جميع فصول : الفصل -الفصل 40

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31話

絵里は立ったまま、拓真の返事を待っていた。 拓真は握っていた離婚届を膝の上で伸ばした。自分の名前を書く場所が、折り目の横に見える。 「澪とは俺が話す」 「今、話してくださるんですか?」 「そう言ってるだろ」 絵里は座らなかった。拓真は卓上の時計の箱を脇へ押し、スマートフォンを取った。 紙は膝に残したまま、澪の名前を押す。 …… 新しい部屋へ帰っても、上着を脱いでしばらく動けなかった。 右肩をかばいながら椅子へ座り、鞄を足元へ置く。あの家の鍵は、もう中にない。 返すと決めて持っていったのに、本当に手放すと、何か忘れて帰ってきたような気がした。 父の請求書の横へ、手帳を開いた。今月の支払いに取ってあるお金と、この部屋を借りて減った残高を見直す。 今月分が払えても、来月も父の費用はかかる。私の暮らしも続く。 昨日は、返済について答えてもらう日だった。今日会っても、返す額も日も聞けなかった。 時計を受け取らなかったからといって、貸したお金まで諦める理由はない。 私は、1,200万円、と書いた。その下へ、慰謝料、と書き足す。 その文字を見た途端、消したくなった。 好きだった気持ちまで、お金に換えようとしていると思われるだろうか。 けれど、誰にも責められない言い方を探していたら、私の傷の話は、いつできるのだろう。 電話が鳴った。拓真だった。&nb
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32話

今すぐ、サインしてやる。その言葉だけを、つかみたくなった。父のことを話すたびに帰ってこいと言われるのも、絵里さんを受け入れない私が悪いように責められるのも、もう終わりにしたかった。電話の向こうで、拓真が待っている。うん、と言えば、あの紙に名前を書いてくれるのだろうか。手帳の上に落としていた視線を、父の請求書へ移した。いくらかも知らない借金を引き受けて、そのあと、私はどうやって暮らすのだろう。父の費用は。借りたばかりのこの部屋は。早く離れたい。それでも、そのために何も分からないまま返事をするのは怖かった。「……それは、できない」「何ができないんだよ」「借りてもいないお金を、私が引き受けるとは言えない」言い終わってから、電話を持つ手が汗ばんでいることに気づいた。「じゃあ、サインはしない。それでいいんだな」胸が苦しくなった。私が決めたことのように言う。自分の知らない借金を断っただけで、離婚できないのも私のせいになる。「よくないよ。離婚はしたい。でも、その条件には同意できない」「自分の要求だけ通すつもりか」私はいったん口を閉じた。どう言えば、分かってくれるだろう。まだ、そんなことを考えていた。さっきから私が必死に説明しているのは、自分の知らない借金を背負いたくないという、それだけのことなのに。「どこで、いくら借りたの?」「引き受ける気がないなら、聞いてどうする」ペンを持ち上げかけた手が止まった。「私の名前を使ったんでしょう。私が知っちゃいけないの?」「先に、こっちの条件を飲むのか決めろよ」顔が熱くなった。何を引き受けるのかも教えないまま、引き受けると答えろと言っている。「内容も知らないのに、決められるわけないよ」「会社のためだって言っただろ」「それは、誰からいくら借りたかの答えじゃない」声が強くなり、思わず受話口から顔を離した。隣の部屋に聞こえただろうか。ここまで来ても、夫との電話で声を抑えなければならない。昨日、自分で鍵を開けて入った時は、ここなら少しは休めると思ったのに。私は電話を耳へ戻した。「私の名前を使った書類を見せて」「話を大きくするなよ」「私には、大きなことだよ」そこで声が詰まった。責めるための言葉ではなかった。来月の家賃を計算するだけでも不安だった。父の費用を払うといくら残
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33話

拓真から画像が届いた。 机に置いたスマートフォンが震えた途端、右肩がこわばった。 あれほど見せてほしいと思っていたのに、すぐには開けなかった。 続けて、短い文章が表示された。 【1億円。去年の11月14日。親父の代から付き合いのある人だ。会社の支払いに必要だった】 1億円。 打ち間違いだと思った。そうであってほしくて、画像を押した。 机の上で撮ったらしい借用書の控えにも、同じ金額が記されていた。 画面を拡大して読み直しても、変わらなかった。 私はスマートフォンを机へ置いた。請求書と部屋の費用を並べ、足りるかどうか考えていた。 そのそばに、1億円と書かれた画面がある。 どうすれば用意できるのか、考えようとしても何も浮かばなかった。 もう一度、画面に触れた。日付の次に、貸した人の名前を読む。 知らない人だった。その下にある借主の欄を拡大した。 相良澪。 見慣れた名前が、知らない字で書かれていた。 自分の名前を読んでいるのに、気持ちが悪い。 画面を少し遠ざけてから、もう一度、指で大きくした。 間違って見えたわけではなかった。 【お前の名前になってるだろ。俺が話をつけたんだ。相手に失礼なことはするなよ】 私にではなく、お金を貸した相手に失礼がないように。 拓真が気にしているのは、そこだった。
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34話

月曜日の午前、法律事務所から電話があった。 申込みを受け付けたことと、午後に相談できる時間があることを告げられた。 私は手帳を開き、その時刻を書いた。 電話を切っても、書いた数字をしばらく見ていた。送ってしまった、と土曜の夜には思った。 今は、ちゃんと届いていたのだと分かった。 開いたページには、土曜に書き写した1億円の文字もあった。電話では口にできなかった。 午後には、これを見せて話さなければならない。 午後、相談室の椅子に腰を下ろすと、鞄の持ち手を握っていた指が痛くなった。 向かいの女性弁護士に、スマートフォンを差し出す。拓真から送られた借用書の画像だった。 「このお名前をご自分で書いたのではない、ということですね」 「はい。借りることも、知りませんでした」 「いつ、初めて聞きましたか?」 一昨日の夜です、と答えた。離婚届への署名を求め、お金を返してほしいと話した時だったことも。 説明しているうちに、声が小さくなった。 「ただ、会社が苦しいそうで……私も、前には、それでお金を貸したので」 弁護士は手元に書き留め、顔を上げた。 「前に貸した1,200万円と、今回の1億円は、分けて確認しましょう。今回、ご主人に借入れを任せたことはありますか?」 「ありません」 聞かれたのは、どうして夫を助けないのか、ではなかった。 私が頼んだかどうかだった。
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35話

ホテルのホールで、正面のスクリーンが切り替わった。 得意先の条件を並べた資料が、営業先へそのまま持っていけそうな提案書になって現れる。 価格の比較も、提案する理由も、見やすくまとまっていた。 前列に座っていた拓真は、思わず身を乗り出した。 「今ので、もうできたのか?」 演壇の絵里がうなずいた。 「はい。社員の皆さんが資料作りに使っていた時間を、お客様のために使えるようになります」 横の机で操作していた社員が、次のページを映す。 用意してあった案件の条件と、提案書の内容は合っていた。 社内で見た時もよかったが、大きな画面で見ると違った。 広い客席を埋める来場者の顔が、拓真にはもう見えるようだった。 後列から拍手が起こり、拓真も手をたたいた。 「いいじゃないか。これなら、うちに話を聞きに来たくなる」 支払いのことばかり考える日々を、終わりにできる。 絵里に送った3,600万円を、いつまでも高い買い物だったとは言わせない。 父の代の実績を並べるだけでなく、自分の事業として外へ出せるものが、ようやくできたのだ。 拓真は立ち上がり、演壇の下まで歩いた。 「絵里、一度座れ。立ちっぱなしはよくない」 近くの椅子を引くと、絵里は少し照れたように笑った。 「大丈夫です。今日は調子もいいので」 「無理はするなよ。本番も、長い説明は俺が引き取る。お前は必要な
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36話

4月2日の夕方、拓真から連絡が来た。 【明日の発表会、前の席を取ってある。受付で俺の妻だと言えば分かるようにしておく】 署名のことかと思って開いた画面に、明日の時刻とホテルの名前が並んでいた。 断る文章を打つ前に、着信へ変わった。 私は机の椅子を引いて座り、電話を取った。 「服がないなら買えばいい。そこは俺が出すから、みっともない格好では来るなよ」 返すお金はないと言ったのに、妻として会場へ呼ぶための服には出せる。 贈り物をしてほしくて、あの金額を何度も口にしたのではなかった。 「行くとは言ってない」 「大事な取引先も来るんだ。妻の席だけ空いていたら、おかしいだろ」 窓の外を、車の灯りが通った。 あの家で、絵里を囲んで写真を撮っていた人たち。 私が入る場所など、探そうともしなかった拓真が、外の人に見られる席だけは空けたくないと言う。 「私が何の話をしていたか、覚えてる?」 「それはそれ、明日は明日だ」 あまりにも簡単に分けられて、返す言葉が遅れた。 月曜日の再相談で、貸主からの返答を聞いた。 事情を確かめている間は、私へ支払いを求めず、連絡は弁護士へするという。 「借用書に名前があるだけで、あなたに返済義務が生じるわけではありません」 そう言われても、あの紙に自分の名前があると思うと、まだ怖かった。 それでも、父のために残したお金まで失
last updateآخر تحديث : 2026-10-06
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37話

4月3日、金曜日。 店の前で、私はコートの襟を直した。 窓の内側は明るく、テーブルの上に小さな照明が見えた。扉を開ける前に、ガラスに映る紺色の裾を確かめる。 帰ろうとは思わなかった。ただ、最初に何と言えばいいのかを、もう一度だけ考えた。 「予約した相良です」 入ってすぐに声をかけると、店員が予約を確かめた。 「お待ちしておりました。おひとり様ですね。どうぞ」 そのまま窓際の小さなテーブルへ案内された。 もうひとりは後からいらっしゃいますか、と聞かれると思っていた。ひとりですと言い直す準備が、いらなくなった。 コートを脱ぐ時、右肩を大きく回さないようにした。椅子に腰を下ろし、小さい鞄を隣へ置く。 白いナプキンを膝へ広げた。 向かいには椅子があった。 そこに、拓真が座るはずだった。 どうしても、最初にそれを思った。窓の光を背にした顔まで浮かんでしまい、メニューを開くふりをして目を落とす。 「これからは、俺にも頼れよ」 あの日、拓真はそう言って、テーブルに置いていた私の手に、自分の手を重ねた。 私はその手を握り返した。 仕事でうまくいかなかった日も、帰ればこの人に話せる。私も拓真の話を聞いて、ふたりで遅い夕飯を食べる。そんな毎日が始まるのだと思った。 父に大丈夫だと言い切れたのも、あの時は、本当に幸せになれると信じていたからだった。 今も優しくされると、あの日の言葉を覚えていてくれた
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38話

同じ日。澪が洋食屋の扉を開ける、数時間前。 ホテルのホールでは、相良システムズの社名が大きく映し出されていた。 社員が来場者を席へ案内し、通路では取材のカメラが向きを変えている。 拓真はジャケットの前を整えた。 これだけの人間が、自分の発表を聞きに来た。父の代の実績を語るためではない。 今日、見せるものがあるからだ。 前列へ挨拶に行くと、美弥子が絵里の背へ手を添えていた。 「今回の技術をアメリカから持ち帰ってくださったの。この子が戻ってから、拓真も張り切っていて」 来場者が絵里へ名刺を差し出す。絵里は両手で受け取り、丁寧に頭を下げた。 「今日は、ぜひ最後までご覧になってください」 「絵里さん、こっち向いて」 智香がスマートフォンを構えた。絵里が顔を上げると、胸元のネックレスに照明が当たった。 「お兄ちゃんも隣に並んでよ」 拓真が寄ると、絵里は肩を近づけた。智香が画面を確かめて笑い、ふと周囲を見回した。 「そういえば、澪さんは?」 「来ない」 思ったより短い声が出た。 席も用意した。服だって買ってやると言った。それでも来ないと決めたのは、澪の方だ。 拓真は袖口を引き、絵里を促した。 「行こう。みんな待ってる」 …… スクリーンに、得意先へ出す提案書が現れた。
last updateآخر تحديث : 2026-10-08
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39話

「設定の調整が必要なのだと思います」 絵里の声が、マイクから少し高く響いた。 「アメリカで使っていたものですので、日本の資料に合わせる際に、うまく反映されない部分が……」 前列の男性がスクリーンを見た。 「先ほど成功した資料も、日本語でしたよね?」 絵里の口が止まった。 拓真も画面へ目をやった。先ほどの社名も、価格も、日本語で並んでいる。 「形式の違いというか、細かい設定があるんです」 絵里は画面へ手を向けたが、何も指ささずに下ろした。 「では、今使えるのは、どのような資料ですか。持ち帰って説明したいので、そこを教えてください」 男性は膝のノートを開いていた。責める口調ではなかった。それなのに、絵里は答えず、拓真を見た。 拓真は小さくうなずいた。 ここで説明してくれればいい。細かいことは分からなくても、客が納得してくれれば、それでよかった。 「向こうの担当者へ確認します。調整してもらえれば、先ほどのように――」 「その調整は、これからなんですか?」 通路側の記者がマイクを持ち直した。 「今日、持参した資料でも実演できると案内をいただきました。確認前に、その案内を出されたということでしょうか」 拓真の背に汗が流れた。 「案内は今、出した」 リハーサルの日、自分が絵里へ言った言葉だった。 「私も、先方から返事が来
last updateآخر تحديث : 2026-10-09
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40話

帰ってこい、ではなかった。 発表会に来なかったことを責められると思っていた私は、返事に詰まった。 掛けたばかりの紺色のワンピースへ目をやり、机の前の椅子へ座った。さっき財布から出した店のレシートが、手元にあった。 「何かあったの?」 「実演が、うまくいかなかった」 取引先から渡された資料を使うと、用意した時と同じ結果しか出なかった。 試験導入の話も、ひとつ白紙になった。 途切れがちの説明を聞いて、私は背もたれから体を起こした。 「絵里が、アメリカへ確認してる。向こうとの調整がついてなかったらしい」 いつもなら、もっと大きな声で誰かのせいにしたと思う。今夜の拓真は、そこまで言うと黙った。 何と言えばいいのか、分からなかった。 今日の発表を、あんなに得意そうに話していた。大勢の前で、それがうまくいかなかったのだ。 「そうだったんだ」 ようやく答えると、電話の向こうで息を吐く音がした。 「少しでいいんだ。顔を見て、話したい」 机のレシートへ目が落ちた。 その声に、動きかけた自分がいた。 こんな時には、そばにいてほしいのだろう。今なら、私がどんな気持ちだったかも聞いてくれるかもしれない。 膝に置いていた手を、机へ伸ばした。 レシートの隣には、借用書の画像について書いた手帳がある。私はその表紙に触れた。 「大変だったね。でも、帰らない」
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