LOGIN3か月後。モルディブのプライベートアイランドに、青い海と空が広がっていた。純白のウェディングドレスをまとった沙羅は、柔らかな砂を踏み、花のアーチの下で待つ蒼介のもとへ歩いていく。彼は珍しく正装の黒いタキシードを着て、ネクタイまで寸分の乱れなく結んでいた。それでも瞳に浮かぶ笑みは、陽射しより熱い。司式者が誓いの言葉を促すと、蒼介は沙羅の目を見つめ、一語ずつはっきりと告げた。「藤崎沙羅。俺は永遠なんて口にしない。だが今日だけは例外だ。朝倉蒼介は、この生涯、お前だけを愛する」沙羅は笑った。頬には涙が伝っていた。「朝倉蒼介、約束は守ってね」「もちろんだ」蒼介は身を屈め、真剣な口づけを落とす。「嘘だったら、針千本でも飲む」式が終わると、執事が一通の手紙を届けた。沙羅が封を開くと、短い一文だけがあった。【すまなかった。幸せになってくれ】差出人は礼次だった。蒼介が背後から腰を抱き、顎を肩に載せる。「返事を書くか?」沙羅は首を振り、手紙を畳んで脇へ置いた。「ううん。お互い穏やかに暮らせれば、それでいい」精神科病棟の一室では、梨香が部屋の隅に身を縮め、深緑色の宝石をあしらったペンダントを固く握っていた。礼次と婚約したときに交換した、対になる記念の品だった。看護師が入り、荷物を差し出した。「瀬川さん、お届け物です」梨香は勢いよく顔を上げ、狂ったように笑いながら包みを破いた。しかし中身を見た瞬間、その笑みが凍りつく。箱に入っていたのは、対になるもう一つのペンダント。礼次が持っていた片割れだった。添えられた紙には、冷たい言葉が並ぶ。【返す。これで貸し借りはない】梨香は絶叫し、ペンダントを壁に叩きつけた。宝石が砕ける音は、鋭く耳障りだった。「高城礼次!藤崎沙羅!絶対に許さない――!」叫びは空虚な廊下へ響いたが、もう誰も耳を貸さなかった。1年後。朝倉家本邸。蒼介は庭にしゃがみ、沙羅の手をそっと支えて、咲いたばかりの薔薇へ触れさせた。「ゆっくり。棘に気をつけろ」眉を寄せた顔は、危険な作業を見守っているかのようだ。沙羅は吹き出した。「蒼介、私は妊娠してるだけで、病人じゃないのよ」「それでも駄目だ」蒼介は不満そうに鼻を鳴らし、庭師へ命じた。「ここの薔
空港のVIPラウンジで、礼次は書類一式を沙羅の前へ差し出した。「署名してくれ」声は穏やかだったが、目の下の隈が、何日も眠っていないことを物語っていた。沙羅は書類を開き、指を止める。高城グループ株式15%の譲渡契約書だった。「受け取れないわ」書類を閉じて押し戻す。「外国へ療養に行くだけでしょう。帰ってこないわけじゃない」礼次は、昔から変わらない頑固さを目に宿して笑った。「償いだと思ってくれ」窓の外では、一機の飛行機が長い雲の線を残して空を横切る。沙羅は結局署名した。ただし、受益者の欄を朝倉慈善財団へ書き換えた。「私に償いは必要ない。礼次、私たちはもう前へ進まなくては」礼次は長い間彼女を見つめ、そっと手を伸ばして、薬指の結婚指輪に触れた。「大切にしてもらってるか」沙羅がガラス窓の向こうを見ると、蒼介が車にもたれて待っていた。手には、彼女がいちばん好きな菓子店の紙袋がある。肩へ落ちる陽射しが、信じられないほど優しい。「とても」礼次は手を引き、キャリーケースを取った。「それならいい」保安検査場へ向かう背中は真っすぐだった。初めて出会った頃、講堂の光の中に立っていた少年のように。後日、地方裁判所で、梨香に略取・監禁などの罪で有罪判決が言い渡された。法廷を出た梨香は、突然笑いだした。丁寧に整えていたはずの長い髪は草のように乱れ、口紅もすっかり剥げ落ちている。それでも少し離れた場所に並ぶ沙羅と蒼介を、血走った目で睨み続けた。「自分が勝ったと思ってるの?」掠れた声で叫ぶ。「藤崎沙羅、あんたみたいな女が、どうして!」付き添っていた係官に肩を押さえられながら、梨香は結末を悟った人間とは思えない力を発揮して振りほどき、路肩でエンジンをかけたままの車へ飛び乗った。エンジンが唸りを上げた瞬間、誰も反応できなかった。蒼介を除いて。彼は沙羅を突き飛ばし、自らは車の正面からはね飛ばされた。沙羅の目には、世界がゆっくりと動いて見えた。力なく路面へ横たわる蒼介。流れた血が、裁判所前の白い石畳へ鮮烈に広がっていく。集中治療室の外で、沙羅は手術同意書へ機械的に署名した。医師の言葉が途切れ途切れに耳へ届く。「肋骨骨折……内臓出血……脳震盪……」ガラスの向こうで何本も
沙羅が姿を消した。地下駐車場で連れ去られたのだ。会議を終えた沙羅は、コンクリートの床に高い靴音を響かせながら車へ向かっていた。照明が頼りなく明滅する中、鍵を探して俯いていると、背後から急ぎ足が迫った。振り返ろうとした瞬間、薬品を染み込ませた布で口と鼻を強く塞がれた。もがきながら最後に見たのは、真紅のハイヒールと、歪んだ梨香の笑顔だった。「藤崎沙羅……いいえ、朝倉夫人」甘ったるい声が、舌を覗かせる毒蛇のように響く。「ゲームをしましょう」その頃、蒼介は秘書から報告を受けていた。「青嵐キャピタルの一件には、瀬川家も関わっていたというのか」「はい。当時、高城氏と瀬川氏は水面下で手を組んでいました。しかし計画が終わると、瀬川氏は朝倉会長の死を材料に高城氏を脅し、株式を要求した。口論の末に誤って殺害し、飛び降り自殺に見せかけたようです」「欲には限りがないな」蒼介が椅子にもたれた、そのときスマホが鳴った。「妻を生かして返してほしければ、瀬川家が隠した資産の証拠を持ってきなさい」変声器を通した梨香の声は、ひどく不気味だった。「今夜10時、西地区郊外の廃化学工場。警察へ知らせたら、その場で喉を切るわ」電話が切れると同時に、蒼介の万年筆が机の上で砕けた。インクが血のように掌の皺へ滲む。いったん出た秘書が駆け戻った。「社長!瀬川梨香が全財産を担保にして、朝倉グループ株を空売りしています。すべてを道連れにするつもりです!」蒼介の目が凄みを帯びた。「すぐ高城礼次に連絡しろ」夜。錆びついた化学工場の鉄扉が、風を受けて軋んでいた。物陰に立つ礼次は、蒼介が一人で歩いてくるのを見つめた。「俺に連絡してくるとは思わなかった」「今はそんなことを話している場合じゃない」蒼介は硬い表情のまま礼次を追い越し、沙羅のいる方角へまっすぐ進んだ。鉄扉を蹴破ると、梨香がナイフの先で沙羅の顎を持ち上げていた。「誰が来たと思う?」梨香が艶めかしく笑った。「あなたの夫と……元婚約者?」蒼介は沙羅から目を離さず、怪我がないと確かめてから冷たく言った。「彼女を放せ。欲しい物はここにある」銀色のUSBメモリーを掲げる。礼次が突然、一歩前へ出た。「梨香。お前の父親が高城グループの資産を奪った証拠は
沙羅は朝倉グループの会議室にある大きな窓の前で、眼下に広がる街を見つめていた。朝倉家を出て、もう二週間になる。蒼介は引き止めなかった。ただ毎日欠かさず、白い薔薇の花束を届けさせた。添えられたカードには、いつも短い一文だけが記されている。【今日はいい天気だ。そろそろ許してくれないか?】届いた花は毎回オフィスの花瓶に生けたが、返事は一度もしなかった。「藤崎部長、各部門の責任者が揃いました」秘書の声で我に返り、沙羅は会議の席へ向かった。朝倉グループの役員たちが、それぞれ異なる表情で彼女を見ている。新たな「社長夫人」が突然経営陣に加わっただけでも反発はあった。そこへ最近の不仲説まで重なり、古株たちは隙を窺っている。「始めましょう。東南アジア支社の帳簿について、財務部から説明を」沙羅は周囲の視線を意に介さず、資料を開いた。財務部長が汗を拭った。「それは……システムへの入力が遅れた可能性が……」「遅れた?」沙羅がタブレットに触れると、スクリーンへ複数の数字が映し出された。「過去3年間、毎月15日に四千万円が『遅れて』入金され、月末までにまた『遅れて』別口座へ移されている。監査では、こういう処理を何と呼ぶのかしら」一同を見渡し、薄く笑った。「横領よ」会議室は静まり返った。その晩、珍しく蒼介のプライベート用の番号から電話がかかってきた。沙羅はしばらく画面を見つめ、結局応答した。「見事だったな、朝倉夫人。一日で、財務部に10年居座った害虫を見つけるとは」笑いを含んだ声だった。ソファにもたれ、沙羅は淡々と返す。「契約上、グループの業務を手伝う義務があるもの。それに、あなたは前から彼らを処分したかったんでしょう」電話の向こうが、一瞬静かになった。「契約だから、それだけか?」沙羅は答えなかった。蒼介が小さく笑う。「明日、チャリティーオークションがある。出席してくれ」「契約に、あなたの芝居に付き合うとは書いてないわ」「芝居じゃない」声が急に真剣になる。「じいさんが目を光らせている。お前が姿を見せなければ、連中は離婚の危機だと思って騒ぎ始める」今日の会議で向けられた探るような視線を思い出し、沙羅は唇を結んだ。「何時?」紙をめくる音が聞こえた。蒼介が口元
沙羅は蒼介の書斎の前で、半開きの扉に指先を添えていた。コーヒーを届けに来ただけだった。最近の蒼介は毎晩遅くまで働いている。身体を壊さないか心配になり、好物のブルーマウンテンを自分で淹れたのだ。ところが扉の前まで来ると、中から低い話し声が聞こえた。「当時、高城グループの資金繰りが破綻した件には、確かに朝倉会長も関与しています」立ち去ろうとした沙羅の足を、意外な名前が止める。「しかし、高城礼次の父親が自死した直接の原因は、蒼介様のお父上ではありません。別の事情があります」手の中でカップが傾き、褐色の液体が音もなくトレーへこぼれた。わずか二言に含まれた事実の重さに、沙羅は思わず半歩下がった。その身体が、扉脇の花瓶に触れる。硬い音が廊下に響き、書斎の中にも届いた。扉が勢いよく開く。光と影の境に立つ蒼介の目に、驚きが走った。「沙羅?」沙羅の目は、床に散らばった書類に吸い寄せられた。7年前の高城グループ破綻についてまとめた詳細な調査報告書。どのページにも、赤く「機密」と押されている。向かい合った二人の間で、空気が凍りついた。秘書は状況を察し、静かに部屋を出ていった。「高城家を調べているの?」自分の声とは思えないほど冷静だった。蒼介は否定しなかった。腰を屈めて書類を拾う動きは落ち着いていて、ありふれた契約書でも片づけているようだ。「そうだ」「理由を聞いてもいい?」蒼介は眼鏡を外し、眉間を揉んだ。人前では常に余裕を崩さない男が、珍しく疲れて見える。「俺の父と高城礼次の父は、かつて共同経営者だった」書類を手に窓辺へ行き、沙羅に背を向けた。「三十年前、二人は青嵐キャピタルを共同で設立した。だが高城家は市場を独占するために証拠を捏造し、俺の父を刑務所へ送った」沙羅はその場に立ち、息を殺して聞いていた。「無実を示す証拠はほぼ揃っていた。だが父は獄中で心臓発作を起こし、控訴審を待たずに死んだ」蒼介が振り返る。その目は、恐ろしいほど静かだった。「俺が12歳のときだ」沙羅は、朝倉家本邸に掛けられた重苦しい肖像画を思い出した。宗一郎の厳しい眼差し、蒼介がふとした折に覗かせる高城家への敵意。ようやく、すべてに説明がついた。「それなら……」自分の声が震える。「私に近づいた
蒼介のオフィスへ入ると、彼は電話で厳しい指示を飛ばしていた。「金はいくらかかっても構わない。手段も問わない。記事を出したメディアの裏をすべて洗え」通話を切って沙羅を見たとき、その目にはまだ険しさが残っていた。だが声はすでに柔らかい。「来たか」沙羅は机の前まで行き、申し訳なさそうに言った。「ごめんなさい。あなたと朝倉グループまで巻き込んでしまった」蒼介は鼻で笑った。それは沙羅に向けたものではない。彼女の手を引いてソファに並んで座ると、タブレットに表示された記事へ指を滑らせた。白い画面の光が、その瞳に宿る冷たさを照らす。「こんなもの、巻き込まれたうちに入らない。痛いところを突くのだけはうまいが、惜しかったな」「何が?」「自分にも弱みがあることを忘れたらしい」蒼介は沙羅の顔へ手を伸ばした。今度は沙羅も避けずに、彼を見つめた。その目に心からの笑みが浮かぶ。長い指が、沙羅のこめかみにかかった髪を整えた。「今夜、アジア太平洋地域の投資家が集まるパーティーがある。一緒に出席してもらう」「公の場で反撃するつもり?」蒼介の声が次第に低くなった。「当然だ。誰を敵に回してもよくて、誰を敵に回してはいけないのか、はっきり分からせる」沙羅の胸が大きく跳ねた。陽が傾き、室内に影が満ちていく。蒼介の声まで冷たく沈み、獲物を狙う蛇のように聞こえた。その夜のパーティーは、央都ホテルの最上階で開かれた。華やかに着飾った人々の間で、各社の経営者が思い思いに談笑していたが、蒼介が沙羅を伴って入場すると、広間は一瞬だけ静まり返った。沙羅はダークグリーンのベルベットドレスに身を包み、細く絞られた腰が雪のような肌を際立たせている。蒼介は黒のオーダースーツ姿で、ネクタイは彼女のドレスと同じ色だった。薬指の結婚指輪が照明を受けて輝く。彼は終始沙羅の手を握り、親指で掌を優しく撫でていた。言葉のない慰めのように。「朝倉社長、お目にかかれて光栄です」グラスを手に近づいてきたのは、中年の石川会長だった。視線はさりげなく沙羅へ向けられている。「こちらが奥様ですか。噂どおり、実に……お美しい」「恐れ入ります」蒼介は微笑みながら、沙羅の腰を囲う腕に力を込めた。「妻はこういう席があまり好きではありません。今日は特別に付き