登入天守が落ちたあとも、城の大手門に通じる狭い通路は静かではなかった。瓦が、まだ降ってくる。炎が壁をなめる。統率を失った秀久の残党と、算衛門の残兵が、退路へ殺到していた。烈焔の本隊はすでに門の外へ流れている。残されたのは、破れた板と、浅い堀と、短刀を下げぬひとりの女子だった。奈世は通路の中央に立った。「通さぬ」最初の敵は、2人払えた。ひとりは手首、ひとりは膝。命までは奪わぬ。その場で動けなくすれば、周りの敵の邪魔にもなる。しかし3人目の敵が襲ってきたとき、槍が奈世の肩を掠めた。「うっ……くっ!」奈世の口から声が漏れる。布が裂け、熱が走った。傷は浅いが、それでも血の赤が見えた。続いて4人目の敵が、奈世の乗る馬の腹を狙った。刃は届かぬまま、馬が前脚を上げた。奈世は馬から投げ出され、土を噛んだ。馬だけが通路を駆け抜け、空の手綱が残った。「姫様っ!」半太郎が吹き矢を構え、源次が化粧の残る顔のまま前へ出ようとする。奈世は壁に手をつき、起き上がった。膝はつかない。つくと上がれぬ。「下がれ。城へ来るなと申したはずだ」「されど——」「源次、転ぶな。半太郎、遠間でよい。近づくな」氷室の間者は、言われたとおり遠間からひとりだけ射った。城内には近づかせない。近づけば本分を超える。超えぬ距離で、姫の前の敵だけを処理する。一方、森側の高みで、烈焔は馬を返さなかった。「弟君、盟主の奥方を捨てるのか」党吉の声が、火の音に混じる。烈焔は通路の女子を一度だけ見る。「死なねば拾う」「“好きにしろ”、と申しておったな」「そうだ。今助けに戻れば、その言葉が死ぬ」総大将は前を向いた。本隊は門の外で整列を急ぐ。捨てたわけではない。拾う機会を見計らっているだけだ。敵の波が薄くなる。算衛門の姿はない。天守が吹き飛ぶとき、広間にいた男だ。巻き込まれたと考えて、まず間違いない。城はなおも燃えている。茶の匂いは、もう火薬に負けていた。残兵は散る。主を失い、謀反の頭も失い、戦う理由も無ければ、ただ殺気だけを残した者たちの、哀れな終わり方だった。奈世は通路の壁に背を預けた。膝はつかない。肩の布が赤い。新しい傷は浅いが目立つ。胸元、脇腹に続く、3本目の線だ。「……まだ、立てる」独り言は、誰に聞かせるためでもなかった。ようやく頃合いだ
「総大将殿、考え直されよ。先ほど“手柄を急くあまり、無謀な攻めに出るな”と申したのは、総大将殿ではあるまいか」 攻めに出ると言う烈焔を克時が説得しようとするが、この若き総大将は耳を貸さなかった。 「俺はこれを無謀とは思っておらん。むしろ、敵が引いたということは、攻められては困ると言っているようなもの。そこを逆手に取るのだ」 閉じた門を見ながら言う烈焔に、克時はなおも食い下がろうとする。 「しかし、門は堅く閉じられておる……どうやってこじ開けるのだ?」 烈焔は答えず、兵たちの後方を指した。 「我らが何のために森に潜んでおったと思っておる」 指の先で、数十の兵が動いていた。彼らが肩に担いで運んでくるのは、切られた巨木だ。 樹皮のまだ新しいその巨木が、大手門の前に据えられる。間を取り、兵たちは息を合わせた。 「うらあああああ!」 「おりゃああああ!」 巨木が城の閉ざされた大手門を突く。薄い石垣の城にしては、扉だけが厚い。1打目では破れない。2打目で金具が鳴る。そして3打目で、きしみが門の向こうまで届いた。 ※ 城内の広間で、秀久が茶器を置いた。置き方が雑だった。縁が皿に当たる。 「やつら、無理やりにでも門を破り、城に乗り込んでくる気だ! どうする!?」 算衛門は窓の外を見ていた。巨木が門に当たるたびに、石がパラパラと落ちる。 「確かに予想外でござりまするが、それはやつらが予想外の阿呆だったというだけのこと」 鼻で笑い、弓の配置を顎で示した。 「先ほどと同じように、弓の雨を降らせてやりましょうぞ」 秀久は器の縁をなぞった。なぞる指が、いつもより早い。 「……そうだな。門が開いたところで、中は同じだ。同じ罠で足りる」 そう言って、自分を納得させる声だった。 ※ 間もなく、門は破れた。 裂けた板の向こうに、細い通路と、両脇の高い塀が見える。烈焔が刀を抜いた。 「かかれー!」 本隊が一気に門へ殺到する。百騎に近い数が、破れた隙間へ流れ込む。その頭上から、昼間と同じ弓の雨が落ちた。矢羽が風を切り、最初の数本が肩を探す。 まんまと罠にかかった——かに見えた。 だが、矢が届いた先で、乾いた音がした。貫かれたのは肉ではない、木だ。 兵たちの頭上も、側面も、森の木を削った盾で隙間なく塞がれている。兵がまるで塊のよ
内側から静かに開いていく城の大手門。きしみは小さい。薄い石垣の城に似つかわしくない、必要以上に丁寧な開き方だった。 奈世と氷室の間者たち、克時とその僅かな兵が、その隙間を見ていた。源次は兵たちの後ろで、化粧の落ちぬ顔のまま、まだ膝に手をついている。 隙間から先に姿を見せたのは、兵ではなかった。丹波算衛門だ。 甲冑を着て、笑ってはいない。大手門の前にいる奈世たち少数を、値踏みする目だけがある。連合を捨てた男の目だった。 「よくぞ参られた、奥方どの」 私怨と計算が同じ割合で混ざる声が、門の向こうから大きく響く。 「従者はお返しした。次は、奥方殿をこちらへお招きする番でござる」 敵意をむき出しにし、奈世は今にも立ち向かいそうになるが、克時が馬上から低く言った。 「奥方よ、待つべきだ。まだ烈焔殿の本隊は森におる。これは罠だ。少数で門に入れば、やつの思うつぼだ」 党吉も、珍しく笑わなかった。 「自ら門を開く城になど、入れるわけがなかろう。馬鹿でもわかる」 源次もやっと顔を上げて言う。 「姫様……私も、すぐには戦えませぬ」 待つか。攻めるか。2つに1つだった。 正しいのは待つことだ。これが罠であることは目に見えている。算衛門が自ら顔を出した時点で、迎え撃つのが狙いだと言っているようなものだ。 それでも奈世の耳の奥で、出陣の道中、烈焔が放った声が蘇る。 “立ち止まるなよ。立ち止まれば、家臣を束ねることなどできぬぞ” 総大将は烈焔だ。今この場の兵を動かさねば、武功は立たぬ。立たねば、席はまた末席のままだ。氷室の間者も、克時の少数も、門の前でただ見物しているだけになってしまう。 奈世は源次の肩を一度押した。 「下がれ。お前は城へ入るな」 源次が何かを言いかける前に、奈世は馬を出した。 「待て!」 克時の声が後ろで割れる。だが、奈世は止まらぬ。加えて、克時の若い兵達もそれに感化され、吸い込まれるように門を目掛けて駆けていく。党吉が舌打ちし、半太郎は荷の紐を握り直した。 門までの道は、浅い堀に沿った細い通路で、両脇の塀が高い。その塀の上に、算衛門の兵が弓を番えていた。最初の矢が、音より先に風を切った。奈世の頬を外れた矢に、馬が驚いて前脚を上げる。 「馬を狙え! 女武者は生け捕りだ! 傷つけるな!」 敵兵達が叫ぶ。“生け
城内の広間で、算衛門が窓の外を見ながら言った。「今日も塀に捕虜を磔にしておるのですか」その横で秀久が、茶器を手にしながら言う。「昼は見せしめだ。夜は愛でる。2つ役割を担ってもらう。だが、見せしめの効果はまだないようだがな」「それが、ようやく効果を発揮したようでござりまする。城下にひとつ、不自然な人の流れが見えますれば」秀久は器の縁をなぞった。「とうとう信焔の奥方が取り返しに来たか――ぐふふ、我が姫よ。であれば、従者は取り返されても構わぬ。所詮は前菜よ」「おやおや、あのように重宝されておりましたのに、もう飽いたのでござりまするか」算衛門は笑わなかった。笑わぬ目が、城下の西の角を見つめていた。 ※西の角の下で、行商が捕虜を見張っている役人たちに声をかけた。「この荷を見てほしいのでござりまするが……」と言えば、ずっと見張り続きで飽きたと見える役人の1人が、塀を降りて近づいてくる。 「これは世にも珍妙な、暗闇で光る石にござりますれば。おお、そこの路地がちょうどよい。あそこでご覧に入れまする」路地に入ったところで、声が消えた。離れて見ていたもう1人の役人が、不審に思って上から眼下の様子を覗き込もうとしたとき、その後ろの斜め下から半太郎が吹き矢の狙いを定め――次の瞬間には、役人ごと鎧が地上に落ちる「ガシャン」という音だけが短く響いていた。間者2人が、番の兜と槍を借りて塀へ上がる。番の鎧の中身が変わっていることなど、城下の者たちは誰も気にも止めぬだろう。源次は目を開けたまま、動こうとしなかった。近づいた男の顔を見て、怪訝そうに言う。「いつもの役人ではござらぬが……その顔、どこかでお会いしましたか……」「なんと、拙者の顔を忘れたか。その手の器用さを見込んで、其方を姫の従者に選んだのは拙者だと言うのに」「そ、その声はもしや――」半太郎は源次の口を塞ぐ。名を呼ばせているときではない。半太郎は源次の縄を解き、彼の体重を己が肩へ移す。着物の袖が風に揺れ、化粧の白い頬に昼の光が当たって余計に目立った。手首は縄の跡で黒い。いつもより早い磔の終了だが、役人の鎧を着ている2人が運ぶならば、城下の者は誰も訝しがらぬ。「細い見た目の割に、重いのう。自分で歩いてはくれぬか」「……歩けば、転ぶやもしれま
奈世たちが境の小城に着く数日前まで遡る。源次は連日のごとく化粧をさせられ、女子の着る着物を着せられて薄い石垣に磔にされていた。当初こそ恥ずかしく、街ゆく人々の笑い者にされたが、もはや誰も見るものはおらぬ。夜になるとようやく降ろされ、城に運ばれる。化粧を落とされ、着物も脱がされ、飯を与えられるが、そこから先は松山秀久の相手をせねばならぬ。「さて、源次よ。今宵も楽しみにしておるぞ……」ジュルリと舌なめずりをしながら湯呑みを片手に、部屋で源次を待つ城主。名前までしっかり覚えられてしまった。そんな変態のニヤケ顔を見れば、どんなに腕の立つ料理人が拵えた馳走を前にしても、一瞬で食欲を失ってしまう。しかし五体満足で帰るためには食わねばならぬ。そして敵の辱めにも耐えねばならぬ。飯を終え、源次はひとり、秀久の部屋に入るのだ。「あぁっ……そこ、そこだぁ……! おぉ、いいぞ、いいぞ……もっと、奥だ……奥を攻めよ……!」部屋中に、敵の城主の快楽に溺れる声が響き渡る。源次には吐き気を催す悪夢の時間だ。源次の手が、裸になった城主の体を刺激していた――背中のツボである。要は、揉みほぐしだ。「器用な手つきだな……お前、才が備わっているのではないか……おほぉっ……」「は……以前は料理番として仕えておりました……戦よりも、手先で何かすることが向いておりまする……」その答えを聞き、城主は満足げに笑う。「では……ぐふふ、我が下半身も愛でてはみぬか?」「か、下半身!?」「秀久殿、それ以上はいけませぬぞ」だが、あわやというところで算衛門が部屋に現れ、秀久を止めた。「こやつは敵の捕虜。下半身まで許してしまって、秀久殿の大事な体の一部を捥がれでもしたらどうするのです」「源次はそのようなことをする男子ではあるまい。のう、源次。我が大事な部分も愛でてくれるよな?」「そ、それは……どこでござりましょう……」「ウブな男子よ。わかっておるクセに」わかってたまるものか。とにかく、一刻も早い救助を願う源次であった。※奈世たちがとうとう源次の捕らえられた城の目前まで辿り着いたころに時を戻す。着いたのは昼だった。日は高く、石垣の薄さがよ
【華栄14年・3月】 源次の行方を追っていた克時の間者から報告が届いたのは、次の月を迎えたばかりの頃であった。 「境にある小城の石垣の薄い塀に、男が縄と板で磔にされておりました。城下の者に誰かと問えば、あれは連合の盟主の奥方に仕える男だと」 広間で克時や信焔らと共に間者の報告を聞いていた奈世は、動悸が激しくなるのを抑えきれぬまま、間者に尋ねる。 「お前はそれを見たのか……男の顔や体つきなど、特徴は⁉」 「それが……歳は二十歳ぐらいでござりましょうか。目は細く、胸はさほど厚くないものの、武者として鍛えられてはおるようで」 まさしく源次の特徴だ。 「して、その者は生きておったのか?」 克時の問いに、間者は急にたどたどしく答え始める。 「い、生きておりまする……痩せた様子も、体に傷を付けられた様子もなく……髭も伸びてはおらず、小綺麗と言いまするか……そ、それが……ぷふっ」 急に笑い出す間者に怪訝な顔をする一同。 「どうしたのだ、真面目に答えよ!」 克時が一喝すると、間者は「も、申し訳ござりませぬ……」と謝りながらも、必死に笑いを押し殺しながら続けた。 「それが、何とも珍妙なる光景で……毎日、さまざまな柄の女子の服を着せられ、辱められておる様子でござりました……顔に化粧までさせられて、ぷふっ、ふはははははっ」 女子の服を着せられ、化粧まで……? 話だけでは想像もつかず、一同はただただ顔を見合わせる。 ただひとり、烈焔は冷静に語った。 「それを命じたのは境の小城の城主、松山秀久であろうな。あやつ、茶器と共に美しい女子や若い男子に目がない、相当な変態であると聞く。恐らく捕らえた従者がたいそう気に入り、傷を付けぬ代わりにそのような辱めを与えておるのだろう」 変態……それを聞いて奈世は寒気がした。殺されておらぬことは安心したが、自分の従者がそのような辱めを受けているとは。 もしも自分が捕まっていたとしたら、どうなっていたであろうか。それこそ、ほとんど裸同然で磔にされるなんてこともあったやもしれぬ。 党吉などは「なんだそれは! 見てみたいものよのう、がっはっは!」と笑っておるが、奈世はとても笑う気にはなれなかった。変態の考えることはまったくわからぬ。 「ともあれ、早う助け出さねば……