『ママのご飯は古臭いからいらない』と言われた発酵食インフルエンサー、夫に捨てられたので料理店を開いたら、偏食CEOに溺愛されました

『ママのご飯は古臭いからいらない』と言われた発酵食インフルエンサー、夫に捨てられたので料理店を開いたら、偏食CEOに溺愛されました

last update最終更新日 : 2026-08-26
作家:  悠・A・ロッサたった今更新されました
言語: Japanese
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概要

三人称

スカッと

ざまぁ

離婚

CEO・社長・御曹司

結婚8周年の記念に、夫とウェディングフォトを撮るはずだった三浦糀。だが写真館で見つけたのは、夫が別の女と撮ったウェディングフォトだった。帰宅すると、写真の女が自宅に――。 離婚、奪われたSNS、最愛の息子の裏切り、夫の陰謀。すべてを失い、祖母が遺した小さな店へ逃れた糀は、発酵料理で人生を立て直していく。 やがて店は評判を呼び、彼女の前に偏食の外食CEO・神楽坂煌が現れる。 「あなたの料理だけは、食べたいと思える」 裏切りの果てに、料理と新たな愛で人生を取り戻す、大逆転の溺愛ストーリー。

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第1話

第1話 八年前の花婿

 神楽坂ホールディングス本社、最上階。

 社長室のドアが、ノックの返事を待たずに開いた。

「社長、見つかりました!」

 秘書の息が上がっていた。普段なら一枚の資料を置く角度まで乱さない男が、タブレットを両手で差し出している。

 画面には、どこにでもあるような家庭の台所が映っていた。

 淡い色のエプロンの胸元から下だけが映っている。女の顔は出ていない。小さな鍋の蓋が開き、白味噌を溶いた汁の上で柚子の皮が揺れた。左手首に、小さな火傷跡があった。

 あの時の火傷だ。幼いころ、確かに見た。

 派手な料理ではない。けれど、手元だけで時間のかけ方がわかる。

『熱いうちではなく、香りがほどけたところで食べてください』

 その声を聞いた瞬間、煌の喉が動いた。

 古い台所の湯気。味噌の甘い匂い。まだ温かいおにぎり。

「……彼女だ」

 アカウント名は『糀ごよみ』。

 煌はタブレットを受け取った。

「今すぐ、彼女についてすべて調べろ」

 その低い声が、いつか糀を最愛の人と呼ぶ声になることを、この時の彼女はまだ知らない。

***

 同じ日の午前、瀬川糀は写真館の前で足を止めた。

 結婚して八年。ようやく、夫の修司とウェディングフォトを撮る日だった。

 結婚当時は余裕がなかった。式も写真も後回しにした糀に、修司は言った。

『仕事が落ち着いたら、一番いいプランで撮ろう』

 その約束を、糀は八年も大事にしまっていた。

 数日前、糀が「そろそろ写真、撮りに行こう」と言ったとき、修司は珍しく機嫌がよかった。

『いいよ。ちゃんと予定を空ける』

 普段なら、仕事の返事みたいに短く終わる。結婚記念日に何を作ろうか話しても、返事だけして、ほとんど聞いていない。

 それなのに、その日だけは違った。

 今朝も修司は「必ず行く」と言った。糀はそれだけで、とても嬉しかった。直前に《仕事の用事が入った。先に行って》と届いても、疑おうとは思わなかった。

 先に着替えて待っていればいい。

 今日こそ、八年越しの約束を写真に残せる。

 糀はシンプルなドレスに袖を通した。

 「少し遅れるくらい、いつものこと」

 鏡の中の自分に、小さく言い聞かせる。

 薄く整えた髪は、少しだけ乾いて見えた。目鼻立ちは、近所でも美人だと評判だった母によく似ていると言われたけれど、今は台所に立つ時間の方が長く、肌の手入れも後回しだった。

 少し手をかければ変わるのかもしれない。でも、今の糀には、その少しの時間もなかった。

 本当は、今日くらい綺麗に見られたかった。

 約束を忘れたわけじゃない。時々、仕事で流れるだけ。話しかけても上の空の夜はあるけれど、八年も夫婦をしていれば、きっとこんなものだ。

「あの……もしかして、『糀ごよみ』を管理されている方ですか?」

 隣で待っていた若い女性が、遠慮がちに声をかけてきた。

 糀は反射的にスマートフォンを伏せた。開いていた投稿編集画面の端に、アカウント名が見えていたらしい。

「見えてしまって、ごめんなさい」

 女性は慌てて頭を下げ、少し笑った。

「この前の小松菜のごま酢浸し、作ってみたんです。簡単なのにおいしくて、栄養もあって。ああいうメニュー、素敵ですね」

「ありがとうございます。家にあるもので作れるものばかりですけど、そう言っていただけると嬉しいです」

 糀が驚いていると、女性は本気で残念そうに続けた。

「でも、上級編で載せていらした甘酒トマトドレッシングは、発酵の加減が難しそうで。あれ、売らないんですか?」

 その言葉に、胸の奥が少しだけ明るくなった。

「売ることまでは、考えたことがなくて」

 そう言いながらも、小さなラベルを貼ったドレッシングが、いつか知らない誰かの冷蔵庫に並ぶ。そんな光景を想像すると、自分の料理が家の外へ届く未来を、初めて信じられる気がした。礼を言い、膝の上のドレスをそっと撫でる。今は、八年越しの約束を写真に残すことだけを考えた。

 糀ごよみは、家で褒められない料理を、初めて誰かが待ってくれた場所だった。フォロワーは十万人を超え、広告収益や小さなPR依頼で月に数万円ほど入る。稼ぎというより、自分の料理を誰かに見てもらえている証拠だった。

 家では古臭いと言われる料理が、外では誰かに食べたいと言われている。その事実だけで、糀は今日の寂しさを我慢できた。

 けれど、修司は来なかった。

 仕事が長引いているだけならいい。事故にでも遭っていないかと心配する一方で、こんな大事な日を忘れられていたらどうしようという不安が消えなかった。

 スマートフォンはマナーモードにしていなかった。それでも糀は数分おきに画面を確認した。

 けれど、新しいメッセージは一向に届かなかった。

 三時間後、届いたのは短い連絡だった。

《取引先を迎えに行く。今日は無理。また今度でいいだろ》

 謝罪はなかった。

 糀はドレスの膝の上で、スマートフォンを伏せた。謝る言葉さえない短いメッセージを見ていると、自分だけがこの日を大切にしていたのだと思い知らされた。カメラマンが気遣うように、館内の写真を見ますかと声をかけてくれた。糀は口元を整え、「お願いします」と頷いた。

 壁には、これまでの客の写真が並んでいる。笑い合う夫婦。指輪を見せる二人。

 その中の一枚で、呼吸が止まった。

 若い男が、白いドレスの女を抱き寄せている。

 女の腰に回された手。額が触れそうな距離。写真用の演出ではない。夫婦だけが持つ、遠慮のない近さだった。

「……これ、いつ撮られたものですか」

「八年前の今日ですね」

 八年前の六月十五日。

 糀が修司と入籍した、その日付と同じだった。

 まさか。

 そう言おうとした。人違いだと思いたかった。

「……修司さん」

 糀の口から、名前が漏れた。

 カメラマンは写真を覗き込み、少し考えた。

「修司さん……? ああ、たしかそういうお名前でしたね。お知り合いですか?」

 糀は、返事ができなかった。

 写真の中で別の花嫁を抱いていた男は――自分の夫だった。

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第2話 写真の女が今、息子の隣で笑っている
 返事をしようとしても、糀の喉は動かなかった。 驚きより先に、八年間信じてきたものが崩れる怖さがこみ上げた。「ご親族の方ですか?」 カメラマンに声をかけられ、糀は返事を探した。 違います。 夫です。 どちらも言えなかった。「すみません。少し、見せてください」 糀は写真の下に添えられた小さなプレートを見た。 八年前の六月十五日。 入籍の手続きを終えた日、糀は市役所の帰りに修司と小さな蕎麦屋へ入った。式も写真もない代わりに、せめて何か食べようと修司が言ったからだ。『俺についてきて、苦労をかけたな。仕事が落ち着いたら、ちゃんと埋め合わせる』 湯呑みを両手で包みながら、糀は頷いた。『そのときは、糀にちゃんとドレスを着せる。今日、我慢させた分まで』 あのときの修司は、優しかった。 市役所の窓口で糀の旧姓が消えたあと、少し照れた顔で「瀬川糀か」と呟いた。その声を、糀はずっと覚えていた。 その声があったから、八年間、信じてこられた。 撮れなかったのではなく、いつか撮る約束がある。 選ばれなかったのではなく、時期を待っているだけ。 そう思っていた。 結婚してすぐのころ、修司は残業で遅くなっても、台所に立つ糀を後ろから抱きしめた。『糀の味噌汁を飲むと、帰ってきたって思う』 具は豆腐とわかめだけでいいと言いながら、鍋の前に立つ糀の背中へ、仕事の愚痴を少しだけこぼした。糀はその声を聞きながら、火を弱めるタイミングを測った。 あのころは、家族を作っている途中だと思っていた。 時間をかければ、味がなじむ。 人も、家も、同じだと信じていた。 写真の中の女の横顔に、どこかで見たような気がした。けれど、名前は出てこなかった。 仕事先で見た人かもしれない。 店に来た客かもしれない。 ただ、まったく知らない人だと言い切れない。 その曖昧さが、糀を余計に苦しくさせた。 修司は仕事で誰かを迎えに行くと言った。取引先の都合で、断れない用事だったのかもしれない。写真だって、何かの企画かもしれない。八年前の今日という日付も、たまたま重なっただけかもしれない。 そう考えなければ、その場に立っていられなかった。 蒼太の顔が浮かぶ。 今年八歳になる息子は、今朝も「パパ、ちゃんと来るかな」と言っていた。糀が「来るよ」と答えると、安心したように牛乳を飲
last update最終更新日 : 2026-08-15
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第3話 どうして、この女が私の家にいるの
「今までどこにいたの」 義母が眉をひそめた。 糀は玄関に立ったまま、リビングのソファを見ていた。 美咲は蒼太とソファに並び、糀が買ったブロックで大きな家を作っていた。蒼太は美咲に肩を寄せ、楽しそうに笑っている。 どうして、この女が私の家にいるの。 いつの間に、私の息子とこんなに親しくなったの。「ぼんやりしないで、早く化粧を落としてご飯を作りなさい。美咲さんをお待たせしているのよ」「でも、私は客が来ることは聞いていません」 義母の眉がつり上がった。「でもじゃないわよ。いつも口答えばかり」「約束もなしに訪問したこちらが悪いんです。今日は、修司さんに急に誘われて」 美咲は、とりなすように言った。 腹が立った。「そんな急に……」 結婚記念日なのに。 朝、修司の好物を買い、蒼太の好きな味も仕込んだ。写真館から帰ったあと、家族で八年目の夜を囲むつもりだった。冷蔵庫には、みんなで食べる小さなケーキも用意してあった。 そこへ、八年前の写真にいた女が座っている。「私たち、仕事で知り合って、もう十年来の友人ですし。一緒に祝わせてもらおうかと」 糀は言葉を飲み込んだ。 私たちの結婚記念日を祝うために来たの? それとも、これは最初から、修司と美咲のためのものだったの? 十年来。  その言葉が、写真館の日付とつながった。 糀は両手を強く握りしめた。爪が手のひらに食い込む。 突然、小さな手がその拳を包んだ。顔を上げると、蒼太が笑っていた。 その手は、熱を出した夜に何度も握った小さな手だった。振りほどくことなどできない。蒼太に呼ばれれば、どれほど傷ついていても、糀は母親に戻ってしまう。「ママ、お腹すいた」 蒼太は糀の手を握ったまま言った。「美咲さんも来るって聞いてたから、楽しみにしてたんだ。早くご飯にして」 自分の息子まで、美咲が来るのを楽しみにしていた。いったい誰が母親なの。そう叫びたかった。それでも空腹の蒼太を前にすると、糀の足は台所へ向かった。これは妻としてだけではない。母親としての戦いでもあった。 淡い色のエプロンをつけ、朝から用意していた食材を出した。鏡の前で整えた顔のまま、糀は台所に立った。 塩麹ローストポーク。甘酒トマトドレッシングの温野菜。醤油麹そぼろの手まりおにぎり。 そぼろは甘めに煮て、蒼太が前におかわりした味
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第4話 この人たちは、あなたの家族じゃない。
 修司の指が止まった。美咲も一瞬だけ目を見開く。二人の間に、短い沈黙が落ちた。「今する話か。美咲も蒼太もいるんだぞ」 修司は糀を見ず、テーブルの上の酒瓶へ手を伸ばした。「だから聞いているの。どうして私に黙っていたの?」「子どもの前だ。騒ぐな。あとで説明する」「糀ちゃん、誤解よ」 美咲は声だけを柔らかくした。膝の上では、指先が固く組まれている。「誤解なら、どうして二人とも答えないの?」 修司は面倒そうに息を吐き、「あとにしろ」と話を切った。 食卓の中央には、美咲のグラタン、ペンネ、カップサラダが置かれた。 義母は糀の皿を端へ押した。手まりおにぎりの皿が、テーブルの縁ぎりぎりで止まる。「美咲さん、ここ座って。蒼太の隣がいいでしょう」 修司、義母、蒼太、美咲。 四人が座ると、糀の椅子はなかった。「糀さん、お茶をお願い」 糀は湯呑みを運び、取り皿を出し、スプーンを並べた。蒼太がソースをこぼすと、義母が布巾を要求した。「糀ちゃんも座って」 美咲はそう言いながら、自分の席を少しも動かなかった。 糀は台所から折りたたみ椅子を運び、テーブルの端に置いた。修司は場所を空けようともせず、「早く食べよう」と美咲の皿を取った。「美咲さんのご飯、お店みたい」 蒼太がグラタンを頬張って笑う。「蒼太、そのおにぎり、前は好きだったでしょう」「今は、美咲さんの料理の方がいい」「ママのご飯、もういらない」 糀は返す言葉をなくし、蒼太の前のおにぎりを見つめた。 蒼太は、小皿の手まりおにぎりを端へ寄せた。「これ、もう下げて」「はいはい。嫌いなものを無理に食べなくていいのよ」 義母は小皿を取り上げると、台所のゴミ袋へ中身を落とした。 ぽとり、と湿った音がした。 蒼太の好きだった甘いそぼろを詰めた手まりおにぎりが、生ごみの上で崩れた。 糀は空いた小皿を持ったまま、ゴミ袋の口を閉じた。 食べ物には何の罪もない。家族のために作ったものまで、どうしてこんな扱いを受けなければならないの。 もう、この家から消えてしまいたかった。この残酷な義母と美咲の顔を、二度と見ずに済む場所へ。 美咲は、食卓の中央に並べた自分の料理をきれいに撮ろうと、スマートフォンを構えた。 画面をのぞきながら、空いた手で、脇に置かれた糀の皿をさらに押しやろうとする。 糀は、自
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第5話 あいつはぼんやりしているからな
「話したいことがあります」 糀が言うと、書斎の中で椅子を引く音がした。「今じゃないと駄目か」 修司の声は、面倒な用件を押しつけられた時のものだった。 また、この面倒そうな口調……。 全部、自分の仕業なのに。 糀は扉を開き、スマートフォンを机の上に置いた。画面には、写真館で見つけた八年前のウェディングフォトが映っている。 修司は、ウェディングドレス姿の美咲の腰へ手を回していた。写真の下には、糀と修司が婚姻届を出した日と同じ日付が残っている。美咲の笑顔は、今日、家で見たものと何も変わらなかった。「今日、写真館で見ました。八年前の写真です。あなたと、美咲さんが、ウェディングドレスとタキシードで写っていました」 修司の目が、一瞬だけ細くなった。 けれど次の瞬間、彼は笑った。「衣装を着て撮っただけだろ。仕事上、必要だっただけだ」「お店の人は、美咲さんのことを奥様と言っていました」「店の人間の記憶を鵜呑みにするのか」 修司はそう言ったきり、糀から目をそらした。 その一瞬のためらいが、答えのように思えた。「やっぱりそういうことなの? だから言わなかったんだ」「美咲は十年来の友人だ。お前が勝手に騒げば、仕事に響く」「……どれだけ大切な取引相手でも、一緒にウェディングフォトを撮る必要なんてないでしょう。妻の私とは、一度も撮ったことがないのに。今日来なかったのも、美咲さんのためだったの?」 今日の撮影のため、糀は何週間も前から衣装を選んでいた。修司が来ないまま予約時間が過ぎても、仕事なら仕方がないと自分に言い聞かせた。その修司が、美咲とは八年前に夫婦のような写真を残していた。「男は仕事を優先するものだ。お前みたいな女には分からないだろうな」「じゃあ、もし彼女があなたに『一緒に寝てほしい』と言ったら?『息子を私に渡して』と言ったら? それでも受け入れるの?」「お前、いつからそんな女になったんだ。狂ってんのか」 糀は信じられなかった。 目の前でこんな言葉を吐いている男が、かつて自分が愛した夫だなんて。 彼が昔くれた言葉が、頭の中に蘇る。「一生、お前を幸せにする」「誰もお前には敵わない」 男女の間に、本当に「既婚者だと分かっていてウェディングフォトを撮るほどの友情」なんて存在するのだろうか。「それに、蒼太の前で、美咲さんを母親みたい
last update最終更新日 : 2026-08-15
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第6話 もうあの人の古臭い料理を食べるふりもしなくていいのね
「本当に? 写真館で奥様って言われたって聞いた時、笑いそうになったのを思い出した」 糀は息を止めた。笑い声まで聞こえる距離なのに、二人は糀に聞かれる可能性など考えていなかった。「あんな昔の写真で騒ぐ方がおかしい」 頭を殴られたような衝撃で、心臓がどきどきした。 そのとき、友人と何気なく話していたことを思い出した。 浮気の証拠があれば、記録しておいた方がいい。 聞いた時は、まさか私がと思っていたのに。 それでも、糀はエプロンのポケットからスマートフォンを出した。 台所の明かりは消えている。カーテンの隙間からレンズだけを門の方へ向け、録画ボタンを押した。「今さらウェディングフォトなんて」「あいつはずっと楽しみにしてたらしい。断ってたんだが、君の部屋で過ごせて気分がよくてつい」「でも、写真館で待ちぼうけなんてかわいそうだったかな」「あいつは待つのに慣れてる」 美咲が、小さく笑った。「それに、蒼太くんも私の方になついてる」「もういいだろう。あいつも、そろそろ自分がいらないって気づく。君が彼の母親になるんだから」 いらない。 私が。 糀は冷たくなった指先で窓枠をつかんだ。 叫びたかった。 修司が本当に、私たちの息子にあの女を『ママ』と呼ばせるつもりだなんて。 私……どうしてこんな人を好きになったんだろう。「それで、離婚はいつなの?」「近いうちに署名させる。生活費なんて出さなくても、蒼太に会わせると言えば聞く。何でも言うことを聞いてきた女だ」「じゃあ、もうあの人の古臭い料理を食べるふりもしなくていいのね」「ああ。大変だっただろう? さっきは仲良くしているふりをしてくれてありがとう」「ううん。修司と早く一緒になるためなら、何だってするわ」 そう言って、修司は美咲の唇にキスを落とした。 糀は、あまりの衝撃に言葉を失った。 ただの友人って、キスまでもするの? じゃあ、彼女に求められたら、彼女と寝るよね。 いや……もう、とっくに関係を持っていたのでは? さっき、彼女の部屋で過ごしたと言っていた。 その時、美咲の声が糀の思考を遮った。「それより、あのアカウントも本当にもらえるの? 糀ごよみなんてダサい名前で、中身も地味だけど、フォロワー数だけは使えるわ」「まず管理者を変える。あいつが騒いでも、家計のために俺が管理して
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第7話 保護者名の欄には、あの女の名前
 蒼太の声を聞いた瞬間、目の奥にたまっていた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。 糀は慌てて涙を拭った。 何があっても、蒼太は自分の息子だ。 振り返り、無理に笑顔を作る。「洗って畳んであるよ。連絡袋も見せて」「いい。美咲さんに見てもらう」 糀の手が止まった。「連絡袋は、ママが見るものだよ」「でも美咲さん、運動会のお弁当、かわいくできるって」 運動会。 糀は連絡袋を受け取り、中のプリントを開いた。《運動会のお知らせ》 家族弁当の時間と、保護者競技の案内が書かれている。 蒼太が一年生の時、糀は塩麹唐揚げと甘い卵焼きを作った。蒼太は友達に「うちの唐揚げ、おいしい」と言ってくれた。 あの時の顔を、糀はまだ覚えている。「蒼太、今年のお弁当は何がいい?」「美咲さんが、カップに入ったオムライス作ってくれるって」「ママも作るよ。前に好きだった塩麹の唐揚げとか、醤油麹のそぼろとか」「地味なのはやだ」 蒼太はスマートフォンを取り出した。 画面には、美咲から送られてきたらしい弁当の画像が並んでいる。赤いピック。キャラクターの旗。丸いカップに入ったオムライス。「みんなに見せるなら、こっちがいい」 蒼太はその画面を、糀ではなく美咲へ送り返した。《これがいい》 すぐに返事が来た。《任せて。蒼太くんが一番目立つお弁当にするね》 蒼太は嬉しそうに笑った。「美咲さん、すごいでしょ。ママのは、予備でいいよ」 糀はプリントを持ったまま、声を荒げないように息を整えた。「食べたいものを選ぶのはいい。でも、ママが作るって言ったものを笑わないで」「笑ってない」「さっきも、おにぎりを捨てたでしょう」「ばあばが捨てたんだよ」 蒼太は悪びれずに言った。 その言い方が、修司に似ていた。 義母がリビングに入ってきた。「さっきから何を揉めているの」「運動会のお弁当の話です」「美咲さんに任せたらいいじゃない。若い人の方が、子どもが喜ぶものを分かっているわ」 糀はプリントを畳んだ。「私も作ります」「また古臭いものを?」「蒼太に食べさせるためだけじゃありません。私が、母親として作りたいんです」 義母は鼻で笑った。「意地を張るところを間違えているわね」 糀は言い返さなかった。 食べさせるために押しつけるのではない。 美咲と競うためでもない。
last update最終更新日 : 2026-08-15
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第8話 隣のおばさんは誰?
「母」 まさか、実の息子がほかの女を母親として受け入れるなんて。 糀は頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱されたようで、息ができなかった。 誰もいない家の中で、とうとう声を押し殺すのをやめた。 床に座り込んだ。「うわああん……!」 自分でも驚くほど大きな泣き声が、誰もいない家に響いた。 家族の前では泣けなかった。 蒼太には「ママは泣き虫」と言われる。 修司には「何もできない」と思われる。 義母には、またほかの家の嫁と比べられる。 いつからだろう。自分の周りにいる家族が、誰一人、自分の味方ではなくなったのは。 良い妻になろうとした。良い母親になろうとした。良い嫁になろうとした。 そうすれば、いつか愛してもらえると思っていた。 それなのに、最後に残ったものは裏切りだけだった。 糀は祖母のことを思い出した。 かつて自分も、家族に愛される子どもだった。 本当に、自分を愛してくれる人に出会える日は来るのだろうか。 けれど、まだ終わっていない。 祖母が残してくれた店がある。 たとえアカウントを奪われても、また新しく始められる。 たとえ蒼太を奪われても、取り戻す道はある。 自分こそが、あの子の本当の母親なのだから。 涙で濡れたエプロンを干し、糀は台所へ向かった。明日のための食材を準備し始める。*** 翌朝、糀は夜明け前に起きた。 台所の明かりをつけ、漬けておいた鶏もも肉を冷蔵庫から出す。塩麹の匂いが、まだ暗い台所に広がった。 蒼太が好きだった唐揚げ。 甘い卵焼き。 醤油麹で味をつけたそぼろ。 小さな人参を星の形に抜いて、すき間に詰める。 派手ではない。 美咲が送ってきた画像のように、赤いピックもキャラクターの旗もない。 それでも、蒼太が小さいころは、これで喜んでくれた。「うちの唐揚げ、おいしいんだよ」 一年生の運動会で、蒼太は友達にそう言った。 あの時、糀は朝早く起きてよかったと思った。 今日も同じように思えるだろうか。 それでも、これは終わりではない。これから自分の手で、状況を変えていく。 弁当箱を包み、保冷バッグに入れる。 玄関では、蒼太が新しい帽子をかぶっていた。隣には修司が立ち、スマートフォンを見ている。義母は日傘を手に、もう出かける用意を済ませていた。「お弁当、持ったよ」 糀が言うと、蒼太はち
last update最終更新日 : 2026-08-15
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第9話 うちのお手伝いさん
 蒼太は一瞬だけ糀を見た。「うちのお手伝いさん」 糀の体が固まった。 近くにいた保護者が、気まずそうに視線をそらした。別の母親は、美咲と修司を見てから、糀の胸元にある保護者用の名札へ目を移した。 否定してほしかった。修司が「この人が蒼太の母親です」と、たった一言言ってくれればよかった。 けれど、修司はカメラの画面を見たままだった。義母も、蒼太の間違いを直そうとはしなかった。 修司は止めなかった。 義母は「子どもは正直ね」と笑った。 美咲だけが、困ったような顔を作った。「私も嬉しいけど、そんなこと言ったら、糀ちゃんがかわいそうよ」 その言い方が、いちばん嫌だった。*** 昼休みの前に、糀は蒼太を校舎裏へ連れていった。「どうして、あんなことを言ったの」「怒らないで」 蒼太は帽子のつばを握った。「みんなのママは綺麗で、いい匂いがするんだよ。ママのお弁当の匂いで笑われたら嫌だった」「誰かに、そう言われたの?」「美咲さんが、発酵の匂いは子どもにはきついって。友達に変だと思われるかもって」 昨日まで食べていたものが、美咲の一言で、蒼太にとって恥ずかしいものへ変わっていた。 糀が毎朝考えてきた味より、美咲の言葉の方を蒼太は信じた。そのことが、料理を捨てられた時より苦しかった。 その少し前、台所のゴミ箱に、蒼太の弁当が捨てられていたことがあった。 塩麹豚も、酒粕ポテトサラダも、小さく切ったままだった。 忙しくて食べる時間がなかったのだと思っていた。 ふたが開いて、落ちてしまったのかもしれない。 味が濃かったのかもしれない。量が多かったのかもしれない。 そうやって、理由を探していた。 でも、本当は。 蒼太は、あの女に、糀の料理は恥ずかしいものだと吹き込まれていたのではないか。 料理は、私にとって家族への愛情そのものなのに。 許せない、あの女。 怒りと悲しみが同時にこみ上げ、目の奥が熱くなった。*** 昼休み、糀の弁当はバッグの中に入ったままだった。 蒼太は美咲の作ったオムライスを口いっぱいに頬張り、修司は写真を撮っていた。義母は「こういう華やかさが必要なのよ」と言った。 また、この光景だった。 まるで、修司と美咲と義母と蒼太こそが本当の家族で、自分だけがそこから取り残されているようだった。 糀にはもう食欲がな
last update最終更新日 : 2026-08-15
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第10話 最後の晩ご飯
 台所には、朝から仕込んでおいた夕食がある。糀が仕上げにかかろうとすると、修司が口を開いた。「飯の前に話がある」 修司の前には、署名済みの離婚届が置かれていた。「署名しろ。まずはそれからだ」 修司は食卓の椅子に座った。 義母はすでに上座に座っている。美咲は当然のように修司の隣へ腰を下ろし、蒼太は美咲のスマートフォンをのぞき込んでいた。 糀の席は、またなかった。 離婚を考えなかったわけではない。 それでも、いざ目の前に離婚届を突きつけられ、修司からここまで強い態度を取られると、簡単には受け入れられなかった。 八年間積み重ねてきた家族の時間が、最初からなかったことにされようとしていた。 糀は、離婚届に触れなかった。「まず、ごはんの支度をします」「こんなときに飯か」 修司が眉をひそめた。「今さら?」 義母が眉をひそめた。「美咲さんが持ってきてくださったものがあるのよ」 食卓の中央には、美咲の総菜が並んでいた。デパ地下の惣菜らしい透明なふたに、彩りのいいサラダとローストビーフが入っている。「最後なんだから、好きにさせてあげたら」 美咲が笑った。「どうせ、私の料理が選ばれるけど」 糀は台所へ入った。 どうすればいいのか、分からなかった。 ウェディングフォト。離婚届。蒼太の顔。運動会で言われた「お手伝いさん」。 全部が一度に押し寄せて、何から考えればよいか分からない。 それでも、包丁を持つと少しだけ息ができた。 料理をしている間だけ、少し心が落ち着いた。 糀は朝から塩麹に漬けておいた豚肩ロースを焼き、白味噌を隠し味にした茶碗蒸しを蒸した。味噌とヨーグルトを混ぜた床から、蕪ときゅうりを取り出す。 最後に、この家へ出す料理だった。 家族に、おいしいものを食べてもらいたい。その一心で、一皿ずつ作り上げてきた大切な時間。それが、糀にとっての料理だった。 料理は、家族へ愛を伝える方法であり、糀が自分であるためのものでもある。だから最後の一皿まで、雑には作りたくなかった。 肉の火入れを見て、茶碗蒸しの表面を確かめ、漬け床から野菜を上げる。いつも通りに整えることだけが、今の糀にできる反抗だった。 糀は皿を食卓へ運んだ。「塩麹の豚肩ロース。白味噌を隠し味にした茶碗蒸し。蕪の味噌ヨーグルト漬け」 蒼太は、美咲のローストビーフを
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