All Chapters of 君を捜し続けても、帰る日は来ない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

その言葉に、礼次は雷に打たれたような衝撃を受けた。あの日、沙羅が見せた不自然な態度が脳裏によみがえった。「願いはきっと叶うから」と言っていたことも、黙々と荷物をまとめていた姿も。今になって思えば、すべて前触れだったのだ。あのときにはもう、沙羅は礼次のもとを去ると決めていた。「駄目だ!」礼次はドアを開けようとしたが、梨香に腕をつかまれた。「礼次!今日は私たちの結婚式なのよ!何をするつもりなの!」その言葉に動きを止めて振り返ると、梨香は声を上げて泣いていた。頭から冷水を浴びせられたように、礼次はようやく我に返った。「悪い、梨香。俺はただ……どうしてなのか、聞きたかっただけだ」「今朝、私をヨーロッパへ追いやろうとしたから」沙羅は静かに言った。「今こうして、瀬川さんとの結婚式へ向かっているから。そして、この7年間、あなたが一度も私を心から愛してくれなかったから」ちょうどそのとき、蒼介が窓を閉め、車はゆっくりと動き出した。朝倉家の車列が橋を離れていき、しばらくして高城家の車列も走り出した。二つの車列は、それぞれ別の方向へ進んでいった。礼次は無意識に振り返り、遠ざかっていく車を目で追おうとした。「礼次……」梨香の声に、礼次はようやく我に返った。「悪い、梨香。さっきは……少し……」礼次は梨香の手を握ったが、口にする言葉はどれも空々しく、結局まともに説明することさえできなかった。そんな礼次の胸に、梨香は身を寄せた。「礼次、何も言わなくていいの。全部分かってるから。藤崎さんは、あなたが苦しかった時期をずっとそばで支えて、一緒に苦労して、立ち直るまで付き添ってくれたんだもの。未練が残るのも当然よ。でも藤崎さんにも新しい相手ができたんだから、私たちは喜んであげるべきでしょう?」梨香はすっかり忘れているようだった。そもそも礼次が梨香との結婚を急いだのは、梨香が遊び人の蒼介と結婚しようとしていると知り、このままでは不幸になると思って式から連れ去ったからだ。礼次は腕の中の梨香を強く抱き締めた。何か言おうとしたが、車は刻一刻と式場へ近づいていた。今さら何を口にしても、もう遅かった。結婚式が終わったら、沙羅ときちんと話そう。そうすれば、きっと許してくれる。礼次はそう考えていた。
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第12話

「取引?」「ああ」蒼介はゆっくりと近づき、沙羅を見下ろした。口元には、笑みともつかないものが浮かんでいた。「俺には家族やマスコミを納得させるための『妻』が必要で、お前には高城の影から抜け出すための『夫』が必要だ。互いに必要なものを得て、それ以外には干渉しない」沙羅はしばらく黙っていたが、ふっと笑った。「公平な話ね」蒼介は世間で噂されているような、ただの遊び人ではないらしい。今見せている隙のない態度と鋭さだけでも、それは十分に分かった。蒼介は沙羅の考えに気づく様子もなく、うなずくと、そばの本棚から書類を取り出して差し出した。「婚前契約書の追加条項だ。目を通してくれ。結婚後、表向きは夫婦でも、私生活には互いに干渉せず、財産も別々に管理する。ただし、人前では仲のいい夫婦を演じてもらう」沙羅は書類を受け取り、ひととおり目を通してから顔を上げた。「どちらかが、この関係を終わらせたくなったら?」蒼介の瞳がかすかに揺れた。「関係を終わらせたい場合は、少なくとも3か月前に相手に伝え、円満に離婚する」「交渉成立ね」沙羅は迷わず署名し、書類を蒼介に返した。蒼介はそれをしまうと、突然身を寄せ、長い指で沙羅の顎を持ち上げた。先ほどまでの真剣な表情は消え、再びいつもの軽薄そうな仮面をかぶったように、からかう口調で言った。「ただ、沙羅。今のうちから、その立場に慣れておいたほうがいい」蒼介は顔を傾け、沙羅の耳元で囁いた。「明日から世間中が俺たちに注目して、この結婚がいつまで続くか見張るだろうからな」沙羅は蒼介をまっすぐ見返し、わずかに口元を上げた。「心配しないで。失望させたりしないから」蒼介は満足そうに低く笑い、沙羅から手を離すと、ドアへ向かった。「じゃあ、おやすみ」ドアが静かに閉じられた。沙羅はその場に立ったまま、鏡に映るウェディングドレス姿の自分を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。翌日。沙羅はスーツケースを引き、朝倉家本邸の前に立っていた。顔を上げると、控えめながらも贅を凝らした屋敷がそびえていた。敷地全体が眠りについた巨大な獣のように、静かでありながら、どこか危うい空気を漂わせていた。「沙羅様、蒼介様から、まずは主寝室へご案内するよう申しつかっております」いつの間
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第13話

「今から?でも、さっきは……」沙羅は慌てた様子で尋ねた。「何を準備すればいいの?」「何もいらない」蒼介はそばのウォークインクローゼットを探り、しばらくして深いグリーンのロングドレスを取り出すと、沙羅に差し出した。「これに着替えろよ。お前によく似合う色だ」沙羅がドレスを受け取ると、ひんやりとなめらかな生地が手に触れた。「どうしてあなたの部屋に女性用の服があるの?」蒼介は眉を上げた。「お前のために用意したに決まってるだろ。何だ、妬いてるのか?」「私たちは契約上の夫婦でしょう。忘れたの?」沙羅は冷静に返し、着替えるためバスルームへ向かった。そのため、蒼介の目に一瞬浮かんだ複雑な感情には気づかなかった。沙羅が着替えて戻ると、蒼介は本棚の前に立ち、金融誌を読んでいた。陽光がすらりとした横顔を縁取り、眼鏡の奥の瞳は真剣で鋭かった。世間で噂される遊び人とは、まるで別人だった。「本当に金融に詳しいの?」先ほど本棚の本に残っていた跡を思い出し、沙羅は思わず尋ねた。蒼介は雑誌を閉じると、たちまちいつもの人を食ったような表情に戻った。「詳しいふりをしてるだけだ。そうでもしなきゃ、投資家から金を引き出せないだろ?」朝倉家の会食は、沙羅が想像していた以上に息苦しいものだった。長いテーブルの最奥には、朝倉家の当主である朝倉宗一郎(あさくら そういちろう)が座っていた。髪はすでに白くなっていたが、眼光は刃物のように鋭く、沙羅が姿を見せた瞬間、頭から足元まで値踏みするように眺めた。食事が始まってからも、親族たちは遠回しに沙羅の家柄や素性を探ってきた。一見穏やかな質問の一つ一つに、鋭い棘が隠されていた。「沙羅さんは以前、高城礼次さんの婚約者だったそうね?」蒼介の叔母である朝倉美和(あさくら みわ)が、ワイングラスを手ににこやかに尋ねた。「それがどうして急に、うちの蒼介と結婚することになったのかしら?」沙羅のフォークが皿をこすり、耳障りな音を立てた。けれどその瞬間、沙羅は不思議と肩の力が抜けるのを感じた。避けられない質問なら、いつかは答えなければならない。沙羅は笑みを浮かべ、口を開こうとした。しかしその前に、蒼介が突然沙羅の手を握り、指先でそっと手のひらをなぞった。「叔母
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第14話

礼次は、誰もいない邸宅の寝室に立っていた。指先でドレッサーに残る薄い埃の跡をなぞった。そこには以前、沙羅の化粧品が整然と並べられていた。沙羅はここに座り、時間をかけて肌の手入れをしていた。礼次はベッドのヘッドボードにもたれ、そんな姿を静かに眺めていた。浮き沈みの激しかった礼次の人生で、それは数少ない穏やかな時間だった。けれど今は、何一つ残っていない。スマホの画面が再び暗くなった。何度電話をかけても、沙羅は出なかった。礼次は画面に表示された「沙羅」の文字を、滲んで見えなくなるまで見つめ続けた。メッセージ画面には礼次が送った言葉ばかりが並び、一度も返事は届いていなかった。最後に送ったメッセージは――【沙羅、もう意地を張るのはやめろ。帰ってきてくれ】「礼次様、ご注文のコーヒーをお持ちしました」執事が慎重にカップをベッドサイドテーブルへ置いた。礼次が振り返ると、そこは沙羅が毎晩、礼次のために水を置いていた場所だった。彼は立ち尽くしたまま、コーヒーには手をつけなかった。コーヒーを頼んだのは、帰宅してからの習慣が染みついていたからだ。礼次が家に帰るたび、沙羅はコーヒーを淹れて持ってきてくれた。部屋が静寂に包まれた。ふと、きちんと閉まっていないベッドサイドテーブルの引き出しが目に入った。見覚えのある箱がのぞいている。礼次の心臓が大きく跳ねた。近づいて引き出しを開けると、そこには黒いベルベットのジュエリーボックスがあった。中に入っていたのは、昨年オークションで落札したサファイアのネックレスだった。沙羅はとても気に入っていたはずなのに、今は薄く埃をかぶり、ここに置き去りにされていた。「ほかに……何か残していかなかったか?」自分の声が聞こえた。乾いてかすれ、砂漠をさまよう旅人のような声だった。執事は少しためらってから答えた。「ほとんどの物は沙羅様が処分されました。お持ちになったのは、少しの衣類と数冊の本だけです。礼次様から贈られた宝飾品は、すべて書斎の金庫に残されています」礼次は足をもつれさせながら立ち上がり、急いで金庫を開けた。暗証番号は今も沙羅の誕生日のままだった。礼次が贈った宝石のピアスやネックレス、ブレスレット。そして結婚式で渡すつもりだったダ
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第15話

南央アートセンターで、沙羅は一枚の抽象画を前に物思いにふけっていた。画面を覆うのは、砕け散ったような青だった。引き裂かれた海にも見え、よく見ると涙を流す瞳のようでもあった。今日の沙羅は、シンプルなベージュのタートルネックに細身のジーンズを合わせていた。左手の薬指にはめた雪の結晶のリングが、展示室の照明を受けて輝いていた。「悪くない趣味だ。この絵は『こぼれた水』というらしい」声に振り向くと、いつの間にか蒼介が隣に立っていた。両手にはコーヒーのカップを一つずつ持っている。今日はダークグレーのタートルネックを着ていて、端整な輪郭がいっそう際立っていた。眼鏡の奥の瞳には、ほのかな笑みが浮かんでいる。「どうしてここに?会議があるって言ってなかった?」沙羅はコーヒーを受け取った。指先が不意に蒼介の手に触れ、温かく乾いた感触が伝わった。蒼介は肩をすくめた。「早く終わったんだ。秘書からお前がここにいると聞いて、これが欲しいんじゃないかと思ってな」蒼介はポケットからブラックカードを取り出した。「展覧会のあと、小さなオークションがある。気に入ったなら買えばいい」沙羅は首を振った。「こんな高価なもの、受け取れない」蒼介は首を傾けて沙羅を見つめたあと、もう一度カードを差し出した。「結婚祝いだと思えばいい」そして沙羅の耳元へ顔を寄せた。温かな吐息が耳たぶをなでる。「それに、忘れるなよ。今の俺たちは『仲のいい夫婦』なんだからな」からかうような声だった。けれど沙羅は、今日の蒼介が香水をつけていないことに気づいた。漂ってくるのは、清潔感のある淡いアフターシェーブの香りだけだった。そんな何げない素顔のほうが、どんな計算された演技よりも胸を揺さぶった。「朝倉夫人は、ずいぶん優雅にお過ごしなのね」場違いなほど甲高い女の声が、二人の間に流れていた空気を壊した。梨香が高いピンヒールを鳴らしながら歩いてきた。真紅のワンピースは、静かな展示室でひときわ異彩を放っていた。その声を聞いた瞬間、沙羅の身体が目に見えてこわばった。蒼介は何も言わず半歩前へ出て、沙羅を背後にかばった。「瀬川さん。奇遇だな」「奇遇じゃないわ。この女に会いに来たの」梨香は真っ赤なネイルを塗った指で、沙
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第16話

梨香が高城家の邸宅へ戻ると、礼次はリビングの大きな窓の前に立っていた。指には、まだ半分ほど残った煙草が挟まれている。立ちのぼる煙の向こうで、その輪郭はいっそう鋭く見えた。「どこへ行っていた」礼次は振り返らなかった。低く沈んだ声が、ひどく恐ろしい。梨香は足を止めたが、すぐに顎を上げ、何でもないように答えた。「気晴らしよ」「気晴らし……」礼次の手が止まった。やがて振り返った目は、刃のように鋭かった。「南央アートセンターまで出向いて、沙羅に嫌がらせをするのが気晴らしか」梨香の顔色がわずかに変わった。だがすぐに礼次を正面から見返し、冷笑する。「全部知ってるんじゃない。何よ、あの女はもう結婚したのに、まだ未練があるわけ?」礼次は煙草を乱暴に灰皿へ押しつけた。小さな火の粉が散る。抑えきれない怒りを滲ませ、一歩ずつ梨香へ迫った。「梨香。俺がお前と結婚したからといって、何をしても許されるとでも思っているのか」「私が何をしたっていうのよ!」梨香の声も荒くなった。「叩かれたのは私よ。朝倉まであの女の味方をして、私を脅したの!あの二人は――」「もういい!」礼次が一喝した。「沙羅に会いに行って、いったい何がしたいんだ。沙羅を困らせたいのか?それとも、そのたびに俺が何を失ったのか思い知らせたいのか?」その眼差しに射すくめられ、梨香は言葉を失った。礼次は目を閉じた。声はひどく掠れていた。「あの式で、俺にお前を連れ出させるよう仕組んだことは分かっていた。それでも、気にしないことを選んだ。なのにお前は、何度も沙羅を挑発する」梨香の目に涙が浮かんだ。「だって、あの女はあなたにふさわしくない!あなたが落ちぶれた隙につけ込んだだけでしょう。あなたが返り咲いたら私には勝てないから、今度は朝倉家に取り入った。そんな女――」「黙れ!」礼次が勢いよく手を上げ、梨香は反射的に身をすくめた。しかしその手が彼女に触れることはなかった。礼次は灰皿をつかむと、脇のキャビネットへ叩きつけた。甲高い音とともに灰皿が砕け、床一面に破片が散った。礼次は梨香を睨み、一語ずつ噛みしめるように言った。「俺に、お前と結婚したことを後悔させるな」梨香の顔から血の気が引いた。爪が手のひらへ深く食い込む。礼次は大股で出ていき、彼
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第17話

朝倉グループ本社。会議室を出た沙羅は、まだ頭がぼんやりしていた。朝早くから蒼介に連れられて会議へ出席し、延々と決算報告を聞かされたばかりだ。秘書が足早に近づいてきた。「奥様、高城社長が一階にいらしています。お会いしたいとのことです」沙羅は一瞬足を止めたが、表情を変えずに答えた。「忙しくて時間がないと伝えて」それでも秘書は立ち去らず、ためらいがちに続ける。「ですが、とても大切な話がある、会うまで帰らないと……」しばし沈黙したあと、沙羅は結局エレベーターへ向かった。一階のロビーでは、礼次が窓の前に立っていた。その背中は孤独で、張り詰めている。足音を聞いて勢いよく振り返り、沙羅を見つめた。「沙羅……」沙羅は距離を保ったまま立ち止まる。「何か用?」礼次の喉が動いた。やがて掠れた声が絞り出される。「あのバングルを……取り戻した」沙羅の目がかすかに揺れ、すぐに静けさを取り戻した。「それで?その話をするために呼んだの?」礼次の声はすでに震え始めていた。「お母さんの形見だろう。あのとき、お前は俺にまともなスーツを買うため、迷わず売った」沙羅は黙って彼を見つめ、否定しなかった。目を赤くした礼次が一歩踏み出す。抱き締めようと腕を伸ばした。「すまなかった。俺は……」「高城社長」冷ややかな声が遮った。エレベーターから姿を現した蒼介は、真っすぐ沙羅の隣へ来ると、自然な仕草で腰を抱いた。親密でありながら、強い独占欲を感じさせる仕草だった。「ここは昔話をする場所ではない。大切な用件があるなら、正式に面会の予約を」微笑んではいるが、目には少しも笑みがない。礼次は沙羅の腰に置かれた腕を睨み、拳を固く握った。「俺と沙羅の問題だ。朝倉社長が口を挟むことじゃない」蒼介が眉を上げ、わざとらしく軽い口調で返す。「そうか?沙羅は今、俺の妻だ。妻の問題は俺の問題だろう」「いい加減にしろ!」「いい加減にしろ?沙羅を道端に置き去りにして、別の女を迎えに行ったのは誰だ。もう忘れたのか?」礼次は息を詰まらせた。答えることができず、沙羅を見る。その声は卑屈なほど弱く、懇願に近かった。「沙羅、話をしよう。頼む……」沙羅は冷めた目で二人を見ていた。再び礼次に見つめられ、ようやく口を
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第18話

蒼介のオフィスへ入ると、彼は電話で厳しい指示を飛ばしていた。「金はいくらかかっても構わない。手段も問わない。記事を出したメディアの裏をすべて洗え」通話を切って沙羅を見たとき、その目にはまだ険しさが残っていた。だが声はすでに柔らかい。「来たか」沙羅は机の前まで行き、申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい。あなたと朝倉グループまで巻き込んでしまった」蒼介は鼻で笑った。それは沙羅に向けたものではない。彼女の手を引いてソファに並んで座ると、タブレットに表示された記事へ指を滑らせた。白い画面の光が、その瞳に宿る冷たさを照らす。「こんなもの、巻き込まれたうちに入らない。痛いところを突くのだけはうまいが、惜しかったな」「何が?」「自分にも弱みがあることを忘れたらしい」蒼介は沙羅の顔へ手を伸ばした。今度は沙羅も避けずに、彼を見つめた。その目に心からの笑みが浮かぶ。長い指が、沙羅のこめかみにかかった髪を整えた。「今夜、アジア太平洋地域の投資家が集まるパーティーがある。一緒に出席してもらう」「公の場で反撃するつもり?」蒼介の声が次第に低くなった。「当然だ。誰を敵に回してもよくて、誰を敵に回してはいけないのか、はっきり分からせる」沙羅の胸が大きく跳ねた。陽が傾き、室内に影が満ちていく。蒼介の声まで冷たく沈み、獲物を狙う蛇のように聞こえた。その夜のパーティーは、央都ホテルの最上階で開かれた。華やかに着飾った人々の間で、各社の経営者が思い思いに談笑していたが、蒼介が沙羅を伴って入場すると、広間は一瞬だけ静まり返った。沙羅はダークグリーンのベルベットドレスに身を包み、細く絞られた腰が雪のような肌を際立たせている。蒼介は黒のオーダースーツ姿で、ネクタイは彼女のドレスと同じ色だった。薬指の結婚指輪が照明を受けて輝く。彼は終始沙羅の手を握り、親指で掌を優しく撫でていた。言葉のない慰めのように。「朝倉社長、お目にかかれて光栄です」グラスを手に近づいてきたのは、中年の石川会長だった。視線はさりげなく沙羅へ向けられている。「こちらが奥様ですか。噂どおり、実に……お美しい」「恐れ入ります」蒼介は微笑みながら、沙羅の腰を囲う腕に力を込めた。「妻はこういう席があまり好きではありません。今日は特別に付き
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第19話

沙羅は蒼介の書斎の前で、半開きの扉に指先を添えていた。コーヒーを届けに来ただけだった。最近の蒼介は毎晩遅くまで働いている。身体を壊さないか心配になり、好物のブルーマウンテンを自分で淹れたのだ。ところが扉の前まで来ると、中から低い話し声が聞こえた。「当時、高城グループの資金繰りが破綻した件には、確かに朝倉会長も関与しています」立ち去ろうとした沙羅の足を、意外な名前が止める。「しかし、高城礼次の父親が自死した直接の原因は、蒼介様のお父上ではありません。別の事情があります」手の中でカップが傾き、褐色の液体が音もなくトレーへこぼれた。わずか二言に含まれた事実の重さに、沙羅は思わず半歩下がった。その身体が、扉脇の花瓶に触れる。硬い音が廊下に響き、書斎の中にも届いた。扉が勢いよく開く。光と影の境に立つ蒼介の目に、驚きが走った。「沙羅?」沙羅の目は、床に散らばった書類に吸い寄せられた。7年前の高城グループ破綻についてまとめた詳細な調査報告書。どのページにも、赤く「機密」と押されている。向かい合った二人の間で、空気が凍りついた。秘書は状況を察し、静かに部屋を出ていった。「高城家を調べているの?」自分の声とは思えないほど冷静だった。蒼介は否定しなかった。腰を屈めて書類を拾う動きは落ち着いていて、ありふれた契約書でも片づけているようだ。「そうだ」「理由を聞いてもいい?」蒼介は眼鏡を外し、眉間を揉んだ。人前では常に余裕を崩さない男が、珍しく疲れて見える。「俺の父と高城礼次の父は、かつて共同経営者だった」書類を手に窓辺へ行き、沙羅に背を向けた。「三十年前、二人は青嵐キャピタルを共同で設立した。だが高城家は市場を独占するために証拠を捏造し、俺の父を刑務所へ送った」沙羅はその場に立ち、息を殺して聞いていた。「無実を示す証拠はほぼ揃っていた。だが父は獄中で心臓発作を起こし、控訴審を待たずに死んだ」蒼介が振り返る。その目は、恐ろしいほど静かだった。「俺が12歳のときだ」沙羅は、朝倉家本邸に掛けられた重苦しい肖像画を思い出した。宗一郎の厳しい眼差し、蒼介がふとした折に覗かせる高城家への敵意。ようやく、すべてに説明がついた。「それなら……」自分の声が震える。「私に近づいた
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第20話

沙羅は朝倉グループの会議室にある大きな窓の前で、眼下に広がる街を見つめていた。朝倉家を出て、もう二週間になる。蒼介は引き止めなかった。ただ毎日欠かさず、白い薔薇の花束を届けさせた。添えられたカードには、いつも短い一文だけが記されている。【今日はいい天気だ。そろそろ許してくれないか?】届いた花は毎回オフィスの花瓶に生けたが、返事は一度もしなかった。「藤崎部長、各部門の責任者が揃いました」秘書の声で我に返り、沙羅は会議の席へ向かった。朝倉グループの役員たちが、それぞれ異なる表情で彼女を見ている。新たな「社長夫人」が突然経営陣に加わっただけでも反発はあった。そこへ最近の不仲説まで重なり、古株たちは隙を窺っている。「始めましょう。東南アジア支社の帳簿について、財務部から説明を」沙羅は周囲の視線を意に介さず、資料を開いた。財務部長が汗を拭った。「それは……システムへの入力が遅れた可能性が……」「遅れた?」沙羅がタブレットに触れると、スクリーンへ複数の数字が映し出された。「過去3年間、毎月15日に四千万円が『遅れて』入金され、月末までにまた『遅れて』別口座へ移されている。監査では、こういう処理を何と呼ぶのかしら」一同を見渡し、薄く笑った。「横領よ」会議室は静まり返った。その晩、珍しく蒼介のプライベート用の番号から電話がかかってきた。沙羅はしばらく画面を見つめ、結局応答した。「見事だったな、朝倉夫人。一日で、財務部に10年居座った害虫を見つけるとは」笑いを含んだ声だった。ソファにもたれ、沙羅は淡々と返す。「契約上、グループの業務を手伝う義務があるもの。それに、あなたは前から彼らを処分したかったんでしょう」電話の向こうが、一瞬静かになった。「契約だから、それだけか?」沙羅は答えなかった。蒼介が小さく笑う。「明日、チャリティーオークションがある。出席してくれ」「契約に、あなたの芝居に付き合うとは書いてないわ」「芝居じゃない」声が急に真剣になる。「じいさんが目を光らせている。お前が姿を見せなければ、連中は離婚の危機だと思って騒ぎ始める」今日の会議で向けられた探るような視線を思い出し、沙羅は唇を結んだ。「何時?」紙をめくる音が聞こえた。蒼介が口元
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