初恋の女に3,600万円を贈った夫へ――もう都合のいい妻には戻らない

初恋の女に3,600万円を贈った夫へ――もう都合のいい妻には戻らない

last updateTerakhir Diperbarui : 2026-10-15
Oleh:  AmyBaru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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結婚3周年を心待ちにしていた澪は、夫・拓真のスーツから、初恋の女・絵里へ3,600万円を送った明細を見つける。それは、意識の戻らない父の治療費を「無駄金」と拒まれた日だった。さらに拓真は、澪を家事と母親の世話に便利な妻としか見ていなかった。姑の夕食会では絵里だけが嫁のようにもてなされ、澪には高価なネックレスの購入特典が渡される。同じ家の2階で口づけするふたりを目撃し、澪の中で、これまでの結婚が崩れ始める。

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Bab 1

1話

夫が初恋の女へ3,600万円を送った明細を見つけたのは、結婚3周年の記念写真に着るワンピースを買って帰った日だった。

午後2時すぎ、玄関で靴を脱いで、正面左側の階段を上がり、2階の寝室へ入った。レースのカーテン越しの光が白い床へ広がっていた。紺色の衣装袋を窓辺の椅子へ掛けた。

結婚3周年まで、あと1か月。半日だけ休みを取り、写真撮影に着る服を選んできた。

34歳の夫、相良拓真(さがら たくま)には内緒だった。彼の驚く顔が見たかった。

店では、拓真の好みに合わせ、胸元に飾りのない服を選んだ。

結婚記念日の当日は、この服でふたりの写真を撮り、彼がプロポーズしてくれた洋食店へ行くつもりだった。

スマートフォンの予定表には、1か月後の欄に【結婚3周年記念撮影】と入力してあった。

夫に合わせることを、不自由だと思ったことはなかった。

寝室の奥にある衣装室へ入った。壁一面のクローゼットから、結婚前に着たあと、一度も袖を通していなかった拓真の濃紺のスーツを取り出した。

写真スタジオへ行く前に、クリーニングへ出すつもりだった。

上着をハンガーから外した拍子に、内ポケットからふたつ折りの紙が床へ落ちた。

拾い上げると、折り目は固く癖づき、紙の縁にはうっすら黄ばみが浮いていた。

拓真名義の銀行の振込明細だった。

上に並ぶ数字が目に入った。

【振込金額 36,000,000円】

次に、受取人の名前を見た。

【お受取人 カシワギ エリ】

一瞬、見間違えたのかと思った。

柏木絵里(かしわぎ えり)は、私の1学年下で、大学の時から拓真が何かと世話を焼いていた後輩だ。卒業後は海外へ行ったと聞いていた。

3,600万円。

どうして拓真が、絵里にこれほどの大金を――。

仕事か何かで、私の知らない事情があったのだろうか。

そう考えながら、私は明細の日付へ目を移した。

そこで、指が止まった。

3年前の5月2日。

その日付を見た瞬間、ダイニングテーブルで父の治療費を頼んだ時のことがよみがえった。

当時、父、一ノ瀬雄二(いちのせ ゆうじ)は事故で意識を失ったまま、病院のベッドにいた。

医師からは、状態がよくなる可能性のある別の専門治療を提案されていた。

その治療を始めるには、あと90万円を用意しなければならなかった。

あの日、私はテーブルを挟んで拓真の向かいに座っていた。

拓真からは、会社の資金繰りが苦しいと聞かされていた。だから、すぐには頼めなかった。

拓真がこちらを見るのを待ち、膝の上で重ねていた手をテーブルへ置いた。

「拓真」

名前を呼んだものの、続く言葉が出てこなかった。黙って待つ拓真を見つめ、ようやく切り出した。

「お願いがあるの。父が追加の専門治療を受けるために、あと90万円必要なの。貸してもらえないかな」

拓真は返事の代わりに、深いため息をついた。

「90万?足りない分だけで、そんなにかかるのか。意識も戻っていない人に、まだそんな金をかけるのか」

「先生からは、この治療を受ければ、状態がよくなる可能性もあるって言われたの」

「可能性だろ。治る保証もない治療に90万円も使えるか。そんな無駄金のために、俺の会社を巻き込むな」

「でも、今受けなければ――」

「どうせ今すぐ死ぬわけじゃないんだろ。今回は諦めて」

拓真はそこで話を終わらせるように、私から目をそらした。

当時の私は、その苛立ちさえ、会社の資金繰りに追われているせいだと思った。余裕のない時に90万円を頼んだ私が、拓真を追い詰めているのだと。

それでも父のことなら、少しくらい一緒に方法を考えてくれると思っていた。

「全部じゃなくてもいいの。いくらなら、お願いできる?」

拓真は露骨に顔をしかめた。

「俺だって余裕があるわけじゃないんだぞ」

拓真は立ち上がると、鞄から財布を取り出した。1万円札をまとめて抜き、テーブルへ置いた。

「これで全部だ」

私は紙幣を数えた。

「9万円……?」

「出してもらえるだけありがたいと思え。足りない分は、お前が何とかしろ」

拓真は財布を鞄へ戻した。

テーブルに残された1万円札は9枚。

父にその治療を受けてもらうには、あと81万円足りなかった。

私はテーブルの紙幣を両手で拾い上げた。

「あ……ありがとう」

資金繰りが苦しい中、それでも9万円を出してくれた。

そう思うと、急に90万円もの大金を用意してほしいと頼んだ自分のほうが、無理を言っているように感じた。

だから、あの時の説明を疑わなかった。

3年間、一度も。

――でも。

私は手の中の振込明細へ目を戻した。

あの相談をしたのも、本当に5月2日だっただろうか。

振込明細を手にしたまま、衣装室の引き出しから療養費ノートを取り出した。父の治療にかかった金額と、足りない分をどう工面したか、日付ごとに記していたものだ。

3年前のページを開いた。

【5月2日 拓真から9万円。追加治療費、あと81万円】

明細に印字された振込日と一致していた。

父の治療を「無駄金」と切り捨てたその日、拓真は絵里へ3,600万円を送っていた。

地下から、ガレージのシャッターが閉まる低い音が響いた。

拓真が帰ってきた。

自宅で仕事を続ける日は、ガレージ脇の内階段から2階の書斎へ直行するのが常だった。今日、私が半日休みを取ったことは伝えていなかった。

ほどなく、廊下を挟んだ書斎から拓真の声が聞こえた。

私は帰宅していることを知らせようと、明細と療養費ノートを引き出しへ戻して閉めた。衣装室から寝室へ戻り、廊下へ出た。

書斎まであと数歩のところで、閉じた扉の向こうから男の笑い声が聞こえた。

通話をスピーカーにしているらしく、相手の声まで廊下へ漏れていた。

「絵里が帰ってきたんだろ?お前、大学の頃ずっと追いかけてたじゃないか」

絵里の名前を聞いた瞬間、引き出しへ戻した明細の金額がよみがえった。

仕事のための送金かもしれない。まだ、そう思っていたかった。

私は書斎の扉を叩けず、向けていた足を引いた。廊下の角へ戻り、その続きを待った。

「もう昔の話だよ」

「本当か?海外まで行った絵里が戻ってきたんだぞ。奥さんはどうするんだ」

椅子が軋む音がした。

「絵里は昔から頭が切れたし、行動力もあった。海外に行って、ちゃんと結果も出して帰ってきた。今度の新事業だって、あいつの人脈と知識が使える」

拓真の声には、隠す気もないほどの期待がにじんでいた。

「じゃあ、やっぱりまだ好きなんじゃないか」

「好きっていうか、絵里は今でも俺にふさわしいんだよ。海外帰りで見た目もいいし、一緒に歩けばみんな振り返る」

少し間があった。

「澪なんか連れて歩く女じゃない。家に置いておけば十分だ」

電話の相手が笑った。

「それ、奥さんが聞いたら怒るぞ」

「怒る?澪が?あいつは俺に捨てられるくらいなら、何をされても黙ってる。少し優しくすれば、また何事もなかった顔で飯を作るさ」

拓真は何でもないことのように続けた。

「今の仕事だって、冷蔵倉庫の掃除係みたいなものだ。あんな仕事、辞めろって何度言っても聞かない。澪は外で働くより、家のことや母さんの世話をしてる方が向いてる。そっちの方が、よっぽど役に立つのにな」

家庭の方が向いている。役に立つ。

結婚した頃にも、拓真はそう言った。

あの時の私は、それを褒め言葉だと思っていた。

仕事で疲れて帰った私を気遣い、無理をしなくていいと言ってくれたのだと思っていた。

「そこまで絵里がいいなら、離婚してやり直せばいいだろ」

拓真はしばらく黙った。

私は息を殺して、返事を待った。

「離婚まではしないよ」

私は一瞬だけ、まだ捨てられたわけではないと思ってしまった。

「澪は家のことを全部やるし、母さんの買い物や用事にも付き合ってくれる。食事も洗濯も任せられて、なにかと便利なんだよ」

電話の向こうで、笑い声が消えた。

「……お前、ひどいな。嫁を何だと思ってるんだよ」

「嫁だよ。離婚しないんだから、むしろ大事にしてるだろ」

「……便利だから離婚しないってことか?」

「それだけじゃない。会社がきつい時に1,200万円も借りたからな。今さら離婚したら、俺が恩知らずみたいに見えるだろ」

「じゃあ、好きで結婚したわけじゃないのか?」

「好きで?澪と?まさか」

拓真は笑った。

「絵里が海外へ行ったあと、ちょうどそばにいたのが澪だったんだよ。1,200万円も貸してくれたし、家のことも黙ってやる。妻にしておけば、金のことも家のことも困らないと思ったんだよ」

「……お前、本当に最低だな」

「何が?澪だって俺と結婚して社長夫人になれたんだ。お互い得しただろ」

それだけだった。

好きだったから。

一緒にいたかったから。

私は、そのどちらかを待っていた。

けれど拓真が口にしたのは、絵里が海外へ行ったこと、1,200万円、家事、義母の世話だけだった。

私を好きだったという言葉だけは、一度も出なかった。

結婚3周年。私は、いったい何を祝うつもりだったのだろう。

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2話
その先は、もう聞いていられなかった。廊下の角を離れ、寝室へ戻った。窓辺の椅子には、買ってきたばかりのワンピースが紺色の衣装袋に入ったまま掛かっていた。ワンピースには触れず、自分の鞄だけを手に取った。拓真に帰宅を知らせないまま、階段を下りた。今はただ、拓真と同じ家にいたくなかった。玄関を出て、低い植え込みに挟まれた石畳を歩いた。門を出たところで、一度だけ振り返った。高い塀の奥に、横に長い2階建ての家がそびえていた。黒い門扉から玄関までは石畳が伸び、その両脇を手入れされた植え込みが囲んでいた。通りから1階はほとんど見えず、塀の上には2階の窓だけが並んでいた。右端が、拓真の書斎だった。書斎の窓は植え込みに下半分を隠されていた。拓真はまだ、あの窓の向こうにいた。「食事も洗濯も任せられて、なにかと便利なんだよ」玄関へ引き返し、衣装室の引き出しから明細を取り出して、書斎の扉を叩くこともできた。さっきの電話は何だったのか、本人へ問いただすことも。けれど、足は家へ向かなかった。拓真に「盗み聞きしたのか」と責められれば、私は明細を見せる前に謝ってしまう。私は家に背を向けた。通りを歩き出したところで、鞄の中のスマートフォンが震えた。相良美弥子(さがら みやこ)からのメッセージだった。【今夜はうちで夕食。先に来て、手伝ってちょうだい】何時に来られるか、予定はあるか。そんな言葉はなかった。すぐには断る言葉を打てなかった。美弥子の家で夕食を囲む日は、いつも私が早く行った。足りない物を買い、料理を温め、ダイニングテーブルを整えた。食事が済むと、拓真と美弥子は決まってリビングのソファへ移った。拓真は背もたれへ深く体を預け、美弥子は私がいれたお茶を飲みながら、会社や近所の話を続けた。その間、私はいつも、隣の台所で皿を洗っていた。拓真と結婚し、美弥子も私の家族になった。家族のために動くのは当たり前だと、私は思っていた。【今日は午後から休みを取っています。何時に伺えばいいですか】送ると、すぐに返事が来た。【それなら4時半。駅前のいつもの魚屋さんで鯛のお刺身を買ってきて。4人分ね】4人分。今夜は美弥子と拓真と私だけではなかった。誰が来るのか尋ねようとしたところで、もうひとつメッセージが届いた。【お花もお願い。テーブルに飾るから、安っぽく見えるものは
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3話
差し出されたコートへ、私は反射的に両手を伸ばした。「……わかった」受け取ったコートは軽く、まだ外気の冷たさを残していた。私は玄関脇のクロークへ戻り、空いていたハンガーへ掛けた。リビングへ戻ると、絵里は拓真と並んでソファに腰掛けていた。ローテーブルの上には、絵里が持ってきた淡いピンクの花束が置かれていた。「まあ、きれい。やっぱり絵里さんはセンスがいいわね。色の合わせ方まで上品だわ」美弥子は嬉しそうに花束を持ち上げ、何度も眺めていた。「美弥子さんに似合うかなと思って選んだんです」「本当に素敵。こういうのは、選ぶ人のセンスが出るものね」拓真も花束をのぞき込み、「絵里らしいな。母さん、こういう色好きだろ」と笑った。ひとしきり花の話で盛り上がったあと、美弥子が時計を見た。「そろそろいただきましょうか」そう言って立ち上がり、3人はダイニングへ移った。美弥子はふたりの向かいで笑い、拓真は客用の湯呑を絵里の手元へ寄せていた。私は台所にいちばん近い端の席へ回った。椅子を引く音が床へ響くと、絵里がようやくこちらを向いた。「澪さん、お久しぶりです」「お久しぶり。帰国したのね」「はい。拓真さんには、ずいぶん前から相談に乗ってもらって、本当にお世話になっています」「料理が冷めるわ。澪さん、早く並べてちょうだい」美弥子の声に、私は腰を下ろしかけたが、そのまま台所へ向かった。冷蔵庫から舟盛りを出し、煮物の鉢と汁物を運んだ。4人分のご飯をよそい、最後に自分の椀を端の席へ置いた。「ところで絵里さん、向こうではどんなお仕事をしていたの?拓真から少し聞いているけれど、ぜひあなたから聞きたいわ」「最初の2年は、西海岸のAI企業にいました。若い会社や投資家が集まっていて、カフェでも新しい事業の話が始まるような街です。その後は、仕事でいくつかの都市を回りました」「まあ、拓真と話が合うはずだわ」拓真が身を乗り出した。「湾の見えるオフィスの写真、前に送ってくれたよな」「覚えていたんですか?近くの海沿いのレストランも送りましたよね」「ああ。窓際の席から海が見える店だろ」箸を取ったまま、私は拓真を見た。そんな写真が送られていたことさえ知らなかった。拓真は、絵里の職場も、彼女が訪れた店の窓から何が見えたかも知っていた。「絵里さん、鯛を取りましょうか」美弥子
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4話
美弥子の笑顔が止まった。絵里はネックレスから指を離した。私は首元の小さな飾りに触れたまま、拓真を見た。「そのネックレス、拓真が選んだの?」「そうだよ」拓真は箸を置き、絵里の胸元を見た。「仕事で世話になってるから、その礼に贈った。何か問題あるか?」私の指は、首の小さな飾りに触れたままだった。「何度も店へ行ったの?」「納得できる物がなかっただけだ。店を回るくらい、誰だってするだろ」誰だって、と拓真は言った。けれど私は、拓真が私の贈り物を選ぶために店へ行った話を聞いたことがなかった。誕生日には欲しい物を自分で注文しておけと言われ、結婚1周年には現金の入った封筒を渡された。その方が好きな物を選べる、と私は笑って受け取った。「澪、仕事の礼だって言ってるだろ。妻がいちいち騒ぐようなことじゃない」「騒いでない。聞いただけ」「その顔でか?」拓真は息をつくと、冷やしてあった白ワインを手に取った。「絵里、これが好きだっただろ」空いていたワイングラスを絵里の前へ置き、自分で淡い金色のワインを注いだ。「覚えていてくれたんですね」絵里はうれしそうに笑い、胸元の飾りをそっと持ち上げた。「私が前から欲しいって言っていた形なんです。まさか拓真さんが覚えているとは思わなくて」「何年も前から言ってたからな」「大学の頃、店の前を通るたびに見てましたよね」絵里は懐かしそうに笑った。拓真も口元をゆるめた。ふたりだけが知っている店と、ふたりだけが覚えている時間だった。「海外から帰ったお祝いもあるんです。澪さん、誤解しないでくださいね」絵里は私にそう言うと、髪を肩の後ろへ払い、胸元の飾りを露わにした。「絵里さんが気にすることじゃないわ」美弥子が湯呑を置いた。「澪さんは結婚記念日の贈り物をもらったんでしょう?ふたりとも拓真からいただいたんだから、それでいいじゃない」私の前には、蓋を開けたままの小箱があった。私は首の後ろへ手を回し、留め具を探した。すぐには外れず、指先が鎖を何度も滑った。「何してるんだよ」「とりあえず箱に戻そうと思って」留め具が外れた。手のひらへ落ちたネックレスを小箱へ戻し、蓋を閉じた。小箱を手提げ袋へ戻そうとしたとき、袋の底に白い台紙が残っているのが見えた。何気なく取り出して、表を返した。【対象ネックレスご購入特典 ミニネ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-26
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5話
私は小箱を拓真の前へ押し出した。「いらない」小さな箱が、拓真の皿の脇で止まった。拓真はそれを見下ろしただけだった。「何なんだよ、その態度」「あなたが私に選んだ物じゃないから、受け取れない」「絵里は喜んでくれてるのに、お前はどうしてそうやって空気を悪くするんだ?」彼が責めたのは、私の態度だった。そのまま美弥子へ顔を向けると、美弥子はすぐに眉をつり上げ、拓真の皿の脇にある小箱を睨んだ。絵里は何も言わず、胸元の石を指で撫でた。「せっかくの食事だぞ。母さんが用意して、絵里だって来てくれたのに」テーブルの中央に置かれた花を見た。駅前で選び、茎を切って生けた花だった。「気に入らないなら、私が処分しましょうか?」絵里が拓真の前へ手を伸ばした。「もともと私の買い物についてきた物ですし。澪さんが見るたび嫌な気持ちになるなら、手元にない方がいいですよね」「置いておいて」私は絵里の指が触れる前に、小箱を手で押さえた。「要らない物を、人に渡さないで」「まあ、卑しい」美弥子が箸を置いた。「人から頂いた物の値打ちを、そんなに気にするなんて。妻なら夫の立場を考えて、笑って受け取るものよ」「値段は気にしていません」「また言い訳ね。絵里さんのものは何百万もして、自分のはおまけだったから腹を立てているんでしょう?」美弥子は絵里に向かって、かばうように身を乗り出した。「絵里さんは海外で苦労して、拓真の仕事も助けてくれるの。感謝の品をもらうのは当然じゃない。澪さんも、もう少し可愛げがあれば、拓真だって何か選んでくれたかもしれないわ」絵里は止めず、伏せていた目を上げて拓真へそっと笑った。「もういいです、美弥子さん。私は拓真さんの気持ちだけで十分ですから」拓真はその言葉にうなずいた。「絵里は昔から欲がないよな」絵里の胸元では、拓真が何度も店へ通って選んだネックレスが、シャンデリアの光を返していた。私は黙って箸を置いた。それを見た美弥子が、当然のように言った。「もうお腹いっぱいなら、次はデザートを出してちょうだい。食べ終わったお皿も片づけて、洗い物もお願いね」私は何も言わずに席を立った。台所へ向かった途端、背後では途切れていた会話が何事もなかったように戻った。流し台には、料理に使った鍋とまな板が残っていた。「向こうでよく行ってたレストラン、
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-08-26
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6話
衣擦れの音が近づき、拓真がドアから出てきた。隣には絵里も並んだ。 「もちろんよ。智香の部屋が空いているから、そこを使ってちょうだい」 美弥子の返事は早かった。 階段へ足をかけようとしていた私は、そのまま動けなかった。美弥子は廊下に立ち、拓真の旧室へ顔を向けていた。 相良智香(さがら ともか)は拓真の妹で、すでにこの家を離れていた。 だからといって、その部屋へ絵里を泊める話が、私の前でこんなにも簡単に決まるとは思っていなかった。 「ありがとうございます。少しお酒が回ってるみたいで……」 絵里の弾んだ声が届いた。 「遠慮しなくていいのよ。今は空いてる部屋なんだから」 「母さん、俺も今日は泊まる」 続いて聞こえた拓真の声に、私は振り返った。 「あなたも泊まるの?」 「明日、会社で絵里を技術アドバイザーとして社員に紹介する。海外から持ち帰った最新技術も披露することになってる。今夜は、その準備と打ち合わせだ」 絵里も拓真を見て言った。 「用意したプレゼンを、もう一度確認しておきたいんです。拓真さんにも見てほしいし」 私は絵里の言葉には反応せず、拓真を見つめながら尋ねた。 「打ち合わせが終わっても、帰らないの?」 「遅くなるから、俺はここに泊まる。そのほうが明日も動きやすい」 「ほんの少しだけでも、家に帰って話せない?」 「披露の前日に、余計な話で時間を使うなよ
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-08
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7話
翌朝、拓真から【社長夫人らしい服で来い】と届いた。 寝室の窓辺には、結婚3周年の記念写真用に選んだ紺色のワンピースが、衣装袋に入ったまま残っていた。 指先で衣装袋の端に触れた。拓真と結婚3周年を祝うために選んだ服だった。 けれど、このワンピースで会社へ行けば、昨夜のことなど何もなかった顔で、拓真の隣に立つことになる。それはできなかった。 衣装袋は動かさず、仕事で着ているグレーのジャケットと黒いパンツを選んだ。 15時―― 会社の受付前には、拓真と絵里、美弥子、智香がそろっていた。拓真の隣にいた絵里は淡い水色のワンピースを着て、胸元にネックレスをつけていた。 最初に私を見た美弥子が眉を寄せた。 「澪さん、今日は絵里さんのお披露目なのよ。社長夫人らしい華のある服はなかったの?」 「仕事帰りなので、仕事着で来ました」 智香が私と絵里を見比べ、口元を押さえた。 「その格好じゃ社員に紛れちゃうね。何も知らない人なら、絵里さんのほうをお兄ちゃんの奥さんだと思うんじゃない?」 絵里は私をかばうように手を上げた。 「私は澪さんらしくて素敵だと思います。落ち着いていて、後ろから支えてくださる奥様という感じで」 「なんだ、その服は」 拓真だけは笑わなかった。 「もう始まるぞ。今日は余計なことをせず、俺の言うとおりにしろ」 「昨夜のことも、言うとおりにして黙っていろという意味?」 私は絵里へ目を向けた。 
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-09
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8話
拓真は私の手から袖を抜き、美弥子たちへ声をかけた。 「私は、ふたりで話したいの」 「打ち上げのあとでもいいだろ」 美弥子は「いいわね」と笑い、智香もすぐに賛成した。 私がまだ返事をしていないのに、拓真は打ち上げが決まったものとして私を振り返った。 「澪、お前は先に帰って準備しておけ」 「待って。私は引き受けると言ってない」 拓真は会場の扉へ向かいながら振り返った。 「家で食事をするだけだ。母さんと智香も来る。お前は先に帰って、料理と酒を用意しておけ」 「発表は終わったでしょう。今度こそ、昨夜の話をして」 「打ち上げのあとで話せばいいだろ。今日は成功したんだ。変な空気にするな」 美弥子は智香に車を呼ぶよう言った。絵里は少し離れたところで、スマートフォンを見ていた。 拓真の中では、私が先に帰ることも、美弥子と智香を迎えることも決まっていた。 「澪、聞いてるのか」 「聞いてる。でも、何でも用意できると思わないで」 そう返して、私は鞄を持った。 夫婦宅へ戻らなければ、拓真と話す時間はまた消える。それに、私のいないところで、自分の家まであの人たちだけの場所にされたくなかった。 私はひとりで会社を出た。 家に着くと、拓真から料理店の名前と、注文する品が送られてきた。続けて【冷えている酒も出せ】と届いた。 電話をかけると、急な注文のため、用意できない料理もあると言われた。私は店に残っている料
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-10
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9話
「準備はしません。絵里さんがここに住むことにも、私は賛成していません」 美弥子の顔から笑みが消えた。 「さっきから、ずいぶん勝手なことばかり言うのね」 「勝手に決められたのは、私のほうです」 拓真がグラスをテーブルへ置いた。 「絵里は遊びに来るんじゃない。会社のために日本へ戻ってきたんだ。客間を貸すくらいで騒ぐな」 「だったら、あなたが会社で部屋を用意すればいいでしょう」 「社長の俺が、自分の家へ誰を泊めるかまで、お前に指図されるのか?」 「私も暮らしている家だよ。せめて、ふたりで決めたい」 「客間を使わせるだけの話に、いちいち夫婦の相談が必要なのかよ」 絵里が間に入るように立ち上がった。 「私、やっぱりホテルに戻ります。澪さんを怒らせてまで、お世話になるつもりはありませんから」 「絵里さんが気にすることじゃないわ」 美弥子は絵里にそう言うと、今度は私を見た。 「困っている人を助けるのが家族でしょう。澪さんだって、相良家にはずいぶん助けてもらったはずよ」 「私に相談もせず、ここに住むと決めないでください」 智香は一度スマートフォンを伏せた。けれど、すぐ絵里へ笑いかけた。 「明日、私も荷物を運ぶのを手伝います。ひとりじゃ大変でしょう?」 「ありがとう。大きい荷物は、まだホテルに置いてあるの」 ふたりは私の返事を待たず、荷物を取りに行く時間を決め始めた。拓真は止めなかった。
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-11
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10話
翌朝、目を覚ましても、拓真は隣にいなかった。 寝室を出ると、1階から食器の触れ合う音がした。階段を下りる途中で、絵里の笑い声が聞こえた。 玄関には絵里の靴が並び、ダイニングテーブルには、昨夜渡された予備の鍵が置かれていた。 絵里は私のマグカップでコーヒーを飲んでいた。 拓真は向かいの椅子でスマートフォンを見ていた。 「おはようございます、澪さん。コーヒー、いただいています」 「そのカップ、私が使っているものだよ」 絵里は両手で包んでいたカップを見下ろした。 絵里の手にあるのは、結婚したばかりの頃、拓真と色違いで買ったカップだった。 もうひとつは、拓真の前に置かれていた。 「拓真さんが、どれでも使っていいって」 「ほかにもあるだろ」 拓真は画面から顔も上げなかった。 私は食器棚から来客用のカップを取り出し、自分のコーヒーを注いだ。 「私、朝はパンと果物だけでいいんです」 絵里は空の皿を自分の前へ寄せた。 炊飯器を開けると、昨夜仕込んでおいた米が炊けていた。いつものように茶碗をふたつ出しかけ、ひとつを棚へ戻した。 「絵里の朝飯は?」 「私は仕事へ行くから、自分たちで用意して」 「果物くらい切ってやれよ」 「冷蔵庫に入ってるよ」 「絵里は場所が分からないだろ」 
last updateTerakhir Diperbarui : 2026-09-12
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