修司が差し出した紙には、子どもの字で短く書かれていた。 《ぼくは、パパとくらしたいです》 糀は紙を見つめたまま、何も言えなかった。 蒼太の名前を書く練習に付き合ったことがある。少し右へ傾く字も、何度も書き直した跡も、見覚えがあった。 「分かっただろ。蒼太もお前を捨てたんだよ。お前なんかいらないってさ」 修司の声に、糀は顔を上げた。 「蒼太と、直接話をさせてください」 「ここに書いてあるだろうが」 「あなたの説明ではなく、あの子の言葉で聞きたいんです」 弁護士も同じことを求めた。修司が紙を鞄へ戻しても、糀はその要求を取り下げなかった。 蒼太の字を見た夜、糀はほとんど眠れなかった。 翌日、弁護士を通して、蒼太と電話で話す時間が決まった。修司のいない場所で、蒼太の気持ちをもう一度確かめるためだった。 『ママ、昨日のこと聞いた?』 「うん。パパと暮らしたいって書いたんだね」 否定したくなった。 生まれた時から一緒に暮らしてきたことを思えば、どうして、と聞きたかった。 それでも糀は、蒼太の答えを待った。 『学校、変わりたくない。友達もいるし、ぼくの部屋もあるから』 「そうだね」 『パパと暮らしたら、ママに会えない?』 糀は口元を押さえた。 蒼太が父親を選び、母親を拒んだのではない。今の学校と家を失いたくないだけだった。 「会えるよ。ママは離れて暮らしても、蒼太のお母さんだよ」 『でもパパは、ママが店を選んだら会えないって』 「店と蒼太は、交換するものじゃないの」 『ママ、店を取られたら帰ってくる?』 「それは、パパが言ったの?」 『うん。ママは店があるから帰ってこないんだって』 糀はスマートフォンを握り直した。 自分たちがしたことを隠して、店さえなければ母親が戻ると思わせていたのだ。 「帰らないよ」 『ぼくがパパと暮らしても?』 「うん。蒼太がどこで暮らしても、あの家には戻らない。でも、蒼太に会いたい気持ちは変わらないよ」 電話の向こうで、蒼太が鼻をすすった。 『お手伝いさんって言って、ごめんなさい』 前に文字で届いた謝罪を、今度は蒼太の声で聞いた。 「悲しかったよ。でも、謝ってくれたことは嬉しい」
آخر تحديث : 2026-09-16 اقرأ المزيد