All Chapters of 結婚記念日に夫と愛人のウェディングフォトを見つけました。離婚した私、偏食CEOに溺愛され元夫が復縁を迫ってきてももう遅い: Chapter 61 - Chapter 70

80 Chapters

第61話 あの日の続きを、しても?

 正式開店まで、あと十日。  その日の営業準備を終えた糀は、カウンターへ二つ並んだ弁当箱を見て、目を丸くした。 「今日は私が作るつもりだったのに」 「先週から、あなたは私と食事をする約束を三度延期しています」  煌は、いつものスーツ姿で糀の向かいに立っていた。  離婚が成立した日に誘われていた。けれど修司の無断販売が発覚し、返金や会社への説明が続いた。昨日も、店に残った書類の整理で夜になった。 「今日こそ、仕事の続きではなく、私と食事をしてください」  煌が箱を開く。焼き魚と、青菜のおひたし、白いご飯。派手な料理ではない。糀が仕込みの途中にも食べやすいものを、秘書に頼まず煌が選んだという。 「神楽坂さんは、食べられるんですか」 「あなたと一緒なら、少しは」  糀が心配そうに見ると、煌は箸を取った。 「今日は私の食事より、あなたの食事です。さっきから立ちっぱなしでしょう」  そう言われて、糀はようやく椅子へ座った。自分の店で、誰かが用意した夕食を食べるのは久しぶりだった。  修司と暮らしていた頃は、どんなに遅く帰っても、台所へ立つのは糀だった。献立を考えることも、食べ終わった皿を片づけることも、当たり前のように糀の仕事になっていた。  煌は紙の包みから温かい味噌汁を出し、糀の前へ置いた。 「熱いので、気をつけて」  糀は一口飲んだ。自分の作る味とは違う。それでも、食べる人のことを考えて選ばれた一杯だと分かった。 「おいしい……」 「よかった」  煌がほっとした顔をする。その顔が見たくて、糀はもう一口飲んだ。 「神楽坂さんも、食べてください」 「食べています」 「さっきから私の皿ばかり見ています」  煌は少し驚いて自分の弁当へ目を戻した。糀は笑って、もうひと口食べた。誰かの食事を用意する役ではなく、同じ食卓で食べることを楽しんでいる。そう気づくと、肩の力が抜けた。  食事のあいだ、修司の解雇にも、返金の書類にも触れなかった。煌は正式開店の日に出す料理を尋ねた。糀が鯛の出汁の話をすると、焼き魚を食べる手を止めて聞く。 「仕事の相談みたいですね」 「あなたが好きな話を聞きたいだけです」  糀は箸を置いた。 「料理の話ばかりでも?」 「ええ。でも、料理をしないあなたのことも知りたい」  煌がまっすぐに見てくる。糀は
last updateLast Updated : 2026-09-22
Read more

第62話 社長とのキスを、悪女の証拠にされました

 糀はすぐには答えられなかった。断りたいわけではない。自分も続きを望んでいる。それなのに、いざ返事をしようとすると、まだ知らないことが気になった。  祖母と煌の間に何があったのか、なぜ自分を探していたのか。聞けていないことがいくつもある。  この人のことを、どこまで知っているのだろう。  そう思うと少し怖かった。  頬に添えられた親指が、ほんの少し動いた。その温かさに、また煌の顔を見てしまう。視線はすぐに唇へ落ちた。怖いと思ったばかりなのに、そこから目をそらせなかった。  その手が離れてしまうのは、もっと嫌だった。煌が好きだ。迷いながらも、糀は煌の手に自分の手を重ねた。 「……はい。私も、待っていました」  煌の顔がゆっくり近づいた。触れる直前、吐息が糀の唇にかかった。くすぐったさに息を止めると、柔らかな唇がそっと重なる。  押しつけるような強さはなかった。それでも、触れた感触は思っていたよりはっきりと残った。糀がどう応えればいいのか考える前に、煌はわずかに顔を離した。  ほんの短いキスだった。もう終わりなのかと、名残惜しく思った自分に糀は驚いた。煌の顔は近いままで、糀はもう一度、その唇を見た。  煌も糀を見つめていた。その目に、いつもの余裕はなかった。糀は待っていられなかった。  今度は自分から顔を上げた。煌の腕が糀の腰へ回り、もう一度唇が重なる。さっきよりも長く、ゆっくりと。糀は彼の手を握ったまま、目を閉じた。  家では、料理を作ってほしいときにばかり呼ばれていた。今、煌は食事の皿を見ていない。自分に触れたいと思ってくれたことが、糀は嬉しかった。  唇が離れても、すぐには言葉が出なかった。煌の腕は糀を抱いたままで、糀もその場から動きたくなかった。 「今の続き、ですね」 「まだ、続けたい」  低い声に、糀は笑ってしまった。自分も同じ気持ちだったからだ。  煌の腕の中にいると、今すぐ何もかも答えてしまいたくなる。帰らないでほしい。明日も会いたい。さっきまで言えなかったことが、次々に浮かんだ。  けれど、カウンターの端には正式開店の日に出す献立表が置いてある。あと十日で、この三席に初めて客を迎える。蒼太との次の面会日も、まだ決まっていない。  嬉しさの勢いだけで煌に返事をして、二人で過ごす最初の日を慌ただしく終わらせたくなかった
last updateLast Updated : 2026-09-23
Read more

第63話 どうして、うちの店を撮っているんですか

 糀は旧「糀ごよみ」の投稿を保存し、煌と弁護士へ送った。  布団に入っても、眠れなかった。  煌とキスをしたことは、後悔していない。引き戸の前でもう一度唇を重ねたときは、誰かに見られているなど考えもしなかった。  悔しいのは、その写真に嘘を添えられたことだ。  翌朝、煌が店へ来た。  昨夜のことを思い出し、糀の頬が熱くなる。けれど、煌が手にしていたのは、あの投稿を印刷した紙だった。 「会社にも問い合わせが来ています」 「すみません。私との写真のせいで」 「謝らないでください」  煌は紙をカウンターへ置いた。 「迷惑をかけたのは、写真に嘘を添えた人間です。修司さんとの取引を止めたのも、解雇を決めたのも、あなたではありません」 「でも、私と神楽坂さんが一緒にいたから、こんな書き方をされて」 「昨夜のことを隠すつもりはありません」  煌は迷わず言った。 「あなたを口説いたのは私です。キスをしたことまで、なかったことにはさせません」  糀は胸が熱くなった。投稿を見てから、写真に写った自分を責められているような気がしていた。 「私も、なかったことにしたくありません」  煌の厳しかった目が、少しだけやわらいだ。 「では、嘘だけを訂正します」  取引を止めるまでの記録は、神楽坂グループに残っている。修司を解雇したのは東央フーズの判断だ。問い合わせには、その二つをそのまま説明すると煌は言った。  その日の夜、向かいの元喫茶店に、また明かりがついた。  窓は紙で覆われ、中の様子はほとんど見えない。それでも、人影が何度も横切った。翌朝には、入口の段ボールが昨日より増えていた。  新しい借り手が決まっただけかもしれない。  糀はそう思おうとした。  けれど、キスの写真は道の向かい側から撮られていた。明かりを見るたび、投稿した人がまだ近くにいるようで落ち着かなかった。  三日後、業務用の冷蔵庫と調理台が運び込まれた。  料理の店だったら嫌だな。  考えるより先に、そう思った。別の店ができることが嫌なのではない。澄乃糀の真向かいで、こちらと同じ時期に料理の店を始めようとしている。それが偶然とは思えなかった。  糀が仕込みをしていると、引き戸の外に人影が止まった。  帽子を深くかぶった人物が、スマートフォンを暖簾へ向けている。次に入口
last updateLast Updated : 2026-09-24
Read more

第64話 この泥棒が

 四日後、澄乃糀は正式開店の日を迎えた。  糀が暖簾を掛けると、道の向かいにも新しい看板が出た。 《糀ごよみ食堂 店主・高橋美咲》  嫌な予感は当たった。  糀は看板の前で足を止めた。八年間、自分が料理を投稿し、少しずつ育ててきた名前の横に、美咲が店主と書かれている。  勝手に奪われた。そのことが、ただ悔しいだけではなく、腹立たしかった。  写真を撮り、元夫の仕事を奪ったと書いた人が、今度は自分の名前で真向かいに店を開いたのだ。  美咲は、わざわざ同じ日に店を開いた。  店頭には赤い旗が並び、《開店記念・全品半額》と大きく書かれている。  旧「糀ごよみ」でも、朝から何度も宣伝していた。 《古臭いだけの高級料理に、一万二千円も払う必要はありません》 《同じ発酵料理を、もっと安く、もっとかわいく》  向かいには、開店前から列ができた。  糀は、予約帳と向かいの列を交互に見た。こちらも三席は予約が入っている。なのに、列が伸びるたび、自分の店だけ取り残されたように感じた。  その時、予約客から一件のメールが届いた。 《向かいのお店なら、同じような料理が半額以下だと聞きました。本日の予約を取り消してください》  糀は画面を見たあと、予約帳へキャンセルと記した。  三席のうちの一席だ。たった一件ではなかった。名前を消すために引いた線が、予約帳の上に残った。  明日以降も空席が出たらどうしよう。値段を下げれば、今日の客は戻るだろうか。  家でも、糀の料理は古臭い、美咲の方が今の時代に合っていると言われた。その言葉を、店の向かいからもう一度突きつけられたようだった。  一万二千円を払ってまで、本当に自分の料理を食べたい人がいるのだろうか。  向かいの列を撮り終えた美咲が、修司と義母を連れて暖簾の前へ来た。 「見て。開店初日から、こんなに並んでるの。糀さんのほうは?」  修司が、糀の手元の予約帳を見た。 「客は正直だな。高い金を出してまで、お前の飯を食いたくないってことだ」 「だから私たちの言うことを聞けばよかったのよ」  義母が言うと、美咲は一瞬だけ顔をしかめた。けれどすぐに、向かいの列を指さして笑った。 「もう、糀さんがいなくてもお客さんは来るんです」  糀は予約帳の消した名前に目を落とした。一席を失った痛みは消えない。そ
last updateLast Updated : 2026-09-25
Read more

第65話 最愛の人へ

 一人の予約客を奪われたからといって、残る二人に出す料理まで変えるつもりはなかった。糀は予約帳を閉じた。  店先には、開店前に届いた三鉢の白い胡蝶蘭が並んでいる。  朝、店へ着いた糀を待っていたのは、最後の一鉢を壁際へ寄せる花屋の女性だった。 「神楽坂様からです。三席のお店だから三鉢、入口を塞がないように並べてほしいと承っております」  花に添えられた封筒には、短い言葉が書かれていた。 《最愛の人へ。  開店おめでとうございます。  遅くなっても、必ず伺います。 煌》  最愛の人。  まだ付き合うという返事さえしていない。それなのに、煌は迷いなくそう書いていた。  恥ずかしいのに、糀は何度もその言葉を読み返してしまった。  会議があるため、来られるのは営業が始まってからだと聞いていた。それでも煌は、開店前から糀を驚かせた。  糀は封筒を店の奥へしまい、厨房へ戻ろうとした。  そのとき、通りの向かいから美咲の声が飛んできた。  美咲は店先で列の客を案内していたが、こちらの胡蝶蘭に気づくと、わざわざ客にも聞こえるように声を張った。 「立派なお花。社長の庇護があるお店は違いますね。でも、うちはそんなものがなくても、これだけお客さんが並ぶ本物ですから」  列に並ぶ何人かが、糀の店を振り返った。 「あれが、料理を盗んだっていう店?」 「社長に店まで用意してもらったらしいよ」  小声でも、細い道を挟んだだけの糀には聞こえた。  本当に、そう思われているのだ。料理も名前も盗まれたのは、糀のほうなのに。  悔しい。  今すぐ、違うと叫び返したかった。  でも、どちらが本物かは、花でも行列でもなく、料理を食べた人が決めることだ。  出汁を引き直し、鯛へ醤油麹を薄く塗る。  焦ったまま味や値段を変えれば、美咲の思うつぼだ。  三席だからこそ手をかけられる料理だ。向かいの値段を見て、作り方を変えるつもりはない。  昼を過ぎても、向かいの列はなくならなかった。  夕方になり、入口の引き戸が開くたび、糀はキャンセルした客が戻ってきたのではないかと振り向いた。  最初に入ってきたのは、上品な年配の女性と、その娘だった。  短く整えた白髪に、紺のジャケット。年配の女性は店の前で一度だけ立ち止まり、暖簾を見上げてから入ってきた。隣には、
last updateLast Updated : 2026-09-26
Read more

第66話 大事な話があります

「大事な話があります」 「大事な話?」 「はい。ですが、その前に」  煌は、空いた席に置かれたままの箸へ目を向けた。 「キャンセルが出たんですか」 「一人だけ。向かいの店なら半額だからと」  煌の表情から笑みが消えた。 「その一人分は、まだありますか」 「あります」 「では、私を開店初日の客にしてください」  糀が頷くと、煌は使われなかった一席へ座った。  いつもと変わらず上質なスーツを着て、表情にも乱れはない。けれど、近くで見ると呼吸がわずかに速かった。会議を終え、急いで来てくれたのだ。  向かいには、まだ行列が残っている。けれど煌は一度も振り返らず、糀が用意した膳だけを見た。  糀は、先ほどの二人へ出したものと同じ椀を置いた。煌のために飾りを増やすことも、量を変えることもしなかった。  煌は出汁を一口飲み、ゆっくりと椀を置いた。 「この味は、何にも代えがたいです」 「大げさです」 「大げさではありません。私が食べられる料理は、ほとんどない。けれど、あなたの料理は、食べられるだけではない。もう一口ほしいと思えます」  煌はもう一度、椀へ口をつけた。 「そのうち、私以外の大勢もそう思います。あなたの料理は、まだ見つけられていないだけです」  向かいの行列を見て、キャンセルの連絡を受け、自分の料理に一万二千円の価値があるのか何度も不安になった。  だから、煌の言葉が素直に嬉しかった。 「お花、ありがとうございました」 「気に入りましたか」 「三鉢も届くとは思いませんでした」 「あなたが守った三席と、同じ数にしたかったので」  糀は、封筒に書かれていた言葉を思い出した。  意味を聞きたい。でも、自分から「最愛の人」と口にするのは恥ずかしかった。  煌がもう一口、出汁を飲む間にも、糀は何度も口を開きかけた。  結局、気になったままにはできず、思い切って尋ねた。 「あの、最愛の人というのは……」 「書き間違いではありません」  煌は少しも照れず、糀を見た。 「まだ、お返事をしていないのに」 「知っています。あれは返事を求める言葉ではなく、私の気持ちです」  まっすぐ言われ、糀の頬が熱くなった。花を見たときよりも、煌本人を前にした今のほうが、言葉の意味を強く感じた。 「間に合ってよかった」 「向かいは
last updateLast Updated : 2026-09-27
Read more

第67話 写真と全然違うじゃない

 画面を見た瞬間、今度は不安よりも怒りが勝った。  澄乃糀を選んだ客だけを狙い、奪おうとしている。  糀はすぐに告知を保存し、弁護士と共有しているフォルダへ送った。  悔しさを我慢して終わらせるつもりはなかった。  翌日も、《糀ごよみ食堂》の前には列ができた。  ただし、店の中から聞こえる声は、昨日とは違っていた。 「注文してから一時間ですよ」 「写真と全然違うじゃない」  糀は澄乃糀の戸口から、向かいを見た。開いたままの窓のそばで、美咲が皿を持ち上げ、何度もスマートフォンを向けている。料理を待つ客の顔は、もう笑っていなかった。  美咲が修司へ何か言い、修司が皿を持って客席へ走る。湯気は見えなかった。  糀は厨房へ戻った。向かいを見ていても、自分の客に出す料理は仕上がらない。  けれど、出汁を温めている間も、通りの声が耳に入る。 「ご飯がないぞ」 「炊けばいいでしょう」 「今から炊いたら、また一時間かかる!」  修司の怒鳴り声だった。  昨日は行列を見て、美咲の料理が自分の料理より選ばれたのだと思った。  でも、違う。客が食べたかったのは、美咲の料理ではない。糀が八年かけて「糀ごよみ」に投稿してきた料理だ。  それを食べられると信じて並んだ人たちが、今、騙されたと怒っている。美咲に騙されたのは、糀だけではなかった。だから、怒る客を見ても嬉しいとは思えなかった。  昼過ぎ、向かいの店を出た女性が、澄乃糀の暖簾の前で立ち止まった。 「ここは、向かいと同じお店ですか」 「違います。こちらは澄乃糀です。料理も店主も別です」  糀が答えると、女性はスマートフォンを見せた。美咲が載せた塩麹焼きの写真と、女性の前に実際に出された皿の写真が並んでいる。肉の色も、添えられた野菜も違った。 「前の糀ごよみで見た料理は、もっとおいしそうだったんです。これは塩辛くて、半分も食べられませんでした」  女性は、注文した時刻と料理が運ばれた時刻も見せた。一時間以上たっていた。  糀は旧アカウントに投稿した元の一皿を思い出した。塩麹に漬ける時間も、焼き上げてから出すまでの時間も、写真だけでは伝わらない。  美咲は、写真にどう写るかばかり気にして、客が口にする料理の味を考えていない。いかにも美咲らしいと、糀は思った。 「『糀ごよみ』は、もともと
last updateLast Updated : 2026-09-28
Read more

第68話 ママのごはん、食べたい

「もういい! お義母様なんか、明日から来なくていい!」  向かいの店から聞こえた美咲の叫び声に、糀は窓の外を見た。  義母が割れた皿を片づけようとすると、美咲がその手からほうきを取り上げた。修司も二人の間に立つ。店内の客が見ているのに、美咲は声を抑えなかった。 「私は手伝ってあげているのよ」 「皿を割って、客に文句を言う人は邪魔なんです」 「何ですって」 「世代が違うから、今の店のやり方が分からないんですよ」  義母の顔色が変わった。  糀に何度も言った言葉だ。古い料理しか作れない、今の人には合わない。今度は義母が美咲から同じように切り捨てられている。 「修司。この女に何か言いなさい」 「母さん、今は美咲の言うとおりにしてくれ。俺の貯金が全部かかってるんだ」  義母は黙った。修司にまで退けられるとは思っていなかったのだろう。  糀は窓を閉めた。義母が気の毒だからではない。自分の客の料理を、美咲たちの口論で冷ましたくなかった。  夕方、保健所の名札をつけた二人が来た。向かいの店名を確かめ、中へ入っていく。  美咲がどんな届け出をしたのか、糀には分からない。何を確認しに来たのかも分からなかった。自分の店の仕込みを続けるしかない。  やがて向かいの戸が開き、義母が鞄を抱えて出てきた。後ろから美咲がついてくる。 「お店だけじゃなく、家でも口を出されると困ります。しばらくご実家へ戻ってください」 「私の家よ!」 「修司と私が結婚したら、私たちの家です」  修司は義母と目を合わせなかった。 「母さん、今日は帰ってくれ」  糀は鍋の火を弱めた。  八年間、家の仕事を全部糀へ任せてきた義母が、今度は自分の息子に家から追い出される。ざまあみろ、とだけは思えなかった。蒼太は、あの家でどうしているのだろう。  義母が通りを渡り、澄乃糀の暖簾へ近づいた。 「糀さん。修司を説得してちょうだい。あなたの言うことなら、あの子も聞くでしょう」  何を考えているのだろう。糀を家から追い出したくせに、自分が困った時だけ嫁のように頼るなんて、あまりにも図々しい。  修司が糀の言葉を聞くはずもない。何より、糀はもう瀬川家の中を取り持つ役ではない。 「私はもう瀬川家の嫁ではありません。お義母さんと修司さんの話は、ご自分たちでしてください」  義母は何
last updateLast Updated : 2026-09-29
Read more

第69話 ぼくが、いらないって言ったから

「ママのごはん、食べたい」  蒼太の声を聞いた途端、糀は返事ができなかった。ずっと聞きたかった言葉だった。もう二度と、蒼太には自分の料理を食べてもらえないと思っていた。  けれど、目の前の子は給食から何も食べていない。先に温かいものを出そう。 「すぐ作るね。ここに座っていて」  糀はカウンターの一席を指した。蒼太が椅子によじ登るのを見てから、手を洗い、冷蔵庫を開ける。  塩麹に漬けた鶏ひき肉が残っていた。蒼太が熱を出したとき、喉を通りやすいように何度も作った、やわらか煮にできる。客へ出すために蒸したかぼちゃと、チーズも少し残っている。蒼太が好きだったみそチーズ焼きにできる。味噌汁は今夜の客へ出したものを温め直せばいい。  熱を出して何も食べたがらなかった蒼太が、このつくねだけは二つ食べた。その日のことを、糀は今も覚えている。 「あの、鶏のやつ?」 「覚えてたの」 「うん。前に、熱が出たときの」  糀は小さく丸めた鶏つくねを鍋へ入れた。蒼太は手を洗いに行き、戻るとカウンターから湯気を見つめている。  美咲がどうやってこの料理を知ったのかは、まだ分からない。けれど、蒼太がどれくらいの大きさなら食べられるか、何度火加減を変えたかは、糀が覚えている。  蒸したかぼちゃに薄く味噌を塗り、チーズをのせて焼く。表面に焼き色がつくと、味噌とチーズの香ばしい匂いが立った。白いご飯を盛り、温めた味噌汁を添える。空腹の蒼太には、まず柔らかく温かいものを食べさせたかった。 「どうぞ」  皿を置くと、蒼太の目が丸くなった。 「これ、ぼくの好きなやつ」 「覚えていたの?」 「うん。ママが作ってくれたやつ」  声を出すと震えそうで、糀は笑って頷いた。  蒼太は鶏つくねを一つ口へ入れた。噛んで、飲み込む。 「……これ」  糀は返事を待った。蒼太に弁当を受け取ってもらえなかった運動会も、「古臭い」と言われた食卓も思い出した。早く感想を聞きたいのに、聞くのが怖かった。 「ママの味だ」 「そう」  嬉しくて、声がかすれた。  蒼太は次の一つを食べた。かぼちゃにも箸を伸ばし、ご飯をかき込む。 「ゆっくり食べて。なくならないから」 「うん」  返事をしたのに、また急いで食べる。糀は味噌汁の椀を蒼太の手元へ寄せた。  半分ほど食べたところで、蒼太の箸
last updateLast Updated : 2026-09-30
Read more

第70話 やっぱり、お前のほうがよかった

「蒼太! 勝手に出歩くなと言っただろ。帰るぞ」  大きな声に、蒼太の肩が揺れた。  自分が夕飯を食べさせずに放っておいたのに、蒼太を心配するより先に怒鳴るなんて。  なんて人なのだろう。  糀はすぐに二人の間へ入った。 「怒る前に、答えてください。どうして蒼太に夕飯を食べさせなかったんですか」 「店が忙しかったんだ。客がいるのに、いちいち子どもの飯まで作っていられるか」 「蒼太は、おなかがすいたと伝えたそうです」  蒼太が糀の後ろから顔を出した。 「パパに言ったよ。給食から何も食べてないって」 「あとで食わせるつもりだった」 「何時に?」  糀が尋ねると、修司は答えなかった。 「蒼太は待ちきれず、一人で道路を渡ったんです。もし車が来ていたら、どうするつもりだったんですか」 「大げさなんだよ。無事だっただろ」 「無事だったから、放っておいてよかったことにはなりません」  修司は舌打ちし、カウンターに並んだ空の皿を見た。 「全部食べたのか」 「うん。鶏つくねも、かぼちゃのみそチーズ焼きも食べた」  蒼太の返事を聞き、修司は黙った。 「……美咲は店のことで余裕がないし、母さんまでいなくなった。家の中は散らかったままだ。蒼太の飯まで俺が考えなきゃならない」  自分で考えるのが当然だと、どうして分からないのだろう。  修司はしばらく空の皿を見つめてから、糀へ顔を向けた。 「やっぱり、お前のほうがよかった」 「はい?」  糀は耳を疑った。  美咲を選び、糀を家から追い出した。そのあと会社をクビになり、美咲と始めた店もうまくいかない。家の中まで回らなくなり、蒼太に夕飯すら食べさせられなかった。  すべて、修司が自分で選んだ結果だ。 「……戻ってこいよ」  何を言っているのだろう。  この人は、本当に頭がおかしいのではないか。  自分で美咲を選んでおきながら、うまくいかなくなったから糀に戻れと言う。そんな身勝手な話があるわけがない。 「嫌です。あなたが必要なのは、料理を作り、掃除をして、蒼太の世話をする人でしょう。私ではありません」 「夫婦なら、そのくらいするのが普通だろ」 「私たちは、もう夫婦ではありません」  修司の顔が歪んだ。 「蒼太には会います。ごはんも作ります。でも、あなたの妻には二度と戻りません」
last updateLast Updated : 2026-10-01
Read more
PREV
1
...
345678
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status