ログイン結婚8周年の記念に、夫とウェディングフォトを撮るはずだった三浦糀。だが写真館で見つけたのは、夫が別の女と撮ったウェディングフォトだった。帰宅すると、写真の女が自宅に――。 離婚、奪われたSNS、最愛の息子の裏切り、夫の陰謀。すべてを失い、祖母が遺した小さな店へ逃れた糀は、発酵料理で人生を立て直していく。 やがて店は評判を呼び、彼女の前に偏食の外食CEO・神楽坂煌が現れる。 「あなたの料理だけは、食べたいと思える」 裏切りの果てに、料理と新たな愛で人生を取り戻す、大逆転の溺愛ストーリー。
もっと見る神楽坂ホールディングス本社、最上階。
社長室のドアが、ノックの返事を待たずに開いた。 「社長、見つかりました!」 秘書の息が上がっていた。普段なら一枚の資料を置く角度まで乱さない男が、タブレットを両手で差し出している。 画面には、どこにでもあるような家庭の台所が映っていた。 淡い色のエプロンの胸元から下だけが映っている。女の顔は出ていない。小さな鍋の蓋が開き、白味噌を溶いた汁の上で柚子の皮が揺れた。左手首に、小さな火傷跡があった。 あの時の火傷だ。幼いころ、確かに見た。 派手な料理ではない。けれど、手元だけで時間のかけ方がわかる。 『熱いうちではなく、香りがほどけたところで食べてください』 その声を聞いた瞬間、煌の喉が動いた。 古い台所の湯気。味噌の甘い匂い。まだ温かいおにぎり。 「……彼女だ」 アカウント名は『糀ごよみ』。 煌はタブレットを受け取った。 「今すぐ、彼女についてすべて調べろ」 その低い声が、いつか糀を最愛の人と呼ぶ声になることを、この時の彼女はまだ知らない。 *** 同じ日の午前、瀬川糀は写真館の前で足を止めた。 結婚して八年。ようやく、夫の修司とウェディングフォトを撮る日だった。 結婚当時は余裕がなかった。式も写真も後回しにした糀に、修司は言った。 『仕事が落ち着いたら、一番いいプランで撮ろう』 その約束を、糀は八年も大事にしまっていた。 数日前、糀が「そろそろ写真、撮りに行こう」と言ったとき、修司は珍しく機嫌がよかった。 『いいよ。ちゃんと予定を空ける』 普段なら、仕事の返事みたいに短く終わる。結婚記念日に何を作ろうか話しても、返事だけして、ほとんど聞いていない。 それなのに、その日だけは違った。 今朝も修司は「必ず行く」と言った。糀はそれだけで、とても嬉しかった。直前に《仕事の用事が入った。先に行って》と届いても、疑おうとは思わなかった。 先に着替えて待っていればいい。 今日こそ、八年越しの約束を写真に残せる。 糀はシンプルなドレスに袖を通した。 「少し遅れるくらい、いつものこと」 鏡の中の自分に、小さく言い聞かせる。 薄く整えた髪は、少しだけ乾いて見えた。目鼻立ちは、近所でも美人だと評判だった母によく似ていると言われたけれど、今は台所に立つ時間の方が長く、肌の手入れも後回しだった。 少し手をかければ変わるのかもしれない。でも、今の糀には、その少しの時間もなかった。 本当は、今日くらい綺麗に見られたかった。 約束を忘れたわけじゃない。時々、仕事で流れるだけ。話しかけても上の空の夜はあるけれど、八年も夫婦をしていれば、きっとこんなものだ。 「あの……もしかして、『糀ごよみ』を管理されている方ですか?」 隣で待っていた若い女性が、遠慮がちに声をかけてきた。 糀は反射的にスマートフォンを伏せた。開いていた投稿編集画面の端に、アカウント名が見えていたらしい。 「見えてしまって、ごめんなさい」 女性は慌てて頭を下げ、少し笑った。 「この前の小松菜のごま酢浸し、作ってみたんです。簡単なのにおいしくて、栄養もあって。ああいうメニュー、素敵ですね」 「ありがとうございます。家にあるもので作れるものばかりですけど、そう言っていただけると嬉しいです」 糀が驚いていると、女性は本気で残念そうに続けた。 「でも、上級編で載せていらした甘酒トマトドレッシングは、発酵の加減が難しそうで。あれ、売らないんですか?」 その言葉に、胸の奥が少しだけ明るくなった。 「売ることまでは、考えたことがなくて」 そう言いながらも、小さなラベルを貼ったドレッシングが、いつか知らない誰かの冷蔵庫に並ぶ。そんな光景を想像すると、自分の料理が家の外へ届く未来を、初めて信じられる気がした。礼を言い、膝の上のドレスをそっと撫でる。今は、八年越しの約束を写真に残すことだけを考えた。 糀ごよみは、家で褒められない料理を、初めて誰かが待ってくれた場所だった。フォロワーは十万人を超え、広告収益や小さなPR依頼で月に数万円ほど入る。稼ぎというより、自分の料理を誰かに見てもらえている証拠だった。 家では古臭いと言われる料理が、外では誰かに食べたいと言われている。その事実だけで、糀は今日の寂しさを我慢できた。 けれど、修司は来なかった。 仕事が長引いているだけならいい。事故にでも遭っていないかと心配する一方で、こんな大事な日を忘れられていたらどうしようという不安が消えなかった。 スマートフォンはマナーモードにしていなかった。それでも糀は数分おきに画面を確認した。 けれど、新しいメッセージは一向に届かなかった。 三時間後、届いたのは短い連絡だった。 《取引先を迎えに行く。今日は無理。また今度でいいだろ》 謝罪はなかった。 糀はドレスの膝の上で、スマートフォンを伏せた。謝る言葉さえない短いメッセージを見ていると、自分だけがこの日を大切にしていたのだと思い知らされた。カメラマンが気遣うように、館内の写真を見ますかと声をかけてくれた。糀は口元を整え、「お願いします」と頷いた。 壁には、これまでの客の写真が並んでいる。笑い合う夫婦。指輪を見せる二人。 その中の一枚で、呼吸が止まった。 若い男が、白いドレスの女を抱き寄せている。 女の腰に回された手。額が触れそうな距離。写真用の演出ではない。夫婦だけが持つ、遠慮のない近さだった。 「……これ、いつ撮られたものですか」 「八年前の今日ですね」 八年前の六月十五日。 糀が修司と入籍した、その日付と同じだった。 まさか。 そう言おうとした。人違いだと思いたかった。 「……修司さん」 糀の口から、名前が漏れた。 カメラマンは写真を覗き込み、少し考えた。 「修司さん……? ああ、たしかそういうお名前でしたね。お知り合いですか?」 糀は、返事ができなかった。 写真の中で別の花嫁を抱いていた男は――自分の夫だった。店の時計は、もう十時を過ぎていた。 「その香りは……澄江さんの味噌ですね」 煌は布巾の包みを見たまま、喉を一度動かした。 「分かるんですか」 「子どものころに食べました。大人になってからも何度か。同じ材料を揃えさせても、この香りにはならなかった」 それほど祖母の料理を知る人なのに、糀には店で会った記憶がない。尋ねても、煌は過去を話すつもりがないらしい。 けれど、包みから離れられない顔をした祖母の客を、追い出す理由もなかった。 「今夜、誰も食べなかった料理ですけど……一緒に食べますか?」 「いいんですか」 「残り物です」 「食べたいです」 返事が早かった。 布巾をほどく。 豚肩ロース。 茶碗蒸し。 蕪ときゅうりの味噌ヨーグルト漬け。 家で出した時と同じ料理だ。それでも今は、皿へ目を輝かせて待つ人がいる。 祖母の声が浮かんだ。 どんな時でも、ご飯だけはちゃんと食べなさい。 何より大切なのは、まず生きることだから。 夫の裏切りを知った。 息子にお手伝いさんと言われた。 家を出た。 離婚も、蒼太のことも、糀ごよみのことも、何一つ決まっていない。 それでも、食べなければ明日のことを考えられない。 「温めますね」 糀は厨房の道具を確かめ、茶碗蒸しを湯煎にかけた。 豚肩ロースは薄く切り、古い鉄のフライパンで表面だけを軽く焼き直す。 漬物は小皿へ移した。 自分のためだけに食卓を整えることが、ひどく久しぶりだった。 糀はもう一膳と小皿を出した。 糀がカウンターの一席へ座ると、煌も隣の席に腰を下ろした。 「いただきます」 一口食べる。 肉は冷めても固くなっていなかった。 茶碗蒸しの白味噌も、濃すぎない。 いつもの味だった。 朝から何も食べていなかったことに、食べ始めてから気づいた。 運動会では水しか飲めなかった。 家へ戻ってからは、離婚届と書類のことで頭がいっぱいだった。 一切れ飲み込むと、冷えていた指先が少しずつ動くようになった。 泣くことも、怒ることも、これから考えればいい。 今はまず、明日の朝まで体をもたせる。 家族にいらないと言われても、味まで悪くなったわけではない。 「無理に褒めなくていいです」 「無理はしません」
「どうして、あなたがこの店を直しているんですか」 糀が聞くと、煌は階段から立ち上がった。糀の警戒を確かめるように目を細める。 「どうやら、まだ足りなかったようですね」 「何がですか」 「あなたに、私を信じてもらうためにしたことが」 「信じる、ですか」 初対面で、何を考えているのかも分からない相手だ。しかも糀は、ついさっきまで家族に騙されていた。簡単に信じられるはずがない。 それなのに、なぜだろう。煌がほんの少し、がっかりしたように見えた。 けれど、その目は揺らいでいなかった。まるで糀がいつかここへ戻ることを、祖母から聞いていたかのように。 ――何なの、この人は。 「澄江さんから、店の管理を預かっていたからです」 「祖母から?」 「亡くなる少し前に、合鍵と、必要な補修をする権限を預かりました」 「どうして、あなたに?」 煌は、すぐには答えなかった。 「それは、今ここで私の口から話すべきことではありません」 「祖母は、私には何も言いませんでした」 「あなたが自分でここへ戻るまでは、知らせないでほしいと言われていました」 「どうしてですか」 「その理由は、澄江さんが残したものを、あなた自身で確かめてください」 糀は煌の顔を見た。 祖母の判断を当然のように信じる眼差しには、妙な説得力があった。まるで、糀より長く祖母の秘密を預かってきた人のようだ。 けれど、祖母の常連や友人の中に、こんなに若い男性はいなかった。なぜ祖母がこの人を選んだのかは、まだ何も分からない。 「店は、どこまで直したんですか」 「雨漏りと、危険な箇所だけです。看板もカウンターも、澄江さんが残した形をできるだけ残しています」 糀は鞄から自分の鍵を出した。 きしんでいたはずの戸は、前より滑らかに開いた。 店内には、小さな照明がついていた。 古い木の匂いは残っている。 けれど、床は磨かれ、カウンターもきれいになっていた。 カウンターの前には、背もたれのある木の椅子が三脚並んでいた。 古い椅子だったが、座面は新しく張り替えられ、脚も丁寧に磨かれている。 新しく作り替えたのではない。 傷のある柱も、色の濃くなった棚も、そのまま残されている。 糀はカウンターに近づいた。 祖母がいつも布巾で拭いていた場所が、昔
黒い車が見えなくなってから、糀は息を吐いた。 夜の歩道に一人で立っている。 財布の現金は多くない。 糀ごよみの収益口座も、今はどうなっているか分からなかった。 それでも、知らない男性について行くことはできなかった。 祖母の店までなら歩いていける。住宅ではないが、奥には仮眠用の小部屋がある。一晩くらいなら、そこで過ごせるだろう。 子どものころに何度も通った道だ。 糀は鞄を抱え、商店街の方角へ歩き出した。 祖母の周りには、いつも人がいた。 漬物の作り方を教えてほしいという人。 味噌蔵や料理屋の人。 遠くから祖母の料理を食べに来る人。 祖母は来る人を拒まなかった。 教えてほしいと言われれば、惜しまず手を動かして見せた。 その中に、一人だけ、祖母の新しい料理を自分のものとして発表した人がいた。 祖母が何か月も試していた漬け床の配合を持ち出し、先に自分の名前で料理雑誌へ載せた。 祖母の方が盗んだのではないかと疑われた。 誤解が解けるまで、祖母は何度も頭を下げた。 糀は、その背中を見ていた。 だから、理由もなく助けてくれる人はいないと思っている。 優しい顔で近づいた人が、何を欲しがっているのか分からないうちは、信じてはいけない。 煌は祖母のことを知っている。 古い覚書も持っていた。 糀の料理を探していたと言った。 それだけに、警戒しなければならなかった。 角を曲がると、後ろから一定の速さで靴音が聞こえた。 糀が振り返る。 誰もいない。 少し離れた路地に、さっきの黒い車が止まっていた。 その横を、背の高い男が歩いている。 「神楽坂さん?」 糀が声を上げると、煌の足が止まった。 「どうして、歩いているんですか」 「あなたが一人で歩くと言ったので」 「だからって、ついてきたんですか」 煌の後ろから、眼鏡の男性が困った顔で近づいてきた。 「社長。やはり車でお送りした方が早いのでは」 「断られた」 「では、車で後ろから」 「それでは怖がらせる」 「歩いてついていく方も、十分怖いと思います」 煌は黙った。 糀は思わず、ほんの少しだけ息を漏らした。 笑ったのだと気づいて、すぐに口元を押さえる。 家を出てから、初めてだった。 「なぜ
玄関では、煌が糀を待っていた。 「送ります」 煌が言った。 「大丈夫です」 糀は首を振った。 「自分で行きます」 「送ります。あなたが一人で歩けることと、今夜一人で歩かせていいかは別です」 玄関を出ると、冷たい風が頬を打った。 門へ向かう一歩ごとに、八年間守ろうとしてきた暮らしが終わっていく。苦しくても、糀は前を向いた。 「絶対に後悔させてやる!」 背後で修司が怒鳴った。 糀の足が止まる。 けれど、振り返らなかった。振り返れば、また八年間と同じように言いくるめられる気がした。 目の前にいる男が、本当に自分を助けてくれるのかは分からない。 ここを出た先に、今よりひどいことが待っているかもしれない。 それでも、もうこの家には戻れなかった。 玄関の扉を開けた煌が、糀を振り返った。 その視線が、糀の左手首で止まる。 袖口から、小さな火傷跡がのぞいていた。 一瞬だけ、煌の目が揺れた。 どうして、そんな顔をするのだろう。 糀が手首を隠すより先に、煌が手を差し出した。 「行きますよ」 迷っている暇など与えないような口調だった。 糀はその手を見つめたあと、そっと重ねた。 大きな手が、逃がさないように糀の手を握る。 糀は煌に導かれ、八年間暮らした家を出た。 眼鏡の男性が追いついた。 「瀬川氏たちは家へ戻りました。書類の内容も控えました。車は門の前です」 「明朝、法務へ」 眼鏡の男性はうなずいた。 煌は後部座席のドアを開けた。 さきほどタブレットを出した眼鏡の男性が、運転席へ回る。 「乗ってください」 糀は開いたドアの前で足を止めた。 黒い革張りの座席を見た途端、知らない男性の車に乗ろうとしているのだという怖さが込み上げる。それ以上に、蒼太を残した家から、本当に離れてしまうことが苦しかった。 料理の入った鞄を抱きしめ、明かりのついた家を振り返る。 「ここに残れば、また息子さんを使って署名を迫られます」 冷静な声だった。 迷っている糀を慰めるのではなく、今しなければならないことを示すような口調だった。 糀は唇を引き結び、車へ乗り込んだ。煌も反対側から隣に座る。二人の間には、料理の入った鞄一つ分の距離が空いていた。 知らない男性が隣にいることに