皇后様を殺したのは、玉蘭妃だった。
それを知っているのは、たぶん私だけだ。
月の細い夜だった。
白玉宮の回廊には、沈丁花の香が濃く漂っていた。雨上がりの石畳は黒く濡れていて、灯籠の火がその上にぼんやり揺れている。赤い柱も、金の欄干も、夜になると血を吸ったような色に沈む。
私は洗い終えた寝衣を抱え、誰にも見つからないよう壁際を歩いていた。
下級宮女は、音を立ててはいけない。
目立ってもいけない。
妃様方の顔を見上げてもいけない。
命じられる前に動き、褒められる前に消える。
それが、後宮で長く生きるための作法だった。
だから私は、見てしまった後も、声を出せなかった。
玉蘭妃が、皇后様の薬湯に、小さな白い粉を落とした瞬間を。
白い指だった。
雪のように白く、細く、爪の先だけが薄紅に染まっている。何を触れても穢れないような、美しい手。
その手が、毒を入れた。
薬湯の器は翡翠色で、夜目にもつやりと光っていた。湯気が立ち、薬草の苦い匂いがかすかに漂っている。その中に、白い粉は音もなく沈んだ。
玉蘭妃は、しばらく器を見つめていた。
まるで月でも眺めているような、静かな顔だった。
「……静寧様」
玉蘭妃は小さく呟いた。
皇后様の名だった。
「お許しくださいませ。私、もう戻れませんの」
その声は泣いているようにも聞こえた。
でも、泣いてはいなかった。
玉蘭妃は微笑んでいた。
私は柱の陰で息を殺した。両腕に抱えた寝衣がずり落ちそうになり、慌てて指に力を込める。指先が冷たい。喉が乾く。胸の奥で心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。
逃げなければ。
今すぐ逃げなければ。
けれど、足が動かなかった。
玉蘭妃は器のふちを白い布で軽く拭い、何事もなかったように机へ置いた。そこへ、皇后様付きの女官が近づいてくる足音がした。
「玉蘭妃様。このような夜更けに、いかがなさいましたか」
女官の声は少し硬かった。
皇后様付きの者たちは、玉蘭妃をあまり好いていない。皇帝陛下の寵愛を一身に受ける女。病弱で、儚げで、守られることに慣れた女。後宮の誰もが彼女を美しいと言い、同時に恐れていた。
玉蘭妃はゆっくり振り返った。
「皇后様のお加減が心配で。眠れませんでしたの」
「それは……恐れ入ります。ですが、皇后様はお休みになられるところです」
「ええ。だから薬湯だけでもと思って。明霞に頼まれていましたのよ」
その名を聞いた瞬間、私の指が強張った。
明霞姉様。
私を妹のように扱ってくれる、ただ一人の上級女官。後宮に売られて右も左も分からなかった私に、最初に粥を分けてくれた人。
玉蘭妃の口から、その名が出た。
女官は一瞬迷ったようだった。けれど、玉蘭妃はもう一度、柔らかく微笑んだ。
「ねえ、皇后様を待たせてはお悪いでしょう?」
「……承知いたしました」
女官は器を受け取り、奥の寝殿へ入っていった。
私は、まだ動けなかった。
玉蘭妃はしばらくその扉を見ていた。白い横顔は、灯籠の明かりに照らされて淡く輝いている。美しい人だった。
誰かを殺す人間が、こんなに美しくていいのだろうか。
そう思った時だった。
「そこにいるのは、誰?」
心臓が止まった。
玉蘭妃の声は、先ほどと同じように柔らかかった。怒っていない。慌ててもいない。ただ、春の花を見つけたみたいに、静かに問いかけている。
私は息を止めた。
沈黙が落ちた。
遠くで、夜番の銅鑼が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
玉蘭妃が、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
衣擦れの音がした。香が濃くなる。沈丁花ではない。玉蘭妃の香だ。甘く、冷たく、どこか喉の奥に引っかかる匂い。
私は柱の陰から出られなかった。足が震えている。見つかったら終わりだ。声を上げても誰も信じない。私は下級宮女で、相手は皇帝陛下の寵妃。月と泥ほどの違いがある。
その時、背後から強い手が私の口を塞いだ。
「っ……!」
「動くな」
耳元で低い声がした。
男の声。
私は暴れかけたが、その手は口を塞いだまま、私の体を柱のさらに奥、暗い物置の扉の隙間へ押し込んだ。
古い木箱と掃除布の匂いがした。
隙間から、玉蘭妃の裾が見えた。白と紅の裾。金糸の刺繍。蓮の花。
「……気のせいかしら」
玉蘭妃は呟いた。
すぐ近くにいる。
私の口を塞ぐ手に、少しだけ力がこもった。苦しい。けれど声は出ない。
「おかしいわね。今、鼠の気配がしたのだけれど」
鼠。
後宮で下級宮女を馬鹿にする時によく使われる言葉だ。
美しい妃様方の足元を走り回り、床の埃を舐め、時々踏み潰されるもの。
玉蘭妃はくすりと笑った。
「まあいいわ。鼠は鼠らしく、壁の穴に戻ればいいのですもの」
足音が遠ざかっていく。
香も遠ざかる。
私はその場に崩れ落ちそうになったが、背後の男が腕で支えていた。
しばらくして、男は私の口から手を離した。
「声を出すな」
私は何度も頷いた。
暗がりに目が慣れてくると、私を押さえていた男の輪郭が見えた。
黒い衣。細い顎。長い睫毛。冷たい目。
宦官だった。
後宮に出入りする男は、皇帝陛下を除けば宦官だけだ。私は一度だけ、この人を遠くから見たことがある。確か、内侍省に所属する若い宦官。名は――。
「黎星、様……?」
私が囁くと、男は片眉をわずかに上げた。
「下級宮女にしては、よく人の名を覚えている」
「申し訳、ございません」
「謝れとは言っていない」
黎星様は扉の隙間から外を確認した。薄い月明かりが横顔をなぞる。宦官にしては妙に威がある人だと思った。言葉少なで、表情がない。けれど、こちらを見る目だけは刃物のように鋭い。
「今、何を見た」
私は唇を噛んだ。
答えてはいけない。
でも、黙っていてもいけない。
今なら言えるかもしれない。この人なら、上へ伝えてくれるかもしれない。皇后様を助けられるかもしれない。
私は震える声で言った。
「玉蘭妃様が……皇后様の薬湯に、白い粉を」
そこまで言ったところで、黎星様の目が細くなった。
「最後まで言うな」
「でも、皇后様が……!」
「もう遅い」
その言葉に、胸の奥が冷たくなった。
「遅い、とは」
「お前が見た薬湯は、もう皇后の寝殿に入った。今ここで騒げば、騒いだ者から殺される」
「そんな……」
「後宮とはそういう場所だ」
冷たい言い方だった。
けれど、その冷たさが嘘ではないことくらい、私にも分かった。
後宮で真実は命を助けない。
むしろ、命を奪う。
「名前は」
「……鈴花です。洗衣局の下級宮女です」
「鈴花」
黎星様は、私の名を一度だけ口の中で転がすように呼んだ。
その瞬間、妙な気持ちになった。
後宮で私の名をきちんと呼ぶ人は少ない。たいていは「そこの者」「洗衣の子」「鼠」「あの地味な子」だ。名前を呼ばれるだけで、足元が急に頼りなくなる。
「今夜のことは忘れろ」
私は目を見開いた。
「忘れろ、ですか」
「忘れたふりをしろ。できるか」
「……できません」
「なら死ぬ」
「でも、皇后様が」
「皇后を助けたいなら、なおさら黙れ」
意味が分からなかった。
私が黙れば、皇后様は死ぬかもしれない。もう死んでいるかもしれない。それなのに、どうして黙ることが助けになるのか。
黎星様は、私の混乱を読んだように言った。
「毒を入れるところを見た。そう証言して、お前の言葉を誰が信じる。玉蘭妃は皇帝の寵妃だ。お前は洗衣局の下級宮女。証拠はない。器は洗われる。粉は消える。見ていたお前だけが消される」
「でも……」
「正しさだけで人が救えるなら、後宮に死体は出ない」
私は言い返せなかった。
黎星様は私の腕を掴んだ。
「今すぐ洗衣局へ戻れ。誰にも会うな。誰にも話すな。明日の朝、何が起きても、お前は驚くな」
「明日の朝……?」
黎星様は答えなかった。
その代わり、戸を少し開け、外に誰もいないことを確認すると、私を回廊へ押し出した。
「走るな。歩け」
「はい」
「振り返るな」
「はい」
「鈴花」
私は足を止めた。
振り返るなと言われたのに、振り返りそうになる。
黎星様の声は低かった。
「生きたければ、今夜見たものを目の奥に隠せ。口に出せば、その口ごと潰される」
私は、返事ができなかった。
ただ、抱えていた寝衣を胸に押し当て、歩いた。
走ってはいけない。
振り返ってはいけない。
声を出してはいけない。
けれど、頭の中では、玉蘭妃の白い指が何度も薬湯に粉を落としていた。
沈む。
溶ける。
消える。
まるで人の命みたいに。
◇
洗衣局に戻ると、夜番の蘭々が釜のそばでうたた寝していた。
丸い頬に煤がついている。歳は私より一つ下で、よく食べ、よく怒り、よく泣く子だ。後宮では珍しいほど顔に感情が出る。だから私は、少し心配している。
ここで長く生きるには、感情は邪魔になるから。
「……鈴花?」
蘭々が目をこすりながら顔を上げた。
「あんた、遅かったじゃない。白玉宮まで行くだけで、なんでそんなに時間かかってんの」
「ごめん。回廊で夜番に止められて」
「また? あいつら本当、下級宮女相手だと偉そうにするんだから。で、寝衣は?」
「ここに」
私は抱えていた寝衣を棚に置いた。手が震えていたので、布が少し崩れた。
蘭々が怪訝そうに目を細める。
「ねえ、顔色悪くない?」
「平気」
「平気な顔じゃないって。何かあった?」
何かあった。
皇后様が殺されるかもしれない。
玉蘭妃様が毒を盛った。
私は見た。
言いたかった。
喉まで出かかった。
でも、黎星様の声が耳の奥で響いた。
口に出せば、その口ごと潰される。
「……少し、寒かっただけ」
私は笑おうとした。うまく笑えたかは分からない。
蘭々は納得していない顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
「なら火のそばにいなよ。明霞様が来たら、また怒られるよ。あんた、すぐ自分の具合隠すんだから」
明霞姉様。
名前を聞いた瞬間、胸が軋んだ。
「明霞姉様、来るの?」
「来るって言ってたよ。皇后様の寝衣の仕上がりを見に。あの人、上級女官なのにいちいち自分で見に来るんだから、真面目だよねえ」
蘭々は欠伸をした。
「でもさ、私は好きだな。あの人、下級にもちゃんと人間扱いしてくれるし。玉蘭妃付きの女官なんて、こっち見もしないじゃん。前に洗い直し命じられた時、私のこと『小さい方の鼠』って呼んだんだよ。鼠にも名前くらいあるっての」
私は返事ができなかった。
明霞姉様が来る。
玉蘭妃はさっき、明霞に頼まれたと言った。
違う。
そんなはずがない。
明霞姉様が皇后様の薬湯を、玉蘭妃に頼むはずがない。
でも、もし。
もし玉蘭妃が、最初から明霞姉様の名前を使うつもりだったのなら。
「鈴花?」
蘭々が覗き込んできた。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「嘘。あんた、そういう時ほど大丈夫って言う」
「蘭々」
「何」
「今夜、私が何か変なことを言っても、聞かなかったことにして」
蘭々の目が丸くなった。
「は?」
「お願い」
「何それ。怖いんだけど」
「お願い」
私があまりに真剣だったからか、蘭々は口を閉じた。しばらく見つめてから、ぷいっと横を向く。
「……あんたって、ほんと秘密が下手」
「ごめん」
「秘密にしたいなら、もっと普通の顔しなよ。死人みたいな顔して『何もありません』は無理があるって」
死人。
その言葉に背中が冷えた。
私は火のそばに座った。濡れた薪がぱちりと音を立てる。湯気と煙の匂い。洗衣局の夜はいつも同じ匂いがする。布と灰と湿った木。後宮の一番底の匂い。
妃様方の宮では、香が焚かれ、銀の器が並び、絹が擦れる音がする。
けれど、その美しい場所で毒が入れられた。
ここは汚れているけれど、まだ生きている匂いがする。
私は両手を火にかざした。指先の震えが止まらない。
しばらくして、戸が開いた。
「鈴花」
優しい声だった。
明霞姉様が立っていた。
淡い緑の上衣に、皇后宮の女官がつける銀の帯飾り。きつく結い上げた髪。疲れているのに、いつも背筋が伸びている。
明霞姉様は私の顔を見るなり、眉をひそめた。
「どうしたの、その顔」
蘭々がすぐに口を挟んだ。
「ですよね。変ですよね。私が聞いても寒かっただけとか言うんです」
「蘭々、少し席を外して」
「え、でも」
「お願い」
明霞姉様の声は柔らかいのに、逆らえない力があった。蘭々は不満そうに唇を尖らせたが、桶を持って奥へ引っ込んだ。
二人きりになった。
明霞姉様は私の前に膝をついた。
「何を見たの」
息が止まった。
「どうして……」
「あなたは嘘をつく時、右手の親指を握り込むの。昔から」
私は自分の手を見た。確かに、親指が掌に食い込んでいた。
明霞姉様は小さく息を吐いた。
「鈴花。大事なことなら、私にだけ言いなさい。誰にも聞かせてはいけないことなら、なおさら」
「……言ったら、姉様が危ないかもしれません」
「もう危ないところにいるわ。皇后宮に仕えている時点で、今さらよ」
明霞姉様は冗談めかして笑った。
その笑顔を見て、私は泣きそうになった。
言ってはいけない。
でも、言わなければ。
明霞姉様なら信じてくれる。明霞姉様なら、皇后様を救えるかもしれない。
私は声を絞り出した。
「玉蘭妃様が……皇后様の薬湯に、何かを入れました」
明霞姉様の表情が消えた。
驚きではなかった。
恐怖でもなかった。
それは、ずっと恐れていたものがとうとう来た、という顔だった。
「……見たのね」
「はい」
「誰かに話した?」
「いいえ。黎星様にだけ」
「黎星に?」
明霞姉様の声が、ほんの少し鋭くなった。
「なぜ黎星がそこにいたの」
「分かりません。私を隠してくれて……黙れ、と」
「そう」
明霞姉様は目を伏せた。
私は急いで言った。
「皇后様は? 今ならまだ、薬湯を止められるかもしれません。器を調べれば、毒が」
「鈴花」
名前を呼ばれた。
私は黙った。
明霞姉様は、ひどく悲しい顔で私を見ていた。
「今から白玉宮へ行ってはいけない」
「でも」
「行ってはいけない」
「どうしてですか!」
思わず声が大きくなった。
奥で蘭々が動く気配がしたが、こちらへは来なかった。
明霞姉様は私の両肩を掴んだ。
「あなたが行けば、あなたが犯人にされる」
「私は何もしていません!」
「していない者が罪人にされる場所なの。ここは」
私は言葉を失った。
明霞姉様の指が震えていた。
「玉蘭妃は、もう動いている。あなたが見たなら、あちらも気づいているかもしれない。そうなれば、証人を消すより簡単な方法を取る」
「簡単な方法……?」
「証人を、犯人にする」
寒気がした。
玉蘭妃が言った。
明霞に頼まれていた、と。
あの場にいた女官は、その言葉を聞いている。
もし皇后様が死ねば、薬湯を用意したのは誰かという話になる。
玉蘭妃は言うだろう。
明霞に頼まれたと。
「姉様……」
明霞姉様は、私の肩から手を離した。そして袖の中から小さな簪を取り出した。
古い簪だった。
銀細工の蓮。花の中央に青い石がはめ込まれている。高価なものではないけれど、丁寧に磨かれていた。
「これを持っていて」
「これは?」
「今は聞かないで。肌身離さず持っていて。誰にも見せてはいけない。蘭々にも」
「どうして私に」
「あなたが、一番よく見ているから」
意味が分からなかった。
でも、明霞姉様の目があまりに真剣で、私は簪を受け取った。
ひやりと冷たい。
「鈴花」
「はい」
「明日の朝、何が起きても、あなたは泣いてはいけない」
「……何が、起きるんですか」
明霞姉様は答えなかった。
ただ、私の頬に手を伸ばし、母親のようにそっと撫でた。
「あなたは賢い子よ。でも、賢い子ほど、自分の正しさで死にたがる。だから約束して。生きて。見たことを忘れないで。でも、今は言わないで」
「姉様」
「いつか言える時が来る。その時まで、目の奥に隠しなさい」
黎星様と同じことを言った。
目の奥に隠せ。
私は首を振った。
「嫌です。姉様、どこへ行くんですか。今から白玉宮へ行くんでしょう? 駄目です。玉蘭妃様は姉様の名前を出しました。罠です。絶対に」
「分かっているわ」
「分かっているなら!」
「分かっていても、行かなければならない時があるの」
明霞姉様は立ち上がった。
その顔は、もういつもの上級女官の顔に戻っていた。背筋を伸ばし、乱れた袖を直し、帯飾りの位置を確かめる。
私は慌ててその袖を掴んだ。
「行かないでください」
「鈴花」
「お願いです。姉様までいなくなったら、私……」
声が震えた。
後宮で泣くのは愚かだ。
知っている。
それでも、涙がこぼれそうだった。
明霞姉様は困ったように笑った。
「あなた、そういうところは本当に子供ね」
「子供でいいです。だから行かないで」
「……ごめんね」
その謝罪が、別れの言葉に聞こえた。
明霞姉様は、私の指を一本ずつ袖から外した。
「鈴花。あなたは生きて。どれだけ惨めでも、どれだけ悔しくても、生きていれば見届けられる。死んだら、悔しいと思うことすらできない」
「姉様」
「それと」
明霞姉様は、少しだけ目を伏せた。
「私を、信じすぎないで」
私は瞬きをした。
「え?」
「優しい人間だけが、人を利用するのよ。覚えておきなさい」
その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。
明霞姉様はそれ以上何も言わず、洗衣局を出ていった。
私は追いかけようとした。
けれど、足が動かなかった。
手の中には、冷たい簪が残っていた。
◇
夜が明ける前、後宮の鐘が鳴った。
それは朝を告げる鐘ではなかった。
異変を告げる鐘だった。
洗衣局にいた者たちは皆、顔を上げた。蘭々が桶を落とし、水が床に広がる。
「何……? 何の鐘?」
誰も答えられなかった。
やがて、外が騒がしくなった。女官たちの足音。宦官の怒鳴り声。誰かの泣き声。
私は火の消えた釜の前に立ち尽くしていた。
知っていた。
それでも、知りたくなかった。
戸が乱暴に開いた。
入ってきたのは、玉蘭妃付きの上級女官だった。名は朱燕。細い目をした女で、いつも人を値踏みするように見る。
「洗衣局の者、全員その場を動かぬように」
蘭々が震えながら尋ねた。
「何が、あったんですか」
朱燕は冷たく答えた。
「皇后様が崩御された」
誰かが悲鳴を上げた。
私は、息を吸うことも吐くこともできなかった。
「そして、皇后様の薬湯に毒を盛った疑いで、皇后宮上級女官・明霞が捕らえられた」
世界が、音を失った。
蘭々が私を見た。
私は何も言えなかった。
朱燕の視線が、ゆっくりこちらへ向いた。
「鈴花」
名前を呼ばれた。
玉蘭妃でも、黎星様でも、明霞姉様でもない人に呼ばれた私の名は、まるで罪状のように聞こえた。
「玉蘭妃様がお呼びです」
私は手の中の簪を、袖の奥に押し込んだ。
朱燕は笑っていなかった。
けれど、その目の奥には、もう結果を知っている者の冷たさがあった。
「行きなさい。寵妃様は、お前に聞きたいことがあるそうよ」
蘭々が小さく私の袖を掴んだ。
「鈴花……」
私は蘭々の手をそっと外した。
泣いてはいけない。
驚いてはいけない。
叫んではいけない。
明霞姉様はそう言った。
私は下級宮女だ。
誰にも名前を覚えられない、後宮の鼠だ。
鼠は、恐ろしいものを見ても、鳴いてはいけない。鳴けば踏み潰される。
だから私は、頭を下げた。
「承知いたしました」
声は、思ったより落ち着いていた。
自分でも驚くほどに。
白玉宮へ向かう回廊は、昨夜と同じように沈丁花の香がした。
けれど、夜が明けた後宮は、もう美しい花園ではなかった。
皇后様は死んだ。
明霞姉様は犯人にされた。
玉蘭妃は、きっと微笑んでいる。
そして私は、犯人を知っている。
でも証拠はない。
それでも、手の中には簪がある。
冷たく、小さく、けれど確かに残されたもの。
白玉宮の扉の前で、朱燕が足を止めた。
「粗相のないように。玉蘭妃様は、皇后様のことで大層お心を痛めておられる」
「……はい」
扉が開いた。
甘い香が流れてきた。
その奥で、玉蘭妃が椅子に座っていた。白い衣。紅の帯。昨夜と同じ美しい指。目元は泣いたように赤く、頬は儚げに青ざめている。
誰が見ても、悲しみに沈む寵妃だった。
玉蘭妃は私を見ると、ゆっくり微笑んだ。
「来てくれたのね、鈴花」
名前を知っていた。
私は床に膝をついた。
「玉蘭妃様におかれましては、ご機嫌麗しゅう――」
「堅苦しい挨拶はいらないわ」
玉蘭妃は手を伸ばし、机の上の菓子皿を指した。
白い菓子だった。
雪のように白く、粉砂糖がかかっている。
「お食べなさい。顔色が悪いわ」
私はその菓子を見た。
白い粉。
薬湯に沈んだ白い粉。
玉蘭妃は、優しく首を傾げた。
「どうしたの? まさか、私の差し上げるものが怖いの?」
部屋の隅に朱燕がいる。
扉の外には宦官がいる。
逃げ場はない。
私は菓子に手を伸ばした。
指先が震えそうになるのを必死で押さえる。
玉蘭妃が囁いた。
「賢い子は、長生きしたいでしょう?」
昨夜のことを、気づいている。
その瞬間、はっきり分かった。
これは問いではない。
脅しだ。
私は菓子を口に入れた。
甘かった。
ひどく甘かった。
喉の奥に、砂のような甘さが貼りつく。
玉蘭妃は満足そうに微笑んだ。
「おいしい?」
「……はい。大変、おいしゅうございます」
「そう。よかった」
玉蘭妃は立ち上がり、私の前まで歩いてきた。そして、私の顎に指を添え、顔を上げさせた。
近くで見る玉蘭妃は、本当に美しかった。
睫毛の影まで美しい。
人を殺した女だと知っていても、見惚れそうになるほどに。
「ねえ、鈴花」
「はい」
「昨夜、あなたは何も見なかった。そうでしょう?」
私は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
皇后様の薬湯。
白い粉。
明霞姉様の簪。
黎星様の声。
生きろ、という言葉。
目を開ける。
私は下級宮女らしく、深く頭を下げた。
「はい。私は昨夜、何も見ておりません」
玉蘭妃の指が、私の顎から離れた。
「いい子ね」
その声は、母のように優しかった。
だからこそ、吐き気がした。
「なら、明霞のことも忘れなさい。あの女は皇后様を裏切った罪人。あなたのような子が心を痛める相手ではないわ」
胸の奥で、何かが焼けた。
でも顔には出さなかった。
私はただ、もう一度頭を下げた。
「承知いたしました」
玉蘭妃は笑った。
「本当に賢い子」
私は床に額を近づけながら、袖の奥の簪を握りしめた。
賢い子は、長生きしたいでしょう。
ええ、玉蘭妃様。
私は長生きします。
あなたが皇后様を殺した夜のことを、忘れないために。
明霞姉様を罪人にしたこの後宮を、最後まで見届けるために。
今はまだ、私は鼠でいい。
床を這い、埃をかぶり、誰にも見下される下級宮女でいい。
けれど、鼠には鼠の見ている景色がある。
妃様方の裾の汚れ。
床に落ちた粉。
誰かが隠した足跡。
美しい香の奥に混ざる、腐った匂い。
私はそれを、全部覚えている。
玉蘭妃様。
あなたが私にくれたこの甘い菓子の味も。
私は、死ぬまで忘れない。