白啓は、捕らえられても穏やかに笑っていた。 庭の杏の木の根元で、両腕を兵に押さえられ、香筒を取り上げられ、逃げ道を塞がれている。 それでも、負けた男の顔ではなかった。「さあ、鈴花。白家の帳面を壊すか。皇后の新しい帳面になるか」 老人の声は柔らかい。 柔らかいからこそ、耳に残る。 白家は、たぶんずっとそうやって人を絡め取ってきたのだろう。 怒鳴らず、脅すだけでもなく。 甘い香を焚き、やさしい言葉を置き、人に「自分で選んだ」と思わせる。 母を奉公へ出すと言った時も。 父に白啓の名を貸した時も。 私を「よく育った目」と呼んだ今も。 私は柱を握ったまま、白啓を見た。「皇后様の新しい帳面とは、何ですか」「言っただろう。女を売る家を壊すための帳だ」「帳で人は救えますか」「帳がなければ、人は最初からいなかったことになる」 白啓は笑う。「売られた女。消えた女。名を変えられた女。腹を貸された女。子を奪われた女。帳に名がなければ、誰も探さない。名があれば、値がつく。値がつけば、取引できる。取引できれば、取り戻せることもある」「値がつくから売られることもあります」「そうだ」 あっさり認めた。「帳は刃だ。握る者次第で、縄を切ることも、首を切ることもできる」 その言葉は正しかった。 正しいから、腹が立つ。 白家の女帳は、人を売るためにあった。 でも、その帳があったから、母が売られたことも、父が金を受け取ったことも、私が観察対象にされたことも分かった。 帳がなければ、父はもっと言い逃れただろう。 母も、自分が売られたことを知らな
Last Updated : 2026-09-27 Read more