All Chapters of 死んでから、彼の忘れられない女に: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

第1話

あの夜、夫によって薬を飲まされた五人の浮浪者と同じ部屋に閉じ込められたあと、奈月は震える指先で国際電話をかけた。「もしもし、なっちゃん?」受話器から兄の梅川新一(うめかわ しんいち)の声が聞こえた途端、込み上げる嗚咽を必死に噛み殺して告げた。「お兄ちゃん……っ!私、離婚することにした」新一は電話の向こうでほっと息をついた。「やっと目が覚めたか。大知はお前には向いてないって、俺、ずっと言ってただろう。こっちに来い」奈月は小さく頷く。「うん。離婚の手続きが全部片づいたら、すぐそっちに行くから」通話を終えると、奈月は羽織った大きめの上着の前をきつく引き寄せ、全身に浮かんだ青あざを隠すように、裸足のまま屋敷へと戻った。大知の部屋の前を通りかかったとき、扉の隙間から誰かに懺悔しているような声が漏れ聞こえてきた。「結奈……さっき、あの女には指一本触れていない。怒らないでくれ。お前と離れてどれだけ時が経っても、俺が愛しているのはずっとお前だけだ。それだけは絶対に変わらない」見なくても分かる。今この瞬間、大知の腕の中にはきっとあのぬいぐるみが抱かれているのだ。この三年間、ずっとそうだった。二人の服の裾や指先がほんの少し触れただけでも、彼は部屋に戻り、結奈が残したぬいぐるみに向かって懺悔するのだ。三年前。奈月の二十一歳の誕生日に、兄は都内の名家や有力者の子息たちを大勢招き、祝いの席を設けた。名目は誕生日だが、実際は彼女に見合いの相手を選ばせるための場だった。群がる男たちは羽を広げた孔雀さながら、我先にと彼女の気を引こうとした。そんな中、大知だけが違っていた。整った顔立ちを黒いスーツに包み、胸元には一輪の白い花。身の回りには人を寄せ付けないほど冷たい空気を纏っていた。自然と彼に視線が吸い寄せられた奈月に、兄は首を振って言った。「今日ここにいる男なら誰を選んでも文句は言わない。ただ、あいつだけはだめだ」その一言が、かえって奈月の好奇心をかき立てた。兄によれば、大知の想い人、兼松結奈(かねまつ ゆな)は、二人の愛が最も深まっていた頃に亡くなったという。それ以来、大知は固く心を閉ざし、誰も愛さないと決めた。胸に挿した白い花は、亡き恋人を悼み続ける証だった。死んだ最愛の人には、決して誰も取って代われない。彼に嫁いだところで幸せ
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第2話

結婚当初、兄は大知が既に署名した離婚届を、奈月に渡していた。「なっちゃん、これはお兄ちゃんがお前のために用意した逃げ道だ。大知のそばにいて辛くなったら、いつでも離れていい」かつての奈月は、自分がこの離婚届を使う日が来るなんて想像もしていなかった。今になって、自分がどれだけ愚かだったかを思い知る。翌日、奈月は離婚届を持って役所へ行き、淡々と手続きを済ませた。あとは、離婚届受理証明書が発行されるのを待つだけだった。屋敷に戻ると、兼松香奈(かねまつ かな)がまるで女主人気取りでソファに座っていた。大知の視線が奈月に向いた。「香奈が足を捻挫してな。一人暮らしでは不便だろうから、しばらくうちで面倒を見ることにした」亡くなった結奈を除けば、この世で大知の感情を揺さぶれる存在はおそらく妹の香奈だけだった。結奈は死ぬ直前、大知に妹の面倒を見てほしいと頼んでいた。結婚して以来、香奈はことあるごとに二人の生活に割り込んでくる。雨でタクシーがつかまらない、生理痛がひどい、亡くなった姉の誕生日、姉が恋しい。ありとあらゆる理由をつけては大知を呼び出し、奈月のそばから連れ出していった。なのに大知は、そんな見え透いた魂胆を見抜こうともしなかったのだ。以前の奈月なら間違いなく反発していただろう。けれど今の彼女は、もうどうでもよかった。だが、まさか香奈がよりによって、奈月の部屋を選ぶとは思わなかった。香奈は悲しげな顔で言った。「大知さん、昔、姉が一番気に入ってたのって、この南向きの部屋だったんですよね」案の定、姉の名前を出された途端、大知は迷いなく従った。「お手伝いさん、奈月の荷物を全部ゲストルームに移してくれ。この部屋は香奈に使わせる」香奈は勝ち誇った表情で奈月を見た。「奈月さん、部屋を譲ってくださってありがとうございます」奈月は深く息を吸い込むと、自分の荷物をまとめてゲストルームへ移った。どうせもう離婚を決めている身だ。どこに住もうと構わなかった。翌日、まだ浅い眠りの中にいた奈月は、頬に走った衝撃で目を覚ました。弾かれたように目を開けると、香奈が怒りに満ちた顔でベッドの脇に立っており、手には奈月が引き出しにしまっておいた強い媚薬を握っていた。「この泥棒猫!こんな卑猥な薬まで使って大知さんを誘惑するなんて!」奈月も瞬時に頭
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第3話

再び目を開けると、真っ先に飛び込んできたのは眩しいほどの白い天井と、鼻をつく消毒液の匂いだった。それだけで、奈月は自分が病院にいるのだと悟った。大知はベッドの脇に座り、細く長い指で手首のミサンガを何度もなぞっていた。それは結奈が生前、彼に贈ったもので、今では肌身離さず身につけている大切な形見だった。奈月が目を覚ましたのを見て、大知は淡々と言った。「今日のことは、香奈にちゃんと謝らせる」奈月は腫れ上がった頬にそっと手を当て、信じられないという顔で尋ねた。「あんなことをされて、一言謝れば済むと思ってるの?」大知は何か覚悟を決めたように言った。「償いはする」彼の細長い手が、奈月の手を取った。「これからは、俺の手を握っていい。ただし、香奈のことはもう追及するな」奈月は彼を見つめ、ふと乾いた笑いを漏らした。「はっ……大知、これはいったい何?香奈のためなら、自分に触らせることまで取引材料にするの?」その言葉は大知の耳にひどく刺さったらしく、彼は不快げに眉をひそめた。「そもそも先に非があるのはお前だろう。お前があんな薬まで買って俺をどうにかしようとしなければ、今日みたいなことにはならなかった」奈月の目尻に涙がにじみ、口元には自嘲の笑みが浮かんだ。「夫と体を重ねたいと思うことが『良からぬ考え』だなんて、今日初めて知ったわ」彼女は嫌悪感とともに大知の手を振り払い、電話を取って警察に通報しようとした。だが大知は自分のスマホを操作すると、何枚かの写真を奈月の目の前に突きつけた。奈月の指先が空中で固まった。どれも、彼女が意識を失っている間に撮られた裸の写真だった。奈月は震える声で言った。「これ……」大知は顔色一つ変えずに言った。「香奈のことを追及しないなら、この写真が外に流れることはない」名ばかりの夫が、自分の裸の写真を盾に脅してくる。奈月には全てが馬鹿げているとしか思えなかったが、それが紛れもない現実だった。大知はコップに水を注いで彼女の前に置いた。「結奈に、妹の面倒を見ると約束したんだ。だから香奈を誰かに傷つけさせるわけにはいかない。分かってくれ」奈月の目が真っ赤に染まり、目の前の水を力任せに叩き落とした。「出てって!」分かるわけがない。分かってやる義理なんてどこにあるの。大知は手にかかった水を静か
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第4話

今、香奈が身に着けているワンピース、首元のネックレス、指にはめた指輪、そして腕につけた腕輪。それらはすべて、奈月の私物だった。香奈の目に、あからさまな挑発の色がよぎる。「こっちに服を持ってくるのを忘れてしまって。奈月さんとは体型も似ていますし、少しお借りしただけです」奈月の胸の奥から、一気に怒りが込み上げた。「借りたですって?私に一言でも断ったの?それは全部私のものよ。持ち主に無断で使うのは、世間ではそれを『泥棒』って呼ぶのよ」彼女が今着ているワンピースは、去年の誕生日に兄がわざわざ海外から取り寄せてくれた特注品だ。腕輪に至っては、亡き母の大切な形見である。どちらも大切にしてきた品なのに、今、この世で一番嫌いな相手に身に着けられ、汚されている。すると香奈はひどく傷ついたような顔を作り、大知を見上げた。「大知さん、私、決して泥棒なんかじゃないわ。小さい頃から姉に『人の物を勝手に持っていっちゃだめ』ってずっと言われて育ったもの。だから、その教えをちゃんと守ってきたのに……」大知はすぐさま香奈をかばうように前へ出ると、奈月に向けて冷たく言い放った。「少しは言葉を選べ。香奈はちょっと借りただけだろう。『泥棒』などという汚い言葉を使うなんて」香奈は慌てた様子で腕輪や指輪、ネックレスを次々と外すと、奈月の足元に無造作に放り投げた。「奈月さん、お返しします。だから、どうかもう怒らないでください」その突然の行動に、奈月が慌てて手を伸ばしたときにはもう遅かった。母の形見である腕輪は硬い床に落ち、無残にもバラバラに砕け散ってしまった。奈月はもはや自分の中の衝動を抑えきれなかった。勢いよく手を振り上げ、香奈を平手打ちしようとした。だが、香奈はひどく怯えたふりをして大知の背後へと隠れた。大知が奈月の腕を力強く掴み、荒々しく振り払った。「一体いくらするのか言え、俺が弁償してやる。だが、香奈には今後指一本触れるな!」そう吐き捨てると、彼は香奈を連れて背を向け、そのまま去っていった。奈月は目を真っ赤にしながら、床に散らばった腕輪の欠片を一つひとつ拾い集めた。そして、悲痛な声で呟いた。「お母さん……ごめんね。私に男を見る目がなかったせいで、お母さんの大切な形見すら守れなかった」込み上げる涙を乱暴に拭うと、奈月はそのままゲストル
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第5話

動画の中では、真っ白なサモエドが狭い檻に閉じ込められていた。香奈がその上から熱湯を注ぎかけ、犬は狂ったように鳴き叫んでいたのだ。この犬の名は豆太。奈月が大知に嫁いで以来、大知にずっと空気同然に扱われ、寂しさを紛らわせるために飼い始めた犬だった。この三年間、ずっと寄り添い共に過ごしてきた豆太は、もはや奈月にとってかけがえのない家族同然の存在だった。奈月が屋敷に駆けつけたとき、豆太は走る車の後部に太いロープで繋がれたまま、地面を引きずられていた。手足はすでに激しく擦り切れて血が滲み、息も絶え絶えの痛ましい状態だった。考えるより先に車を止めようと駆け出した奈月だったが、傍らにいたボディーガードに力ずくで行く手を阻まれた。奈月は香奈を鋭く睨みつけ、激しい怒りで声を荒らげた。「あなた、今すぐ豆太を放しなさい!」だが香奈は勝ち誇ったような目を向け、高慢な態度を一切崩そうとしなかった。「なーんだ、人にものを頼むときの態度ってものを、今まで誰も教えてくれなかったのかしら?」苦痛で虚ろだった豆太の目は、奈月の姿を捉えた瞬間、希望の光を宿した。そして必死に首をよじり、彼女へ助けを求めるようにかすれた声で吠え続けた。奈月は胸をかきむしられるような焦燥感の中で、必死に懇願した。「お願いだから、豆太を放して……」香奈は自分の足先で目の前の地面をとんとんと叩き、意味ありげに嘲笑った。「お願いって言うのはね、口先だけじゃだめなのよ」奈月がわずかに躊躇う様子を見せると、香奈は突然、運転席の男へ向かって冷酷に命じた。「スピードを上げて。この畜生、いっそこのまま引きずり殺しちゃって」途端に車が急加速し、豆太の四肢の皮膚が粗い砂利に擦られ、見るも痛々しい傷だらけになった。「やめて!土下座するから!」奈月は泣き叫ぶように声を上げた。もはやなりふり構わず、彼女は香奈の前まで進み、冷たい地面にまっすぐ両膝をついた。かつては高嶺の花と謳われた社交界の令嬢が、今こうして自分の足元に跪いている。その無様な姿を見下ろし、香奈の心は深い優越感に浸っていた。彼女は奈月の肩を靴で踏みつけると、靴についた埃でも払うように足先を動かしながら気だるげに言い放つ。「最初からこうやって素直にしていればよかったのに。わざわざ私にここまでさせるなんて、本当に卑しい女ね」
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第6話

車の中で奈月は激しくもがきながら叫んだ。「あなたたち、一体誰なの?私に何をするつもり?」ボディーガードが淡々と答える。「奥様、ご安心ください。真島社長のご指示で、これから病院にお連れするところです」見知らぬ拉致犯ではないと分かると、奈月はひとまず安堵の息をついた。だがそれと同時に、大知が自分をこんな形で急いで病院へ連れて来させた理由が全く分からず、強い不信感を抱いた。病院に到着するやいなや、大知は有無を言わさず奈月を病室のベッドへと力ずくで押さえつけた。すぐさま看護師が、採血用のバッグを手に近づいてくる。奈月はとっさに自分の腕をかばいながら必死にもがいた。「大知、急に何のつもりなの?」大知はひどく焦った様子で早口に告げた。「香奈が車に轢かれたんだ。すぐに大量の輸血が必要だが、香奈は特殊な血液型で、今の病院の在庫じゃ全く足りない。今、香奈を救えるのは、お前の血だけなんだ」奈月はきっぱりとそれを拒絶した。「絶対に血なんて提供しない。あの女が私の豆太を殺したのよ。いっそ死んでほしいとさえ思っている相手を、どうして私が身を削ってまで助けなきゃいけないの?」彼女は力任せに大知の胸を押しのけ、ベッドから降りて外へ出ようとした。だが、大知は強引に彼女の細い手首を掴んで引き戻した。「人の命がかかってるんだぞ。どうしてお前は、そこまで身勝手で冷酷になれるんだ。豆太はただの犬だろう。犬なら、後で十匹でも新しく買ってやる。だが今はお前が血を提供して、香奈の命を救うしかないんだ」奈月はなおも激しく抵抗しようとしたが、大知の圧倒的な力によって、無情にもベッドに拘束されてしまった。やがて太い針が静脈に突き刺さり、温かい血がゆっくりと体から抜けていく。すでに500mLもの血を抜かれた頃には、奈月はひどい目眩を覚えていた。生存本能が警鐘を鳴らし、思わず言葉が口を突いて出た。「大知……お願い、これ以上血を抜いたら、私、本当に死んじゃうわ」大知は手首の赤い紐を指先で不安げにさすりながら、冷淡に言った。「香奈の怪我はひどいんだ。途中で足りなくなるより、多めに抜いておいた方が確実だ。安心しろ、お前を死なせやしない」700mL……800mL……血が抜かれていくにつれ、全身から力が抜け落ち、視界が霞み、瞼がどんどん重くなっていった
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第7話

大知がなおも何か言おうとしたところで、看護師が慌ただしく扉を開け、香奈が目を覚まし、どうしても彼に会いたいと泣いて騒いでいると告げた。彼は弾かれたように立ち上がると、看護師の後を追うようにして慌てて病室を出て行った。翌日、罪悪感からか大知はまた見舞いに訪れ、貧血によさそうな差し入れを持ってきた。けれど奈月はそれに一口も手をつけることなく、彼の目の前で冷淡にゴミ箱へと放り込んだ。大知は不快げに眉をひそめた。「いくら怒っていても、自分の体を粗末にするな」奈月は嘲るように笑った。「はっ。自分の体くらい、ちゃんと大事にしてるわよ。ただ、あなたの持ってきたものは食べないってだけ」大知は、奈月の自分への態度がかつてとは明らかに変わってしまったことを敏感に感じ取っていた。今回の件に関しては自分にも非があったと、彼自身もよく分かっていた。低い声で言った。「香奈が回復して退院したら、自宅に帰す。もう二度とお前には近づけないようにするから」奈月は無言のまま彼に背を向けた。「あなたがどうしようと、あなたの勝手よ。私には関係ないわ」大知の胸の奥に、言いようのない無力感がこみ上げた。最後に短くため息をつくと、彼は静かに部屋を出て行った。三日後。奈月は自ら退院手続きを済ませ、それからずっとホテルに滞在した。その間、大知からは何度も戻るよう電話がかかってきたが、彼女はそのすべてを無視した。離婚届受理証明書が届くと、奈月はようやく自分から大知に電話をかけ、役所で待ち合わせる約束を取り付けた。だが電話を切るより先に、ふいに背後からタオルのようなもので口と鼻を塞がれ、そのまま意識を失ってしまった。再び目を覚ますと、奈月は香奈とともに公海上へと連れ出されていた。拉致犯は二人を太いロープで縛り上げ、船の帆柱に吊るしていた。大知はたった一人で船を操縦し、二人のもとへと近づいてくる。犯人は手にした銃を奈月と香奈に向けながら言った。「真島社長、俺が要求した十億円、きっちり持ってきたか?」大知は目の前に並べた箱をすべて開け放ち、告げた。「急なことで、今すぐ動かせた現金は五億四千万円だけだ。まずは二人を放してくれ。残りは明日必ず渡す」犯人は突然激昂し、空に向けて銃を威嚇発砲した。「おい!ふざけた真似すんな、こっちはそんな悠長に待ってる暇
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第8話

香奈は服を着替え、拉致された恐怖を紛らわせたいと言って、大知を高級レストランでのキャンドルディナーへと連れ出した。テーブルには赤いキャンドルが灯り、傍らには香り立つ薔薇が飾られている。彼女は恥じらいを浮かべ、向かいに座る大知を甘えるような目で見つめた。「大知さん、今日、犯人に迫られたとき、私を助けることを選んでくれたのって……私のほうが奈月さんより大事だってことよね?」問いかけたものの、待てど暮らせど答えが返ってこない。香奈は不満げに唇を尖らせた。「どうして答えてくれないの?」大知の頭の中は、決然と去っていった奈月の背中のことでいっぱいで、香奈が何を言ったのかまるで耳に入っていなかった。「……何だって?」香奈は少し声を強めて繰り返した。「今日、犯人に迫られたとき、私を助けることを選んでくれたのって、私のほうが奈月さんより大事だってことよね、って聞いてるの」大知は事実だけを端的に答えた。「結奈に、お前を必ず守るって約束したからだ。助けるのは当然だろう」その答えに、香奈は少しも満足しなかった。それでも納得できず、香奈はさらに問いかけた。「じゃあ、もし姉の頼みがなかったら?私と奈月さんなら、どっちを助けてた?」大知は思わずその問いを頭の中で本気で考えてしまい、浮かび上がったのは奈月の姿だった。実のところ、あのとき犯人に迫られて咄嗟に「奈月」と叫んだのは、彼女を助けたいという偽らざる本心からだったのだ。だが直後に、結奈が死ぬ間際に残した頼みを思い出し、無理やり答えを変えてしまったのだ。本当のことを言えば香奈が不機嫌になるのは目に見えていた。大知は低い声で言った。「その『もし』はない。事実として、結奈が死ぬ前にお前を俺に託したんだ。だから俺は、お前を見殺しにするわけにはいかない」その答えにも香奈は当然納得できなかったが、これ以上問い詰めることもできず、フォークで目の前のステーキを苛立たしげに突き刺すことしかできなかった。もとより食欲のなかった大知は、それを見て店員に会計を頼んだ。そして淡々と続けて言った。「香奈、お前の足はとっくに治ってるだろう。今日からもう真島家には住まなくていい」奈月が香奈をひどく嫌っている以上、彼女がいる限り奈月は決して屋敷に戻らないだろう。真島グループの社長夫人である奈月が、いつまでも
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第9話

香奈は離婚届受理証明書を手に取り、繰り返し内容を確認して、それが紛れもない本物だと確信すると、内心、抑えきれないほどの喜びが込み上げてきた。「いつ奈月さんと離婚の手続きをしたの?どうして教えてくれなかったの?」声に甘えを滲ませて続けた。「私に、サプライズでもするつもりだったの?」大知は震える手で、一緒に入っていた離婚届のコピーを取り出し、そこに記された署名が確かに自分の筆跡であることを確認すると、奈月との結婚前夜のことを思い出した。奈月の兄、新一が当時、大知のもとを訪ねてきたことがあったのだ。「お前が妹にふさわしい相手じゃないことくらい、俺にも分かってる。でも、あいつは今、お前に夢中なんだ。どうしてもお前と結婚したいと言って聞かない。俺が止めても無駄だ。だからせめて、何かあった時にあいつが困らないよう、逃げ道だけは用意しておいてやりたいんだ」新一は日付の書かれていない離婚届を、大知の前に差し出した。大知は迷うことなくそこに自分の名前を書いた。そして冷たく言い放った。「この紙が役に立つ日が一日も早く来ることを、お前以上に望んでる」今、手の中にあるこの薄い紙切れが、まるで鉛のように重く感じられた。大知は急いでスマホを取り出し、奈月に電話をかけた。一度だけ呼び出し音が鳴ったところで切られ、かけ直すとすでに電源が切られていた。その瞬間、彼はもう平静ではいられなかった。踵を返し、足早に外へ向かって歩き出した。香奈が慌てて彼の前に立ちはだかった。「大知さん、どこへ行くの?」大知は香奈を強引に押しのけた。「奈月を探しに行く。離婚には同意しない」その言葉を聞いた瞬間、香奈の心はどんと重く沈んだ。せっかく奈月が自分から離婚を切り出し、自分が大知の妻になれる絶好のチャンスが巡ってきたというのに。奈月を連れ戻しに行くことなど、絶対に許すわけにはいかない。香奈は何があっても離すまいと大知の腕にしがみついた。何度振り払っても離れない香奈に、大知はついに苛立ちを露わにして怒鳴った。「離せ!」姉との約束があるからこそ、これまで香奈にはずっと甘く接してきた大知だった。彼女に対してここまで声を荒らげたことは、今まで一度もなかった。香奈の目に涙が浮かぶ。「大知さん……もしかして、奈月さんのこと、好きになったの?一番愛し
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第10話

あのとき、彼女は彼の腕の中に身を預け、骨張って痩せ細った指先で彼の頬を愛おしげに撫でていた。「大知、この人生であなたに出会えて、あなたと心から愛し合えたことが、私の一番の幸せだったよ。ただ……ずっとあなたのそばにいられるほどの運は、私にはなかったみたい」彼は震える両腕で、結奈の体をより強く抱きしめた。まるでそうすることで、消えかけている命を繋ぎ止められるとでもいうように。「結奈、そんなこと言わないでくれ。お前は絶対に死なない。俺がどんな手を使ってでも治してみせる」結奈はひどく青白い顔で、ただ小さく笑った。「大知、死ぬ前に、二つだけお願いがあるの」大知は涙声で答えた。「……言ってくれ。何でも、必ず叶えるから」「一つ目は、私の妹のこと。両親を早くに亡くして、私とあの子は、ずっと二人だけで支え合ってきたの。私がいなくなったら、あの子はこの世にたった一人残されてしまう。だから、あの子の面倒を見てあげて」「約束する。これからは、あの子を本当の妹のように大切にする。ちゃんと面倒を見る」「二つ目は……私が死んだら、私のことはもう忘れて。あなたを本当に愛してくれる人を見つけて、その人と生涯添い遂げてほしいの」大知は激しく首を振った。「嫌だ。結奈、お前が死んだ後も、俺は二度と誰も愛さない」「そう言ってくれて、すごく嬉しい。だけど……長い人生を一人きりで過ごすのは、あまりに寂しいと思うの。私はあなたに、幸せでいてほしい……」そして彼女は彼の腕の中で、そのまま静かに瞼を閉じ、二度と目を開けなかったのだ。回想が終わると、大知は自分に言い聞かせるように重い声で言った。「俺は結奈のことをよく知っている。結奈なら、奈月を嫌ったりしない」大知はそのまま踵を返して立ち去った。香奈は去っていく大知の広い背中を見つめながら、胸の内にさまざまな感情を渦巻かせ、最後に墓石へと視線を移した。「お姉ちゃん……私、時々すごくお姉ちゃんが羨ましくなるよ。昔から私より綺麗で、私よりずっと優秀で、誰よりも人に好かれてた。死んでからもう何年も経つのに、大知さんはまだお姉ちゃんのこと、忘れてないんだもん。ねえ、私、大知さんのことが好きなの。天国から見ているなら、私が無事に大知さんのお嫁さんになれるよう見守っていて。お姉ちゃんの代わりに、私がちゃんと彼のそば
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