皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします

皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします

last updateLast Updated : 2026-10-05
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
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皇后毒殺の瞬間を目撃したのは、誰にも名を覚えられない下級宮女・鈴花だった。犯人は皇帝の寵愛を一身に受ける玉蘭妃。しかし、鈴花を姉のように守ってくれた女官・明霞が濡れ衣を着せられ処刑され、実の母まで娘を玉蘭妃へ売り渡す。真実を口にすれば殺される後宮で、鈴花は“鼠”の身分を武器に、床に落ちた証拠と女たちの嘘を拾い集めていく。やがて協力者の宦官・黎星の正体が皇弟だと判明し、皇后の死の背後には寵妃一人では終わらない巨大な陰謀が浮かび上がる。姉の汚名をそそぎ、自分を売った母と腐りきった後宮を裁くため、最下層の宮女が命懸けの復讐に挑む。

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Chapter 1

第一話 皇后を殺したのは寵妃様でした

皇后様を殺したのは、玉蘭妃だった。

 それを知っているのは、たぶん私だけだ。

 月の細い夜だった。

 白玉宮の回廊には、沈丁花の香が濃く漂っていた。雨上がりの石畳は黒く濡れていて、灯籠の火がその上にぼんやり揺れている。赤い柱も、金の欄干も、夜になると血を吸ったような色に沈む。

 私は洗い終えた寝衣を抱え、誰にも見つからないよう壁際を歩いていた。

 下級宮女は、音を立ててはいけない。

 目立ってもいけない。

 妃様方の顔を見上げてもいけない。

 命じられる前に動き、褒められる前に消える。

 それが、後宮で長く生きるための作法だった。

 だから私は、見てしまった後も、声を出せなかった。

 玉蘭妃が、皇后様の薬湯に、小さな白い粉を落とした瞬間を。

 白い指だった。

 雪のように白く、細く、爪の先だけが薄紅に染まっている。何を触れても穢れないような、美しい手。

 その手が、毒を入れた。

 薬湯の器は翡翠色で、夜目にもつやりと光っていた。湯気が立ち、薬草の苦い匂いがかすかに漂っている。その中に、白い粉は音もなく沈んだ。

 玉蘭妃は、しばらく器を見つめていた。

 まるで月でも眺めているような、静かな顔だった。

「……静寧様」

 玉蘭妃は小さく呟いた。

 皇后様の名だった。

「お許しくださいませ。私、もう戻れませんの」

 その声は泣いているようにも聞こえた。

 でも、泣いてはいなかった。

 玉蘭妃は微笑んでいた。

 私は柱の陰で息を殺した。両腕に抱えた寝衣がずり落ちそうになり、慌てて指に力を込める。指先が冷たい。喉が乾く。胸の奥で心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。

 逃げなければ。

 今すぐ逃げなければ。

 けれど、足が動かなかった。

 玉蘭妃は器のふちを白い布で軽く拭い、何事もなかったように机へ置いた。そこへ、皇后様付きの女官が近づいてくる足音がした。

「玉蘭妃様。このような夜更けに、いかがなさいましたか」

 女官の声は少し硬かった。

 皇后様付きの者たちは、玉蘭妃をあまり好いていない。皇帝陛下の寵愛を一身に受ける女。病弱で、儚げで、守られることに慣れた女。後宮の誰もが彼女を美しいと言い、同時に恐れていた。

 玉蘭妃はゆっくり振り返った。

「皇后様のお加減が心配で。眠れませんでしたの」

「それは……恐れ入ります。ですが、皇后様はお休みになられるところです」

「ええ。だから薬湯だけでもと思って。明霞に頼まれていましたのよ」

 その名を聞いた瞬間、私の指が強張った。

 明霞姉様。

 私を妹のように扱ってくれる、ただ一人の上級女官。後宮に売られて右も左も分からなかった私に、最初に粥を分けてくれた人。

 玉蘭妃の口から、その名が出た。

 女官は一瞬迷ったようだった。けれど、玉蘭妃はもう一度、柔らかく微笑んだ。

「ねえ、皇后様を待たせてはお悪いでしょう?」

「……承知いたしました」

 女官は器を受け取り、奥の寝殿へ入っていった。

 私は、まだ動けなかった。

 玉蘭妃はしばらくその扉を見ていた。白い横顔は、灯籠の明かりに照らされて淡く輝いている。美しい人だった。

 誰かを殺す人間が、こんなに美しくていいのだろうか。

 そう思った時だった。

「そこにいるのは、誰?」

 心臓が止まった。

 玉蘭妃の声は、先ほどと同じように柔らかかった。怒っていない。慌ててもいない。ただ、春の花を見つけたみたいに、静かに問いかけている。

 私は息を止めた。

 沈黙が落ちた。

 遠くで、夜番の銅鑼が鳴った。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 玉蘭妃が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。

 衣擦れの音がした。香が濃くなる。沈丁花ではない。玉蘭妃の香だ。甘く、冷たく、どこか喉の奥に引っかかる匂い。

 私は柱の陰から出られなかった。足が震えている。見つかったら終わりだ。声を上げても誰も信じない。私は下級宮女で、相手は皇帝陛下の寵妃。月と泥ほどの違いがある。

 その時、背後から強い手が私の口を塞いだ。

「っ……!」

「動くな」

 耳元で低い声がした。

 男の声。

 私は暴れかけたが、その手は口を塞いだまま、私の体を柱のさらに奥、暗い物置の扉の隙間へ押し込んだ。

 古い木箱と掃除布の匂いがした。

 隙間から、玉蘭妃の裾が見えた。白と紅の裾。金糸の刺繍。蓮の花。

「……気のせいかしら」

 玉蘭妃は呟いた。

 すぐ近くにいる。

 私の口を塞ぐ手に、少しだけ力がこもった。苦しい。けれど声は出ない。

「おかしいわね。今、鼠の気配がしたのだけれど」

 鼠。

 後宮で下級宮女を馬鹿にする時によく使われる言葉だ。

 美しい妃様方の足元を走り回り、床の埃を舐め、時々踏み潰されるもの。

 玉蘭妃はくすりと笑った。

「まあいいわ。鼠は鼠らしく、壁の穴に戻ればいいのですもの」

 足音が遠ざかっていく。

 香も遠ざかる。

 私はその場に崩れ落ちそうになったが、背後の男が腕で支えていた。

 しばらくして、男は私の口から手を離した。

「声を出すな」

 私は何度も頷いた。

 暗がりに目が慣れてくると、私を押さえていた男の輪郭が見えた。

 黒い衣。細い顎。長い睫毛。冷たい目。

 宦官だった。

 後宮に出入りする男は、皇帝陛下を除けば宦官だけだ。私は一度だけ、この人を遠くから見たことがある。確か、内侍省に所属する若い宦官。名は――。

「黎星、様……?」

 私が囁くと、男は片眉をわずかに上げた。

「下級宮女にしては、よく人の名を覚えている」

「申し訳、ございません」

「謝れとは言っていない」

 黎星様は扉の隙間から外を確認した。薄い月明かりが横顔をなぞる。宦官にしては妙に威がある人だと思った。言葉少なで、表情がない。けれど、こちらを見る目だけは刃物のように鋭い。

「今、何を見た」

 私は唇を噛んだ。

 答えてはいけない。

 でも、黙っていてもいけない。

 今なら言えるかもしれない。この人なら、上へ伝えてくれるかもしれない。皇后様を助けられるかもしれない。

 私は震える声で言った。

「玉蘭妃様が……皇后様の薬湯に、白い粉を」

 そこまで言ったところで、黎星様の目が細くなった。

「最後まで言うな」

「でも、皇后様が……!」

「もう遅い」

 その言葉に、胸の奥が冷たくなった。

「遅い、とは」

「お前が見た薬湯は、もう皇后の寝殿に入った。今ここで騒げば、騒いだ者から殺される」

「そんな……」

「後宮とはそういう場所だ」

 冷たい言い方だった。

 けれど、その冷たさが嘘ではないことくらい、私にも分かった。

 後宮で真実は命を助けない。

 むしろ、命を奪う。

「名前は」

「……鈴花です。洗衣局の下級宮女です」

「鈴花」

 黎星様は、私の名を一度だけ口の中で転がすように呼んだ。

 その瞬間、妙な気持ちになった。

 後宮で私の名をきちんと呼ぶ人は少ない。たいていは「そこの者」「洗衣の子」「鼠」「あの地味な子」だ。名前を呼ばれるだけで、足元が急に頼りなくなる。

「今夜のことは忘れろ」

 私は目を見開いた。

「忘れろ、ですか」

「忘れたふりをしろ。できるか」

「……できません」

「なら死ぬ」

「でも、皇后様が」

「皇后を助けたいなら、なおさら黙れ」

 意味が分からなかった。

 私が黙れば、皇后様は死ぬかもしれない。もう死んでいるかもしれない。それなのに、どうして黙ることが助けになるのか。

 黎星様は、私の混乱を読んだように言った。

「毒を入れるところを見た。そう証言して、お前の言葉を誰が信じる。玉蘭妃は皇帝の寵妃だ。お前は洗衣局の下級宮女。証拠はない。器は洗われる。粉は消える。見ていたお前だけが消される」

「でも……」

「正しさだけで人が救えるなら、後宮に死体は出ない」

 私は言い返せなかった。

 黎星様は私の腕を掴んだ。

「今すぐ洗衣局へ戻れ。誰にも会うな。誰にも話すな。明日の朝、何が起きても、お前は驚くな」

「明日の朝……?」

 黎星様は答えなかった。

 その代わり、戸を少し開け、外に誰もいないことを確認すると、私を回廊へ押し出した。

「走るな。歩け」

「はい」

「振り返るな」

「はい」

「鈴花」

 私は足を止めた。

 振り返るなと言われたのに、振り返りそうになる。

 黎星様の声は低かった。

「生きたければ、今夜見たものを目の奥に隠せ。口に出せば、その口ごと潰される」

 私は、返事ができなかった。

 ただ、抱えていた寝衣を胸に押し当て、歩いた。

 走ってはいけない。

 振り返ってはいけない。

 声を出してはいけない。

 けれど、頭の中では、玉蘭妃の白い指が何度も薬湯に粉を落としていた。

 沈む。

 溶ける。

 消える。

 まるで人の命みたいに。

     ◇

 洗衣局に戻ると、夜番の蘭々が釜のそばでうたた寝していた。

 丸い頬に煤がついている。歳は私より一つ下で、よく食べ、よく怒り、よく泣く子だ。後宮では珍しいほど顔に感情が出る。だから私は、少し心配している。

 ここで長く生きるには、感情は邪魔になるから。

「……鈴花?」

 蘭々が目をこすりながら顔を上げた。

「あんた、遅かったじゃない。白玉宮まで行くだけで、なんでそんなに時間かかってんの」

「ごめん。回廊で夜番に止められて」

「また? あいつら本当、下級宮女相手だと偉そうにするんだから。で、寝衣は?」

「ここに」

 私は抱えていた寝衣を棚に置いた。手が震えていたので、布が少し崩れた。

 蘭々が怪訝そうに目を細める。

「ねえ、顔色悪くない?」

「平気」

「平気な顔じゃないって。何かあった?」

 何かあった。

 皇后様が殺されるかもしれない。

 玉蘭妃様が毒を盛った。

 私は見た。

 言いたかった。

 喉まで出かかった。

 でも、黎星様の声が耳の奥で響いた。

 口に出せば、その口ごと潰される。

「……少し、寒かっただけ」

 私は笑おうとした。うまく笑えたかは分からない。

 蘭々は納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。

「なら火のそばにいなよ。明霞様が来たら、また怒られるよ。あんた、すぐ自分の具合隠すんだから」

 明霞姉様。

 名前を聞いた瞬間、胸が軋んだ。

「明霞姉様、来るの?」

「来るって言ってたよ。皇后様の寝衣の仕上がりを見に。あの人、上級女官なのにいちいち自分で見に来るんだから、真面目だよねえ」

 蘭々は欠伸をした。

「でもさ、私は好きだな。あの人、下級にもちゃんと人間扱いしてくれるし。玉蘭妃付きの女官なんて、こっち見もしないじゃん。前に洗い直し命じられた時、私のこと『小さい方の鼠』って呼んだんだよ。鼠にも名前くらいあるっての」

 私は返事ができなかった。

 明霞姉様が来る。

 玉蘭妃はさっき、明霞に頼まれたと言った。

 違う。

 そんなはずがない。

 明霞姉様が皇后様の薬湯を、玉蘭妃に頼むはずがない。

 でも、もし。

 もし玉蘭妃が、最初から明霞姉様の名前を使うつもりだったのなら。

「鈴花?」

 蘭々が覗き込んできた。

「本当に大丈夫?」

「大丈夫」

「嘘。あんた、そういう時ほど大丈夫って言う」

「蘭々」

「何」

「今夜、私が何か変なことを言っても、聞かなかったことにして」

 蘭々の目が丸くなった。

「は?」

「お願い」

「何それ。怖いんだけど」

「お願い」

 私があまりに真剣だったからか、蘭々は口を閉じた。しばらく見つめてから、ぷいっと横を向く。

「……あんたって、ほんと秘密が下手」

「ごめん」

「秘密にしたいなら、もっと普通の顔しなよ。死人みたいな顔して『何もありません』は無理があるって」

 死人。

 その言葉に背中が冷えた。

 私は火のそばに座った。濡れた薪がぱちりと音を立てる。湯気と煙の匂い。洗衣局の夜はいつも同じ匂いがする。布と灰と湿った木。後宮の一番底の匂い。

 妃様方の宮では、香が焚かれ、銀の器が並び、絹が擦れる音がする。

 けれど、その美しい場所で毒が入れられた。

 ここは汚れているけれど、まだ生きている匂いがする。

 私は両手を火にかざした。指先の震えが止まらない。

 しばらくして、戸が開いた。

「鈴花」

 優しい声だった。

 明霞姉様が立っていた。

 淡い緑の上衣に、皇后宮の女官がつける銀の帯飾り。きつく結い上げた髪。疲れているのに、いつも背筋が伸びている。

 明霞姉様は私の顔を見るなり、眉をひそめた。

「どうしたの、その顔」

 蘭々がすぐに口を挟んだ。

「ですよね。変ですよね。私が聞いても寒かっただけとか言うんです」

「蘭々、少し席を外して」

「え、でも」

「お願い」

 明霞姉様の声は柔らかいのに、逆らえない力があった。蘭々は不満そうに唇を尖らせたが、桶を持って奥へ引っ込んだ。

 二人きりになった。

 明霞姉様は私の前に膝をついた。

「何を見たの」

 息が止まった。

「どうして……」

「あなたは嘘をつく時、右手の親指を握り込むの。昔から」

 私は自分の手を見た。確かに、親指が掌に食い込んでいた。

 明霞姉様は小さく息を吐いた。

「鈴花。大事なことなら、私にだけ言いなさい。誰にも聞かせてはいけないことなら、なおさら」

「……言ったら、姉様が危ないかもしれません」

「もう危ないところにいるわ。皇后宮に仕えている時点で、今さらよ」

 明霞姉様は冗談めかして笑った。

 その笑顔を見て、私は泣きそうになった。

 言ってはいけない。

 でも、言わなければ。

 明霞姉様なら信じてくれる。明霞姉様なら、皇后様を救えるかもしれない。

 私は声を絞り出した。

「玉蘭妃様が……皇后様の薬湯に、何かを入れました」

 明霞姉様の表情が消えた。

 驚きではなかった。

 恐怖でもなかった。

 それは、ずっと恐れていたものがとうとう来た、という顔だった。

「……見たのね」

「はい」

「誰かに話した?」

「いいえ。黎星様にだけ」

「黎星に?」

 明霞姉様の声が、ほんの少し鋭くなった。

「なぜ黎星がそこにいたの」

「分かりません。私を隠してくれて……黙れ、と」

「そう」

 明霞姉様は目を伏せた。

 私は急いで言った。

「皇后様は? 今ならまだ、薬湯を止められるかもしれません。器を調べれば、毒が」

「鈴花」

 名前を呼ばれた。

 私は黙った。

 明霞姉様は、ひどく悲しい顔で私を見ていた。

「今から白玉宮へ行ってはいけない」

「でも」

「行ってはいけない」

「どうしてですか!」

 思わず声が大きくなった。

 奥で蘭々が動く気配がしたが、こちらへは来なかった。

 明霞姉様は私の両肩を掴んだ。

「あなたが行けば、あなたが犯人にされる」

「私は何もしていません!」

「していない者が罪人にされる場所なの。ここは」

 私は言葉を失った。

 明霞姉様の指が震えていた。

「玉蘭妃は、もう動いている。あなたが見たなら、あちらも気づいているかもしれない。そうなれば、証人を消すより簡単な方法を取る」

「簡単な方法……?」

「証人を、犯人にする」

 寒気がした。

 玉蘭妃が言った。

 明霞に頼まれていた、と。

 あの場にいた女官は、その言葉を聞いている。

 もし皇后様が死ねば、薬湯を用意したのは誰かという話になる。

 玉蘭妃は言うだろう。

 明霞に頼まれたと。

「姉様……」

 明霞姉様は、私の肩から手を離した。そして袖の中から小さな簪を取り出した。

 古い簪だった。

 銀細工の蓮。花の中央に青い石がはめ込まれている。高価なものではないけれど、丁寧に磨かれていた。

「これを持っていて」

「これは?」

「今は聞かないで。肌身離さず持っていて。誰にも見せてはいけない。蘭々にも」

「どうして私に」

「あなたが、一番よく見ているから」

 意味が分からなかった。

 でも、明霞姉様の目があまりに真剣で、私は簪を受け取った。

 ひやりと冷たい。

「鈴花」

「はい」

「明日の朝、何が起きても、あなたは泣いてはいけない」

「……何が、起きるんですか」

 明霞姉様は答えなかった。

 ただ、私の頬に手を伸ばし、母親のようにそっと撫でた。

「あなたは賢い子よ。でも、賢い子ほど、自分の正しさで死にたがる。だから約束して。生きて。見たことを忘れないで。でも、今は言わないで」

「姉様」

「いつか言える時が来る。その時まで、目の奥に隠しなさい」

 黎星様と同じことを言った。

 目の奥に隠せ。

 私は首を振った。

「嫌です。姉様、どこへ行くんですか。今から白玉宮へ行くんでしょう? 駄目です。玉蘭妃様は姉様の名前を出しました。罠です。絶対に」

「分かっているわ」

「分かっているなら!」

「分かっていても、行かなければならない時があるの」

 明霞姉様は立ち上がった。

 その顔は、もういつもの上級女官の顔に戻っていた。背筋を伸ばし、乱れた袖を直し、帯飾りの位置を確かめる。

 私は慌ててその袖を掴んだ。

「行かないでください」

「鈴花」

「お願いです。姉様までいなくなったら、私……」

 声が震えた。

 後宮で泣くのは愚かだ。

 知っている。

 それでも、涙がこぼれそうだった。

 明霞姉様は困ったように笑った。

「あなた、そういうところは本当に子供ね」

「子供でいいです。だから行かないで」

「……ごめんね」

 その謝罪が、別れの言葉に聞こえた。

 明霞姉様は、私の指を一本ずつ袖から外した。

「鈴花。あなたは生きて。どれだけ惨めでも、どれだけ悔しくても、生きていれば見届けられる。死んだら、悔しいと思うことすらできない」

「姉様」

「それと」

 明霞姉様は、少しだけ目を伏せた。

「私を、信じすぎないで」

 私は瞬きをした。

「え?」

「優しい人間だけが、人を利用するのよ。覚えておきなさい」

 その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。

 明霞姉様はそれ以上何も言わず、洗衣局を出ていった。

 私は追いかけようとした。

 けれど、足が動かなかった。

 手の中には、冷たい簪が残っていた。

     ◇

 夜が明ける前、後宮の鐘が鳴った。

 それは朝を告げる鐘ではなかった。

 異変を告げる鐘だった。

 洗衣局にいた者たちは皆、顔を上げた。蘭々が桶を落とし、水が床に広がる。

「何……? 何の鐘?」

 誰も答えられなかった。

 やがて、外が騒がしくなった。女官たちの足音。宦官の怒鳴り声。誰かの泣き声。

 私は火の消えた釜の前に立ち尽くしていた。

 知っていた。

 それでも、知りたくなかった。

 戸が乱暴に開いた。

 入ってきたのは、玉蘭妃付きの上級女官だった。名は朱燕。細い目をした女で、いつも人を値踏みするように見る。

「洗衣局の者、全員その場を動かぬように」

 蘭々が震えながら尋ねた。

「何が、あったんですか」

 朱燕は冷たく答えた。

「皇后様が崩御された」

 誰かが悲鳴を上げた。

 私は、息を吸うことも吐くこともできなかった。

「そして、皇后様の薬湯に毒を盛った疑いで、皇后宮上級女官・明霞が捕らえられた」

 世界が、音を失った。

 蘭々が私を見た。

 私は何も言えなかった。

 朱燕の視線が、ゆっくりこちらへ向いた。

「鈴花」

 名前を呼ばれた。

 玉蘭妃でも、黎星様でも、明霞姉様でもない人に呼ばれた私の名は、まるで罪状のように聞こえた。

「玉蘭妃様がお呼びです」

 私は手の中の簪を、袖の奥に押し込んだ。

 朱燕は笑っていなかった。

 けれど、その目の奥には、もう結果を知っている者の冷たさがあった。

「行きなさい。寵妃様は、お前に聞きたいことがあるそうよ」

 蘭々が小さく私の袖を掴んだ。

「鈴花……」

 私は蘭々の手をそっと外した。

 泣いてはいけない。

 驚いてはいけない。

 叫んではいけない。

 明霞姉様はそう言った。

 私は下級宮女だ。

 誰にも名前を覚えられない、後宮の鼠だ。

 鼠は、恐ろしいものを見ても、鳴いてはいけない。鳴けば踏み潰される。

 だから私は、頭を下げた。

「承知いたしました」

 声は、思ったより落ち着いていた。

 自分でも驚くほどに。

 白玉宮へ向かう回廊は、昨夜と同じように沈丁花の香がした。

 けれど、夜が明けた後宮は、もう美しい花園ではなかった。

 皇后様は死んだ。

 明霞姉様は犯人にされた。

 玉蘭妃は、きっと微笑んでいる。

 そして私は、犯人を知っている。

 でも証拠はない。

 それでも、手の中には簪がある。

 冷たく、小さく、けれど確かに残されたもの。

 白玉宮の扉の前で、朱燕が足を止めた。

「粗相のないように。玉蘭妃様は、皇后様のことで大層お心を痛めておられる」

「……はい」

 扉が開いた。

 甘い香が流れてきた。

 その奥で、玉蘭妃が椅子に座っていた。白い衣。紅の帯。昨夜と同じ美しい指。目元は泣いたように赤く、頬は儚げに青ざめている。

 誰が見ても、悲しみに沈む寵妃だった。

 玉蘭妃は私を見ると、ゆっくり微笑んだ。

「来てくれたのね、鈴花」

 名前を知っていた。

 私は床に膝をついた。

「玉蘭妃様におかれましては、ご機嫌麗しゅう――」

「堅苦しい挨拶はいらないわ」

 玉蘭妃は手を伸ばし、机の上の菓子皿を指した。

 白い菓子だった。

 雪のように白く、粉砂糖がかかっている。

「お食べなさい。顔色が悪いわ」

 私はその菓子を見た。

 白い粉。

 薬湯に沈んだ白い粉。

 玉蘭妃は、優しく首を傾げた。

「どうしたの? まさか、私の差し上げるものが怖いの?」

 部屋の隅に朱燕がいる。

 扉の外には宦官がいる。

 逃げ場はない。

 私は菓子に手を伸ばした。

 指先が震えそうになるのを必死で押さえる。

 玉蘭妃が囁いた。

「賢い子は、長生きしたいでしょう?」

 昨夜のことを、気づいている。

 その瞬間、はっきり分かった。

 これは問いではない。

 脅しだ。

 私は菓子を口に入れた。

 甘かった。

 ひどく甘かった。

 喉の奥に、砂のような甘さが貼りつく。

 玉蘭妃は満足そうに微笑んだ。

「おいしい?」

「……はい。大変、おいしゅうございます」

「そう。よかった」

 玉蘭妃は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。そして、私の顎に指を添え、顔を上げさせた。

 近くで見る玉蘭妃は、本当に美しかった。

 睫毛の影まで美しい。

 人を殺した女だと知っていても、見惚れそうになるほどに。

「ねえ、鈴花」

「はい」

「昨夜、あなたは何も見なかった。そうでしょう?」

 私は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。

 皇后様の薬湯。

 白い粉。

 明霞姉様の簪。

 黎星様の声。

 生きろ、という言葉。

 目を開ける。

 私は下級宮女らしく、深く頭を下げた。

「はい。私は昨夜、何も見ておりません」

 玉蘭妃の指が、私の顎から離れた。

「いい子ね」

 その声は、母のように優しかった。

 だからこそ、吐き気がした。

「なら、明霞のことも忘れなさい。あの女は皇后様を裏切った罪人。あなたのような子が心を痛める相手ではないわ」

 胸の奥で、何かが焼けた。

 でも顔には出さなかった。

 私はただ、もう一度頭を下げた。

「承知いたしました」

 玉蘭妃は笑った。

「本当に賢い子」

 私は床に額を近づけながら、袖の奥の簪を握りしめた。

 賢い子は、長生きしたいでしょう。

 ええ、玉蘭妃様。

 私は長生きします。

 あなたが皇后様を殺した夜のことを、忘れないために。

 明霞姉様を罪人にしたこの後宮を、最後まで見届けるために。

 今はまだ、私は鼠でいい。

 床を這い、埃をかぶり、誰にも見下される下級宮女でいい。

 けれど、鼠には鼠の見ている景色がある。

 妃様方の裾の汚れ。

 床に落ちた粉。

 誰かが隠した足跡。

 美しい香の奥に混ざる、腐った匂い。

 私はそれを、全部覚えている。

 玉蘭妃様。

 あなたが私にくれたこの甘い菓子の味も。

 私は、死ぬまで忘れない。

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第一話 皇后を殺したのは寵妃様でした
皇后様を殺したのは、玉蘭妃だった。 それを知っているのは、たぶん私だけだ。 月の細い夜だった。 白玉宮の回廊には、沈丁花の香が濃く漂っていた。雨上がりの石畳は黒く濡れていて、灯籠の火がその上にぼんやり揺れている。赤い柱も、金の欄干も、夜になると血を吸ったような色に沈む。 私は洗い終えた寝衣を抱え、誰にも見つからないよう壁際を歩いていた。 下級宮女は、音を立ててはいけない。 目立ってもいけない。 妃様方の顔を見上げてもいけない。 命じられる前に動き、褒められる前に消える。 それが、後宮で長く生きるための作法だった。 だから私は、見てしまった後も、声を出せなかった。 玉蘭妃が、皇后様の薬湯に、小さな白い粉を落とした瞬間を。 白い指だった。 雪のように白く、細く、爪の先だけが薄紅に染まっている。何を触れても穢れないような、美しい手。 その手が、毒を入れた。 薬湯の器は翡翠色で、夜目にもつやりと光っていた。湯気が立ち、薬草の苦い匂いがかすかに漂っている。その中に、白い粉は音もなく沈んだ。 玉蘭妃は、しばらく器を見つめていた。 まるで月でも眺めているような、静かな顔だった。「……静寧様」 玉蘭妃は小さく呟いた。 皇后様の名だった。「お許しくださいませ。私、もう戻れませんの」 その声は泣いているようにも聞こえた。 でも、泣いてはいなかった。 玉蘭妃は微笑んでいた。 私は柱の陰で息を殺した。両腕に抱えた寝衣がずり落ちそうになり、慌てて指に力を込める。指先が冷たい。喉が乾く。胸の奥で心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。 逃げなければ。 今すぐ逃げなければ。 けれど、足が動かなかった。 玉蘭妃は器のふちを白い布で軽く拭い、何事もなかったように机へ置いた。そこへ、皇后様付きの女官が近づいてくる足音がした。「玉蘭妃様。このような夜更けに、いかがなさいましたか」 女官の声は少し硬かった。 皇后様付きの者たちは、玉蘭妃をあまり好いていない。皇帝陛下の寵愛を一身に受ける女。病弱で、儚げで、守られることに慣れた女。後宮の誰もが彼女を美しいと言い、同時に恐れていた。 玉蘭妃はゆっくり振り返った。「皇后様のお加減が心配で。眠れませんでしたの」「それは……恐れ入ります。ですが、皇后様はお休みになられるところです」「ええ。だか
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第二話 姉様が犯人にされました
玉蘭妃様の部屋を出た時、私はまだ菓子の甘さを舌の奥に感じていた。  砂糖の甘さではない。  もっと重く、濁って、喉に貼りつくような甘さだった。  毒は入っていなかった。  少なくとも、その場で倒れるような毒ではなかった。けれど、あの菓子は毒よりもよほど恐ろしかった。玉蘭妃様は、私に食べさせたかったのだ。  自分が差し出すものを拒めない立場なのだと、教えるために。  私が何を見たとしても、私の口も、命も、あの白い指一本でどうにでもできるのだと。 「鈴花」  背後から朱燕の声がした。  私は足を止め、振り返って頭を下げた。 「はい」 「玉蘭妃様から菓子をいただけるなんて、光栄なことね」 「はい。身に余ることでございます」 「味はどうだった?」  細い目が、私の顔を舐めるように見ていた。  私は下級宮女らしく、少しだけ肩を縮めて答えた。 「とても甘く……私には、少し贅沢すぎるお味でした」  朱燕は口元だけで笑った。 「そう。口の利き方は悪くないわね」 「恐れ入ります」 「でも、賢ぶる子は嫌いよ」  心臓が跳ねた。  朱燕は私のそばへ歩み寄る。玉蘭妃様とは違う香がした。乾いた墨と、古い箱にしまった絹のような匂い。 「後宮で長生きする女は二種類。何も知らない女と、知っていて知らないふりができる女。あなたはどちらかしら」 「私は、何も知らない下級宮女でございます」 「なら結構」  朱燕は満足したように頷いた。 「白玉宮で見聞きしたことを洗衣局で話す必要はないわ。とくに、蘭々のような口の軽そうな子にはね」  蘭々の名を出されて、息が詰まった。  朱燕は気づいている。  私の弱いところを、もう見つけている。 「ご心配には及びません。蘭々は、ただの下級宮女です」 「あら」  朱燕は首を傾げた。 「だからこそよ。下級の者は、自分の言葉が誰かを殺すと知らない。井戸端の噂のつもりで火をつけて、燃えた屋敷を見て泣くの」 「……覚えておきます」 「ええ。覚えておきなさい」  朱燕は私の肩に手を置いた。  力は入っていない。  なのに、その手がひどく重く感じた。 「それから、明霞のことだけれど」  私は顔を上げそうになるのを必死に堪えた。 「かわいそうだと思う?」 「……私のような者が、上級女官様の罪につい
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第三話 母は私を二度売った
一本、足りない。  朱燕の声が、暗い庫の中に落ちた。  棚の陰で息を殺していた私は、黎星様の手に口を塞がれたまま、動けなかった。  庫の中は狭い。  乾いた薬草、古い木箱、銀器を包む油紙の匂い。その隙間に、朱燕の衣から漂う墨のような香と、母の体に染みついた外の町の匂いが混じっていた。  母は、後宮の人間ではない。  少なくとも、私が売られた時はそうだった。  粗末な家で、針仕事と洗い物をして暮らしていた女。冬になると指先を割り、春になると私の髪を雑に結い、夏になると汗を拭いながら「女は美しいうちに売り時が来る」と笑った女。  その人が、今、朱燕の後ろに立っている。  白玉宮側の人間として。 「一本、足りないわね」  朱燕はもう一度言った。  棚の上には、磨かれた銀匙が一本だけ残っていた。  黒ずみのある方は、黎星様の懐にある。  私が皇后様のものだと見分けた、あの銀匙。  それを朱燕たちは消しに来た。  私たちは、ほんの少しだけ早かった。  けれど、その少しが今、命取りになりかけている。  母は灯りを掲げ、棚に顔を近づけた。 「おかしいですねえ。さっきまで二本あったんでしょう?」 「ええ」 「なら、誰かが持っていったんですよ。鼠が」  母の声は、妙に楽しそうだった。  昔からそうだった。  誰かの不幸を直接喜ぶ女ではない。ただ、自分に少しでも得があるなら、人が転ぶのを見て「まあ仕方ないね」と言える女だった。  朱燕が床へ目を落とした。 「足跡は?」 「ございますかねえ」  母が腰をかがめた。  やめて。  こっちを見ないで。  心の中でそう叫んだ。  棚の陰には、薄い埃が積もっている。私たちは気をつけて歩いたつもりだったけれど、完全に跡を消せたわけではない。  母は灯りを低くし、床を覗き込んだ。 「ああ、やっぱり」  背中が凍った。 「ここ、埃が擦れてますよ」  朱燕がこちらへ一歩近づく。  黎星様の手に力がこもった。  もし見つかったら、どうなる。  私だけではない。  黎星様もただでは済まない。  いや、この人なら逃げられるのかもしれない。けれど私は無理だ。下級宮女が、証拠品の保管庫で、皇后様の銀匙を盗もうとしていた。そう言われたら終わりだ。  明霞姉様と同じように、罪人にさ
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第四話 寵妃様から届いたもの
明霞姉様が処刑された朝、後宮は泣いた。  少なくとも、形の上では。  白い袖で目元を押さえる妃。  香炉の前で祈る女官。  小声で経を唱える宦官。  廊下の隅で肩を震わせる下級宮女。  誰もが皇后様の死を悼み、罪人となった明霞姉様を恐れ、後宮に満ちた不穏な空気に怯えていた。  けれど、私には、その涙が全部同じには見えなかった。  本当に泣いている人。  泣くべきだと思って泣いている人。  泣いているふりをしながら、隣の女の顔色を窺っている人。  そして、涙の下で笑っている人。  後宮は、悲しみさえ序列で飾る。  皇后様のために泣く者より、玉蘭妃様のために泣く者の方が多いように見えたのは、私の目が歪んでしまったからだろうか。  いいえ。  たぶん違う。  この後宮では、死んだ皇后様より、生きている寵妃様の方が怖いのだ。 「鈴花、手が止まってる」  蘭々の声で、私ははっとした。  洗衣局には、今日も布が山のように積まれている。皇后様の喪布、妃様方の白衣、宦官たちの喪帯、女官たちの袖布。白ばかりが並ぶと、かえって目が痛い。  私は畳みかけていた布に視線を落とした。 「ごめん」 「謝らなくていいから、座りなよ。あんた、朝からずっと立ちっぱなしじゃん」 「仕事がある」 「仕事はあるよ。山ほどあるよ。だけど、あんたが倒れたら私が余計に働く羽目になるんだけど?」  蘭々はわざと乱暴に言った。  そういう言い方をしないと、私が休まないと分かっているのだ。 「それは困るね」 「でしょ。困るでしょ。私、手際いいように見えて、実は雑だから。あんたがいないと布の角が揃わない」 「それ、自分で言うこと?」 「自分で分かってる欠点は半分くらい長所って、前に明霞様が……」  蘭々はそこで言葉を止めた。  明霞姉様の名が出た瞬間、空気が変わった。  釜の湯気が白く上がる。  薪が爆ぜる。  遠くで誰かが桶を置く音がした。  蘭々は唇を噛んだ。 「ごめん」 「謝らないで」 「でも」 「明霞姉様のこと、話していい。忘れたみたいに黙る方が嫌」  私がそう言うと、蘭々は一度、泣きそうに顔を歪めた。  けれど、泣かなかった。  頑張っているのが分かった。 「あのさ」 「うん」 「私、あの時……処刑場で、明霞様がこっ
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第五話 偽りの懐妊
玉蘭妃様の懐妊が告げられた瞬間、後宮の喪は形を変えた。  皇后様を悼む白い布は、まだ柱に掛かっている。  明霞姉様の血が乾くより早く、女官たちは顔を上げ、妃様方は目の色を変え、宦官たちは走り出した。  悲しみは、権力の前では長持ちしない。  昨日まで皇后様の死を嘆いていた口が、今日は玉蘭妃様の御子の話をする。 「これで玉蘭妃様は安泰ね」 「皇子様なら、次の皇后はもう決まりでしょう」 「でも、皇后様が亡くなってすぐに懐妊発表なんて……」 「しっ。聞かれたらどうするの」 「陛下はさぞお喜びでしょうね」 「お喜びどころか、白玉宮へお渡りになったまま戻られないそうよ」  洗衣局にも、その噂は湯気より早く入り込んできた。  釜の前で布をすすぐ者。  喪衣を畳む者。  香移りを確かめる者。  誰もが手を動かしながら、耳だけは外へ向けている。  私は白玉宮から回ってきた喪衣を、まだ洗わずに分けて置いていた。  袖の内側にあった白い粉は、月琴の指でほとんど消された。  けれど完全には消えない。  目に見えるものは薄くなっても、匂いは残る。  甘く、苦く、喉に引っかかる匂い。  そして、あの懐妊発表。  明霞姉様の簪に隠されていた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。  玉蘭妃の懐妊、偽りの可能性高し。 「鈴花」  蘭々が隣へ寄ってきた。  周りをちらりと見てから、小声で囁く。 「ねえ、偽りの懐妊って、具体的にどうやって偽るの?」 「声が大きい」 「小さいよ。今のは蟻くらい小さい声だった」 「蟻は喋らない」 「じゃあ蚊」 「蚊も喋らない」 「もういいじゃん、たとえ話は!」  蘭々は唇を尖らせた。  こういう時でも、蘭々は蘭々だった。  それがありがたい。 「私も詳しくは知らない。でも、医官が証言すれば、後宮ではそれが事実になる」 「医官が嘘ついたら?」 「嘘でも事実になる」 「何それ。じゃあもう何でもありじゃん」 「そう。ここは何でもありなの」  私は喪衣の袖をそっと広げた。  玉蘭妃様のもの。  柔らかく、白く、軽く、けれど手に取るだけで胸が重くなる布。 「懐妊した妃様は、香を変えることがあるの。強い香は体に障るとされるから」 「でも玉蘭妃様、同じ香だよね」 「うん」 「食べ物も変わる?
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第六話 芋をくれた娘
蒸し芋は、まだ温かかった。  指先に残る熱が、妙に生々しい。  助けて、と爪で刻まれた文字は、けっして綺麗ではなかった。曲がって、ところどころ皮が破れ、最後の「て」は半分潰れている。  急いで刻んだのだ。  誰かに見つかる前に。  声を出せない場所から。 「小梅の字?」  蘭々が、芋を覗き込んだまま囁いた。 「分からない。芋の皮に刻んだ字では、筆跡までは」 「でも、芋だよ。小梅、よく芋くれた。自分の分を半分に割ってさ、『厨房の端っこで焦げたやつだから、妃様方には出せません』って笑って」  蘭々は唇を噛んだ。 「焦げてても甘かったんだよ。あの子、芋を蒸すのだけは上手だった」 「蘭々」 「分かってる。泣かない。怒鳴らない。釜の蓋も持たない」 「最後のはまだ言ってない」 「念のため」  私は油紙ごと芋を包み直した。  温かい。  つまり、これを置いた者は、ついさっきまで洗衣局の近くにいた。  小梅本人か。  小梅を知る誰かか。  あるいは、私たちを誘い出すための罠か。  後宮で「助けて」という言葉ほど危ない餌はない。  明霞姉様の声が蘇る。  優しい人間だけが、人を利用するのよ。  助けを求める者が本当にいるとしても、その声を利用する者もいる。 「まず、これを黎星様に」 「今から?」 「うん」 「私も行く」 「駄目」 「出た。鈴花の駄目」 「乾燥室へは一人で行く。蘭々はここにいて、誰が洗衣局の近くを通ったか思い出して」 「今夜?」 「鐘が鳴ってから今まで。白玉宮の楽の音が始まった頃、外に誰かいなかった?」  蘭々は腕を組み、真剣に考え込んだ。 「ええと……楽の音がして、みんなが何事かって外を見て、私は粥を温め直してて、そしたら厨房の下働きが二人、桶を返しに来た」 「名前は?」 「一人は阿翠。もう一人は知らない子。顔を布で隠してた。風邪だって」 「顔を布で」 「うん。でも、変だった」 「何が?」 「風邪なのに、咳をしてなかった。あと、歩き方が遅かった。足が悪いっていうより、お腹をかばってる感じ」  私は芋を握る手に力を込めた。 「その子、どこへ行った?」 「桶を置いて、すぐ戻った。阿翠が急かしてた」 「厨房の方向?」 「うん。でも白玉宮の厨房じゃなくて、薬膳方の方」  薬膳方。
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第七話 釜の蓋を持った友
蘭々は、釜の蓋を両手で構えていた。  木でできた重い蓋だ。  洗衣局の大釜に使うもので、湯気と灰と布の匂いが染みついている。武器としてはどう考えても不格好で、後宮の陰謀に持ち込むにはあまりにも生活感がありすぎた。  けれど、その場にいた誰よりも、蘭々は本気だった。 「小梅! 小梅なんでしょ!? そこにいるんでしょ!」  蘭々の声が、夜明け前の古い産屋に響いた。  中から、弱々しい声が返る。 「蘭々……? ほんとに、蘭々なの……?」  その声を聞いた瞬間、蘭々の顔がぐしゃりと崩れた。  怒りと涙が一緒になった顔だった。 「小梅! あんた、何やってんのよ! 芋なんか寄越して! 字、下手すぎ! 怖いじゃん! ちゃんと自分で来て言いなさいよ、馬鹿!」 「……ごめん」 「謝るな! 謝るくらいなら出てきなさい!」  蘭々は本当に産屋へ駆け込もうとした。  私は慌てて腕を掴んだ。 「蘭々、駄目!」 「離して! 中に小梅がいる!」 「分かってる。でも今飛び込んだら、あなたまで捕まる!」 「もう来ちゃったんだから同じでしょ!」 「同じじゃない!」  私は必死に声を抑えた。  周囲には朱燕、月琴、白玉宮側の宦官たちがいる。黎星様もいるが、今ここで正面から争えば、こちらも無事では済まない。  朱燕は冷ややかに私たちを見ていた。  月琴は、まだ頬を打った手を下ろしたまま笑っている。 「まあ、賑やかな鼠が増えたわね」  月琴が言った。 「洗衣局は、下級宮女に礼儀を教えないの?」  蘭々が噛みつくように睨んだ。 「礼儀? 人を閉じ込めておいて礼儀? 小梅に何したのよ!」 「小梅?」  月琴は首を傾げる。 「知らない名ね」
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第八話 寵妃様は腹を抱えて笑う
白玉宮の方角から鳴った鐘は、後宮の朝を裂いた。  急変を知らせる鐘。  病。  事故。  あるいは、身分の高い誰かが倒れた時に鳴らされる、あの嫌な音。  小梅は産屋の寝台で意識を失っている。  阿梨らしき娘は、衝立のそばで浅い息をしている。  春燕は、もう声を出せない。  その同じ時に、玉蘭妃様は腹痛を訴えた。  できすぎている。  あまりにも、できすぎている。  けれど後宮では、できすぎた嘘ほど美しく飾られる。 「玉蘭妃様の御身に障りがあってはなりません!」  朱燕が叫んだ。  その顔には、ほんの少し前までの焦りが消えていた。代わりに浮かんでいるのは、勝機を見つけた者の冷たさだ。  彼女は私を指したまま、さらに声を張った。 「この下級宮女が毒草を持ち込み、玉蘭妃様の御子を害そうとしたのです! その証拠に、毒草はこの者の足元から見つかりました!」 「嘘だ!」  蘭々が釜の蓋を握り締めて叫んだ。 「それ、月琴様が持ってたやつでしょ! 鈴花は触ってない! 月琴様の爪に粉がついてた! 私も見た!」  月琴は、まったく慌てなかった。  ただ、白い指をそっと袖の中へ隠した。 「怖いわ。下級宮女というのは、罪を逃れるためなら何でも言うのね」 「何でも言ってるのはそっちでしょ!」 「蘭々」  私は彼女の袖を引いた。  蘭々は歯を食いしばりながら、私の隣に立った。  釜の蓋はまだ持っている。  正直、今すぐ手放してほしかった。けれど、もう注意する余裕もない。  蓮貴妃様は産屋の中を一度見渡し、それから朱燕を見た。 「朱燕。玉蘭の腹痛と、この場の女たち。どちらも医官が必要ね」 「玉蘭妃様のお命が先でございます」
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第九話 母の値段
 母は、両腕を宦官に押さえられて白玉宮へ連れてこられた。  髪は乱れていた。  昨日、私の前に現れた時は、誰かに綺麗に結ってもらっていた髪。白玉宮の香をまとい、泣けばまだ母親に見えるよう整えられていた髪。  今は違う。  簪は傾き、数本の白髪が頬に貼りつき、衣の裾には土がついていた。  それでも母は、部屋に入るなり泣いた。  見事な泣き方だった。 「陛下、どうか、どうかお慈悲を……!」  床に崩れ落ち、額を擦りつける。  押さえていた宦官が手を離すと、母は這うように前へ出た。 「私はただ、娘を案じていただけでございます。後宮で何が起きているのかも知らず、ただ、鈴花が危ない目に遭っていると聞いて……母として、じっとしていられず……!」  嘘。  嘘なのに、胸が痛んだ。  母の泣き声は、昔から私の弱いところに届く。  幼い頃、母が咳をすれば、私は夜中でも水を汲みに行った。母が「寒い」と言えば、自分の薄い布団を渡した。母が「お前だけが頼りだよ」と言えば、嬉しくて、苦しくて、もっと役に立たなければと思った。  その声が、今も私の体のどこかを揺らす。  嫌になる。  もう分かっているのに。  この人は、私を売った。  一度目は後宮に。  二度目は白玉宮に。  それなのに、まだ母の泣き声は痛い。 「顔を上げよ」  皇帝陛下が言った。  母は恐る恐る顔を上げた。  涙で濡れた顔。  哀れな母親の顔。  母は私を見ると、さらに顔を歪めた。 「鈴花……あんた、どうしてこんなことに……母さんは、母さんはあんたを助けたかっただけなのに……」  蘭々が後ろで小さく息を吸った。  釜の蓋を抱えたまま、今にも何か言いそうな顔をしている。  私は目だけで止めた。  蘭々は唇を噛み、黙った。  偉い。  本当に偉い。  黎星様は、母の前に布包みを置いた。  その中には、偽の喪衣に使われた白布の端切れ、毒草を包んでいた油紙と同じもの、そして銀子があった。  銀子は五枚。  下級宮女一人を黙らせるには十分な額。  母が私を後宮に売った時の金より、多いのだろうか。  そんなことを考えてしまい、吐き気がした。  黎星様が淡々と言う。 「こ
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第十話 皇弟殿下の嘘
白い煙の中で、私は黎星様の袖に口元を押さえられていた。 甘く、苦く、喉を焼く匂い。 目の奥が痛い。 涙が勝手に滲む。 けれど、それは悲しみの涙ではなかった。毒を含んだ煙が粘膜を刺し、体が勝手に逃げようとしているだけだ。 白玉宮は混乱していた。 女官たちの悲鳴。 水を求める声。 咳き込む音。 誰かが倒れる音。 皇帝陛下が玉蘭妃様の名を呼ぶ声。 そのすべてが、白い煙の中でぼやけて聞こえた。 私の耳には、玉蘭妃様の最後の言葉だけが残っている。 ――皇弟殿下。 黎星様が。 皇弟殿下。 宦官ではなく。 皇帝陛下の弟。 私は黎星様の腕を掴んだまま、声にならない声で尋ねた。「……どういう、ことですか」「話すな。吸い込む」「黎星様」「鈴花」 いつもより低い声だった。 叱る声ではない。 拒む声だった。「今は生きろ」 その言葉に、胸が詰まった。 またそれだ。 また、生きろ。 明霞姉様も、黎星様も、そう言う。 でも、生きろと言う人ほど、私に大事なことを隠す。 煙の中から、蘭々の声がした。「鈴花! 鈴花どこ!? 返事して! いや返事したら煙吸う!? どうすればいいの!?」 こんな時なのに、蘭々は蘭々だった。 私は咳き込みそうになるのを堪えながら、手を伸ばした。 黎星様が私の肩を支え、煙の薄い方へ進む。 その途中で、倒れかけていた女官を避け、床に落ちた香炉を蹴り飛ばした。 火の粉が散る。 白い粉を含んだ煙が、さらに低く床を這った。「水!」 蓮貴妃様の声がした。「香炉に直接かけては駄目! 布を濡らして覆いなさい! 馬鹿ね、煙を増やしてどうするの!」 こんな時でも、蓮貴妃様は怒鳴りながら冷静だった。 女官たちが慌てて濡れ布を運び、香炉にかぶせる。 少しずつ、煙が薄くなる。 視界の向こうに、蘭々が見えた。 釜の蓋はまだ持っている。 片手で口を押さえ、もう片方で釜の蓋を盾のように構えている。後宮のどんな武人より場違いで、けれど妙に頼もしかった。「鈴花!」 蘭々が私に駆け寄ろうとする。 だが、その前に咳き込んで膝をついた。「蘭々!」「だ、大丈夫! ちょっと吸っただけ! この煙、最悪! 玉蘭妃様って香の趣味悪すぎ!」「声を抑えて」「抑えてる!」「抑えられてない」「こんな時に冷静に突っ込まな
last updateLast Updated : 2026-08-22
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