LOGIN藤崎沙羅(ふじさき さら)の誕生日。彼女は一晩中待ち続けたが、高城礼次(たかしろ れいじ)は帰ってこなかった。 礼次がかつて愛した瀬川梨香(せがわ りか)が、その日、財界でも有名な遊び人と結婚することになっていたからだ。 梨香が不幸な結婚へ進むのを見過ごせなかった礼次は、式から彼女を連れ去った。 沙羅は泣き腫らした目で一晩中リビングに座り続け、夜が明けた頃、知らない番号からの電話を受けた。 「藤崎沙羅、俺と結婚しろ」 気だるげな声を聞いた瞬間、沙羅の脳裏に不敵な笑みを浮かべた男の顔がよぎった。 梨香が結婚するはずだった、財界きっての遊び人――朝倉蒼介(あさくら そうすけ)。 「朝倉蒼介?」 「お前の婚約者が俺の花嫁を奪った。だったら俺が、あいつの花嫁を奪っても文句はないだろ?」 蒼介は面白がるように笑った。 沙羅はしばらく黙ったあと、静かに首を振った。 「文句はないわ」 電話の向こうで、蒼介は片眉を上げ、さも当然のように言った。 「なら決まりだ。15日後に改めて式を挙げる。ウェディングドレスを用意して、俺が迎えに行くのを待ってろ」
View More3か月後。モルディブのプライベートアイランドに、青い海と空が広がっていた。純白のウェディングドレスをまとった沙羅は、柔らかな砂を踏み、花のアーチの下で待つ蒼介のもとへ歩いていく。彼は珍しく正装の黒いタキシードを着て、ネクタイまで寸分の乱れなく結んでいた。それでも瞳に浮かぶ笑みは、陽射しより熱い。司式者が誓いの言葉を促すと、蒼介は沙羅の目を見つめ、一語ずつはっきりと告げた。「藤崎沙羅。俺は永遠なんて口にしない。だが今日だけは例外だ。朝倉蒼介は、この生涯、お前だけを愛する」沙羅は笑った。頬には涙が伝っていた。「朝倉蒼介、約束は守ってね」「もちろんだ」蒼介は身を屈め、真剣な口づけを落とす。「嘘だったら、針千本でも飲む」式が終わると、執事が一通の手紙を届けた。沙羅が封を開くと、短い一文だけがあった。【すまなかった。幸せになってくれ】差出人は礼次だった。蒼介が背後から腰を抱き、顎を肩に載せる。「返事を書くか?」沙羅は首を振り、手紙を畳んで脇へ置いた。「ううん。お互い穏やかに暮らせれば、それでいい」精神科病棟の一室では、梨香が部屋の隅に身を縮め、深緑色の宝石をあしらったペンダントを固く握っていた。礼次と婚約したときに交換した、対になる記念の品だった。看護師が入り、荷物を差し出した。「瀬川さん、お届け物です」梨香は勢いよく顔を上げ、狂ったように笑いながら包みを破いた。しかし中身を見た瞬間、その笑みが凍りつく。箱に入っていたのは、対になるもう一つのペンダント。礼次が持っていた片割れだった。添えられた紙には、冷たい言葉が並ぶ。【返す。これで貸し借りはない】梨香は絶叫し、ペンダントを壁に叩きつけた。宝石が砕ける音は、鋭く耳障りだった。「高城礼次!藤崎沙羅!絶対に許さない――!」叫びは空虚な廊下へ響いたが、もう誰も耳を貸さなかった。1年後。朝倉家本邸。蒼介は庭にしゃがみ、沙羅の手をそっと支えて、咲いたばかりの薔薇へ触れさせた。「ゆっくり。棘に気をつけろ」眉を寄せた顔は、危険な作業を見守っているかのようだ。沙羅は吹き出した。「蒼介、私は妊娠してるだけで、病人じゃないのよ」「それでも駄目だ」蒼介は不満そうに鼻を鳴らし、庭師へ命じた。「ここの薔
空港のVIPラウンジで、礼次は書類一式を沙羅の前へ差し出した。「署名してくれ」声は穏やかだったが、目の下の隈が、何日も眠っていないことを物語っていた。沙羅は書類を開き、指を止める。高城グループ株式15%の譲渡契約書だった。「受け取れないわ」書類を閉じて押し戻す。「外国へ療養に行くだけでしょう。帰ってこないわけじゃない」礼次は、昔から変わらない頑固さを目に宿して笑った。「償いだと思ってくれ」窓の外では、一機の飛行機が長い雲の線を残して空を横切る。沙羅は結局署名した。ただし、受益者の欄を朝倉慈善財団へ書き換えた。「私に償いは必要ない。礼次、私たちはもう前へ進まなくては」礼次は長い間彼女を見つめ、そっと手を伸ばして、薬指の結婚指輪に触れた。「大切にしてもらってるか」沙羅がガラス窓の向こうを見ると、蒼介が車にもたれて待っていた。手には、彼女がいちばん好きな菓子店の紙袋がある。肩へ落ちる陽射しが、信じられないほど優しい。「とても」礼次は手を引き、キャリーケースを取った。「それならいい」保安検査場へ向かう背中は真っすぐだった。初めて出会った頃、講堂の光の中に立っていた少年のように。後日、地方裁判所で、梨香に略取・監禁などの罪で有罪判決が言い渡された。法廷を出た梨香は、突然笑いだした。丁寧に整えていたはずの長い髪は草のように乱れ、口紅もすっかり剥げ落ちている。それでも少し離れた場所に並ぶ沙羅と蒼介を、血走った目で睨み続けた。「自分が勝ったと思ってるの?」掠れた声で叫ぶ。「藤崎沙羅、あんたみたいな女が、どうして!」付き添っていた係官に肩を押さえられながら、梨香は結末を悟った人間とは思えない力を発揮して振りほどき、路肩でエンジンをかけたままの車へ飛び乗った。エンジンが唸りを上げた瞬間、誰も反応できなかった。蒼介を除いて。彼は沙羅を突き飛ばし、自らは車の正面からはね飛ばされた。沙羅の目には、世界がゆっくりと動いて見えた。力なく路面へ横たわる蒼介。流れた血が、裁判所前の白い石畳へ鮮烈に広がっていく。集中治療室の外で、沙羅は手術同意書へ機械的に署名した。医師の言葉が途切れ途切れに耳へ届く。「肋骨骨折……内臓出血……脳震盪……」ガラスの向こうで何本も
沙羅が姿を消した。地下駐車場で連れ去られたのだ。会議を終えた沙羅は、コンクリートの床に高い靴音を響かせながら車へ向かっていた。照明が頼りなく明滅する中、鍵を探して俯いていると、背後から急ぎ足が迫った。振り返ろうとした瞬間、薬品を染み込ませた布で口と鼻を強く塞がれた。もがきながら最後に見たのは、真紅のハイヒールと、歪んだ梨香の笑顔だった。「藤崎沙羅……いいえ、朝倉夫人」甘ったるい声が、舌を覗かせる毒蛇のように響く。「ゲームをしましょう」その頃、蒼介は秘書から報告を受けていた。「青嵐キャピタルの一件には、瀬川家も関わっていたというのか」「はい。当時、高城氏と瀬川氏は水面下で手を組んでいました。しかし計画が終わると、瀬川氏は朝倉会長の死を材料に高城氏を脅し、株式を要求した。口論の末に誤って殺害し、飛び降り自殺に見せかけたようです」「欲には限りがないな」蒼介が椅子にもたれた、そのときスマホが鳴った。「妻を生かして返してほしければ、瀬川家が隠した資産の証拠を持ってきなさい」変声器を通した梨香の声は、ひどく不気味だった。「今夜10時、西地区郊外の廃化学工場。警察へ知らせたら、その場で喉を切るわ」電話が切れると同時に、蒼介の万年筆が机の上で砕けた。インクが血のように掌の皺へ滲む。いったん出た秘書が駆け戻った。「社長!瀬川梨香が全財産を担保にして、朝倉グループ株を空売りしています。すべてを道連れにするつもりです!」蒼介の目が凄みを帯びた。「すぐ高城礼次に連絡しろ」夜。錆びついた化学工場の鉄扉が、風を受けて軋んでいた。物陰に立つ礼次は、蒼介が一人で歩いてくるのを見つめた。「俺に連絡してくるとは思わなかった」「今はそんなことを話している場合じゃない」蒼介は硬い表情のまま礼次を追い越し、沙羅のいる方角へまっすぐ進んだ。鉄扉を蹴破ると、梨香がナイフの先で沙羅の顎を持ち上げていた。「誰が来たと思う?」梨香が艶めかしく笑った。「あなたの夫と……元婚約者?」蒼介は沙羅から目を離さず、怪我がないと確かめてから冷たく言った。「彼女を放せ。欲しい物はここにある」銀色のUSBメモリーを掲げる。礼次が突然、一歩前へ出た。「梨香。お前の父親が高城グループの資産を奪った証拠は
沙羅は朝倉グループの会議室にある大きな窓の前で、眼下に広がる街を見つめていた。朝倉家を出て、もう二週間になる。蒼介は引き止めなかった。ただ毎日欠かさず、白い薔薇の花束を届けさせた。添えられたカードには、いつも短い一文だけが記されている。【今日はいい天気だ。そろそろ許してくれないか?】届いた花は毎回オフィスの花瓶に生けたが、返事は一度もしなかった。「藤崎部長、各部門の責任者が揃いました」秘書の声で我に返り、沙羅は会議の席へ向かった。朝倉グループの役員たちが、それぞれ異なる表情で彼女を見ている。新たな「社長夫人」が突然経営陣に加わっただけでも反発はあった。そこへ最近の不仲説まで重なり、古株たちは隙を窺っている。「始めましょう。東南アジア支社の帳簿について、財務部から説明を」沙羅は周囲の視線を意に介さず、資料を開いた。財務部長が汗を拭った。「それは……システムへの入力が遅れた可能性が……」「遅れた?」沙羅がタブレットに触れると、スクリーンへ複数の数字が映し出された。「過去3年間、毎月15日に四千万円が『遅れて』入金され、月末までにまた『遅れて』別口座へ移されている。監査では、こういう処理を何と呼ぶのかしら」一同を見渡し、薄く笑った。「横領よ」会議室は静まり返った。その晩、珍しく蒼介のプライベート用の番号から電話がかかってきた。沙羅はしばらく画面を見つめ、結局応答した。「見事だったな、朝倉夫人。一日で、財務部に10年居座った害虫を見つけるとは」笑いを含んだ声だった。ソファにもたれ、沙羅は淡々と返す。「契約上、グループの業務を手伝う義務があるもの。それに、あなたは前から彼らを処分したかったんでしょう」電話の向こうが、一瞬静かになった。「契約だから、それだけか?」沙羅は答えなかった。蒼介が小さく笑う。「明日、チャリティーオークションがある。出席してくれ」「契約に、あなたの芝居に付き合うとは書いてないわ」「芝居じゃない」声が急に真剣になる。「じいさんが目を光らせている。お前が姿を見せなければ、連中は離婚の危機だと思って騒ぎ始める」今日の会議で向けられた探るような視線を思い出し、沙羅は唇を結んだ。「何時?」紙をめくる音が聞こえた。蒼介が口元