جميع فصول : الفصل -الفصل 30

46 فصول

21話

社員寮へ戻り、管理人に手を借りて箱を部屋まで運んだ。 机の上を空け、蓋がずれている状態と、側面のラベルを撮影した。それから椅子へ腰を下ろし、ゆっくり蓋を開ける。 一番上には、幼い私と父がパソコン教室の前で撮った写真があった。その下に印刷資料と古い記録媒体が並び、黒い表紙の研究日誌も残っていた。 大きく減ったようには見えない。 それでも、美弥子が何を見たのか分からなかった。 研究日誌を取り出し、最初のページからめくった。父の字で、日付と試した内容が細かく書き込まれている。ページの下には通し番号があった。 何冊目かの日誌を半分ほどめくったところで、指が止まった。 第47頁の次が、第54頁になっている。 綴じ目を開くと、間の6ページが根元から切り取られていた。 父は、失敗した記録さえ捨てなかった。書き間違えてもページを破らず、一本の線を引いて日付を書き足す人だった。 日誌の紙は年月を重ねて黄ばんでいる。 けれど、切り取られた跡だけは新しく、紙の端が白かった。 切断面には細かな紙くずが残っていた。長い間なくなっていたページではない。箱がこの家へ戻る直前に、刃物で切られたように見えた。 私は6ページ分の番号と切断面を撮影し、日誌を箱へ戻した。 美弥子へ電話をかけたが、つながらなかった。 父なら、何が書かれていたか覚えているかもしれない。 答えられなくても、そばで日誌を読めば何か分かるかもしれない。時計を見ると、面会時間にはまだ間に合った。 箱を施錠できる収納へ入れ、私は
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22話

相談室の机に、スマートフォンを置いた。拓真の名前を押せば、父の居場所を聞けるかもしれない。けれど、通話ではなく、メッセージの画面を開いた。【父の転院先を教えてください。私は同意していません。同意書にも署名していません】すぐに着信が来た。机の上で震える画面を見つめ、呼び出しが止まるのを待つ。【父親のことも含めて家で話す。まず戻ってこい】病院の名前ひとつ、教えてくれなかった。父がいなくなって、私がどんな思いでいるか。それよりも、家に戻ると言わせることが先なのだ。「娘だと確認するために、何が必要ですか?」向かいの女性へ尋ねると、声の終わりがかすれた。「お持ちの身分証を拝見できますか。入院時の登録と照合します」私は鞄から身分証を出し、面会許可証と並べた。連絡先の用紙も渡され、寮の住所と自分の番号を書く。「この住所は、夫に伝えないでください」女性の手が止まった。「別居しています。けがをした経緯もあって、居場所を知られたくないんです」そこまで言うと、額の傷へ視線が向いた。夫婦のことを他人に話すのは、情けなかった。父を探しているだけなのに、なぜこんなことまで言わなければならないのだろう。それでも、住所を書いた紙を引っ込めなかった。「承知しました。担当者にも共有します」「それと、同意書の写しと、転院の連絡が分かる記録を残しておいてください。私は署名していません」女性はうなずき、確認のために席を外した。扉の向こうを台車が通り過ぎた。私は誰もいなくなった椅子を見つめた。父の連絡先に拓真の名前を加えた時は、安心した。私が電話に出られなくても、夫なら父のことを引き受けてくれる。その安心を、今は自分で取り消さなければならなかった。やがて、女性が患者支援の担当者と戻ってきた。「入院時の記録と照合できました。お待たせしました」差し出された紙には、療養病院の名前と住所、電話番号が書かれていた。「先方にも確認しました。到着後、容体に大きな変化はないそうです」「今日、会えますか?」椅子から腰が浮いた。「こちらからお電話をおつなぎします」受話器を両手で受け取り、名前を名乗った。短時間なら面会できる。そう聞いて、初めて時計を見た。まだ間に合う。同意書の写しは、すぐには渡せないと言われた。担当者の名前と折り返し先を確かめ、私は病院を出た。
last updateآخر تحديث : 2026-09-25
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23話

翌朝、私は机に広げた離婚届の横へ、スマートフォンを置いた。【離婚届に署名しました。今日渡したいので、会える時間を教えてください。あなたにも署名してほしいです】送信してから、用紙を折った。昨夜書いた名前が内側へ隠れる。これを受け取った拓真が、どんな顔をするのか。考えると、封筒へ入れる手が止まった。それでも、今日渡すと決めたのは私だ。封筒を鞄へ収めた。返事はまだなかったが、受診の時間に遅れるわけにはいかない。上着を着て、寮を出た。退院の時には、1週間後に傷を診ると言われていた。その後、外来へ相談し、今日に変更してもらっていた。診察室で額を確かめた医師は、抜糸してよいと判断した。糸が取れたあとには、細い保護テープが貼られた。鏡を渡され、前髪を持ち上げる。糸がなくなっても、赤い傷の線は残っていた。鏡を返し、少し肩の力を抜いた。礼を言って診察室を出ると、婦人科へ続く通路から、聞き慣れた声がした。「少し座っていくか?」声のした方へ顔を向けた。拓真がいた。隣には、薄い色のコートを着た絵里がいる。私は足を止めた。ふたりが出てきた通路の上には、婦人科の案内表示があった。表示を見て、もう一度、絵里へ目を戻す。彼女は拓真の腕へ片手を添えていた。拓真が持っているのは、絵里の鞄だった。どうして、ここに。問いかけようとしても、声が出なかった。「大丈夫です。ゆっくり歩けば」「無理するなよ」拓真は絵里の足元へ目を落とし、歩幅を小さくした。「澪さん」先に私を見つけて呼んだのは、絵里だった。拓真が顔を上げた。目が合った途端、絵里へ何か言いかけていた口が止まる。「澪……」視線が私の額のテープへ動いた。それから絵里を見て、また私へ戻る。「今日、診察だったのか」「……抜糸」それだけ答えるのが精いっぱいだった。拓真の指が、鞄の持ち手を握り直した。いつものように私を責める言葉は、すぐには出てこなかった。見られたくなかったのだろうか。「どうして、ふたりでここにいるの?」拓真が口を開きかけた。私はその言葉を待った。けれど、先に絵里が話し始めた。「澪さんにも、お伝えしないとと思っていたんです」拓真の腕に添えた手は、そのままだった。絵里は一度だけ彼を見上げ、何も言わないのを確かめるように間を置いてから、私へ顔を戻した。「私、妊娠しているんです
last updateآخر تحديث : 2026-09-26
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24話

拓真は離婚届を持ったまま、私の名前を指で押さえた。 「本当に、書いたのか」 「あなたにも署名してほしい」 顔を上げた拓真と目が合った。何か言いかけた唇が閉じ、視線がまた用紙へ戻る。 言葉だけでは、本気にしてもらえなかった。けれど、これは私が自分で書いた名前だ。 今度は、答えてほしかった。 拓真は紙を折った。 「今は書かない。こんな場所でする話じゃないだろ」 長椅子にいた絵里が顔を上げた。拓真の手元を見てから、彼の顔へ目を移す。 「夕方までに考える。家に来い。そこで話そう」 あの家へ行く。 そう考えただけで、鞄を持つ左手に力が入った。もう一度、出るのを止められたら。 それでも、渡した紙への返事を聞きたかった。 「返事を聞きに行くだけ。戻って暮らすつもりはないから」 拓真は答えず、離婚届を上着の内ポケットへ入れた。 病院を出てから、久世へ訪問先と、短時間で帰るつもりだとメッセージを送った。帰る時にも連絡すると添える。 行き帰りはタクシーを使う。拓真の車には乗らない。 …… その日の夕方、拓真は食卓で、絵里の隣へ椅子を寄せた。 「拓真さんとの子です」 絵里は美弥子へ告げ、拓真を見た。 「俺が父親になるんだ。ふたりにも、絵里を支えてほしい」 美弥子の顔がほころん
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25話

門を出ても、私は振り返らなかった。 道の端でタクシーを呼び、到着した車に乗り込む。行き先を告げてから、久世へ短いメッセージを送った。 【家を出ました。タクシーで帰ります】 また引き止められるのが怖くて、訪問先を伝えておいた。無事に出られたことも、知らせておきたかった。 送信を確かめ、スマートフォンを膝へ伏せた。 窓に映った額のテープへ、街灯の光が流れた。 返事を聞くだけのつもりだった。あの食卓に座らず帰れたのに、美弥子が絵里の皿へ料理を取り分ける姿が、まだ目に残っていた。 私にも、あんなふうにしてほしかった。 私を妻のままにして、絵里との子を迎える。拓真は、その食卓に私まで座らせようとした。 何もなかったように、一緒に祝えると思ったのだろうか。 私は窓の外へ顔を向けた。 …… 澪が玄関の扉を閉めた直後、拓真は絵里へ向き直った。 「澪とは俺が話す」 「澪さんも、離婚したいって言っていましたよね」 廊下の先には、澪に勧めた椅子が見えた。座れと言えば、澪はあそこへ座ると思っていた。 それなのに、靴を履く間さえ、こちらを見なかった。 「今、あいつは冷静じゃないんだ」 「じゃあ、私はいつまで待てばいいんですか?」 絵里の手が、胸元から下りた。 さっきまで指輪をねだっていた声が、硬くなっている。拓真は手を伸ばしかけたが、
last updateآخر تحديث : 2026-09-27
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26話

「返せって……お前、本気で言ってるのか」拓真の声が低くなった。机の上には、さっきまで開いていた療養費のノートがある。私はその角を指で押さえた。「本気だよ」「夫婦の間で、そこまで金を数えるのかよ」頬に残った涙が冷たくなった。まだ結婚する前、会社が苦しいと聞いて、1,200万円を貸した。好きな人の力になれることが、うれしかった。それなのに今は、「夫婦だろ」という言葉で、返してほしいと頼むことまで責められている。「夫婦なら、返さなくてもいいと思ってた?」「そうは言ってないだろ。今すぐ動かせる金ばかりじゃないんだ」今夜全部返せと言いたいのではなかった。どう返すつもりなのか、それだけでも聞きたかった。受話口の向こうで足音がした。「誰と話してるの。澪さん?」美弥子の声だった。「あとにしてくれ」「絵里さんを待たせて。まだ何か言ってるの?」拓真はすぐには答えなかった。私との電話も、向こうの食卓を待たせている時間なのだ。美弥子にどう説明するのかと思っていると、短い声が返った。「前に出してもらった金を返せって」「まあ。あんな席に来て、今度はお金?」椅子から立ちかけた。あそこへ呼んだのは拓真だ。何の祝いかも知らなかった。口を開きかけた私より先に、拓真が声を上げた。「母さん、やめろよ」押さえていたノートから、指が離れた。「俺が話してるんだから。向こうに行っててくれ」呼んだのは俺だとは、言わなかった。私が何をされたかではなく、誰が私を相手にするか。それだけで話が終わっていく。「会社を助けたいって、自分で出したんでしょう。こんな時に恩を着せるなんて」少し遠くなった美弥子の声が、最後まで聞こえた。唇を閉じた。助けたかったのは、本当だった。夫に頼りにされたことがうれしくて、力になれることが誇らしかった。その気持ちを、今、恩を着せるために使っていると言われた。「聞こえた?」私は拓真に尋ねた。「母さんの言うことを、いちいち気にするな」「私、助けたかっただけだよ」声がかすれた。言ってから、もう一度泣きそうになった。貸した金を返してほしいと言うために、あの時の気持ちまで弁明しなければならないのだろうか。拓真がため息をついた。「分かってるよ。落ち着いたら考えるから」「いつ、返事をもらえる?」「今は会社の方も忙しいんだ」「返し
last updateآخر تحديث : 2026-09-27
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27話

写真を開くと、絵里が拓真の隣で笑っていた。胸元のネックレスが光り、テーブルには料理が並んでいる。美弥子が絵里へ体を寄せ、拓真はカメラを見ていた。私がいない写真。誰も、無理に笑っているようには見えなかった。私は、離婚届の返事を聞きに行った。絵里の妊娠祝いだとは、知らされていなかった。「拓真の子ができたんですもの」美弥子の声がよみがえる。あの人たちには家族の祝いでも、私には、夫と別の女との子を喜ぶ食卓だった。【絵里さん、昨日は途中から元気なくなっちゃった。今は大事な時なんだから、澪さんも分かってあげて】智香から、また文章が届いた。私は画面を閉じようとして、できなかった。私が帰ったあと、誰かひとりくらい、あの席へ呼ぶべきではなかったと言っただろうか。そんなことを、まだ考えていた。【お兄ちゃんも困ってるよ。好きだったなら、身を引いてあげたら?】好きだった。その言葉に、目が止まった。私は、結婚してからもずっと好きだった。夫の家族とも仲よくしたかったし、食卓で笑い合いたかった。それを知らないように、智香は私に引き際を教える。【離婚届は、昨日お兄さんに渡しました。私の欄には署名しています】送ると、すぐ既読になった。【そうなの?でも、お金の話もしてるんでしょ】昨夜の電話のことまで、もう伝わっていた。文字を打つ欄に指を置いた。父に渡された9万円のこと。私がお願いした時、拓真が何と言ったか。あの家で額を切った日のこと。書きかけた文章を消した。これを全部話せば、写真を送ってはいけなかったと分かってくれるだろうか。分かってもらえなかったら、私はまた、自分の傷を最初から差し出すことになる。【貸したお金を返してほしいと伝えました。離婚したい気持ちは変わりません】【今、絵里さんを不安にさせるようなことはやめてあげて】私はスマートフォンを机に置いた。写真の中の拓真は、絵里の隣で笑っている。その人を返してと、私は言っていない。それでも私がお金を取り戻そうとすれば、ふたりを困らせることになるのだ。机には、父の入院費の請求書が広げたままだった。会社のために貸した1,200万円を返してもらいたい。父の療養費も、新しく借りる部屋の費用も、誰かの機嫌をうかがわずに払いたい。絵里を不安にさせるなと言う智香は、私が何を不安に思っているか
last updateآخر تحديث : 2026-09-28
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28話

月曜日、父が前にいた病院の窓口で受け取った紙に、私の名前があった。相良澪。見慣れた名前なのに、最後の文字の払い方が違う。私は紙を机に置き、身分証を持っていた手を膝へ下ろした。自分が書いていないことは、見る前から分かっていた。それでも、実物を前にすると、すぐには声が出なかった。この名前で、父を移すことに同意したと扱われた。その間、私は何も知らなかった。名札の消えた入口も、枕さえなかったベッドも、まだ目に浮かぶ。あの時、父がどこにいるかも分からず立ち尽くした私の名前が、この紙にはあった。「私の字ではありません」向かいの担当者へ、ようやく言った。「これを書いた人は、分かったんですか」「提出までの経緯を確認しています。現時点では、誰が記入したかまでは確認できていません」拓真が出したからといって、拓真が書いたとは限らない。私は写しを受け取り、鞄の内側へ入れた。父の写真と重ならないよう、別のところへしまった。「私は同意していません。そのことは、確認を続ける方にも伝えてください」担当者がうなずくのを見届けて、席を立った。廊下へ出ると、壁際に親子らしいふたりが座っていた。年配の男性が上着を脱ぐのを、隣の女性が手伝っている。私は足を緩めた。父のことで夫と相談し、ふたりで決めたかった。こんな紙を前に、自分の名前まで否定しに来たかったわけではない。鞄の持ち手を左手へ移し、父のいる病院へ向かった。……病室の扉を開ける前に、名札を見た。一ノ瀬雄二。名前があるだけで、立ち止まってしまう。あの日の白い差し込み口を、まだ忘れられなかった。扉を開けると、父は窓側のベッドで眠っていた。棚には小さな時計があり、秒針の音が聞こえる。私は椅子を寄せ、鞄から写真を取り出した。「持ってきたよ。約束した写真」父に見える向きへ傾ける。「教室の前で撮ったやつ。お父さん、覚えてる?」返事はなかった。私は写真の中の自分を指さした。幼い私の肩に、父の手がある。今日は隠さず話そうと思って来た。それなのに父の顔を見ると、また安心させたくなる。元気そうに笑ってみせたくなる。「私ね……」大丈夫だよ、と続けようとして、言葉が止まった。額にはまだ、傷を覆うテープがある。腕を伸ばせば肩が痛む。鞄には、私の知らない署名の写しが入っている。写真の私だけが、何も
last updateآخر تحديث : 2026-09-29
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29話

翌日の午後、約束したホテルのラウンジへ着くと、拓真はもう席にいた。 窓から離れたソファに座り、私を見つけると手を上げる。磨かれたテーブルには、まだ何も置かれていなかった。 私は通路側の椅子へ向かった。 「こっちに座ればいいだろ」 隣の空いたところを示され、足が止まる。 ふたりで並ぶ席に座ったら、また、話を聞きに来たことと帰ることを一緒にされそうだった。 「ここでいい」 向かいへ腰を下ろし、鞄を自分の足元に置いた。 「離婚届は持ってきた?」 「あるよ。まず何か頼め」 拓真がメニューを寄せた。 店員を呼ぶ手つきも、注文を告げる声も、以前と変わらない。 私が温かい紅茶を選ぶと、彼は店員へ言った。 「ゆっくり話したいんで」 何の話をするのか、先に聞きたかった。 店員が離れてから、私は鞄の持ち手から手を放した。 「貸した1,200万円の返済のことは?」 「確認してから連絡する。今日は俺たちの話だ」 昨日も確認中と言っていた。それを責めようとした時、拓真が私の額へ目を向けた。 「まだ、テープを貼ってるのか」 思わず、額へ手を上げかけた。 「傷が残ってるから」 「……そうか」 拓真は視線を下げた。
last updateآخر تحديث : 2026-09-30
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30話

 「上とか、下とか。そんな話をしてるんじゃない」 やっと出た声に、拓真は露骨に顔をしかめた。 「お前の立場は守るって言ってるだろ」 私はテーブルの上の離婚届を見た。 あの紙に名前を書いた夜、結婚した時のことを思った。 夫婦になれたのがうれしくて、この姓を名乗っていた自分がいた。 拓真はその名前を残せば、私が満足すると思っている。 夕食の途中で、夫が隣の家へ出ていく。 私は母屋に残って、帰りを待つ。妻と呼ばれるのが私でも、そんな毎日になるのだ。 「私、あなたと暮らしたかったんだよ」 拓真が顔を上げた。 「だったら、帰ってくればいい」 「絵里さんのところへ行くあなたを、隣の家で待ちたかったんじゃない」 彼は口を閉じ、それから背もたれへ体を預けた。 「まだ建ててもいないのに、そこまで言うなよ。やってみなきゃ分からないだろ」 カップの紅茶は、もう湯気を立てていなかった。 私はひと口も飲んでいない。 拓真の話を聞けば、納得できる何かがあるかもしれないと思って、ここへ来た。 その私に、まず耐えてみろと言う。 「嫌だよ」 「澪」 「あなたが絵里さんと暮らしたいからって、私に我慢させないで」 近くの席で、スプーンが皿に触れる音がした。
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