All Chapters of 追放された辺境の妻は、敵国の女将軍になった: Chapter 11 - Chapter 20

38 Chapters

第11話:仮の宿と正体の一端

党吉に案内された先は、城下町の奥にある武家屋敷だった。 門は厚い。庭は広い。安宿とは格が違う。それでも奈世は、門をくぐった瞬間から肩の力を抜かなかった。立派な屋敷ほど、中で何をされるかわからぬ。 「今夜はここに泊まる。俺の主の世話になる」 党吉がそう言った。 「主とは、どなたで」 「今知る必要はない。ときが来れば、自ずとわかる」 はぐらかされた。奈世はそれ以上聞かず、ただ屋敷の造を目に焼き付けた。逃げ道。窓の位置。使用人の数。源次も同じように、こわごわと周囲を見回している。 「姫様、ここは……本物の武家屋敷でござりまするな」 「わかっておる。気を抜くな」 「抜いておりませぬ。膝が、勝手に抜けそうなだけで」 膝を震わせている源次の様子に気づき、党吉が後ろで大笑いした。 「ガッハッハ。馬から落ちなくてよかったな、細い武人。今度は屋敷の敷居で転ぶなよ」 「転びませぬ。転ぶなら、せめて誰も見ていないところで」 「今、俺が見ておるぞ」 「だから転ばぬ、と申しております」 他愛無いやり取りをしているうちに、寝所、厠、湯殿と、一通り案内される。源次と奈世は別室だった。安宿よりは遥かに整っている。 それでも奈世は警戒を解かなかった。広間で食事を振る舞われている際も、湯殿にて肩まで湯に浸かっている間もだ。 (生き返る……などと言うておる場合ではなかろうな) 湯は熱い。身体は温まる。だが、温まったところで安心してはならない。門が開いたのも、屋敷へ招かれたのも、善意ではあるまい。野介があれほど簡単に関所も城門も通した以上、この男たちは最初から何かを知っている。 湯から上がり、部屋に戻る。源次の部屋は隣だった。心もとないついたてなどではなく、厚い壁と閉じた扉がある。それでも奈世は短刀を枕元に置いた。 隣室から、源次の小さな声が壁を隔てて聞こえる。 「……姫様、湯加減はいかがでござったか」 「熱かった。お前は」 「熱すぎまして、飛び退きました」 「お前は湯にも馬にも弱いのか」 「……そういう言い方は酷いでござる」 「戯言だ。お前も得意であろう。言い返してみよ」 「かようなところまで来て、戯言など言う気力も失せたでござる。姫にも殴
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第12話:軍議の外聞と転ぶ練習

翌朝、屋敷の空気が変わっていた。使用人の足音が早く、庭先を通る武者の数が昨日より明らかに多い。門の外では馬の嘶きが絶えず、遠くで太鼓のような音も聞こえる。端毬では大きな軍議が開かれようとしていた。帝国の北進への対応。武将ごとの利害。誰が先鋒を取り、誰が兵糧を出すか。城下町全体が、その一点に向かって引き締まっている。奈世は庭の縁側に立ち、軍議へ向かう武者たちの列を見ていた。鎧の色も旗印もまちまちで、列の間も距離が離れていたりする。連合とは名ばかりで、中ではいくつもの勢力が肩を並べているのが見て取れた。「今日は、盟主が座す」通りがかりの武者が仲間にそう言った。「織部信焔が自ら采配を振るのか」「ああ。“帝国側に妙な動きあり”との話が出ておる以上、あの男が黙っておるはずはない」信焔の名が何度も耳に入る。革新的ではあるが、冷酷。敵はもちろん、裏切った者もすべて焼き払う男。評判を聞くたびに、その攻撃性が浮き彫りになっていく。「あの男に逆らった一族は、郎党もろともすべて滅ぼされた」「笑いもせぬ。気に入らぬものは焼く」「しかし、だからこそ今の連合がある」奈世は縁側の柱に手を置く。昨夜、野介の前でその名を口にした。今その男の影が、庭を通る武者たちの声の中で実体を持ち始めている。党吉が後ろから声をかけてきた。大きな欠伸をしながら。「ふぁ~あ……おい、外から見るだけにしておけよ。今日は城へ近づくな」「見ておるだけだ」「さような顔はしておらぬぞ。昨夜、野介と何を話しておったのかは知らんが——」「聞いておったのか」「聞いてはおらん。聞こえてきただけだ。“無謀だ”とか、弟は言っておったな」奈世は黙った。党吉は肩をすくめる。「盟主は面白いものが好きだ。だが、面白いだけでは門は開かん。今日は大人しくしていろ」「わかった」「本当か」「今は、わかった」党吉はそれ以上追わず、源次の方を見た。源次は縁側の端で、武者たちの殺気に圧倒されて小さくなっていた。「細い武人、お前は姫を見張っておけ」「み、見張れと申されましても……姫が動かれるのを私なんぞが止められるものでは」「なら、転んで道を塞げ」「それは見張りの仕事ではござらぬ!」奈世は小さく息を吐き、庭から視線を戻した。今
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第13話:試し斬りと胸元の傷

翌朝は刃の音より始まった。 まだ日も出ぬ早朝、門の方角より短い叫び声が最初に聞こえた。続いて、駆け寄る足音。何かが倒れ、何かが割れる。奈世は枕元の短刀を握ったまま起き上がっていた。考えるより先に、身体が動く。 「姫様!」 隣室から源次が飛び出してくる。刀は持っているが、帯もまともに締めておらず、胸元がはだけている。さほど厚みはないが引き締まった胸板。ただし、顔は青い。 「敵襲でござりまするか……殺されるでござりまするか⁉」 「情けない声を出すな! わたくしを守るのがお前の務めであろう!」 思わずいつもの調子で叱咤してしまったが、また「パリン!」と何かが割れる音、使用人の悲鳴が聞こえ、奈世はすぐさま声を潜める。 「……だが、殺されてはならぬ。まともに動けぬのならわたくしの後ろに下がっておれ」 「それはありがたきお言葉……ではござらん! こんなときこそ従者の私が姫をお守りいたしまする!」 珍しく勇ましい言葉を言う。さもなくば殴られるとでも思ったか? ただ、それを判断しているような余裕は無い。 「無理はするでないぞ。生き延びるが勝ちだ!」 廊下に出た瞬間、2人の男が槍を持って立っていた。顔は布で覆われている。新羅で出会った刺客と同じ匂いがした。元夫である永井康夜の手の者か。 「いたぞ。女子はこっちだ!」 先に動いたのは向こうだった。奈世は短刀で最初の一撃を受け流し、壁に背を預ける。狭い廊下は槍には向かぬ。うまく立ち回れば、さほど脅威ではない筈――。 と思った瞬間、まるで絶望に足が生えてやってきたように、もう2人。庭側から回り込んできたのは、刀を持った刺客だ。完全に挟み撃ちだ。 源次が「ひっ」と短い声を上げ、刀を抜いた。抜いたはいいが、振る前に敵の槍が伸びてきた。バタッ、と派手な音を立て、背中から倒れる源次だった。 「源次!」 「生きておりまする……たぶん……」 血は出ていない。寸前でかわしたが、その拍子にコケたようだ。源次を助け起こしている暇はない。奈世は槍を持った1人の追撃を短刀で受け流し、次の敵の攻撃も体をよじって避け、手首を切りつけて武器を落とさせた。 これまで3年間、辺境で刃を握って戦ってきたのだ。そう易々と傷を負うわけにはいかない。 だが、敵も楽に退けられるような様子は無い。 「狙いは
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第14話:盟主の間と裏返した駒

襲撃から1日が過ぎたが、傷を巻いた肩は、歩くたびに熱を持った。 それでも奈世は、袖を正し、短刀を腰に下げ、目の前の使用人に従って、とある場所へ向かっていた。ついに清蓮城の広間に呼ばれたのだ。 その後ろからついてくる源次は、口を開きかけ、何度も閉じている。言うべき言葉を探している顔だ。 「姫様、本当にこのまま……」 「このままだ。この好機を逃してはならぬ」 「されど、もう少し傷が癒えるのを待たれてもよかったのでは……」 「傷は浅い。“死にはせぬ”と党吉が言った」 「あの方の言葉を信じすぎでは」 「信じてはおらぬ。使っておるだけだ」 源次はそれ以上何も言えず、ただ後に従った。廊下の先で党吉が待っている。野介もいた。無言のまま広間の戸の前に立っている。 「ほう、歩けるな。昨日斬られたばかりというのに元気で良い」 党吉が笑った。視線が一瞬だけ奈世の胸元へ落ちる。もう肌は晒しておらぬのに、昨日その下に見えたものの思い出に浸っておるのだろうか、鼻の下が伸びている。 奈世は冷めた目で彼を見た。ここまで連れてきてくれたことで党吉に感謝はしているが、昨日からの下衆な態度を見るにつけ、もう嫌いになりかけていた。 「盟主が待っておる。余計なことを申すなよ。もし申したきことがあるのなら、面白きことだけにしろ」 「面白き話など持ち合わせておらぬ」 「それが一番面白い、と主は言うだろうよ」 そう党吉が笑った後で、野介が短く吐き捨てた。 「中へ入れ。無駄口はあとだ」 戸が開く。 広間は、思ったより静かだった。 飾りは少なく、帝国の城のような華やかさはない。あるのは深い堀と同じ思想だった。見せるための間ではなく、決めるための間だ。 上段に男が座していた。 若い。想像していたより、若い。それでも覇気は十分にあった。 薄い口髭は両端が細く尖り、口元に刃物のような線を作っている。やや吊り上がった目は鋭く、笑みひとつ浮かべていない。元夫であった康夜の目は細く、柔和な優しさも感じられたが、それとはまるで異なる。まったく感情の読めぬ目だ。 ただその若い盟主の沈黙によって、周囲の武者たちも自然と息を潜めるほど、恐ろしい重圧が広間に満ちていた。 下段の、一番近くに野介が座す。奈世は彼らの正面に座り、その配置を見た。盟主の最も近い位置にいる男。関所でも門でも
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第15話:3日の間と手放せぬ指輪

廊下に出たとき、源次がやっと息を吐いた。 「ひ、姫様……今の、本気で……」 「本気だ」 「あのお方の妻になる、と」 「元よりそれが目的だと申しておったではないか。盟主の側にいなければ、盤面は動かぬ。それが最短の道だ」 「最短こそが一番怖いのでござる……あのお方のつり上がった目を見たでしょう? 目力だけで射殺されるかと思いました……やはり相手が悪うござりまする!」 「くどい。わたくしの決意は揺らがぬ!」 2人のやり取りを聴きながら、後ろから付いてきていた党吉が豪快に笑った。 「ガッハッハッハ! よく言った。盟主の前であのように毅然と振舞う女子など、久しぶりに見たわ。弟君は今にも斬りかかりそうだったがな」 「斬らせはせぬ。3日の間は手を出すなと盟主も言っておったろう」 「その3日が一番危ないぞ。盟主より、弟君の方が素直だからな」 奈世は肩の傷に触れた。布の下が熱い。広間で晒したのは肌ではない。目的そのものだった。 後ろで誰かが出てくる気配がした。立ち止まらない。通りすがりに、低い声だけが落ちる。 「3日の間の後、兄上が否と言えば俺が始末する」 烈焔だ。奈世は振り向かず、こう返した。 「では、否と言われぬようにするまでだ」 烈焔の足音が、奈世たちの向かう方向とは反対へ遠ざかっていく。党吉が口笛めいた息を吐いた。 「盟主は“面白い”と仰せだった。本当に面白がっておるのか、弄んでおるのか。3日あればわかるということだな」 奈世は窓の外を見た。清蓮城の石垣が、昼の光を受けて黒い。 もう門の外にいる者ではない。“城から出るな”と止められた者だ。昨日よりは近い。だが、ここで終わる危険もある。 源次が心配そうに尋ねた。 「姫様、3日の間、何を?」 「待つ。ただし待つのみではない」 「何をなさるので」 奈世は短く答えた。傷の脈を、指の腹で数えながら。 「盤面を覚える。駒であるうちに」 ※ 【華栄13年・12月】 奈世と源次が清蓮城の中に移されてから、2日が過ぎた。その間に新たな月を迎えた。 与えられた部屋は広間の近くではない。石垣の内側、見張りが行き交う廊下の奥だ。“出るな”という申し渡しは、言葉以上に壁と番人で守ら
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第16話:試しの場と死ぬ間合い

3日が過ぎた日の朝、使いが来た。婚礼の話ではなかった。信焔は広間ではなく、地図と駒の並ぶ小部屋に奈世を通した。傍らには烈焔。壁際に柴山克時と、その家臣である党吉。源次は戸の外で待たされている。「座れ」短い。奈世は言われるまま、盤の前に膝をついた。肩から胸元にかけて走る、もうかさぶたとなったはずの傷が、布の下で再び熱を持っている。それでも背は曲げない。信焔は絵図を指で叩いた。帝国の北辺と、端毬へ続く補給の線が墨で引かれている。「お前の腕と頭を見せろ」「……婚礼の話ではござらぬのですか」「それはあとだ。今は役に立つかどうかを見極める」烈焔が鼻を鳴らした。“見世物だ”とは言わぬだけの顔をしている。信焔は絵図上の駒をひとつ動かした。「帝国が北へ兵を出すとすれば、兵糧はどこを通る? 遅き道か、速き道か。お前の元夫はどちらを選ぶ」値踏みだ。先日の広間で述べた“面白い”を、実際に触れて確かめてみようとしているのだ。まるで子供が、初めて手に触れた玩具を試すような要領である。奈世は絵図を見た。辺境の小城で、康夜が夜な夜な動かしていた線に似ている。あの男は、最短を嫌った。「速き道は使いませぬ」「理由を申せ」「速き道は、敵にも読まれるからでござります。読まれる道は、罠になります。急ぐあまり罠にはまるとすれば、せっかくの兵糧も、容易に敵から奪われましょう。さすれば、全てが止まりまする」「ほう、ではあえて遅き道を選ぶと申すか。なんと愚かな」馬鹿にしたように信焔は言うが、奈世は平然とした態度で話を続ける。「確かに愚かにも見えるでしょう。しかしながら、わたくしの夫であった男――永井康夜なら、止まらぬ道を選びます。遅くとも、分かれ道のある道です。ひとつが敵に潰されたとて、もうひとつが残る」信焔は黙っている。奈世は指を絵図の西へ滑らせた。「こちらです。山をひとつ迂回するのです。日数は増ゆれど、途中に城が2つござります。それで兵糧を分散することができる。かの男は、速さより“切れぬこと”を重んじまする」「それを、お前は見たのか」「3年、隣で見ております。数字を見るは、わたくしの役目でした。道を見るは、あの男。両方を見ておらねば城は持ちません」烈焔が低く言った。「聞きかじりを、さも知っておるよう
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第17話:侍女の裸と党吉の苛立ち

試しの後、奈世は信焔の重臣である柴山克時より、夕刻までは休んでいるよう申し渡された。 「此度は乳を晒すことにならずに済んで良かったな。がっはっはっは!」 その際、克時の家臣である党吉にそのような不快な物言いをされ、ますます彼が嫌いになったりもしたが。 それよりも、動けぬことの方が奈世には辛かった。 いま奈世は部屋で、城の侍女より傷の手当てを受けている。肩から胸元にかけた傷は再び開き、脇腹には新しい傷もある。横になっていれば治ると克時からも言われ、それ自体には奈世も納得はしていたが、じっとしてなどおられる性分ではない。 休めば休むほど、逆に身体の奥がむずむずして、まったく休まらぬ気がする。それで一度、布団を剥いで出ていこうとすると、侍女からこっぴどく叱られた。 「今は柴山殿に従いなされ。聞き分けのない幼子のようなお振舞いをされては、せっかく奥方になれるやもしれぬ機会を失いますよ」 侍女は長い黒髪を結い、微笑みをたたえた女子だった。声は柔らかく、言葉は容赦がない。年のころは30過ぎくらいであろうか、奈世より年上で、成熟した女性の落ち着きも見られた。奈世は苦笑いし、いったん枕に頭を戻した。 「……わかった。大人しくしておる」 「よろしい」 侍女が新しい布を解き、傷を見る。奈世は天井を見ながら、自分の肌にも視線を落とす。白い肩に、赤い線。脇腹にも薄い傷。 「とても婚礼前の女子の肌には見えぬな……」 苦笑して言うと、侍女が手元を止めずに尋ねた。 「やはり、傷が気になりまするか」 「それはそうであろう。そなたも美しい肌をしておる。きっとわたくしと同じように傷つけられたなら、この気持ちもわかるであろう」 侍女は、微笑みを崩さなかった。 「さようでござりまするか。では、これをお見せしまする」 次の瞬間、女は着物の合わせを解き始めた。何をし出すのかと思う間もなく、腰から上の肌を、奈世の前に曝け出した。 同性とはいえ、いきなり裸を見せられて、奈世は身を起こす。ただの侍女とは思えぬ豊かな乳房、その先でツンと上を向く、赤みを帯びた先が目に入る。党吉でなくても鼻の下を伸ばしそうな、見事な乳である。 だが、それよりも驚いたのは、肌に無数につけられた刀傷だった。黒く細き線、古く白き跡、赤みの残る痛々しき
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第18話:盤上の駒と物見台の星

広間は人が少なかった。 奈世が試された庭で、囲んでいた武者たちはもういない。残っているのは、決める者たちだけだ。上段に信焔。傍らに烈焔。壁際に柴山克時などの重臣たち。昼間に使われた絵図が、再びその場で示された。帝国の北辺に、新しい印が一つ増えている。 「座れ」 奈世は膝をついた。肩が熱い。脇腹の新しい傷も、布の下で脈を打っている。それでも顔は上げる。源次は後ろに控え、口を閉じている。奈世らを案内してきた党吉も今は壁際で腕を組み、見物人の顔をしていた。 信焔は絵図を見ず、奈世を見た。 「永井康夜が都へ戻った。お前の元夫だ」 「……存じております」 「質問は1つだ」 熱のない声だった。試しの庭で“死ななかったな”と言ったときと同じ温度だ。 「お前は元の夫を殺したいのか、帝国を潰したいのか。どちらだ」 広間が静かになる。烈焔の視線が、刃のように刺さる。源次が後ろで息を止める気配がした。 奈世は、少しだけ考えた。懐の奥に、指輪の感触がある気がする。箱に戻したはずの輪が、今も指の腹に残っているような錯覚だった。それでも、答える順番は決まっていた。 「両方です」 信焔の目が、わずかに動く。 「ただし、帝国を潰すことが先でござります。あなた様の願いを先に叶えましょう。元夫を殺すのは、その後で構いませぬ」 沈黙が落ちた。 誰かが鞘を握る音がした。烈焔の肩がわずかに上がる。克時は何も言わず、ただ値踏みする目を細めている。 信焔は、初めて短い笑みを見せた。冷たい笑みだった。温度のない、拾った駒の裏を気に入った者の笑みだ。 「やはり面白き女子だな」 それだけ言って、盟主は肘をつき、顎を手に乗せた。次の言葉は、もう答えだった。 「政略として迎え入れる。俺の妻になれ」 広間の空気が、一度だけ動く。源次が小さく「姫様……」と漏らした。奈世は振り向かない。 「ただし、すぐに正妻とは呼ばせぬ。まず戦果を出せ。戦果のない妻など飾りにもならん」 「承知いたしました」 「裏切りが発覚した瞬間、殺す。理由は聞かぬ。言い訳もいらぬ」 「それも、承知いたしました」 傍らの烈焔が、堪えきれずに口を開いた。 「兄上。その女子を側に置くな」 信焔は弟を見ぬ。見ぬまま、短く返
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第19話:仮の婚礼と右手の熱

端毬の婚礼に、華やかさはなかった。広間には香も花もない。灯は必要最低限。並ぶのは重臣と、ごく近い武者たちだけだ。戦の前の契約、と信焔が言った通りだった。帝国の婚礼なら3日はかかる儀式が、ここでは杯を交わす間に終わる。奈世は簡素な衣を着ていた。傷の布が袖の下で引っかかる。それでも背は伸ばした。隣に座す信焔は、式の間ほとんど言葉を発しない。名を呼ばれ、杯を受け、短い誓いに頷く。それだけだ。目も、温度も、先ほどまで広間で話した時と変わらない。「これにて、盟主の妻とする」読み上げる声が、広間に落ちる。誰かが短く息を吐く程度で、あまりおめでたい席には感じられない。烈焔は端に立ち、杯を持ったまま飲まない。党吉だけが、満足そうに髭を撫でている。源次が遠巻きに見ている。目が赤い。言いたいことは、顔に全部出ている。奈世は振り向かない。振り向けば、箱の中の輪を思い出す。式は、あっさり終わった。※奈世と信焔の初夜。2人きりになった部屋は、広間より狭い。灯がひとつ。少しだけ開いた襖の外に石垣が見える。侍女たちは衣装を直して下がった。信焔は襖のそばに立っていた。杯はもう置いてある。婚礼の酒にしては、量が少ない。「座れ」奈世は座った。信焔はしばらく外を見ている。雪は降っていない。それでも空気は冷たい。やがて、初めてこの部屋で口を開いた。「お前の目は、死んでいない。気に入った」熱はない。それでも、広間で放った“やはり面白き女子だな”よりは近い距離の言葉だった。奈世は顔を上げる。「愛してくださいなどとは申しません。ただ、帝国を共に潰しましょう」信焔は短い息を吐いた。笑いにはなっていない。「愛など、最初から求めておらぬ」そう言って襖を閉めると、男は奈世の前に歩み寄った。そして、右手を取る。力は強くない。確かめるような握り方だった。なのに、その手が意外なほど熱い。奈世は、握られている自分の指を見た。元夫の康夜の手も冷たく、力は強すぎなかった。似ているようで、熱だけが違う。すぐに離される。信焔はもう閉じた襖の方を向いている。握ったことを、自分でもどう処理していいかわからない男の背中だった。 「永井康夜が都へ戻った。これが何を意味するか、まだお前の意見を聞いていなかったな」今、か? と面食らいつつも、奈世はあらかじ
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第20話:森の戦いと甘い罠

翌朝の広間は、婚礼の夜より人が多かった。 重臣だけではない。各連合国の武者達まで並んでいる。戦の前に、盟主の妻を見せるための席だ。華やかさはない。あるのは視線だけだった。 奈世は信焔の隣に座した。肩の傷は布の下で熱い。脇腹も同じだ。それでも背は曲げない。 「昨夜、杯を交わした。正妻ではない。戦果を出すまでの仮の妻とする。だが、俺の側には置く。紛うことなき“盟主の妻”として迎えよ」 信焔の声に熱はない。ただの通達だった。 広間が一度、ざわつく。帝国の捨てられた女。謀反者。昨夜のうちに、噂は城の端まで届いていたらしい。測る目、侮る目、傷を負ったうえで戦果を求められる姫君を憐れむ目。 烈焔は一段下に座している。不快感を隠さぬ。党吉は壁際で腕を組む。源次は後列に座し、ややおびえながらも、もう逃げ場はないと覚悟を決めた様子だ。 奈世は長く語らない。通ればいい。 「戦果で示しまする」 それだけだった。信焔は何も言わぬ。ただ沈黙によって、その場を収めた。 やがて広間の端が割れた。柴山克時が進み出る。手には、文を携えている。 「盟主、儂の間者より書状を受け取ってござりまする」 信焔が顎をしゃくる。“読め”という合図だ。克時は、書状を広げて言う。 「どこの国の者とも知れぬ小勢が、新羅の南に現れたとのこと。ただし兵の数は数十程度。陣を敷く気配もなく、荷も少ない様子。道を探り、誰かを捜しておるとのことでござります」 奈世の指が、膝の上で一度だけ曲がる。新羅の南。恐らく奈世と源次が、永井康夜の城から蛮族連合の地へと4日かけて通ってきたあたりだ。 「それは帝国の兵やもしれぬな。堂々と領土侵犯か? 捨て置けぬ」 信焔が、初めて横を見た。 「最初の仕事だ。我が妻よ、行けるな」 「行きまする」 奈世は迷いもなく答えたが、烈焔が前に出て述べた。 「兄上、まさか帝国の女に兵を預ける気ではなかろうな」 「預けるのではない。連れていかせるだけのこと。死ねばそれまでだ。数は30、克時の兵から出させる。そして烈焔、お前も行け。馬の足なら2日でたどり着くであろう。もし連中が北上しておるなら、もっと早くぶつか
last updateLast Updated : 2026-09-07
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