結婚記念日のディナーのため、俺は一ヶ月も前から人気のフレンチレストランを予約していた。結衣が「すごく似合う」と褒めてくれた新しいスーツに袖を通し、彼女から贈られた腕時計を身につける。午後6時。鏡の前でカフスボタンを留めようとしていた時だった。テーブルに置いていたスマホが震えた。結衣からだ。「急な出張が入っちゃって。今夜は帰れないの」電話に出るなり、早口でそれだけを告げられ、ツーツーという無機質な音が耳に響いた。彼女のほうから、俺の返事も聞かずに電話を切ったのは、これが初めてのことだった。鏡の中の自分と目が合う。カフスボタンは、片方だけがブラブラと垂れ下がっていた。親友の古賀瑞樹(こが みずき)から電話があり、妻にドタキャンされて一人になったことをこぼすと「じゃあ俺が付き合ってやるよ。せっかく予約してたんだ、その店に行こうぜ」と呆れ混じりに言われた。ほどなくして迎えに来てくれた彼の車に乗り込み、俺たちはフレンチレストランに向かうことになった。だが――その店の前に車が停まり、助手席のドアを開けようとした俺の手は、ドアハンドルの上でピタリと止まった。ガラス張りの窓際にある席。そこに、結衣が座っていた。そして、彼女の向かい側――本来なら、今日俺が座るはずだったその席に座っているのは、二十代半ばくらいに見える見知らぬ若い男だった。笑うと口元にえくぼができる、愛嬌のある顔立ちをしている。結衣がすっと手を伸ばし、自分のハンカチで男の口元についたクリームを優しく拭き取った。――それは、18歳の頃から今に至るまで、彼女が俺にだけ見せていた甘い仕草だった。運転席にいた瑞樹もその光景に気づき、「おい、あれって……!」と顔を真っ赤にして車を降りようとした。俺は慌てて彼の腕を掴み、その動きを止める。「行くな」「なんだよあの男!誰なんだよ!」「……分からない」その夜、午後11時になって結衣は帰宅した。毎年の結婚記念日と同じように、真紅のバラの花束を抱えて。シャワーを浴び終えた彼女は、ベッドに腰掛けていた俺の背中からそっと抱きついてきた。濡れた髪から香るシャンプーの匂いとともに、華奢な顎が俺の肩に乗せられる。「健人、今日は本当にごめんなさい。近いうちに、絶対に埋め合わせするから」俺は静かに目を閉じ
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