LOGIN結婚8周年の記念に、夫とウェディングフォトを撮るはずだった三浦糀。だが写真館で見つけたのは、夫が別の女と撮ったウェディングフォトだった。帰宅すると、写真の女が自宅に――。 離婚、奪われたSNS、最愛の息子の裏切り、夫の陰謀。すべてを失い、祖母が遺した小さな店へ逃れた糀は、発酵料理で人生を立て直していく。 やがて店は評判を呼び、彼女の前に偏食の外食CEO・神楽坂煌が現れる。 「あなたの料理だけは、食べたいと思える」 裏切りの果てに、料理と新たな愛で人生を取り戻す、大逆転の溺愛ストーリー。
View More翌日、営業を終えた糀は、煌がいつも座っていた席を見た。三席しかないのに、一席が空いているだけで店の中ががらんとして見える。 外で車の音がするたび、引き戸へ顔を向けてしまう。来るはずはない。来ないでほしいと言ったのは糀だ。 それでも、煌がいない店は寂しかった。 糀はスマートフォンを取り出し、煌との画面を開いた。 《ちゃんと、何か食べましたか》 そこまで打って、指が止まった。 心配だと伝えたら、煌はまた来るかもしれない。 それを期待する自分に気づき、文字を一つずつ消した。 *** その翌日、糀は一人で九条グランドホテルへ向かった。 招待状には、勝負の前に試作料理を確認できるとあった。相手の料理を知らずに条件を決めるつもりはなかった。 ロビーでも、糀は行き交う人の中に煌を探してしまった。 煌は来なかった。 来ないでほしいと告げたのは糀だ。隣に立たれれば、婚約のことを考えてしまう。 それなのに、本当は来てほしかった。 通されたのは、一般客の入れない試食室だった。 白い布をかけたテーブルの奥に、九条ホテルの総料理長、榊原征士郎が立っていた。六十歳近いが、白い調理着には皺一つなく、背筋も伸びている。 「三浦糀さんですね」 「はい」 榊原は糀へ頭を下げた。 「九条家が正当に取得した資料だと聞いています。出所に争いがあることは、昨日知りました」 「祖母の料理を受け継いだのは、美咲さんではありません」 「その点は、ホテルへ確認します」 言い訳も、美咲をかばう言葉もなかった。 「ただし、今日の料理は私が作りました。味については、私にお尋ねください」 運ばれてきたのは、黒毛和牛の炭火焼きだった。 熟成味噌が艶を帯び、肉を切ると中心に赤みが残っていた。 美咲の料理とは違う。 皿を置いた瞬間から、味噌、酒粕、焦がした葱の香りが順に届く。何十年も料理を作ってきた人の一皿だと分かった。 糀は一切れを口へ入れた。 「……おいしい」 和牛の脂がほどけ、そのあとから若い味噌の甘みが来る。最後に、発酵した魚のような深い旨みが残った。 祖母の澄乃返しに近い。 悔しかった。 同じではない。味噌の香りが強く、肉を飲み込んだあとも舌に残る。祖母は肉の味を先に出し、調味料は最後にわずかに残した
煌が引き戸へ向かった。 「待ってください」 帰ってほしいと言ったのは糀なのに、自分から呼び止めていた。 煌が振り返る。 「一つだけ、答えてください」 聞くのが怖かった。 それでも、曖昧なまま帰したくなかった。 「私とキスをした時も、玲奈さんが婚約者だと知っていたんですよね」 「はい」 短い答えだった。 「いつ、話すつもりだったんですか」 「婚約を解消してからです」 「それまで、私は何も知らないまま?」 煌は答えなかった。 「私が知らなければ、それでいいと思ったんですか」 「違います」 「何が違うんですか」 「話せば、あなたが私から離れると思いました」 煌の声は低く、わずかにかすれていた。 糀を見る目には、隠しきれない怖さがあった。 「だから、黙ってキスをしたんですか」 「はい」 糀の手が動いた。 乾いた音が、狭い店に響いた。 煌の顔が横を向く。打った手のひらが、じんじんと痛んだ。 人を叩いたことなどなかった。 けれど、謝ることはできなかった。 「私を、何だと思っているんですか」 「大切な人です」 「大切なら、どうして!」 声を上げた途端、涙があふれた。 「私は、知らないうちに夫を取られました。何も知らずに家族のごはんを作っていた自分まで、馬鹿みたいに思えて……」 涙で煌の顔がぼやけた。 「それを知っているのに、今度は私を、何も知らないまま誰かの婚約者とキスをする人にしたんです」 「すみません」 「どうして、そんなことを私にしたんですか」 「あなたを失いたくなかったからです」 煌は赤くなった頬を押さえず、糀を見ていた。 「知られれば拒まれる。それが怖くて、私が黙っていました」 「ずるいです」 「はい」 「卑怯です」 「分かっています」 嫌いになれたらよかった。 この人も修司と同じだったと思えたら、どれほど楽だっただろう。 けれど、できなかった。 店へ来てくれるのが嬉しかった。何を作れば喜んでくれるか考えた。最初の休日も、その先の約束も、楽しみにしていた。 いつの間にか、自分で思っていたより、ずっと好きになっていた。 「私、あなたのことを、こんなに好きになっていたのに」 声にした途端、涙が止まらなくなった。 「どうして、私が
糀は白い封筒を開いた。 普通の封筒よりひと回り大きい。真珠のように光る紙の縁を金箔が囲み、中央には九条グランドホテルの紋章を押した赤い封蝋。開いた内側には、深紅の布まで貼られていた。 中のカードも、指で曲げられないほど厚い。四隅には金の飾りが浮き上がり、《公開料理対決への御招待》の文字まで、盛り上がった金色で刷られている。 三席しかない店のカウンターで、招待状だけがぎらぎらと光っていた。料理の勝負に、どうしてここまで金を見せつける必要があるのだろう。 九条グランドホテルで行われる公開料理対決の招待状だった。 同じ黒毛和牛を使い、《澄乃返しを使った発酵和牛料理》を作る。九条ホテル側の料理人は、総料理長の榊原征士郎。開催日は二週間後。調理の様子から審査まで、公式チャンネルで生配信すると書かれている。 「私が断れば、どうするんですか」 「九条ホテルだけで予定どおり販売するわ」 玲奈は迷わず答えた。 「美咲さんが受け継ぎ、九条が完成させた本物の澄乃の味として」 「料理に勝った人が、祖母の名前を持てるわけではありません」 「でも世間は、勝った方を本物だと思うわ」 玲奈は糀を見下ろした。 「本当にあなたが後継者なら、逃げる必要はないでしょう。もっとも、勝つのは私だけれど」 「料理をするのは、あなたではありません」 玲奈の頬がわずかに引きつった。 「九条ホテルの料理が勝つのよ。私が勝つのと同じことだわ」 「私には同じだと思えません」 その時、店の引き戸が開いた。 煌が秘書と弁護士を連れて入ってくる。玲奈を見た瞬間、足を止めた。 「玲奈さん。なぜ、ここにいる」 「あなたの婚約者として、ご挨拶に来たの」 玲奈は楽しそうに答えた。 「あなたが何も話していなかったようだから」 煌の顔から表情が消えた。 糀は、本人を見た。 「玲奈さんが、あなたの婚約者だというのは本当ですか」 煌はすぐには答えなかった。 糀を見つめ、何かを言おうと唇を開く。それでも言葉は出ず、一度、口を閉じた。 「……はい」 もう、これ以上驚くことはないと思っていた。玲奈が婚約者だと名乗った時に、いちばん悪い答えは聞いたつもりだった。 けれど、煌の口から聞くのは、まるで違った。 指先から力が抜けた。糀はカウンターの縁をつ
玲奈は、糀をまっすぐ見た。 「私は、煌さんの婚約者よ」 婚約者。 糀は、何を言われたのか分からなかった。 『九条家の人です』 昨夜、玲奈との関係を尋ねた時、煌はそう答えた。嘘ではなかった。けれど、いちばん大事なことを隠していたのだ。 その意味が分かった瞬間、さっと血の気が引いた。 足に力が入らなくなり、糀はカウンターへ手をついた。 煌に料理を認めてもらい、キスをして、最初の休みに会う約束までした。そのどこにも、玲奈の話はなかった。 「正式な婚約です。両家の事業にも関わっているわ」 玲奈は糀の反応を確かめるように続けた。 「あなたとキスをした時も、あなたとの休日を丸一日空けた時も、煌さんは私の婚約者だった」 別の女性といた修司を知った時の痛みを思い出した。 今度は自分が、知らないうちに婚約者のいる男性とキスをしていた。 修司に裏切られた自分が、今度は別の女性を傷つける側になっていたのだろうか。 そう考えると、息が苦しくなった。 頬に触れた煌の親指も、「一日、糀さんを独占します」と言った声も、「宿泊で予約を取っても?」と尋ねた時の熱い目も思い出した。嬉しかった記憶のすべてに、知らなかった事実が重なっていく。 あの時、嬉しいと思った自分まで責められているようで、胸が痛んだ。 それでも、玲奈へ謝ることはできなかった。 糀は、婚約のことを何も知らされていなかった。 煌と玲奈がどんな約束をし、煌が何を考えていたのかは、本人に確かめなければ分からない。 「どうして黙っていたのか、気になるでしょう?」 「神楽坂さんとのことは、本人に聞きます」 糀はカウンターに手を置いた。 声を震わせたくなかった。 「九条ホテルの企画について話してください」 玲奈は少し不満そうな顔をした。泣いたり、言い訳をしたりする糀を期待していたのかもしれない。 「いいわ」 玲奈は鞄から透明な袋を取り出した。 中には、黄ばんだ一枚の紙が入っていた。見間違えるはずがない。祖母の字だった。 《若味噌六、古味噌四。和牛、四十八時間》 右下には、小さな墨の点が三つある。 祖母は、うまくいかなかった試作の頁に、墨の点を三つつけていた。 これは完成した作り方ではない。 玲奈は、それに気づいていないらしい。