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第3話

Penulis: 米菓子11
その日の夜11時。

結衣は家の書斎で残業を続けていた。

俺はホットミルクをマグカップに淹れ、書斎へと向かった。

ドアは完全には閉まりきっておらず、数センチの隙間が開いていた。

中から、結衣が誰かと電話をしている声が漏れ聞こえてくる。

それは、ここ最近俺の前では決して見せなくなった、甘く、とろけるような優しい声だった。

「うん……先に寝てて。続きはまた明日ね。……私も、会いたいよ」

通話を終えた結衣がふと顔を上げると、ドアの隙間に立っている俺の姿が見えたのだろう。ビクッと肩を震わせ、固まった。

「……どうして、まだ起きてるの?」

「部下に対して、随分と甘い声で話すんだな」

「ただの普通の会話じゃない。変な勘ぐりするのはやめてよ」

俺は何も言い返さず、きびすを返してその場を離れた。

背後で、書斎のドアが「カチャリ」と冷たい音を立てて閉まるのが聞こえた。

以前の彼女は、家で仕事をする時、書斎のドアを閉め切ることなど絶対に一度もなかったのに。

俺はベッドに腰掛けたまま、彼女が書斎から出てくるのを20分ほど待っていた。

やがて寝室のドアが開き、入ってきた結衣は、俺がまだ起きているのを見て少し驚いたような顔をした。

「結衣、一つだけ聞いてほしいことがあるんだ。

俺には昔から、ある特殊な能力がある。人の肌に触れると、その人が『今、一番愛している人間』の顔が脳内に視えるんだ」

上着を脱ごうとしていた彼女の手が、ピタリと止まった。

「7歳の時、初めてお前と手を繋いだ日。俺の目に映ったのは、俺自身の顔だった。

18歳で初めてキスをした時も、俺だった。俺にプロポーズしてくれたあの日も、ずっと俺だったんだ。

でも……結婚3周年の記念日の朝。お前の肌に触れた時、初めて二つの顔が視えた。俺と、あの柊とかいう男の顔だ」

長い沈黙が寝室に下りた。

やがて、結衣はふっと鼻で笑った。

「あなた、随分と想像力が豊かなのね。最近、一人で家にいる時間が長くてストレスでも溜まってるんじゃない?」

「冗談なんかじゃない。俺は真実しか言ってない」

彼女の顔から、すっと笑顔が消え失せた。

「健人、やっぱりあなた少し疲れてるのよ。一度、心療内科でも受診してみたら?」

俺は無言で立ち上がり、結衣の腕を強く掴んだ。

「なら、今ここで証明してやる。目を閉じて、誰か一人を思い浮かべてみろ。

お前の心の中にいる人間が誰なのか、俺が当ててみせるから!」

バシッ!

結衣は、俺の手を思い切り振り払った。

決して大きな動きではなかったが、そこには明らかな拒絶の意志が込められていた。

「いい加減にしてよ、健人!柊くんに個人的な恨みでもあるわけ!?

彼にはちゃんとお付き合いしている彼女がいるのよ?

あなたの勝手な妄想で、彼に迷惑をかけるような真似は絶対にやめてちょうだい!」

激昂した結衣は、脱ぎかけた上着を再び羽織ると、そのまま足早に寝室から出て行ってしまった。

バタン、と玄関のドアが乱暴に閉まる音が響く。

俺はその場に立ち尽くしたまま、彼女の温もりが微かに残る自分の掌を、ただ虚しく見つめていた。

……

結衣が家に帰ってきたのは、深夜の2時を回った頃だった。

酷く酒の匂いを漂わせた彼女が寝室に入ってくる気配を感じ、俺は目を閉じて寝たふりをした。

彼女は音を立てないようにそっとベッドに潜り込むと、少しして、いつもの無意識の癖で俺の胸元にすり寄ってきた。

俺は閉じた目のまま、彼女の肌にそっと触れた。

――そこに在ったのは、たった一つの顔だった。

柊の顔。

俺の顔は、もう半分すらも残っておらず、跡形もなく完全に消え去っていた。

結衣は俺の腕を引き寄せ、自分の腰に回すように抱きつかせてきた。すぐ耳元で、アルコール混じりの寝息が聞こえる。

出会ってから21年。

彼女の心の中から、俺という存在が完全に消滅した瞬間だった。

俺は、彼女の腰に回された自分の腕を、静かに引き抜いた。

「ん……動かないで……」

寝言のように呟く結衣。

俺は彼女の呼吸が再び規則的なリズムを刻むのを待ち、背を向けるようにして寝返りを打った。

空が白み始めた頃、俺はベッドを抜け出した。

最低限の荷物だけを小さなボストンバッグに詰め込み、俺は夫婦の寝室を出て、使っていない空き部屋へと移った。

翌朝。

ダイニングで朝食を準備していると、起きてきた結衣が空き部屋の前に置かれた俺のルームシューズに目を留めた。

「どうして別の部屋で寝てたの?」

「昨夜はなかなか寝付けなくてね。寝返りで起こしたら悪いと思ったんだ」

「ふーん……」

結衣はそれだけ生返事をすると、スマホの画面に視線を落とした。

なぜ俺が別の部屋に移ったのか、それ以上深く追及してくることは、一度もなかった。

別の部屋で寝起きするようになって3日目。

俺の健康診断の結果が届いた。

胃に腫瘍らしき影があり、早急に精密検査が必要だという所見だった。

結果の紙を日記帳に挟み、その余白にペンを走らせる。

【一番傍にいてほしい時、彼女の心にもう俺はいない】

午後。

俺はタクシーで結衣の会社へと向かった。

本社ビルの下に着いた時、ちょうど柊が車のドアを開けているところだった。

結衣が身を屈め、助手席に乗り込む。

昔から彼女は、俺が運転する時しか助手席には座らなかったはずなのに。

柊は彼女が乗り込む際、頭をぶつけないように手で車の屋根の縁を覆って庇った。

そのさりげない気遣いは、かつて俺だけが彼女に向けていたものだった。

「運転手さん、やっぱり戻ってください」

乗ってきたタクシーの座席で、鞄に入った診断結果の紙が手に当たるのを感じながら、俺は二人を呼び止めることはしなかった。

その日の夜。

結衣が帰宅し、俺はリビングのソファで彼女を待ち構えていた。

「今日、お前の会社に行ったんだ」

俺の言葉を聞いても、彼女は靴を脱ぐ手を止めようとしなかった。

「どうして上がってこなかったの?」

「上がって、何を言えばよかったんだ?」

結衣はチラリとこちらを見て、あからさまに苛立った顔をした。

「……また、何よ?」

「お前が、あいつの車の助手席に乗るのを見た。あいつがお前の頭を庇ってドアを閉めるのも。まるで、俺たちがずっとそうしてきたみたいにな」

彼女は深いため息をついた。

「健人、柊くんは私のアシスタントなのよ?上司を気遣うのは最低限のマナーでしょ。

昔のあなたはそんなんじゃなかった。もっと大らかで、物分かりが良かったのに」

「大らか?俺とだけ共有していた特別なはずの仕草を、他の男と平気でやっているのを見ても笑って許せと?

それができないなら、俺が心が狭いって言うのか?」

結衣は面倒くさそうに眉間を揉んだ。

「今日は疲れてるの。言い争いはしたくないわ」

そう言い捨てると、彼女は書斎に入り、バタンと冷たい音を立ててドアを閉めた。

以前なら、彼女の振る舞いにもある程度は目を瞑ることができたかもしれない。

だが今は、ただひたすらに疲労感しかなかった。

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