All Chapters of 皇后を殺したのは寵妃様です。下級宮女の私は犯人を知っていますが、姉を殺され、母に売られたので後宮ごと地獄に落とします: Chapter 1 - Chapter 10

57 Chapters

第一話 皇后を殺したのは寵妃様でした

皇后様を殺したのは、玉蘭妃だった。 それを知っているのは、たぶん私だけだ。 月の細い夜だった。 白玉宮の回廊には、沈丁花の香が濃く漂っていた。雨上がりの石畳は黒く濡れていて、灯籠の火がその上にぼんやり揺れている。赤い柱も、金の欄干も、夜になると血を吸ったような色に沈む。 私は洗い終えた寝衣を抱え、誰にも見つからないよう壁際を歩いていた。 下級宮女は、音を立ててはいけない。 目立ってもいけない。 妃様方の顔を見上げてもいけない。 命じられる前に動き、褒められる前に消える。 それが、後宮で長く生きるための作法だった。 だから私は、見てしまった後も、声を出せなかった。 玉蘭妃が、皇后様の薬湯に、小さな白い粉を落とした瞬間を。 白い指だった。 雪のように白く、細く、爪の先だけが薄紅に染まっている。何を触れても穢れないような、美しい手。 その手が、毒を入れた。 薬湯の器は翡翠色で、夜目にもつやりと光っていた。湯気が立ち、薬草の苦い匂いがかすかに漂っている。その中に、白い粉は音もなく沈んだ。 玉蘭妃は、しばらく器を見つめていた。 まるで月でも眺めているような、静かな顔だった。「……静寧様」 玉蘭妃は小さく呟いた。 皇后様の名だった。「お許しくださいませ。私、もう戻れませんの」 その声は泣いているようにも聞こえた。 でも、泣いてはいなかった。 玉蘭妃は微笑んでいた。 私は柱の陰で息を殺した。両腕に抱えた寝衣がずり落ちそうになり、慌てて指に力を込める。指先が冷たい。喉が乾く。胸の奥で心臓だけが、やけに大きな音を立てていた。 逃げなければ。 今すぐ逃げなければ。 けれど、足が動かなかった。 玉蘭妃は器のふちを白い布で軽く拭い、何事もなかったように机へ置いた。そこへ、皇后様付きの女官が近づいてくる足音がした。「玉蘭妃様。このような夜更けに、いかがなさいましたか」 女官の声は少し硬かった。 皇后様付きの者たちは、玉蘭妃をあまり好いていない。皇帝陛下の寵愛を一身に受ける女。病弱で、儚げで、守られることに慣れた女。後宮の誰もが彼女を美しいと言い、同時に恐れていた。 玉蘭妃はゆっくり振り返った。「皇后様のお加減が心配で。眠れませんでしたの」「それは……恐れ入ります。ですが、皇后様はお休みになられるところです」「ええ。だか
last updateLast Updated : 2026-08-12
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第二話 姉様が犯人にされました

玉蘭妃様の部屋を出た時、私はまだ菓子の甘さを舌の奥に感じていた。  砂糖の甘さではない。  もっと重く、濁って、喉に貼りつくような甘さだった。  毒は入っていなかった。  少なくとも、その場で倒れるような毒ではなかった。けれど、あの菓子は毒よりもよほど恐ろしかった。玉蘭妃様は、私に食べさせたかったのだ。  自分が差し出すものを拒めない立場なのだと、教えるために。  私が何を見たとしても、私の口も、命も、あの白い指一本でどうにでもできるのだと。 「鈴花」  背後から朱燕の声がした。  私は足を止め、振り返って頭を下げた。 「はい」 「玉蘭妃様から菓子をいただけるなんて、光栄なことね」 「はい。身に余ることでございます」 「味はどうだった?」  細い目が、私の顔を舐めるように見ていた。  私は下級宮女らしく、少しだけ肩を縮めて答えた。 「とても甘く……私には、少し贅沢すぎるお味でした」  朱燕は口元だけで笑った。 「そう。口の利き方は悪くないわね」 「恐れ入ります」 「でも、賢ぶる子は嫌いよ」  心臓が跳ねた。  朱燕は私のそばへ歩み寄る。玉蘭妃様とは違う香がした。乾いた墨と、古い箱にしまった絹のような匂い。 「後宮で長生きする女は二種類。何も知らない女と、知っていて知らないふりができる女。あなたはどちらかしら」 「私は、何も知らない下級宮女でございます」 「なら結構」  朱燕は満足したように頷いた。 「白玉宮で見聞きしたことを洗衣局で話す必要はないわ。とくに、蘭々のような口の軽そうな子にはね」  蘭々の名を出されて、息が詰まった。  朱燕は気づいている。  私の弱いところを、もう見つけている。 「ご心配には及びません。蘭々は、ただの下級宮女です」 「あら」  朱燕は首を傾げた。 「だからこそよ。下級の者は、自分の言葉が誰かを殺すと知らない。井戸端の噂のつもりで火をつけて、燃えた屋敷を見て泣くの」 「……覚えておきます」 「ええ。覚えておきなさい」  朱燕は私の肩に手を置いた。  力は入っていない。  なのに、その手がひどく重く感じた。 「それから、明霞のことだけれど」  私は顔を上げそうになるのを必死に堪えた。 「かわいそうだと思う?」 「……私のような者が、上級女官様の罪につい
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第三話 母は私を二度売った

一本、足りない。  朱燕の声が、暗い庫の中に落ちた。  棚の陰で息を殺していた私は、黎星様の手に口を塞がれたまま、動けなかった。  庫の中は狭い。  乾いた薬草、古い木箱、銀器を包む油紙の匂い。その隙間に、朱燕の衣から漂う墨のような香と、母の体に染みついた外の町の匂いが混じっていた。  母は、後宮の人間ではない。  少なくとも、私が売られた時はそうだった。  粗末な家で、針仕事と洗い物をして暮らしていた女。冬になると指先を割り、春になると私の髪を雑に結い、夏になると汗を拭いながら「女は美しいうちに売り時が来る」と笑った女。  その人が、今、朱燕の後ろに立っている。  白玉宮側の人間として。 「一本、足りないわね」  朱燕はもう一度言った。  棚の上には、磨かれた銀匙が一本だけ残っていた。  黒ずみのある方は、黎星様の懐にある。  私が皇后様のものだと見分けた、あの銀匙。  それを朱燕たちは消しに来た。  私たちは、ほんの少しだけ早かった。  けれど、その少しが今、命取りになりかけている。  母は灯りを掲げ、棚に顔を近づけた。 「おかしいですねえ。さっきまで二本あったんでしょう?」 「ええ」 「なら、誰かが持っていったんですよ。鼠が」  母の声は、妙に楽しそうだった。  昔からそうだった。  誰かの不幸を直接喜ぶ女ではない。ただ、自分に少しでも得があるなら、人が転ぶのを見て「まあ仕方ないね」と言える女だった。  朱燕が床へ目を落とした。 「足跡は?」 「ございますかねえ」  母が腰をかがめた。  やめて。  こっちを見ないで。  心の中でそう叫んだ。  棚の陰には、薄い埃が積もっている。私たちは気をつけて歩いたつもりだったけれど、完全に跡を消せたわけではない。  母は灯りを低くし、床を覗き込んだ。 「ああ、やっぱり」  背中が凍った。 「ここ、埃が擦れてますよ」  朱燕がこちらへ一歩近づく。  黎星様の手に力がこもった。  もし見つかったら、どうなる。  私だけではない。  黎星様もただでは済まない。  いや、この人なら逃げられるのかもしれない。けれど私は無理だ。下級宮女が、証拠品の保管庫で、皇后様の銀匙を盗もうとしていた。そう言われたら終わりだ。  明霞姉様と同じように、罪人にさ
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第四話 寵妃様から届いたもの

明霞姉様が処刑された朝、後宮は泣いた。  少なくとも、形の上では。  白い袖で目元を押さえる妃。  香炉の前で祈る女官。  小声で経を唱える宦官。  廊下の隅で肩を震わせる下級宮女。  誰もが皇后様の死を悼み、罪人となった明霞姉様を恐れ、後宮に満ちた不穏な空気に怯えていた。  けれど、私には、その涙が全部同じには見えなかった。  本当に泣いている人。  泣くべきだと思って泣いている人。  泣いているふりをしながら、隣の女の顔色を窺っている人。  そして、涙の下で笑っている人。  後宮は、悲しみさえ序列で飾る。  皇后様のために泣く者より、玉蘭妃様のために泣く者の方が多いように見えたのは、私の目が歪んでしまったからだろうか。  いいえ。  たぶん違う。  この後宮では、死んだ皇后様より、生きている寵妃様の方が怖いのだ。 「鈴花、手が止まってる」  蘭々の声で、私ははっとした。  洗衣局には、今日も布が山のように積まれている。皇后様の喪布、妃様方の白衣、宦官たちの喪帯、女官たちの袖布。白ばかりが並ぶと、かえって目が痛い。  私は畳みかけていた布に視線を落とした。 「ごめん」 「謝らなくていいから、座りなよ。あんた、朝からずっと立ちっぱなしじゃん」 「仕事がある」 「仕事はあるよ。山ほどあるよ。だけど、あんたが倒れたら私が余計に働く羽目になるんだけど?」  蘭々はわざと乱暴に言った。  そういう言い方をしないと、私が休まないと分かっているのだ。 「それは困るね」 「でしょ。困るでしょ。私、手際いいように見えて、実は雑だから。あんたがいないと布の角が揃わない」 「それ、自分で言うこと?」 「自分で分かってる欠点は半分くらい長所って、前に明霞様が……」  蘭々はそこで言葉を止めた。  明霞姉様の名が出た瞬間、空気が変わった。  釜の湯気が白く上がる。  薪が爆ぜる。  遠くで誰かが桶を置く音がした。  蘭々は唇を噛んだ。 「ごめん」 「謝らないで」 「でも」 「明霞姉様のこと、話していい。忘れたみたいに黙る方が嫌」  私がそう言うと、蘭々は一度、泣きそうに顔を歪めた。  けれど、泣かなかった。  頑張っているのが分かった。 「あのさ」 「うん」 「私、あの時……処刑場で、明霞様がこっ
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第五話 偽りの懐妊

玉蘭妃様の懐妊が告げられた瞬間、後宮の喪は形を変えた。  皇后様を悼む白い布は、まだ柱に掛かっている。  明霞姉様の血が乾くより早く、女官たちは顔を上げ、妃様方は目の色を変え、宦官たちは走り出した。  悲しみは、権力の前では長持ちしない。  昨日まで皇后様の死を嘆いていた口が、今日は玉蘭妃様の御子の話をする。 「これで玉蘭妃様は安泰ね」 「皇子様なら、次の皇后はもう決まりでしょう」 「でも、皇后様が亡くなってすぐに懐妊発表なんて……」 「しっ。聞かれたらどうするの」 「陛下はさぞお喜びでしょうね」 「お喜びどころか、白玉宮へお渡りになったまま戻られないそうよ」  洗衣局にも、その噂は湯気より早く入り込んできた。  釜の前で布をすすぐ者。  喪衣を畳む者。  香移りを確かめる者。  誰もが手を動かしながら、耳だけは外へ向けている。  私は白玉宮から回ってきた喪衣を、まだ洗わずに分けて置いていた。  袖の内側にあった白い粉は、月琴の指でほとんど消された。  けれど完全には消えない。  目に見えるものは薄くなっても、匂いは残る。  甘く、苦く、喉に引っかかる匂い。  そして、あの懐妊発表。  明霞姉様の簪に隠されていた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。  玉蘭妃の懐妊、偽りの可能性高し。 「鈴花」  蘭々が隣へ寄ってきた。  周りをちらりと見てから、小声で囁く。 「ねえ、偽りの懐妊って、具体的にどうやって偽るの?」 「声が大きい」 「小さいよ。今のは蟻くらい小さい声だった」 「蟻は喋らない」 「じゃあ蚊」 「蚊も喋らない」 「もういいじゃん、たとえ話は!」  蘭々は唇を尖らせた。  こういう時でも、蘭々は蘭々だった。  それがありがたい。 「私も詳しくは知らない。でも、医官が証言すれば、後宮ではそれが事実になる」 「医官が嘘ついたら?」 「嘘でも事実になる」 「何それ。じゃあもう何でもありじゃん」 「そう。ここは何でもありなの」  私は喪衣の袖をそっと広げた。  玉蘭妃様のもの。  柔らかく、白く、軽く、けれど手に取るだけで胸が重くなる布。 「懐妊した妃様は、香を変えることがあるの。強い香は体に障るとされるから」 「でも玉蘭妃様、同じ香だよね」 「うん」 「食べ物も変わる?
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第六話 芋をくれた娘

蒸し芋は、まだ温かかった。  指先に残る熱が、妙に生々しい。  助けて、と爪で刻まれた文字は、けっして綺麗ではなかった。曲がって、ところどころ皮が破れ、最後の「て」は半分潰れている。  急いで刻んだのだ。  誰かに見つかる前に。  声を出せない場所から。 「小梅の字?」  蘭々が、芋を覗き込んだまま囁いた。 「分からない。芋の皮に刻んだ字では、筆跡までは」 「でも、芋だよ。小梅、よく芋くれた。自分の分を半分に割ってさ、『厨房の端っこで焦げたやつだから、妃様方には出せません』って笑って」  蘭々は唇を噛んだ。 「焦げてても甘かったんだよ。あの子、芋を蒸すのだけは上手だった」 「蘭々」 「分かってる。泣かない。怒鳴らない。釜の蓋も持たない」 「最後のはまだ言ってない」 「念のため」  私は油紙ごと芋を包み直した。  温かい。  つまり、これを置いた者は、ついさっきまで洗衣局の近くにいた。  小梅本人か。  小梅を知る誰かか。  あるいは、私たちを誘い出すための罠か。  後宮で「助けて」という言葉ほど危ない餌はない。  明霞姉様の声が蘇る。  優しい人間だけが、人を利用するのよ。  助けを求める者が本当にいるとしても、その声を利用する者もいる。 「まず、これを黎星様に」 「今から?」 「うん」 「私も行く」 「駄目」 「出た。鈴花の駄目」 「乾燥室へは一人で行く。蘭々はここにいて、誰が洗衣局の近くを通ったか思い出して」 「今夜?」 「鐘が鳴ってから今まで。白玉宮の楽の音が始まった頃、外に誰かいなかった?」  蘭々は腕を組み、真剣に考え込んだ。 「ええと……楽の音がして、みんなが何事かって外を見て、私は粥を温め直してて、そしたら厨房の下働きが二人、桶を返しに来た」 「名前は?」 「一人は阿翠。もう一人は知らない子。顔を布で隠してた。風邪だって」 「顔を布で」 「うん。でも、変だった」 「何が?」 「風邪なのに、咳をしてなかった。あと、歩き方が遅かった。足が悪いっていうより、お腹をかばってる感じ」  私は芋を握る手に力を込めた。 「その子、どこへ行った?」 「桶を置いて、すぐ戻った。阿翠が急かしてた」 「厨房の方向?」 「うん。でも白玉宮の厨房じゃなくて、薬膳方の方」  薬膳方。
last updateLast Updated : 2026-08-19
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第七話 釜の蓋を持った友

蘭々は、釜の蓋を両手で構えていた。  木でできた重い蓋だ。  洗衣局の大釜に使うもので、湯気と灰と布の匂いが染みついている。武器としてはどう考えても不格好で、後宮の陰謀に持ち込むにはあまりにも生活感がありすぎた。  けれど、その場にいた誰よりも、蘭々は本気だった。 「小梅! 小梅なんでしょ!? そこにいるんでしょ!」  蘭々の声が、夜明け前の古い産屋に響いた。  中から、弱々しい声が返る。 「蘭々……? ほんとに、蘭々なの……?」  その声を聞いた瞬間、蘭々の顔がぐしゃりと崩れた。  怒りと涙が一緒になった顔だった。 「小梅! あんた、何やってんのよ! 芋なんか寄越して! 字、下手すぎ! 怖いじゃん! ちゃんと自分で来て言いなさいよ、馬鹿!」 「……ごめん」 「謝るな! 謝るくらいなら出てきなさい!」  蘭々は本当に産屋へ駆け込もうとした。  私は慌てて腕を掴んだ。 「蘭々、駄目!」 「離して! 中に小梅がいる!」 「分かってる。でも今飛び込んだら、あなたまで捕まる!」 「もう来ちゃったんだから同じでしょ!」 「同じじゃない!」  私は必死に声を抑えた。  周囲には朱燕、月琴、白玉宮側の宦官たちがいる。黎星様もいるが、今ここで正面から争えば、こちらも無事では済まない。  朱燕は冷ややかに私たちを見ていた。  月琴は、まだ頬を打った手を下ろしたまま笑っている。 「まあ、賑やかな鼠が増えたわね」  月琴が言った。 「洗衣局は、下級宮女に礼儀を教えないの?」  蘭々が噛みつくように睨んだ。 「礼儀? 人を閉じ込めておいて礼儀? 小梅に何したのよ!」 「小梅?」  月琴は首を傾げる。 「知らない名ね」
last updateLast Updated : 2026-08-20
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第八話 寵妃様は腹を抱えて笑う

白玉宮の方角から鳴った鐘は、後宮の朝を裂いた。  急変を知らせる鐘。  病。  事故。  あるいは、身分の高い誰かが倒れた時に鳴らされる、あの嫌な音。  小梅は産屋の寝台で意識を失っている。  阿梨らしき娘は、衝立のそばで浅い息をしている。  春燕は、もう声を出せない。  その同じ時に、玉蘭妃様は腹痛を訴えた。  できすぎている。  あまりにも、できすぎている。  けれど後宮では、できすぎた嘘ほど美しく飾られる。 「玉蘭妃様の御身に障りがあってはなりません!」  朱燕が叫んだ。  その顔には、ほんの少し前までの焦りが消えていた。代わりに浮かんでいるのは、勝機を見つけた者の冷たさだ。  彼女は私を指したまま、さらに声を張った。 「この下級宮女が毒草を持ち込み、玉蘭妃様の御子を害そうとしたのです! その証拠に、毒草はこの者の足元から見つかりました!」 「嘘だ!」  蘭々が釜の蓋を握り締めて叫んだ。 「それ、月琴様が持ってたやつでしょ! 鈴花は触ってない! 月琴様の爪に粉がついてた! 私も見た!」  月琴は、まったく慌てなかった。  ただ、白い指をそっと袖の中へ隠した。 「怖いわ。下級宮女というのは、罪を逃れるためなら何でも言うのね」 「何でも言ってるのはそっちでしょ!」 「蘭々」  私は彼女の袖を引いた。  蘭々は歯を食いしばりながら、私の隣に立った。  釜の蓋はまだ持っている。  正直、今すぐ手放してほしかった。けれど、もう注意する余裕もない。  蓮貴妃様は産屋の中を一度見渡し、それから朱燕を見た。 「朱燕。玉蘭の腹痛と、この場の女たち。どちらも医官が必要ね」 「玉蘭妃様のお命が先でございます」
last updateLast Updated : 2026-08-21
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第九話 母の値段

 母は、両腕を宦官に押さえられて白玉宮へ連れてこられた。  髪は乱れていた。  昨日、私の前に現れた時は、誰かに綺麗に結ってもらっていた髪。白玉宮の香をまとい、泣けばまだ母親に見えるよう整えられていた髪。  今は違う。  簪は傾き、数本の白髪が頬に貼りつき、衣の裾には土がついていた。  それでも母は、部屋に入るなり泣いた。  見事な泣き方だった。 「陛下、どうか、どうかお慈悲を……!」  床に崩れ落ち、額を擦りつける。  押さえていた宦官が手を離すと、母は這うように前へ出た。 「私はただ、娘を案じていただけでございます。後宮で何が起きているのかも知らず、ただ、鈴花が危ない目に遭っていると聞いて……母として、じっとしていられず……!」  嘘。  嘘なのに、胸が痛んだ。  母の泣き声は、昔から私の弱いところに届く。  幼い頃、母が咳をすれば、私は夜中でも水を汲みに行った。母が「寒い」と言えば、自分の薄い布団を渡した。母が「お前だけが頼りだよ」と言えば、嬉しくて、苦しくて、もっと役に立たなければと思った。  その声が、今も私の体のどこかを揺らす。  嫌になる。  もう分かっているのに。  この人は、私を売った。  一度目は後宮に。  二度目は白玉宮に。  それなのに、まだ母の泣き声は痛い。 「顔を上げよ」  皇帝陛下が言った。  母は恐る恐る顔を上げた。  涙で濡れた顔。  哀れな母親の顔。  母は私を見ると、さらに顔を歪めた。 「鈴花……あんた、どうしてこんなことに……母さんは、母さんはあんたを助けたかっただけなのに……」  蘭々が後ろで小さく息を吸った。  釜の蓋を抱えたまま、今にも何か言いそうな顔をしている。  私は目だけで止めた。  蘭々は唇を噛み、黙った。  偉い。  本当に偉い。  黎星様は、母の前に布包みを置いた。  その中には、偽の喪衣に使われた白布の端切れ、毒草を包んでいた油紙と同じもの、そして銀子があった。  銀子は五枚。  下級宮女一人を黙らせるには十分な額。  母が私を後宮に売った時の金より、多いのだろうか。  そんなことを考えてしまい、吐き気がした。  黎星様が淡々と言う。 「こ
last updateLast Updated : 2026-08-22
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第十話 皇弟殿下の嘘

白い煙の中で、私は黎星様の袖に口元を押さえられていた。 甘く、苦く、喉を焼く匂い。 目の奥が痛い。 涙が勝手に滲む。 けれど、それは悲しみの涙ではなかった。毒を含んだ煙が粘膜を刺し、体が勝手に逃げようとしているだけだ。 白玉宮は混乱していた。 女官たちの悲鳴。 水を求める声。 咳き込む音。 誰かが倒れる音。 皇帝陛下が玉蘭妃様の名を呼ぶ声。 そのすべてが、白い煙の中でぼやけて聞こえた。 私の耳には、玉蘭妃様の最後の言葉だけが残っている。 ――皇弟殿下。 黎星様が。 皇弟殿下。 宦官ではなく。 皇帝陛下の弟。 私は黎星様の腕を掴んだまま、声にならない声で尋ねた。「……どういう、ことですか」「話すな。吸い込む」「黎星様」「鈴花」 いつもより低い声だった。 叱る声ではない。 拒む声だった。「今は生きろ」 その言葉に、胸が詰まった。 またそれだ。 また、生きろ。 明霞姉様も、黎星様も、そう言う。 でも、生きろと言う人ほど、私に大事なことを隠す。 煙の中から、蘭々の声がした。「鈴花! 鈴花どこ!? 返事して! いや返事したら煙吸う!? どうすればいいの!?」 こんな時なのに、蘭々は蘭々だった。 私は咳き込みそうになるのを堪えながら、手を伸ばした。 黎星様が私の肩を支え、煙の薄い方へ進む。 その途中で、倒れかけていた女官を避け、床に落ちた香炉を蹴り飛ばした。 火の粉が散る。 白い粉を含んだ煙が、さらに低く床を這った。「水!」 蓮貴妃様の声がした。「香炉に直接かけては駄目! 布を濡らして覆いなさい! 馬鹿ね、煙を増やしてどうするの!」 こんな時でも、蓮貴妃様は怒鳴りながら冷静だった。 女官たちが慌てて濡れ布を運び、香炉にかぶせる。 少しずつ、煙が薄くなる。 視界の向こうに、蘭々が見えた。 釜の蓋はまだ持っている。 片手で口を押さえ、もう片方で釜の蓋を盾のように構えている。後宮のどんな武人より場違いで、けれど妙に頼もしかった。「鈴花!」 蘭々が私に駆け寄ろうとする。 だが、その前に咳き込んで膝をついた。「蘭々!」「だ、大丈夫! ちょっと吸っただけ! この煙、最悪! 玉蘭妃様って香の趣味悪すぎ!」「声を抑えて」「抑えてる!」「抑えられてない」「こんな時に冷静に突っ込まな
last updateLast Updated : 2026-08-22
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