が入っていたが、部屋の空気はどこか湿っていた。紙とインク、乾ききらない薪の匂いが混じっている。 机の上には、使用人への返還記録と、五人の行動を書いた黒い帳簿が開かれていた。 リディエラは帳簿を閉じる。「用件は?」「ご本人は、お姉様のお身体を心配して、と」 マルタの声には迷いがあった。 ティルヴァンから出された接触制限は、魔術記録の確認後に解除されている。それでも、姉妹が二人きりになることを警戒する者は多かった。「ミレシアには、誰か付き添っていますか」「侍女が一人。廊下で待つと申しております」「では、扉は開けたままにしてください」「承知いたしました」 マルタが下がる。 少しして、柔らかな衣擦れが近づいた。「お姉様」 蜂蜜色の髪が、開いた扉の向こうへ現れる。 ミレシアは淡い水色の室内着をまとっていた。学院帰りなのだろう。髪はいつものように美しく結われていたが、胸元の聖女候補を示す青い石は外されている。 手には白い布で包んだ小さな籠を持っていた。「入っても、よろしいでしょうか」「どうぞ」 ミレシアは室内へ入ると、開いた扉を一度振り返った。「閉めた方が、お話ししやすいのでは?」「私はこのままで構いません」 一瞬だけ、妹の瞳が揺れた。「そうですか」 すぐに笑顔へ戻る。 彼女は机から少し離れた長椅子へ腰を下ろした。籠から取り出したのは、砂糖を薄くまぶした焼き菓子だった。「厨房で作っていただいたのです。お姉様、最近あまり甘い物を召し上がっていないと聞いて」「誰から?」 口にしてから、問いが鋭く響いたことに気づく。 ミレシアの指が菓子の上で止まった。「侍女たちが話しているのを聞いただけです。勝手に探ったわけではありません」「そうですか」 リディエラはそれ以上聞かなかった。 毒への警戒が身につき、差し出された食べ物を見ると、まず誰が作り、誰が運んだかを考える。だが、それだけで目の前の人間を犯人にしてよい理由に
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第16話 存在しない監察官

 朝から、学院の空気は落ち着かなかった。 中央棟の東側に並ぶ魔術灯が、始業の鐘より前に3基続けて消えたからだ。 青白い光を失った回廊は、曇天の下でひどく暗く見えた。窓から差し込む朝の光だけでは石床の端まで届かず、生徒たちはいつもより足を遅くして歩いている。 魔術灯の不調そのものは珍しくない。 けれど、消えた3基のうち1基は、昨夜のうちに術式の検査を終えていたという。 リディエラが学院へ着いた頃には、魔術科の教員と警備隊員が灯具を囲み、生徒たちを遠ざけていた。「また事故?」「爆発するかもしれないって」「昨日、魔術院の人が来ていたでしょう?」 囁きが回廊を流れる。 リディエラは足を止めず、その横を通り過ぎた。 視界の端には、いつもの数値が並んでいる。〈ティルヴァン・エルグレード:29〉〈ヴァルシェ・ネイグラン:18〉〈セフィラン・アウレクシス:48〉〈イェルク・ローディアス:65〉〈ネレス・カルヴァディン:11〉 数字を見る癖はまだ消えなかった。 けれど、帳簿を作り直してからは、それだけで相手を判断しないよう意識している。 ティルヴァンは低い数値でも証言の取り直しを選んだ。 ヴァルシェは排除域のままでも剣から手を離した。 セフィランは安全域にいるのに、拒絶のあとも関心を失わなかった。 イェルクは拒絶したことで、むしろ好感度を上げた。 ネレスは数値が上がっても、殺意を撤回していない。 数字は危険を知らせる。 だが、人間のすべてを説明するものではない。 そう分かっていても、表示があるだけで安心している自分がいる。 赤ければ離れる。 紫なら警戒する。 緑なら、一度だけ呼吸を戻せる。 判断を誤らないための材料だと思いながら、その色に頼っている。 そのことを、リディエラ自身が完全には認められていなかった。 午前の講義が始まって間もなく、遠くで硬い破裂音がした。 机の上の硝子瓶が震える。 次の瞬間、窓の外が青白く光った。 教室の空気が止まる。 遅れて、腹の底へ響く低い音が届いた。 誰かが悲鳴を上げた。「動かないで!」 教員が叫ぶ。 しかし生徒の何人かはすでに立ち上がり、窓へ寄っていた。 東側の回廊から、灰色の煙が上がっている。 魔術灯。 リディエラの背中が強ばる。 教室の扉が開き、警備員が顔を
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第17話 君は人の頭上に何を見ている

 王立監察局からの呼び出しは、翌日の昼前に届いた。 授業を終えたリディエラが廊下へ出ると、学院事務官が封を切った書面を抱えて待っていた。「ザフィル・レイヴァート監察官から、魔術灯爆発事故に関する追加の事情聴取です」「場所は?」「旧生徒会資料室を使用するそうです」 旧生徒会資料室。 中央棟2階の端にあり、普段は使われていない部屋だ。 人通りが少ない。 その事実だけで、背中が強ばった。「立会人はいますか」「監察局の書記官が1名」「学院側の者は?」「必要であれば呼ぶとのことです」 必要かどうかを誰が決めるのだろう。 リディエラは一瞬考え、マルタへ同行を頼んだ。事情聴取の内容を聞かせるためではない。扉の外にいてもらうためだ。「嫌なら断ってください」 歩きながら告げると、マルタは困った顔をした。「最近のお嬢様は、そればかりおっしゃいますね」「嫌ですか」「そうではなく……断ってよいと言われると、本当に断ってしまってよいのか、余計に考えてしまいます」 その答えに、リディエラは足を僅かに緩めた。 選択肢を与えれば、それだけですべて解決するわけではない。 断れば主人を失望させるのではないか。 あとで評価が下がるのではないか。 そう考える立場そのものは、簡単には消えない。「では、こうします」「はい?」「私は来てほしいです。ただし、断られても罰したり、不機嫌になったりしないよう努めます」 マルタが瞬きをする。「……その方が、分かりやすいです」「今後はそうします」 廊下の角を曲がる。 旧資料室の前には、灰色の制服を着た若い書記官が立っていた。 扉は開いている。 室内にザフィルの姿が見えた。 窓際に立ち、机へ数枚の記録紙を並べている。灰黒の髪に昼の光が落ち、青銀の瞳だけが薄い氷のように見えた。 リディエラが近づくと、彼は手元から顔を上げる。 反射的に、その頭上へ視線が向いた。〈ザフィル・レイヴァート〉〈観測不能〉 やはり変わっていない。 数値はない。「入って」 短い声。 リディエラは一歩だけ室内へ入り、扉の位置を確認した。 窓は2つ。 片方は開閉可能。地上までは2階分。 机は中央。 ザフィルとの間に障害物はない。 書記官は入口近く。 マルタは廊下。「扉は開けたままでも?」 尋ねると、ザフ
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第18話 ドレスへ飲み物をかける日

 王立アルセリア学院の歓迎茶会は、温室庭園を開放して行われた。 天井まで届く硝子窓の向こうには、雨上がりの薄い青空が広がっている。陽光を受けた無数の水滴が蔓薔薇の葉で光り、風が吹くたび小さく震えた。 白い円卓。 磨かれた銀器。 春先にしか咲かない香草花。 果実を煮詰めた菓子と、薄く切った焼き菓子。 学院内の催しとは思えないほど華やかな光景だった。 リディエラは入口で足を止める。 胸の奥に、昨日から消えない重さがあった。 今度は、ずいぶん静かな人が入った。 ザフィルの声。〈参照履歴――〉〈閲覧権限がありません〉 あの表示。 考えても答えは出ない。 自分より前にも、この身体へ別の誰かがいた。 その可能性だけが、夜を越えて残った。 ほとんど眠れなかった。 それでも学院を休むという選択はしなかった。 怖いから閉じこもれば、見えない場所で事態が進む。何より、今日は身体の記憶に強く残る日だった。 歓迎茶会。 ミレシアの白いドレス。 赤い果実水。 黒い衣装をまとったリディエラ。 この場面を知っている。 身体の記憶だけではない。 依子が前世で知っていた物語にも、よく似た場面があった。 ミレシアが新入生の中心として歓迎される茶会。 王太子ティルヴァンと親しく話す妹を見たリディエラが嫉妬し、赤い果実水を白いドレスへ浴びせる。 ミレシアは何も言わず耐える。 ティルヴァンが自分の上着を脱ぎ、彼女の肩へ掛ける。 ヴァルシェはリディエラを非難する。 セフィランは泣きそうなミレシアを慰める。 悪い姉。 守られる妹。 それぞれの位置が、あまりにも綺麗に決まる場面。「お嬢様」 隣でマルタが声を落とした。「ご気分が悪いのでしたら、休憩室へ」「大丈夫です」 答えてから、付け足す。「今は」 無理をしない。 痛くないふりをしない。 ユディトに言われたことを思い出す。 今日のリディエラは、黒を基調としたドレスを着ていた。 新しいものではない。 去年の秋に仕立てた衣装を、装飾だけ減らして着直している。襟元には宝石をつけず、黒い絹紐だけ。母から贈られた真珠も、春季用に用意していた髪飾りも、すでに売却へ回した。 周囲の令嬢たちは、その変化に気づいていた。「本当に去年のドレスですのね」「宝石もないわ」「ミレシア様へ
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第19話 感情的中心のないイベント

 温室庭園には、誰も次の言葉を持っていなかった。 硝子天井を叩く雫が、雨上がりの風に揺れて落ちてくる。蔓薔薇の葉から滑った水滴が白い卓布へ落ち、小さな丸い染みをつくった。 先ほどまで絶えなかった談笑も、銀匙の触れ合う音も消えている。 皆の視線だけが、リディエラへ集まっていた。 黒いドレスの胸元から腰にかけて、深紅の果実水が広がっている。濡れた布が肌へ張りつき、冷たさが少しずつ体温を奪っていた。 けれど、ミレシアは濡れていない。 白いドレスには一滴の赤もない。 頬にも、腕にも、傷はない。 ティルヴァンは上着へ掛けかけた手を下ろしたまま止まっている。 ヴァルシェは壁際から数歩進んだ位置で立ち尽くし、剣の柄にも触れていない。 セフィランも、慰めるために差し出しかけた手を静かに戻していた。 誰も傷ついていない。 だから誰も守れない。 誰も泣いていない。 だから誰も慰められない。 そしてリディエラ自身も、怒っていなかった。「お嬢様、こちらを」 マルタが新しい布を持ってくる。「ありがとうございます」 リディエラは受け取り、胸元へ軽く押し当てた。 果実水は甘酸っぱい香りを強く放っている。黒い布へ染み込んだ液体が、掌の圧に合わせてじわりと布へ移った。 それだけだった。 怒鳴らない。 杯を投げない。 給仕を責めない。 ミレシアへ視線を向けて恨み言を言うこともない。 その平凡な後始末が、かえって周囲を困らせていた。 視界では、青い表示が激しく揺れている。〈被害者が存在しません〉 一度消える。 すぐに次の文章が浮かぶ。〈救済者が存在しません〉 文字の輪郭が乱れた。〈悪役行動が確定できません〉〈イベントの感情的中心が存在しません〉 リディエラは、濡れた布を押さえたまま動きを止めた。 感情的中心。 奇妙な言葉だった。 けれど、この場に起きていることを正確に示しているようにも思えた。 予定されていた形なら、中心にはミレシアがいる。 白いドレスを汚された妹。 その妹を守るティルヴァン。 怒るヴァルシェ。 慰めるセフィラン。 周囲の同情。 それらすべてを生み出す原因として置かれるリディエラ。 感情はミレシアを中心に動き、最後に姉への非難へ集まる。 だが今は、その中心がない。 リディエラが自分のドレスを
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