جميع فصول : الفصل -الفصل 79

79 فصول

第71話 私の店なのに

「どうしたんですか」  煌は答える代わりに、スマートフォンを糀へ差し出した。  口元は固く結ばれ、頬から顎にかけて強張っていた。先ほどまで糀を見つめていた目にも、もう甘さはなかった。  画面には、ニュース番組の生中継が映っていた。  大きなホテルの発表会場だった。壇上には三人が座っている。中央に若い女性、その片側には白い調理着を着た男性。そして、反対側にいたのは美咲だった。  どうして、あの女がテレビに映っているの?  向かいの店は客から苦情が出て、保健所の確認まで受けていた。それなのに、なぜ、こんな大きなホテルの発表会で、その男性と並んで座っているのだろう。  糀は画面へ顔を近づけた。見間違いではない。美咲は何台ものカメラを前に、当然のように微笑んでいる。 《幻の名店『澄乃』の味を完全再現》  続いて、《澄乃の正統な味を受け継ぐ料理監修者・高橋美咲》と表示された。  糀は息をのんだ。  澄乃。祖母が守り、糀が受け継いだ店だ。  私の店なのに。  その名前が、美咲を「正統な継承者」として紹介する全国放送の画面に、大きく映っている。  頭の奥が、脈を打つたびにガン、ガンと痛んだ。中継の声が、急に遠くなった。  美咲は祖母から料理を習ったことなど、一度もない。  テレビに出ているだけではない。美咲は、祖母の店の名前も味も、自分のものとして売り出そうとしている。  向かいの店がうまくいかず、美咲も少しは懲りたと思っていた。  とんでもない。なんてしつこく、厚かましい女なのだろう。自分ではまともな料理も作れないくせに、今度は祖母の名前まで盗み、テレビの前で後継者を名乗っている。  どこまで人のものを奪えば気が済むのか。  画面下の表示が切り替わり、《九条グランドホテル取締役・九条玲奈》と出た。  字幕が示しているのは、美咲ではない。壇上の中央にいる若い女性だった。  九条玲奈。  老舗ホテルグループ「九条」の令嬢で、ホテルの看板役として旅番組や動画にも出ている女性だ。上品に笑って店を褒め、時には首を傾げて欠点を言う。  玲奈に「少し残念」と言われた小さな店が閉じたことも、糀は覚えていた。ただ、テレビを見る余裕のない日が続いていたため、顔までは覚えていなかった。  九条。  どこかで聞いた名字だ。  記憶をたどり、糀ははっ
last updateآخر تحديث : 2026-10-02
اقرأ المزيد

第72話 どちらが本物か、料理で決めましょう

「煌さん。この方とは、どういう関係なんですか」  煌はすぐには答えなかった。画面の玲奈を見たまま、短く言った。 「九条家の人です」  それだけだった。  答えになっていない。  煌は、糀から目を逸らしたままだった。  糀が聞きたいのは、肩書きではない。なぜ煌が玲奈を見て顔を強張らせ、糀から目を逸らしたのかだ。  もう一度尋ねようとした時、中継がホテルの厨房へ切り替わった。白い調理着の男性が、和牛の表面へ《幻の調味料・澄乃返し》を塗っている。刷毛が何度も往復するたび、肉の表面が黒く艶めいた。  煌への不安は消えなかった。それでも、画面を閉じるわけにはいかない。 「おばあちゃんから、習ったことなんてないくせに」  糀は画面録画を始め、番組名と時刻が分かる画面も保存した。そのまま弁護士へ送る。  隣では、煌が秘書へ電話をかけていた。 「今すぐ確認してください。企画が決まった経緯も、資料の出所も、すべてです」  こうして動いてくれる煌は頼もしい。  けれど、修司のことだって、結婚した時は信じていた。  また、自分だけが何も知らないのだろうか。  玲奈との関係を答えてくれない煌を、本当に信じていいのか分からなくなった。  画面の中では、美咲が澄乃返しの入った小瓶を手にしていた。 「この澄乃返しは、澄江さんが長い年月をかけて作り上げた、澄乃の味の要です。私もその味を身近で学び、受け継いできました」  美咲が「澄江さん」と口にした瞬間、腹が立ちすぎて気持ちが悪くなった。  祖母に会ったこともないくせに。  同じ厨房で包丁を握ったことも、作った料理の味を見てもらったこともない。それなのに、美咲は祖母のそばで味を学んだような顔で、全国へ向かって話している。  悔しくて、スマートフォンを握る指に力が入った。  中継は、もう一度発表会場へ切り替わった。  司会者が終了を告げようとした時、会場の後方で一人の女性が手を上げた。 「フリーの料理ジャーナリストです。確認させてください」  司会者は困ったように玲奈を見た。玲奈が頷くと、女性は立ち上がった。 「『澄乃』の店を受け継いだのは、澄江さんの実孫である三浦糀さんではありませんか」  美咲の笑顔が固まった。 「高橋美咲さんは、澄江さんの血縁でも弟子でもありません。三浦さんの元夫と不倫
last updateآخر تحديث : 2026-10-03
اقرأ المزيد

第73話 料理も、男も、勝った方のものよ

 翌朝になっても、玲奈の言葉が耳から離れなかった。 《高橋美咲さんと三浦糀さん。どちらが澄乃の味を受け継いでいるのか、料理で決めましょう》  全国へ流れる中継で、突然名前を呼ばれた。  なぜ、私が勝負を受けなければいけないの。  思い出すほど、腹が立った。  美咲は許せない。祖母から何も習っていないのに、正統な継承者を名乗った。あの嘘を、全国へ広めようとしている。  けれど、だからといって九条ホテルと料理で勝負するべきなのだろうか。美咲の嘘を正すために、玲奈が勝手に決めた勝負へ出る。それでいいのだろうか。  受けても断っても、玲奈の思い通りになるようで悔しかった。  それに、料理勝負のことより、気になっていることがあった。  あの夜、煌は玲奈との関係についてそれ以上何も答えず、糀には何も言わないまま帰ってしまった。その後も、連絡はない。 『九条家の人です』  答えになっていない言葉と、玲奈を見た時の強張った顔、糀から逸らした目が忘れられなかった。  料理勝負のことを考えなければならない。それなのに、気づけば煌と玲奈の関係ばかり考えてしまう。  煌のことも、勝負のことも、答えを出せない。  返事を決められないまま、糀は開店前の仕込みを始めた。  店の前に、白い高級車が止まった。  磨かれた車体が朝の光を反射した。通りを歩いていた人が振り返り、配達中の男性まで自転車を止めた。  黒いスーツを着た運転手が降り、後部座席のドアを開ける。細いヒールが路面へ下りた。  現れた女性を見て、糀は息を止めた。  昨夜の中継で、きれいな人だと思った。だが、実際に目の前に立つ玲奈は、画面で見るよりはるかに美しかった。  艶のある黒髪も、白い肌も、赤い唇も、隙なく整っている。細身の灰色のスーツは飾りの少ないものなのに、玲奈が着ると目を離せない。運転手がドアを閉めるまで、通りの視線は玲奈へ集まったままだった。  昨夜、美咲と総料理長の中央に座っていた九条玲奈だ。  玲奈が店へ入った瞬間、糀は無意識に半歩下がった。玲奈がカウンターの前へ立っただけで、三席の店がいっぱいになったように見えた。  糀は、自分のエプロンに小さな水染みがあることへ気づいた。シャツは洗いざらしで、髪も仕込みのために一つへ結んだだけだ。毎日店に立つための格好なのに、玲奈の前で
last updateآخر تحديث : 2026-10-05
اقرأ المزيد

第74話 本当に何も知らないだけ?

 料理も、男も、勝った方のもの。  嫌な言い方だった。 「祖母の味も、神楽坂さんも、勝負の賞品ではありません。勝ったからといって、誰かのものになるわけではありません」  玲奈は、つまらなそうに糀を見た。 「きれいごとね。そんなことを言っている間に、どちらも私がもらうわ」 「そんなことが、できると思っているんですか」 「できるわ」  玲奈は三席だけの店を見回した。祖母の糀帖、カウンター、厨房の奥まで順に見てから、糀へ微笑む。 「あなたが勝負を断れば、九条は美咲さんを澄乃の継承者として扱い続ける。あなたが逃げたと発表することもできるわ」  勝負を勝手に決めたのは玲奈なのに、断れば糀が逃げたことにされる。  なんて理不尽なのだろう。  玲奈の身勝手さに、腹が立った。 「昨夜の中継を見た人と、この三席しかない店を知る人。どちらが多いと思う?」  悔しかった。九条の名前で発表されれば、祖母から店を受け継いだ糀より、テレビに出た美咲のほうを信じる人が増えてしまう。  糀は、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握った。 「それで、どうするの?」 「そんなやり方は卑怯です」 「やり方を聞いたのではないわ」  玲奈は、答えを待つように糀を見た。 「ご予約でなければ、お帰りください」 「お客として来たわけではないわ」  玲奈は中央の席へ、断りもなく鞄を置いた。 「では、煌さんの話をしましょうか」  煌の名前を出された瞬間、糀の体が強張った。 「何の話ですか」 「煌さん、次の休日を丸一日、あなたのために空けたそうね」  確かに、そう言っていた。 「そのために、私との予定を断ったの」  煌は、玲奈と予定があったのだ。  糀が知らないところで、二人はどれほど近いのだろう。  朝から一日、自分のために空けてくれたことが嬉しかった。  けれど、その日は、もともと玲奈と過ごすはずだったのだ。 「そんな人ではなかった。私との約束より、あなたを選ぶなんて」  玲奈は、糀が知らない煌を知っているのだ。  それが悔しかった。  玲奈に嫉妬している。認めたくなくても、そうだった。 「……知りません」 「でも、嬉しかったでしょう?」 「それは……」  糀は答えられなかった。  責められているのに、「あなたを選ぶ」という言葉が嬉しか
last updateآخر تحديث : 2026-10-06
اقرأ المزيد

第75話 私は、煌さんの婚約者よ

 玲奈は、糀をまっすぐ見た。 「私は、煌さんの婚約者よ」  婚約者。  糀は、何を言われたのか分からなかった。 『九条家の人です』  昨夜、玲奈との関係を尋ねた時、煌はそう答えた。嘘ではなかった。けれど、いちばん大事なことを隠していたのだ。  その意味が分かった瞬間、さっと血の気が引いた。  足に力が入らなくなり、糀はカウンターへ手をついた。  煌に料理を認めてもらい、キスをして、最初の休みに会う約束までした。そのどこにも、玲奈の話はなかった。 「正式な婚約です。両家の事業にも関わっているわ」  玲奈は糀の反応を確かめるように続けた。 「あなたとキスをした時も、あなたとの休日を丸一日空けた時も、煌さんは私の婚約者だった」  別の女性といた修司を知った時の痛みを思い出した。  今度は自分が、知らないうちに婚約者のいる男性とキスをしていた。  修司に裏切られた自分が、今度は別の女性を傷つける側になっていたのだろうか。  そう考えると、息が苦しくなった。  頬に触れた煌の親指も、「一日、糀さんを独占します」と言った声も、「宿泊で予約を取っても?」と尋ねた時の熱い目も思い出した。嬉しかった記憶のすべてに、知らなかった事実が重なっていく。  あの時、嬉しいと思った自分まで責められているようで、胸が痛んだ。  それでも、玲奈へ謝ることはできなかった。  糀は、婚約のことを何も知らされていなかった。  煌と玲奈がどんな約束をし、煌が何を考えていたのかは、本人に確かめなければ分からない。 「どうして黙っていたのか、気になるでしょう?」 「神楽坂さんとのことは、本人に聞きます」  糀はカウンターに手を置いた。  声を震わせたくなかった。 「九条ホテルの企画について話してください」  玲奈は少し不満そうな顔をした。泣いたり、言い訳をしたりする糀を期待していたのかもしれない。 「いいわ」  玲奈は鞄から透明な袋を取り出した。  中には、黄ばんだ一枚の紙が入っていた。見間違えるはずがない。祖母の字だった。 《若味噌六、古味噌四。和牛、四十八時間》  右下には、小さな墨の点が三つある。  祖母は、うまくいかなかった試作の頁に、墨の点を三つつけていた。  これは完成した作り方ではない。  玲奈は、それに気づいていないらしい。
last updateآخر تحديث : 2026-10-07
اقرأ المزيد

第76話 もう、ここへ来ないでください

 糀は白い封筒を開いた。  普通の封筒よりひと回り大きい。真珠のように光る紙の縁を金箔が囲み、中央には九条グランドホテルの紋章を押した赤い封蝋。開いた内側には、深紅の布まで貼られていた。  中のカードも、指で曲げられないほど厚い。四隅には金の飾りが浮き上がり、《公開料理対決への御招待》の文字まで、盛り上がった金色で刷られている。  三席しかない店のカウンターで、招待状だけがぎらぎらと光っていた。料理の勝負に、どうしてここまで金を見せつける必要があるのだろう。  九条グランドホテルで行われる公開料理対決の招待状だった。  同じ黒毛和牛を使い、《澄乃返しを使った発酵和牛料理》を作る。九条ホテル側の料理人は、総料理長の榊原征士郎。開催日は二週間後。調理の様子から審査まで、公式チャンネルで生配信すると書かれている。 「私が断れば、どうするんですか」 「九条ホテルだけで予定どおり販売するわ」  玲奈は迷わず答えた。 「美咲さんが受け継ぎ、九条が完成させた本物の澄乃の味として」 「料理に勝った人が、祖母の名前を持てるわけではありません」 「でも世間は、勝った方を本物だと思うわ」  玲奈は糀を見下ろした。 「本当にあなたが後継者なら、逃げる必要はないでしょう。もっとも、勝つのは私だけれど」 「料理をするのは、あなたではありません」  玲奈の頬がわずかに引きつった。 「九条ホテルの料理が勝つのよ。私が勝つのと同じことだわ」 「私には同じだと思えません」  その時、店の引き戸が開いた。  煌が秘書と弁護士を連れて入ってくる。玲奈を見た瞬間、足を止めた。 「玲奈さん。なぜ、ここにいる」 「あなたの婚約者として、ご挨拶に来たの」  玲奈は楽しそうに答えた。 「あなたが何も話していなかったようだから」  煌の顔から表情が消えた。  糀は、本人を見た。 「玲奈さんが、あなたの婚約者だというのは本当ですか」  煌はすぐには答えなかった。  糀を見つめ、何かを言おうと唇を開く。それでも言葉は出ず、一度、口を閉じた。 「……はい」  もう、これ以上驚くことはないと思っていた。玲奈が婚約者だと名乗った時に、いちばん悪い答えは聞いたつもりだった。  けれど、煌の口から聞くのは、まるで違った。  指先から力が抜けた。糀はカウンターの縁をつ
last updateآخر تحديث : 2026-10-08
اقرأ المزيد

第77話 こんなに好きになっていたのに

 煌が引き戸へ向かった。 「待ってください」  帰ってほしいと言ったのは糀なのに、自分から呼び止めていた。  煌が振り返る。 「一つだけ、答えてください」  聞くのが怖かった。  それでも、曖昧なまま帰したくなかった。 「私とキスをした時も、玲奈さんが婚約者だと知っていたんですよね」 「はい」  短い答えだった。 「いつ、話すつもりだったんですか」 「婚約を解消してからです」 「それまで、私は何も知らないまま?」  煌は答えなかった。 「私が知らなければ、それでいいと思ったんですか」 「違います」 「何が違うんですか」 「話せば、あなたが私から離れると思いました」  煌の声は低く、わずかにかすれていた。  糀を見る目には、隠しきれない怖さがあった。 「だから、黙ってキスをしたんですか」 「はい」  糀の手が動いた。  乾いた音が、狭い店に響いた。  煌の顔が横を向く。打った手のひらが、じんじんと痛んだ。  人を叩いたことなどなかった。  けれど、謝ることはできなかった。 「私を、何だと思っているんですか」 「大切な人です」 「大切なら、どうして!」  声を上げた途端、涙があふれた。 「私は、知らないうちに夫を取られました。何も知らずに家族のごはんを作っていた自分まで、馬鹿みたいに思えて……」  涙で煌の顔がぼやけた。 「それを知っているのに、今度は私を、何も知らないまま誰かの婚約者とキスをする人にしたんです」 「すみません」 「どうして、そんなことを私にしたんですか」 「あなたを失いたくなかったからです」  煌は赤くなった頬を押さえず、糀を見ていた。 「知られれば拒まれる。それが怖くて、私が黙っていました」 「ずるいです」 「はい」 「卑怯です」 「分かっています」  嫌いになれたらよかった。  この人も修司と同じだったと思えたら、どれほど楽だっただろう。  けれど、できなかった。  店へ来てくれるのが嬉しかった。何を作れば喜んでくれるか考えた。最初の休日も、その先の約束も、楽しみにしていた。  いつの間にか、自分で思っていたより、ずっと好きになっていた。 「私、あなたのことを、こんなに好きになっていたのに」  声にした途端、涙が止まらなくなった。 「どうして、私が
last updateآخر تحديث : 2026-10-09
اقرأ المزيد

第78話 その代わり、煌さんには二度と会わないで

 翌日、営業を終えた糀は、煌がいつも座っていた席を見た。三席しかないのに、一席が空いているだけで店の中ががらんとして見える。  外で車の音がするたび、引き戸へ顔を向けてしまう。来るはずはない。来ないでほしいと言ったのは糀だ。  それでも、煌がいない店は寂しかった。  糀はスマートフォンを取り出し、煌との画面を開いた。 《ちゃんと、何か食べましたか》  そこまで打って、指が止まった。  心配だと伝えたら、煌はまた来るかもしれない。  それを期待する自分に気づき、文字を一つずつ消した。 ***  その翌日、糀は一人で九条グランドホテルへ向かった。  招待状には、勝負の前に試作料理を確認できるとあった。相手の料理を知らずに条件を決めるつもりはなかった。  ロビーでも、糀は行き交う人の中に煌を探してしまった。  煌は来なかった。  来ないでほしいと告げたのは糀だ。隣に立たれれば、婚約のことを考えてしまう。  それなのに、本当は来てほしかった。  通されたのは、一般客の入れない試食室だった。  白い布をかけたテーブルの奥に、九条ホテルの総料理長、榊原征士郎が立っていた。六十歳近いが、白い調理着には皺一つなく、背筋も伸びている。 「三浦糀さんですね」 「はい」  榊原は糀へ頭を下げた。 「九条家が正当に取得した資料だと聞いています。出所に争いがあることは、昨日知りました」 「祖母の料理を受け継いだのは、美咲さんではありません」 「その点は、ホテルへ確認します」  言い訳も、美咲をかばう言葉もなかった。 「ただし、今日の料理は私が作りました。味については、私にお尋ねください」  運ばれてきたのは、黒毛和牛の炭火焼きだった。  熟成味噌が艶を帯び、肉を切ると中心に赤みが残っていた。  美咲の料理とは違う。  皿を置いた瞬間から、味噌、酒粕、焦がした葱の香りが順に届く。何十年も料理を作ってきた人の一皿だと分かった。  糀は一切れを口へ入れた。 「……おいしい」  和牛の脂がほどけ、そのあとから若い味噌の甘みが来る。最後に、発酵した魚のような深い旨みが残った。  祖母の澄乃返しに近い。  悔しかった。  同じではない。味噌の香りが強く、肉を飲み込んだあとも舌に残る。祖母は肉の味を先に出し、調味料は最後にわずかに残した
last updateآخر تحديث : 2026-10-10
اقرأ المزيد

第79話 もう許さない。あなたの店は、私が必ず潰すわ

「どうするの?」  玲奈は、糀が迷うことまで分かっていたように微笑んでいる。  煌を諦めれば、『澄乃』の名も祖母の資料も戻ってくる。  もう九条と争う必要もない。  それが一番いいのかもしれない。 「私は……」  糀は答えられず、うつむいた。 「迷うことなんてないでしょう。煌さんと二度と会わない。それだけで、あなたは欲しかったものを取り戻せるのよ」  玲奈は糀に考える隙を与えず、畳みかけた。 「煌さんだって、あなたがいなくなれば私のところへ戻る。すべて元どおりになるの」  本当に、そうなのだろうか。  糀は顔を上げた。 「その前に、一つ聞いてもいいですか」 「何?」 「玲奈さんも、煌さんのことが好きなんですか」  玲奈の笑みが止まった。  すぐに答えると思っていた。けれど、玲奈はわずかに目を見開き、糀から視線を逸らした。 「……私は、煌さんの婚約者よ」 「それは知っています」 「なら、聞く必要はないでしょう」  好きだとは言わなかった。  玲奈ほど美しく、家柄も立場も申し分のない人なのに、「好き」とは言わず、自分が婚約者だということしか言わなかった。  玲奈は、煌が好きなのだ。  けれど、煌も同じだとは思っていない。  それなら、自分は玲奈から煌を奪うことになるのだろうか。  修司と美咲にされたことを、今度は自分が玲奈にするのだろうか。  やはり、煌を諦めるべきなのかもしれない。  玲奈は家同士が認めた正式な婚約者だ。糀は離婚したばかりで、蒼太との関係も、三席の店も、ようやく取り戻し始めたところだった。  これ以上、難しい恋へ自分から踏み込む必要はない。  婚約を隠されていたことも、まだ許せなかった。この先、もう一度信じられるのかも分からない。  今ここで約束すれば、もう傷つかずに済む。  そう思った瞬間、煌が座っていた一席が浮かんだ。 《ちゃんと、何か食べましたか》  打ったのに送れなかった言葉まで思い出す。  会わなければ、忘れられるのだろうか。  煌が何を食べたのか、今どこにいるのか、もう気にせずにいられるのだろうか。  無理だった。 「……私も、煌さんが好きです」  玲奈の顔から、笑みが消えた。 「何を言っているの。私が婚約者なのよ」 「分かっています」  糀は、震えそうにな
last updateآخر تحديث : 2026-10-11
اقرأ المزيد
السابق
1
...
345678
امسح الكود للقراءة على التطبيق
DMCA.com Protection Status