جميع فصول : الفصل -الفصل 60

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第51話 ぼくは、パパとくらしたいです

 修司が差し出した紙には、子どもの字で短く書かれていた。 《ぼくは、パパとくらしたいです》  糀は紙を見つめたまま、何も言えなかった。  蒼太の名前を書く練習に付き合ったことがある。少し右へ傾く字も、何度も書き直した跡も、見覚えがあった。 「分かっただろ。蒼太もお前を捨てたんだよ。お前なんかいらないってさ」  修司の声に、糀は顔を上げた。 「蒼太と、直接話をさせてください」 「ここに書いてあるだろうが」 「あなたの説明ではなく、あの子の言葉で聞きたいんです」  弁護士も同じことを求めた。修司が紙を鞄へ戻しても、糀はその要求を取り下げなかった。  蒼太の字を見た夜、糀はほとんど眠れなかった。  翌日、弁護士を通して、蒼太と電話で話す時間が決まった。修司のいない場所で、蒼太の気持ちをもう一度確かめるためだった。 『ママ、昨日のこと聞いた?』 「うん。パパと暮らしたいって書いたんだね」  否定したくなった。  生まれた時から一緒に暮らしてきたことを思えば、どうして、と聞きたかった。  それでも糀は、蒼太の答えを待った。 『学校、変わりたくない。友達もいるし、ぼくの部屋もあるから』 「そうだね」 『パパと暮らしたら、ママに会えない?』  糀は口元を押さえた。  蒼太が父親を選び、母親を拒んだのではない。今の学校と家を失いたくないだけだった。 「会えるよ。ママは離れて暮らしても、蒼太のお母さんだよ」 『でもパパは、ママが店を選んだら会えないって』 「店と蒼太は、交換するものじゃないの」 『ママ、店を取られたら帰ってくる?』 「それは、パパが言ったの?」 『うん。ママは店があるから帰ってこないんだって』  糀はスマートフォンを握り直した。  自分たちがしたことを隠して、店さえなければ母親が戻ると思わせていたのだ。 「帰らないよ」 『ぼくがパパと暮らしても?』 「うん。蒼太がどこで暮らしても、あの家には戻らない。でも、蒼太に会いたい気持ちは変わらないよ」 電話の向こうで、蒼太が鼻をすすった。 『お手伝いさんって言って、ごめんなさい』  前に文字で届いた謝罪を、今度は蒼太の声で聞いた。 「悲しかったよ。でも、謝ってくれたことは嬉しい」
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第52話 どの店より、糀さんの味がいい

「このまま電話を切ったら、あなたがまた一人で泣くと思うからです」  煌はすぐに答えた。 「気になって、仕事が手につきません。今夜は私に付き合ってください」  泣いていたとは、言っていない。  それでも、この人には隠せなかった。  仕事も、九条という大事な相手との予定も変えてまで。  そこまで気にかけてもらえることが嬉しくて、また涙がこぼれそうになった。  けれど、それは煌にとって大事な澄乃の料理人だからなのだろうか。  彼が自分をどう思っているのかは、まだ分からなかった。 「……ありがとうございます。支度をしておきます」  電話を切ってから、糀は顔を洗った。  出かける前、糀は小さな弁当を一つ作った。  煌が外の料理をほとんど食べられないことは、もう知っている。それでも、今日は食べられるかもしれない。  もし食べられなかったら、帰りに渡そう。  包みは、煌に見つからないよう鞄の奥へ入れた。  連れていかれたのは、路地の奥にある古い日本料理店だった。  店へ入ると、白髪の老人が二人を迎えた。糀には知らない人だったが、煌とは古くからの知り合いらしい。 「遅かったな、煌」 「予約の時間には間に合っています」 「その時間の話じゃない」  老人は糀の顔を見たあと、左手首の小さな火傷跡へ目を止めた。 「そうか。この人か」 「余計なことは言わないでください」  なぜ、初対面の自分の火傷跡を見るのだろう。  案内された個室には、糀の膳だけが用意されていた。煌の前に置かれたのは、お茶だった。  やはり、食べられないのだ。  蓋を取ると、澄んだ出汁に鯛と焼きねぎが浮かび、柚子がほのかに香った。  けれど、蒼太とまた一緒に暮らせないかもしれない。その不安が頭から離れず、口へ運んでも味がよく分からなかった。  煌は急かさずに待ってくれた。 「蒼太くんは、何と?」 「今の学校と家を変わりたくないそうです。私にも会いたいと言ってくれました」 「そうですか」 「分かっているんです。あの子が私を嫌いになったわけではないって」  糀は椀を置いた。 「それでも、私を選んでほしかったと思ってしまいました。蒼太を責めたくないのに、そんなことを考える自分も嫌で」 「そ
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第53話 それから、今の続きをします

「離婚が成立したら……何ですか」  そう尋ねながらも、糀は間近にある煌の顔から目を離せなかった。  長い睫毛の下で、黒い瞳が糀だけを見ている。すっと通った鼻筋も、わずかに開いた唇も、目をそらす方が難しいほど近い。  こんな時に考えることではない。それでも、見惚れるほど格好よかった。  煌はすぐには答えず、糀の唇へ視線を落とした。  もう一度、顔が近づく。  けれど、触れたのは唇ではなく、額だった。  やわらかな感触が、ほんの一瞬だけ残った。 「次は、勉強とは言いません」 「では、何と?」 「あなたと食事がしたいと、正直に誘います」  煌の声が低くなった。 「それから、今の続きをします」  額へのキスには、「続き」があるらしい。  そう気づいた途端、糀の顔がさらに熱くなった。  何も答えられないまま見つめ返すと、煌は満足そうに柔らかく笑った。 ***  数日後、次の話し合いで、修司の前から澄乃の資料が消えた。  祖母から相続した店は糀のもの。修司側の代理人も、その点を争わないと明言した。 「なんでだ! あれは俺の店だろうが!」 「瀬川様、何度もご説明しましたが、あの店は三浦澄江さんから糀さんが相続した財産です。あなたの主張に法的根拠はありません」 「この無能が! 俺は店をよこせと言ってるんだ!」  修司側の代理人は、眉ひとつ動かさなかった。 「私も、職務でなければ、瀬川様の代理人を引き受けてはいません」  修司は、自分の代理人をにらみつけた。 「それに、瀬川さん」  糀の弁護士が、静かに口を挟んだ。 「飲食代を払わず帰ろうとし、止めたお客様の襟をつかんだことも、お忘れですか」  修司の顔が強張った。 「店へ無断で入り、店内を荒らした記録も残っています。離婚とは別に、店への無断侵入と店内での暴力については、神楽坂様から手続きを進めるよう依頼を受けています」 「まだあの男を神楽坂社長に見せかける芝居を続けてるのか。弁護士まで雇って、ご苦労なことだな」 「その発言も記録されます。これ以上はお控えください」  修司側の代理人が言うと、修司は顔を赤くした。 「蒼太さんに、『店を渡せばお母様が戻る』と話したそうですね」  弁護士に問われ、修司は顔をしかめた。 「子どもに分かるように説明しただけだ」 「事実で
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第54話 これから私が糀さんを口説きます

 役所の入口に、煌が立っていた。 「神楽坂さん……」 「お迎えに来ました。三浦さん」  戻ったばかりの名前で呼ばれ、胸が熱くなった。  修司が煌をにらんだ。 「やっぱり、もう付き合ってたんだな。離婚する前から男を作ってたのか」 「違います」 「ええ。まだ、お付き合いしていません」  煌がきっぱり否定すると、修司は眉を寄せた。 「まだ?」 「今日、離婚が成立しました。ですから、これから私が糀さんを口説きます」  予告されていたはずなのに、胸が大きく鳴った。  数日前、煌が言った「今の続きをします」は、冗談ではなかったのだ。  煌の視線が、修司から糀へ戻る。  黒い瞳にまっすぐ見つめられると、役所の前にいることも、修司がそばにいることも、一瞬だけ頭から消えた。 「糀さん。覚悟してください」  低い声でそう言われ、額に残っていたキスの感触まで蘇った。  これから、この人に口説かれる。  そう考えただけで、頬が熱くなる。 「離婚したその日に次の男か。母親失格だな」 「不倫相手との再婚のために離婚を急いだ人が言うのですか」  修司の顔が赤くなった。 「糀は家事と料理しかできない地味な女だ。お前だって、すぐに飽きる」 「あなたは、その家事と料理を八年間も受け取りながら、価値が分からなかったんですね」  煌は修司から目をそらさずに言った。 「あなたが古臭いと捨てた料理を、私はどの店のものよりおいしいと思っています。糀さんの料理も、糀さん自身も、私には必要です」  修司は口を開いたが、言葉が出なかった。  煌は糀へ手を差し出した。 「糀さん。今夜、私と食事をしてください」 「……はい」  糀が手を重ねると、煌の長い指が、糀の指の間に入った。  大きな手のひらに包まれ、冷えていた指先へ体温が移ってくる。  煌の親指が、手の甲を一度だけゆっくりと撫でた。  撫でられたところから熱が腕をのぼり、胸まで広がっていく。  煌はつないだ手を一度見てから、糀へ目を戻した。  目元が、嬉しそうにやわらいでいる。  その顔を見たら、糀まで嬉しくなった。 「俺の前で、よくそんなことが言えるな」  煌が修司へ向き直った。 「あなたの許可は必要ありません。糀さんはもう、あなたの妻ではありませんから」 「糀、お前はこの男に騙さ
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第55話 社長、なんでここに……

 翌朝、澄乃糀には、修司の勤務先のコンプライアンス担当者と顧問弁護士が来ていた。  修司の会社は、飲食店へ調味料や加工食品を卸す小さな会社だ。  神楽坂グループとも取引があるが、数ある仕入れ先の一つにすぎない。反対に、修司の会社にとっては、神楽坂との取引を失えば経営に響く大口の相手だった。 「私は、修司に料理の販売を頼んでいません」  糀は、修司へ送ったメッセージを見せた。 《料理は作りません》 《私の店を勝手に使わないでください》 「こちらの案内も、ご存じなかったのですね。瀬川が弊社の顧客企業十社へ送ったものです」  顧問弁護士が、印刷した紙をカウンターへ置いた。 《神楽坂グループ開業支援店・澄乃糀》 《食品事業者限定 特別試食・商談会》 《企画・食材提供 東央フーズ株式会社》 《参加企業の商品は、神楽坂グループ各店への納入候補として審査されます》 「なに、これ……」  思わず声が漏れた。  一人三万円。限定十席。  申込先には、修司の会社である東央フーズのメールアドレスが記されている。 「修司が勝手に、会社の取引先へ神楽坂グループと私の店の名前を使って、お金を取ったということですか?」 「はい。弊社の名刺とメールも使っています」  美咲は、同じ会席を旧『糀ごよみ』でも宣伝していた。  修司が案内を送った相手は、仕事で関わってきた食品メーカーや醸造会社だった。  修司は、煌が本物の神楽坂社長だとは信じていない。  だからこそ、神楽坂の名前を勝手に使っても、本物から抗議されるはずがないと思ったのだろうか。  この案内なら、参加者は、会食に出れば神楽坂グループへ商品を売り込めると思うだろう。  実際は違うと分かった時、文句を言われるのは澄乃糀だ。  修司は、料理だけでなく、その後の苦情まで糀へ押しつけようとしていた。  どこまで馬鹿で身勝手なのだろう。 「澄乃糀が神楽坂さんから開業支援を受けているのは事実です。でも、この会席は承知していません。御社を仕入れ窓口にしたこともありません」 「神楽坂グループ側からも、同じ回答を受けています」  担当者の声は硬かった。 「瀬川は社内で、三浦様の了承を得ている、神楽坂グループにも話は通っていると報告していました。それで弊社は、社名の使用を認めてしまいました」 「私は修
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第56話 これで、会社として判断できる

「勝手に取引を止めるな!」  修司が入ってきた。  その後ろには、美咲と義母もいる。 「瀬川さん。自宅待機中のはずです」 「これは家族の問題だ。会社は関係ない!」  修司は薄い封筒をカウンターへ叩きつけた。 「糀。これに署名しろ。会席も仕入れの話も、お前が頼んだことにすれば全部収まる」  何なの、この人。  自分が勝手に進めた話なのに、その責任まで私に押しつけるつもりなのか。どこまで厚かましいのだろう。 「頼んでいません」 「蒼太を育てる金がなくなってもいいのか!」  糀はスマートフォンを手に取り、録音を始めた。 「蒼太を、あなたの嘘を隠すために使わないで」 「家族を助けると思えばいいでしょう」  義母が封筒から承諾書を出した。  書類には、澄乃糀の店主が会席と食材選定を認めたと書かれている。  承諾日は、昨日だった。 「昨日、私は離婚の手続きをしていました。どうして、昨日の日付で承諾したことになっているんですか」  三人とも、すぐには答えなかった。  背後から、低い声がした。 「瀬川君。君は昨日、店主の承諾をすでに得たと、私に報告したはずだが?」  修司の顔が強張った。  振り返った修司の声が裏返る。 「社長、なんでここに……」  入口に立っていたのは、修司の会社の社長だった。  修司の声から、さっきまでの勢いが消えた。  社長は修司に答えず、カウンターの承諾書を手に取った。  昨日の日付。まだ空白の店主署名欄。その下には、修司の会社が正式な企画者であると印刷されている。 「これが、店主から受け取った承諾書か」 「今、署名をもらうところで……」 「では、昨日の時点では承諾を得ていなかったんだな」  修司が黙った。 「俺は、糀なら最後には引き受けると思っていただけです」 「それを、承諾を得たと報告したのか」 「元妻の店ですよ。家族でやることに、いちいち書類なんて必要ないでしょう」  離婚したばかりなのに、まだ同じことを言う。  修司にとって糀の料理は、頼まなくても使えるものなのだ。  ――なんてゲスなの。  今度こそ、言い逃れはさせない。  自分の嘘を隠すために、蒼太まで盾にした。  怒りで指先が震えた。けれど、今度は黙らない。  八年間使われてきた自分が、さらに嘘までかぶる必要はな
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第57話 神楽坂……社長?

 店内は静まり返っていた。  修司も美咲も口を閉じたのに、義母だけは、社長の怒りが自分たちへ向けられていると分かっていないようだった。  義母は社長に同意を求めるように顔を向け、当然のことを言うように口を開いた。 「だから糀さんが料理を作ればよかったのよね」  義母は美咲をかばうように続けた。 「修司が会社のお客様を連れてきて、美咲さんが宣伝する。糀さんは厨房で料理を作る。それでみんな得をしたのに」  みんなではない。料理を作らされ、返金できない時に責任を負わされるのは糀だけだ。  義母にとって糀の時間と手間は、離婚した今も家族が自由に使えるものなのだ。 「お義母さんも、私が承諾していないと知っていたんですね」 「家族なら、普通は引き受けるでしょう!」 「私はもう、修司の妻でも、お義母さんの家の嫁でもありません」  義母が息をのんだ。 「離婚したからって、八年間の恩まで忘れる気?」 「私が毎日料理を作り、家事をしてきた八年間です。お義母さんに、返せと言われる恩はありません」 「八年間、糀さんに料理を作らせ、家事を任せ、その価値も分からず、感謝もしなかった。それなのに、糀さんのほうが恩を返すべきだと言う。そして今度は、自分たちがついた嘘の後始末までさせるつもりですか」  煌が義母へ冷たい視線を向けた。 「恩を返すべきなのは、糀さんではありません。あなたたちの方です」  義母の顔が引きつった。 「それから、代金を返すのは当然です。勝手に受け取った金を元に戻すだけで、償いにはならない。店と名前を無断で使い、糀さんの信用を傷つけた責任は、そのあとで取っていただきます」  社長が、承諾書をカウンターへ戻した。 「瀬川君は会社へ嘘をついた。高橋さんは、承認がないと疑いながら販売した。お母様は、店主が断っていると知りながら料理をさせようとした」  低い声で、一つずつ確認する。 「三人とも、三浦様が承諾していないと知っていたんですね」  修司は、まだ社長が自分を助けに来たと思っているようだった。 「でも、会社には売上が入る話です。俺は会社のために――」 「今朝、神楽坂グループから、すべての新規発注を停止すると連絡が来た」  社長が遮った。 「うちのような小さな会社が、あの取引を失って平気だと思うのか。君が作ろうとし
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第58話 本物の神楽坂社長

「神楽坂……社長?」  修司は、頭を下げた社長と煌を交互に見た。 「そんなはずない。こいつは、糀に雇われて社長のふりをしているだけで――」 「私は先月、神楽坂グループ本社で、神楽坂社長と直接お会いしている」  社長の言葉に、修司の口が止まった。 「弊社との契約更新にも同席されていた。君が何度も偽物と呼んだこの方が、神楽坂グループの神楽坂煌社長だ」  美咲の手から、スマートフォンが滑り落ちた。  床へぶつかる音がしても、拾おうとしない。 「本当に……神楽坂グループの? 嘘よ。だって、あの神楽坂社長が、糀さんみたいな人のためにここまでするはず……」 「します」  短い一言だった。  煌は美咲へ向けていた冷たい目を糀へ戻した。  その時だけ、目元がわずかにやわらぐ。 「糀さんの店と料理を守るためなら、私はどんなことでもします」  そんなふうに思ってくれていたのだ。  言葉だけではない。煌はもう、店と料理を守るために動いてくれている。糀がずっと一人で守ろうとしてきたものを、同じように大切にしてくれる。そのことが嬉しくて、胸が熱くなった。  社長は、煌の言葉に目を見開いた。 「神楽坂社長ご自身が、一軒の店のためにここまで動かれるとは……」 「当然です」  煌は迷わず答えた。 「この店と糀さんの料理には、それだけの価値があります」  昨日まで偽物だと笑っていた三人が、何も言えず煌を見つめている。  煌は、社長へ視線を戻した。 「謝罪する相手が違います」  社長が顔を上げ、すぐに糀へ向き直った。  そして、さきほどよりも深く頭を下げた。 「三浦様。弊社の社員が、店名と料理を無断で販売し、申し訳ございませんでした。弊社も瀬川の虚偽報告を確認せず、会社名の使用を認めました」 「顔を上げてください」  糀は、謝罪を受けたまま曖昧に済ませたくなかった。 「御社が、私の店を使って仕入れ先を選ぶことはありませんね」 「ありません」 「三万円を払った人を、神楽坂グループへ紹介することも?」 「決してありません」 「では、それを、案内を受け取った全員へ伝えてください。予約金も全額返してください」 「はい。弊社が先に返金し、瀬川と高橋さんには改めて責任を求めます」  謝罪だけで終わらせない。案内を信じた人に訂正を届け、受け
last updateآخر تحديث : 2026-09-20
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第59話 私に、いい考えがあるわ

「支援先の店を利用し、当グループとの取引を売ったのは、御社の社員です」  煌の声には、温度がなかった。 「金を払えば神楽坂グループの仕入れ先になれるのか。すでに複数の業者から確認を求められています」 「申し訳ございません」 「糀さんまで、私の力で客を集め、業者から金を取る料理人だと疑われかねなかった」  煌の目が、さらに冷たくなる。 「私は、それを許すつもりはありません」  煌は、頭を下げたままの社長へ告げた。 「取引停止は、怒りだけで決めたことではありません。御社が被害者への対応と再発防止を終え、失った信用を取り戻せるかを確認します」  一度失った信用は、謝罪だけでは戻らない。糀の店も同じだった。 「糀さんに料理を作らせて損失を埋めるつもりなら、再検討する余地はありません」  修司が青ざめた。  ようやく、自分が傷つけたものの大きさを理解したのだろう。 「でも、会社がやったことじゃない! 俺一人のことで、取引を止めるなんて横暴だ!」 「瀬川!」  社長が怒鳴った。 「その一人に会社の名刺とメールを持たせていた責任が、私たちにはある」  社長は、もう一度煌へ頭を下げた。 「弊社の判断を、今ここでお示しします」  それから、修司へ手を差し出した。 「社員証を返しなさい」 「社長……」 「自宅待機命令を破り、証拠を作るため店主へ虚偽の承諾を迫った。会社への虚偽報告、社名の不正使用、顧客企業からの集金も確認した」 「待ってください。俺は会社の売上を作ろうとしたんです!」 「君との雇用関係は、今日で終わりだ」  修司の唇が震えた。 「懲戒解雇とする。顧客企業への謝罪と返金についても、弁護士を通して責任を取ってもらう」 「そんな……俺には、家のローンも、蒼太の生活もあるんです」 「それを考える人間が、会社を巻き込んで嘘をつくのか」  煌が修司の仕事を奪ったのではない。修司が会社の信用を勝手に使い、自分で失ったのだ。  修司は糀へ振り向いた。 「糀、お前からも言ってくれ。蒼太の父親が無職になってもいいのか」  また、蒼太の名前を使って糀を黙らせようとしている。  けれど、嘘を受け入れることが蒼太のためになるとは、もう思わなかった。母親だからこそ、父親の嘘まで守ってはいけない。 「私は、決めた養育費を払います」
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第60話 これで私たち、社長と女将ね

 その夜、美咲は、修司の前へ一枚の物件資料を置いた。  場所は、澄乃糀の向かいだった。  以前は喫茶店だった小さな店舗で、厨房と客席が残っている。美咲は、修司が会社から持ち帰った私物の箱を押しのけ、資料を広げた。 「居抜きだから、すぐ始められるわ」 「俺は料理なんてできないぞ」 「私ができる。糀ごよみには十万人もいるのよ。三万円の予約だって十人すぐに売れたでしょう」  料理を作るのは誰なのか。  修司が尋ねると、美咲はスマートフォンに保存した料理動画を見せた。 「同じように作ればいいの。最初は安くして、向かいの客を全部こっちへ呼ぶわ」  画面には、糀が八年間かけて投稿した料理が並んでいた。  分量を書いていない動画も多い。それでも美咲は、見た目なら再現できると言い切った。 「店の名前も、糀ごよみを使うのか」 「十万人が知ってる名前を捨てるなんて、馬鹿でしょう?」 「あいつが文句を言ってくるぞ」 「向こうは澄乃糀。こっちは糀ごよみ食堂。別の名前よ」  修司は納得したようにうなずいた。  糀が作った名前を使うことに、二人とも迷いはなかった。  義母が資料を取り上げた。 「店なんて無理よ。修司は仕事を失ったばかりなのよ。蒼太の学費だってあるのに」 「だから店を始めるんです。お義母様の世代と違って、今は発信できる人が勝つんですよ」  美咲は修司へ向き直った。 「退職金はまだでしょう? 今ある貯金を全部、開店に使って」 「全部?」 「一か月で取り返せるわ。私のフォロワーを信用できないの?」  美咲は、開店初日に百人来れば、ひと月で数百万円になると計算した画面を見せた。材料費も家賃も人件費も、ほとんど入っていない数字だった。 「百人分を、誰が作るの?」  義母が聞くと、美咲は笑った。 「私が指示します。修司は接客、お義母様は洗い場。家族なんだから、人件費はかかりません」  義母が眉をつり上げた。 「私をただ働きさせる気?」 「家族で店を手伝うだけです。糀さんにも、そう言っていましたよね?」  義母は言い返せず、口をつぐんだ。  修司も黙った。  会社員ではなくなった自分を、美咲だけは必要としている。そう思いたかった。 「店は二人の名義にする」 「それは無理。解雇されたばかりの人が契約者だと、審査に通りにくい
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