All Chapters of 大人になれない君を、今日で捨てます: Chapter 1 - Chapter 9

9 Chapters

第1話

ミュージックバーの喧騒の中、スピーカーから流れる重低音のBGMだけが、やけに私の耳に響いていた。渉は舌打ちをすると、吸いかけのタバコを灰皿にゴリッと押し付けた。「お前さ、目覚まし止められたくらいでキレてんの?」苛立たしげに立ち上がった彼が近づいてくる。187センチの長身が、私をすっぽりと暗い影の中に閉じ込めた。「なあ琴音、たかが一日あのクソみたいな会社休んだくらいでどうなるってんだよ。自分が今、どれだけ堅物でつまらない女になってるか自覚あるか?こっちはわざわざサプライズ用意してやったのに、可愛げの欠片もなくさっさと寝やがって。お前と一緒にいるの、マジで息が詰まるんだよ」上から見下ろすように吐き捨てられた言葉の刃が、一つ一つ鼓膜を突き刺す。ああ、間違ってない。別れるという私の選択は、絶対に間違っていない。「……息が詰まるなら、もうやめにしましょう」私の時間だって、タダじゃないのだ。彼に無駄にしていい10年は、もうこれ以上残っていない。渉は不機嫌そうに唇を噛み締め、何も言い返さなかった。私はきびすを返し、迷うことなくその場を立ち去る。背後からは、彼の取り巻きたちがざわめく声が聞こえてきた。「え、嘘でしょ?昨日、10年の記念日祝ったばっかじゃん」「琴音ちゃん、結構ガチっぽかったすけど。渉くん、追いかけなくていいんすか?」戸惑う男友達の声に被せるように、甘ったるい声が響いた。「振られた直後にご機嫌取りとか、プライド高い渉さんがするわけないじゃん」声の主は、渉の遊び仲間の一人である小林莉愛(こばやし りあ)。昔から渉の周りをうろちょろしている、やたらと距離感の近い女だ。彼女は口にくわえていたチュッパチャプスを転がしながら、悪びれもせずに笑う。「ねえ、別れたなら私と遊ばない?私なら重いこと言わないからさぁ」そのあからさまな誘いを軽く聞き流し、渉は別の男友達から差し出された新しいタバコを受け取った。そして、ふっと鼻で笑う。「放っとけ。どうせいつもの当てつけだ」心底どうでもよさそうに、彼は言葉を続ける。「ここ2年くらい、結婚結婚ってうるさかったからな。俺を焦らせて妥協させるための駆け引きだよ。本気で別れる度胸なんて、あいつにあるわけねぇって」――渉は、私がまた
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第2話

テーブルの上には、お菓子のゴミや酒瓶が散乱している。莉愛はソファに丸くなり、私の愛用しているブランケットで足元をくるみながら、クッションを床に蹴り落としていた。今朝出かける前に、私がやっとの思いで綺麗に片付けたばかりの部屋が。また、見事なまでにゴミ溜めへと逆戻りしていた。「おっ、今日は帰るの早いな」渉は悪びれる様子もなく、私に声をかけてきた。「この部屋には、誰も呼ばないって約束だったよね?」私は彼をまっすぐに見据えて問いただす。「この前、私のお母さんが食事に来たいって言った時は絶対に嫌だって断ったのに。……これ、どういうつもり?」渉はガシガシと乱暴に髪を掻き毟り、あからさまに鬱陶しそうな目を向けた。「お前がずっと仕事で家空けてっからだろ。俺が暇つぶしにダチ呼んで何が悪いんだよ。誰も呼ばないってルールは、二人だけの時間を大事にするためだったろ?」彼はため息をつき、私を責め立てるように言葉を続ける。「胸に手ぇ当てて考えてみろよ。この2年間、お前がまともに俺の相手してくれたこと、一度でもあったか?ねぇよな。お前はもう、俺のことなんてどうでもいいんだよ」――私は事実とルールの話をしているのに、彼は自分の感情論にすり替えて被害者ぶる。ああ、もうダメだ。これ以上、言葉を交わすだけ無駄だ。私は何も言い返さず、会社から持ち帰った私物の段ボール箱を玄関の隅に置き、そのまま真っ直ぐ寝室へと向かった。コンコン、と遠慮のないノックの音が響いたのは、私がクローゼットから服を出して畳んでいる時だった。「琴音さぁん、もしかして怒ってますぅ?」ドアの隙間から顔を出した莉愛が、ド直球にそう聞いてきた。「私のことが気に入らないなら、はっきり言ってくださいよぉ。私だって、どうしてもこの家に来たかったわけじゃないですしぃ。そんなあからさまに嫌な顔して、当てつけみたいに部屋に引きこもらなくてもよくないですか?」彼女の言う通りだ。私は、彼女のことが大嫌い。だがそれは、今に始まったことじゃない。初めて会ったあの日、彼女は渉の膝の上に跨り、彼の首に腕を絡めてベタベタと甘えていたのだ。あれは、渉の誕生日パーティーでのこと。部屋に入った瞬間にその最悪な光景を見せつけられた私は、頭に血が上り、莉愛を思
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第3話

そのまま私は振り返ることもなくマンションを出て、古くからの親友に会いに行った。彼女は私の話を聞いて小さくため息をついた後、ホッとしたように微笑んでくれた。「実はね、ずっと琴音に言えなかったことがあったんだ。3年前の、琴音の誕生日パーティー。ほら、貸切のナイトプールでやったやつ。渉くんが琴音にキスした時は、私も本気ですっごくロマンチックだなって思ったよ。でもその直後、彼、琴音のことプールに突き落としたでしょ。周りの子たちは爆笑してたけど……盛り上がってるように見えて、私、琴音がすごく可哀想だなって思ってた」親友は、当時の不快感を思い出したように眉をひそめる。「琴音、あの日のためにすっごく気合入れてメイクしてたのに。それに、バースデーケーキが出てきた時も、琴音が一口も食べてないのに、渉くん、琴音の顔をケーキに押し付けたじゃない?ああいうの、ノリとか以前にただの幼稚な嫌がらせじゃん。琴音に言おうか迷ったんだけど……みんな楽しそうにしてたから、私だけ空気を悪くするのもなって思って、言えなかったの」その言葉に、私は少し眩暈を覚えた。――彼の幼稚さ、未熟さ。そんなもの、傍から見れば一目瞭然だったのだ。……その日は親友の家に泊めてもらうことになった。洗面所で彼女がサニタリー用品を出しているのを見て、ふと嫌な予感がよぎった。そういえば、ここ最近、生理が来ていない。最後に彼と身体を重ねた日のことを思い返す。2ヶ月ほど前。取引先の接待で遅くなり、酔っ払って帰宅した夜のことだ。ソファに倒れ込んだ私を、渉は背後から強引に押し倒した。疲労困憊で眠りたかった私にとって、あれはひどく一方的で乱暴なだけの行為だった。その日が最悪すぎて、それ以来、私たちは一度もそういうことをしていない。私は慌ててスマホを取り出し、メッセージアプリを開いた。【あの夜、ちゃんとゴムつけた?】送信してすぐ、画面に「入力中…」の文字が表示される。そして一分近く経ってから、短い返信が届いた。【もしかして、できた?】血の気が引いた。つけてなかったんだ。今すぐ電話をかけて罵倒してやりたかったが、まずは病院でちゃんと検査をするのが先決だ。翌朝、産婦人科を訪れ、受付を済ませて待合室の椅子に座った直後。息を切
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第4話

警察官が、事故当時のドライブレコーダーの映像を見せてくれた。運転席には渉。助手席には莉愛が座っていた。そこは、私が長年かけて一番くつろげるように調整した、私だけの特等席だったはずなのに。映像の中の莉愛は、シートを何度もガタガタと動かしながら不満げに文句を言っている。「てか、このシート位置低すぎじゃない?やっぱおばさんになると、腰痛めちゃうからこういう設定なのかなぁー?」そう言ってケラケラ笑いながら、今度は勝手にダッシュボードを開け漁る。中に入っていた私のコスメを指差し、「うわ、いつの時代のメイク?ダサすぎぃ」と鼻で笑う。そして極めつけに、見覚えのある小瓶を取り出した。1年前、渉が私の誕生日にプレゼントしてくれた高級な香水。もったいなくて、ずっと開けられずに大切にしまっていたものだ。莉愛はためらいもなく封を切り、自分の首筋にプシュッと吹きかけた。「ねえ渉さん、これどんな匂い?嗅いでみてよぉ」運転中の渉に無理やり身を乗り出し、顔を近づける。そのじゃれ合いの隙に――前方不注意になった車が、交差点の角を曲がっていた父をはね飛ばしたのだ。映像が終わり、私と渉の間に重苦しい沈黙が落ちた。やがて、渉がゆっくりと頭を垂れる。「……悪かった」バサッ!!私は握りしめていた診断書を、渉の顔面に力一杯叩きつけた。「謝罪なんか要らない。必ず起訴する。手術費、治療費、後遺障害の慰謝料に精神的苦痛への損害賠償……一円たりとも負けてあげるつもりはないから」すると、莉愛がバンッと机を叩いて立ち上がった。「ちょっと、やりすぎじゃないですかぁ!?こっちだってわざとぶつけたわけじゃないんだし、示談で十分でしょ!なんでわざわざ起訴とか大げさなことするんですか!渉さんはSNSで数百万人もフォロワーがいる有名人なんですよ!?もし炎上でもしたら……」「莉愛、黙れ」冷たく、ドス黒い怒りを孕んだ声が莉愛の言葉を遮った。渉は「俺のことに口出しすんな」と莉愛を睨みつけた後、私に向き直る。その声には、必死で私を宥めようとする焦りが滲んでいた。「賠償金は、どんな額でも絶対に全額払う。……本当に、すまなかった」そして最後に、恐る恐る口を開く。「おじさん……無事、なのか?」私は何も答えなかった。
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第5話

真夏のコンクリートジャングルは、息が詰まるほど蒸し暑かった。彼の顔を伝う水滴が、汗なのか、それとも涙なのか。私には判別できなかったし、もはやどうでもよかった。渉は中絶手術の同意書を食い入るように見つめ、やがて喉の奥から絞り出すように呟いた。「琴音……これ、お前自身の子供でもあるんだぞ。どうしてそんなに簡単に、要らないなんて言えるんだよ……っ」私はひどく冷めた頭で、当たり前の事実を告げる。「自分の体をどうするか決めるのは、私自身よ」それだけ言い残し、私はナースステーションで「あの男は絶対に面会させないでください」と念を押し、病室へと戻った。結局、私は渉と莉愛の二人を起訴した。助手席から運転を妨害した彼女にも、当然ながら連帯責任がある。裁判の結果、彼らには莫大な医療費と損害賠償の全額支払いが命じられた。飲酒運転やひき逃げではなかったため、実刑こそ免れたものの、二人ともそれぞれ数週間の勾留処分を受けた。刑の重さなんて、実はどうでもよかった。私はただ、彼らという存在を私の人生から法的に、そして徹底的に排除したかっただけなのだから。父が退院した後、私たちは都会を離れ、実家のある地方の穏やかな街へと戻った。会社からは不当解雇の和解金と会社都合の割増退職金として、合わせて860万円が振り込まれた。それに加えて、渉たちからの高額な賠償金もある。私は父のために最新のオーダーメイド義肢を作り、残りの金額で綿密なファイナンシャルプランを立てた。実家周辺は物価も安く、これだけの資金があれば、両親の老後の生活は十分に保障されるだろう。ただ、母だけは、いつまで経っても膨らむことのない私のお腹を見ては、時折悲しそうにため息をついていた。ある日の夕食時、母がぽつりと昔の話を始めた。「琴音が大学を卒業してすぐ、渉くんを家に連れてきた時……お父さんもお母さんも、本当にびっくりしたのよ。でも、あの頃の彼はすごく明るくて、礼儀正しくて。琴音とも本当にお似合いだったから……私たち、彼のことが大好きだったのになぁ」――そう、渉は私の両親にとっても、自慢の彼氏だった。学生時代、父は「変な男を連れてきたら足の骨を折ってやる」なんて息巻いていたのに。いざ渉を連れて行くと、すっかり上機嫌になって文句の一つも言わなかった。そ
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第6話

勾留を解かれた後。渉は、琴音と7年以上も一緒に暮らしたマンションの部屋へと帰ってきた。しかし、7、8年も同棲していたはずのその部屋には、二人が共に過ごした痕跡が何一つ残されていなかった。琴音は、すべてを引き払って出て行った。壁に飾られていた二人の写真も、彼女がベランダで大切に育てていた鉢植えも。そこにあるのは、ただの無機質な家具だけ。ふと、ソファの隅にくしゃくしゃになって放置されているブランケットが目に留まる。琴音がよくそれにくるまって、ソファでドラマを見たり、ゲームをしたりしていたのを思い出す。ふざけ合った時、彼女はそのブランケットを渉の顔にバサッと被せ、ケラケラ笑いながら逃げ回ったっけ。だが直後、渉は思い出した。……あの日、莉愛がこのブランケットに足をくるみ、床に蹴り落としていたことを。汚されたのだ。彼と琴音の、あの無邪気で幸せだった思い出ごと、無惨に汚されてしまった。ああ、琴音もきっと、そう思ったのだろう。だからこれだけは、ゴミとして置いていったのだ。渉は力なくブランケットを拾い上げると、そのままゴミ箱に放り捨てた。そして、崩れ落ちるようにソファに仰向けに倒れ込む。たったそれだけの動作で、全身の気力を使い果たしてしまったかのように。虚ろな目で天井を見上げていると、昔、琴音と一緒にやった他愛のないゲームを思い出した。一枚の白黒画像。その中心にある赤い点。その点を30秒間じっと見つめて。最後に天井を見て瞬きをすると、サプライズが見えるという錯視のゲーム。あの時、渉が天井に見たのは、残像として浮かび上がる琴音の弾けるような笑顔だった。渉は震える手でスマホを取り出し、画像フォルダの奥底からその画像を探し出した。画面の中心の赤い点を、目が痛くなるほどじっと見つめ続ける。やがて、ゆっくりと顔を上げ、天井を見つめて瞬きをした。――その瞬間。ボロボロと、大粒の涙がこぼれ落ちた。とめどなく溢れる涙は、どうやっても止めることができなかった。涙で視界が酷く滲んで、ぼやけて。どうしてももう一度見たかったあの笑顔の残像すら、彼が再びはっきりと見ることはできなかった。二人で過ごす日々は、あんなにも楽しくて、幸せだったのに。どうして俺は、こんな空っぽの部屋で一人ぼ
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第7話

私は都会で、新しい会社に転職した。これまでのキャリアが高く評価されたおかげで、仕事は順調そのものだった。3年の月日が流れ、私の口座には4千万円の貯金ができていた。かつて渉が「これだけ貯まったら結婚する」と言い訳に使っていた2千万円の、倍の額だ。都会に残った友人からの噂話によると、渉はあの大人気だったアカウントを突然削除し、今は裏方として細々と誰かの楽曲提供をしているらしい。莉愛については、夜の街で変に権力のある男の逆鱗に触れ、妊娠させられた挙句にあっさりと捨てられたそうだ。私はその話を聞いてふふっと笑い、「今度こっちに遊びにおいでよ、美味しいものでもご馳走するから」とだけ友人に返した。そして私は、その会社をキッパリと辞めた。給料は破格だったけれど、その分、心と体を削りすぎた。連日の接待や飲み会で軽い胃潰瘍になってしまったし、何より毎年入社してくる血気盛んな後輩たちとの過酷な出世レースについていく気力が、もう私には残っていなかったのだ。私は実家のある長閑な街へと帰り、静かな湖畔に小さなゲストハウスを開く計画を立てた。準備からオープンまで、かかった期間はわずか半年。湖のほとりに建つ、木の温もりが溢れるナチュラルテイストの小さな宿。オーナーである私自身が「ずっとここに住みたい」と思ってしまうほど、理想通りの空間に仕上がった。私は宿の宣伝のために、これまで見向きもしなかった動画アプリやSNSをダウンロードした。見よう見まねで動画のトランジションや編集を学び、愛しいこの『ゲストハウス・春風』の魅力を発信し始めた。努力の甲斐あって、全10室の客室はあっという間に予約で埋まり、年末まで満室状態が続く大盛況となった。年が明け、また初夏が巡ってきた頃。――かつて、私と渉が交際を祝っていたあの記念日が近づくある日。一人の宿泊客の女の子からこんなメッセージが届いた。【オーナーさん、中庭に簡単なステージを作ってもらうことってできませんか?】【その日の夜、ずっと片思いしてる人に、歌で告白したいんです】その文面を見た瞬間。私はふと、渉のことを思い出した。あれから何年も経ったというのに、彼がステージの上で私に向けて歌い、告白してくれたあの日の光景は、驚くほど鮮明に脳裏に焼き付いていた。私は二つ返事
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第8話

ステージの上の女の子の歌声は、素人にしてはなかなか綺麗だった。けれど、よほど緊張しているのか、所々で音が外れてしまっている。彼女の熱を帯びた視線は、ずっと私の隣に向けられていた。そう、彼女が言う「ずっと片思いしている本命の相手」とは、私の隣に座っているこの男――渉のことだったのだ。渉は静かに、ただ彼女の歌声に耳を傾けているように見えた。指輪をはめた手で、膝の上でトントンと軽くリズムを取っている。やがて曲の終盤に差し掛かった時。渉がふいに顔を向け、私を真っ直ぐに見つめてきた。そして、まるで昨日の出来事の続きでも話すかのように、真剣な声でこう尋ねたのだ。「今のアレンジ、あの二小節だけ音が違うよな。……お前もそう思うだろ?」私は一瞬、息を呑んだ。遅れて、ようやく思い出した。――この曲だ。彼がサークルのステージで、私に愛を告白してくれた時に歌った曲。彼が私のために作った、オリジナルのラブソング。あの時一度だけ歌って、その後音源化されることもなく、どこにも発表されなかった幻の曲。だから私は、あの日のたった一度しか、この曲を聴いたことがない。もし、あのロマンチックだった告白の記憶が私の中に強く刻み込まれていなければ。きっと、本当にこの曲が何だったかなんて、思い出せなかっただろう。渉は私をじっと見つめ、自嘲するように小さく笑った。「……分かってる。お前はもう、とっくに忘れてるよな」そう言い残し、彼は静かに立ち上がった。翻ったコートの裾が、私の視界をふわりと遮る。それが晴れた時、彼はもうステージの上に立っていた。ステージ上の女の子は、ガチガチに緊張して声も出せないようだった。彼女はマイクを両手でぎゅっと握りしめ、目を瞑って一気に想いをぶつけた。「渉さん、好きです!私より13歳も年上だとか、そんなの関係ありません!渉さんの心の中に、ずっと忘れられない人がいるって分かってても……それでもいいんです!初めて会った時から、私ずっと……っ」その必死な告白は、途中で唐突に断ち切られた。ステージに上がった渉が、彼女の手からマイクをすっと奪い取ったからだ。「……違う。今の曲、そんなアレンジじゃない」そう短く告げると、彼は丸椅子を引き寄せて腰を下ろす。マイクスタンド
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第9話

あの事故から数年が経った今でも。父は義肢での生活になんとか適応したものの、未だに行動には大きな制限がかかっている。生涯の誇りだった鳶職人の仕事には、二度と戻れなかった。私や母の前では「もうすっかり慣れたさ」と明るく笑っているけれど。時折、庭のデッキチェアに横たわりながら、失われた片足をぼんやりと見つめている姿を、私は何度も見かけている。父はきっと、一生本当の意味で心の整理をつけることなんてできないだろう。そして……私自身も、絶対に許すことはできない。思えば、両親からは何度も「彼との結婚はいつになるんだ」と聞かれていた。私がはぐらかせばはぐらかすほど、二人は不安を募らせていった。もし彼がただの遊びで、結婚する気がないのなら、さっさと実家に帰ってきなさいと説得されたこともある。一人娘である私が、手の届く場所にいないと心配でたまらなかったのだろう。本当は、私がいつか深く傷ついて、ボロボロになってしまうことを予感していたのかもしれない。それでも当時の私は、親の言葉に耳を貸さなかった。別れる決心もつかず、実家に帰ることもせず。ただ意地になって、彼が「大人になってくれる日」を待ち続けながら、無駄な2年間を耐え忍んでしまった。――父が私を心配して都会へやって来た本当の理由。それを私が知ったのは、事故からずっと後のことだった。父は、私の30歳の誕生日に、渉がSNSに投稿した動画を見てしまったのだ。あの日。渉はサプライズと称して、バースデーケーキの中に、大量の気味が悪い蜘蛛のおもちゃを仕込んでいた。私がケーキにナイフを入れた瞬間、中からワサワサと黒い蜘蛛が這い出してきたのだ。私は恐怖のあまり腰を抜かし、泣き叫びそうになった。しかし渉と彼の取り巻きたちは、そんな私を見て腹を抱えて大爆笑し、あろうことかその無惨な姿を動画に撮ってSNSにアップしたのだ。自然豊かな地方で育ったとはいえ、私は昔から蜘蛛だけは病的に怖がっていた。蛇を素手で捕まえることはできても、蜘蛛だけは絶対に無理だった。渉は、そのことを知っていたはずだ。初めて彼が実家へ挨拶に来た時、「田舎育ちなら、でっかい蜘蛛とか見慣れてるでしょ?平気で触れそう」と失礼な冗談を言った彼に、父はきっぱりとこう言ったのだ。「ウチでは絶対に見せ
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