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幼馴染の妻の心に、俺以外の男がいた

幼馴染の妻の心に、俺以外の男がいた

By:  米菓子11Completed
Language: Japanese
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俺・岡崎健人(おかざき けんと)には一つ、絶対に誰にも言えない秘密がある。 他人の肌に触れると、その人が「今、一番愛している人間」の顔が脳内に視えるという能力だ。 7歳の時、隣の家に引っ越してきた橘結衣(たちばな ゆい)。 その日からずっと、彼女の心の中に映るのは俺だけだった。 公園で初めて手を繋いで走り出した、7歳の夏も。 赤くなりながら「好き」と告白してくれた、16歳の放課後も。 「ずっと一緒にいて」と震える手で逆プロポーズされた、22歳の冬も。 新婚初夜、熱い吐息とともに深く唇を重ねた時も。 彼女の心には、いつだって俺の顔があった。 ――結婚3周年の記念日の朝。 出勤しようとする彼女のストッキングの乱れを直そうと、その足首に指先が触れた時。俺は安心しきった心で、いつものように目を閉じた。 だが、視界に飛び込んできたのは「二つの顔」だった。 一つは俺。 そしてもう一つは――見ず知らずの、若い男の顔。 その日の夜、テーブルに伏せて置かれていた結衣のスマホの画面が光る。 【結衣さん、今日は一日中付き合ってくれて嬉しかったです】 出会ってから21年。何十万回と触れ合ってきた中で。 俺の愛した妻が、初めて「裏切り」に足を踏み入れた瞬間だった。

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Chapter 1

第1話

結婚記念日のディナーのため、俺は一ヶ月も前から人気のフレンチレストランを予約していた。

結衣が「すごく似合う」と褒めてくれた新しいスーツに袖を通し、彼女から贈られた腕時計を身につける。

午後6時。鏡の前でカフスボタンを留めようとしていた時だった。

テーブルに置いていたスマホが震えた。結衣からだ。

「急な出張が入っちゃって。今夜は帰れないの」

電話に出るなり、早口でそれだけを告げられ、ツーツーという無機質な音が耳に響いた。

彼女のほうから、俺の返事も聞かずに電話を切ったのは、これが初めてのことだった。

鏡の中の自分と目が合う。カフスボタンは、片方だけがブラブラと垂れ下がっていた。

親友の古賀瑞樹(こが みずき)から電話があり、妻にドタキャンされて一人になったことをこぼすと「じゃあ俺が付き合ってやるよ。せっかく予約してたんだ、その店に行こうぜ」と呆れ混じりに言われた。

ほどなくして迎えに来てくれた彼の車に乗り込み、俺たちはフレンチレストランに向かうことになった。

だが――その店の前に車が停まり、助手席のドアを開けようとした俺の手は、ドアハンドルの上でピタリと止まった。

ガラス張りの窓際にある席。そこに、結衣が座っていた。

そして、彼女の向かい側――本来なら、今日俺が座るはずだったその席に座っているのは、二十代半ばくらいに見える見知らぬ若い男だった。笑うと口元にえくぼができる、愛嬌のある顔立ちをしている。

結衣がすっと手を伸ばし、自分のハンカチで男の口元についたクリームを優しく拭き取った。

――それは、18歳の頃から今に至るまで、彼女が俺にだけ見せていた甘い仕草だった。

運転席にいた瑞樹もその光景に気づき、「おい、あれって……!」と顔を真っ赤にして車を降りようとした。

俺は慌てて彼の腕を掴み、その動きを止める。

「行くな」

「なんだよあの男!誰なんだよ!」

「……分からない」

その夜、午後11時になって結衣は帰宅した。

毎年の結婚記念日と同じように、真紅のバラの花束を抱えて。

シャワーを浴び終えた彼女は、ベッドに腰掛けていた俺の背中からそっと抱きついてきた。

濡れた髪から香るシャンプーの匂いとともに、華奢な顎が俺の肩に乗せられる。

「健人、今日は本当にごめんなさい。近いうちに、絶対に埋め合わせするから」

俺は静かに目を閉じた。

彼女の肌に触れたことで、俺の脳内に「映像」が流れ込んでくる。

結衣が今、一番愛している人間の顔。

そこに浮かび上がったのは、二つの顔がせめぎ合うように交差する奇妙な光景だった。

俺の顔と、あのえくぼの男の顔。

半分ずつ、きっちりと分かたれていた。

出会ってから21年。

彼女の心の中に、俺以外の男の存在が入り込んでいるのを視たのは、これが初めてだった。

結衣が深い眠りに落ちた後、俺はサイドテーブルに置かれていた彼女のスマホに手を伸ばした。

ロック解除のパスコードは、俺の誕生日のまま変わっていない。

メッセージアプリを開くと、一番上にピン留めされているトークルームがあった。

アカウント名は、柊悠真(ひいらぎ ゆうま)。

やり取りを遡ると、始まりは半年前だった。

最初は業務上の連絡だけだったものが、少しずつ日常の雑談にすり替わり、味気ない【了解】のスタンプは、いつしか【おやすみ】の甘い言葉に変わっていた。

【今日、なんだか気分が沈んでるんで……甘いものが食べたいです】

それに対する、結衣の返信。

【下の階のケーキ屋さんで、ミルフィーユ買ってってあげるね】

また別の日。

【この前教えてくれたお店、一人で行ったんですけど微妙でした。次は絶対に付き合ってくださいよ】

そして、一番新しいメッセージは、つい先ほど送られてきたものだった。

【結衣さん、今日は一日付き合ってくれてありがとうございました】

俺は無言のままスマホを裏返し、ベッドに潜り込んだ。

隣で寝返りを打った結衣が、無意識の習慣のまま俺の胸元にすり寄ってくる。

寝言のように、小さく寝息を立てる妻。

「……今日は、誰と一緒にいたんだ?」

俺の問いかけに、結衣は夢うつつのまま「んん……」と声を漏らし、俺の体をさらに強く抱きしめた。

「……クライアントと……」

俺は、それ以上何も聞かなかった。

翌朝、出勤しようとする彼女は、玄関で俺の額に軽くキスをした。

「健人、昨日は本当に外せなくてごめんなさい。週末は一緒に温泉にでも行きましょう」

結衣は、昔と少しも変わらない無邪気な笑みを浮かべていた。

俺はしばらく彼女の顔を見つめた後、短く「分かった」とだけ返した。

彼女が家を出て行った後、俺は昨日着ていた真新しいスーツを丁寧に折りたたみ、クローゼットの一番奥底へとしまい込んだ。

昼になり、瑞樹から「大丈夫か」と電話がかかってきた。

俺が淡々と昨夜の話をすると、電話の向こうは数秒間の沈黙に包まれた。

「健人……お前、7歳の頃からずっとあいつだけを見てきたじゃないか」

「ああ、そうだな」

「これから、どうするつもりなんだよ」

窓の外に目をやると、雲一つない真っ青な空が広がっていた。

「……俺にも、分からない」

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第1話
結婚記念日のディナーのため、俺は一ヶ月も前から人気のフレンチレストランを予約していた。結衣が「すごく似合う」と褒めてくれた新しいスーツに袖を通し、彼女から贈られた腕時計を身につける。午後6時。鏡の前でカフスボタンを留めようとしていた時だった。テーブルに置いていたスマホが震えた。結衣からだ。「急な出張が入っちゃって。今夜は帰れないの」電話に出るなり、早口でそれだけを告げられ、ツーツーという無機質な音が耳に響いた。彼女のほうから、俺の返事も聞かずに電話を切ったのは、これが初めてのことだった。鏡の中の自分と目が合う。カフスボタンは、片方だけがブラブラと垂れ下がっていた。親友の古賀瑞樹(こが みずき)から電話があり、妻にドタキャンされて一人になったことをこぼすと「じゃあ俺が付き合ってやるよ。せっかく予約してたんだ、その店に行こうぜ」と呆れ混じりに言われた。ほどなくして迎えに来てくれた彼の車に乗り込み、俺たちはフレンチレストランに向かうことになった。だが――その店の前に車が停まり、助手席のドアを開けようとした俺の手は、ドアハンドルの上でピタリと止まった。ガラス張りの窓際にある席。そこに、結衣が座っていた。そして、彼女の向かい側――本来なら、今日俺が座るはずだったその席に座っているのは、二十代半ばくらいに見える見知らぬ若い男だった。笑うと口元にえくぼができる、愛嬌のある顔立ちをしている。結衣がすっと手を伸ばし、自分のハンカチで男の口元についたクリームを優しく拭き取った。――それは、18歳の頃から今に至るまで、彼女が俺にだけ見せていた甘い仕草だった。運転席にいた瑞樹もその光景に気づき、「おい、あれって……!」と顔を真っ赤にして車を降りようとした。俺は慌てて彼の腕を掴み、その動きを止める。「行くな」「なんだよあの男!誰なんだよ!」「……分からない」その夜、午後11時になって結衣は帰宅した。毎年の結婚記念日と同じように、真紅のバラの花束を抱えて。シャワーを浴び終えた彼女は、ベッドに腰掛けていた俺の背中からそっと抱きついてきた。濡れた髪から香るシャンプーの匂いとともに、華奢な顎が俺の肩に乗せられる。「健人、今日は本当にごめんなさい。近いうちに、絶対に埋め合わせするから」俺は静かに目を閉じ
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第2話
午後、俺は結衣の会社へ向かった。オフィスビルのエレベーターに乗り込むと、見覚えのある人が後から乗ってきた。昨夜、レストランで結衣と一緒にいた男だ。男は俺の顔を見るなり、愛想のいい笑みを浮かべて手を差し出してきた。「もしかして、結衣さんの旦那さんですか?初めまして、アシスタントの柊悠真です」初対面とは思えないほど馴れ馴れしく、悪びれる様子もない堂々とした振る舞いだった。彼が目的の階のボタンを押して俺の隣に並んだ時、彼のスマホが鳴った。「結衣さんのことですか?ああ、彼女はお昼なんて食べませんよ。コーヒーだけで済ませるのがいつもの癖ですから」わざわざ俺に聞こえるような声で電話の相手にそう告げると、柊は通話を切り、ニヤリと笑ってこちらを見た。「旦那さん、今日は結衣さんとランチですか?」エレベーターの扉が開く。俺は彼の言葉を無視して廊下に出た。社長室に入ると、結衣は書類の山に埋もれるようにしてパソコンに向かっており、顔を上げようともしなかった。俺は持ってきた保温ランチジャーをデスクの空いたスペースに置いた。「昼飯、まともに食べてないんだろう?」「んー……忙しいと、どうしても忘れちゃって」そこへ、柊が「書類の確認お願いします」とノックもそこそこに入ってきた。彼はデスクの上に置かれたランチジャーに目を留めると、大げさな声を上げた。「うわ、旦那さんマメですねー!結衣さんがこの前『美味しい豚の角煮が食べたい』って言ってたから、わざわざ作ってきてくれたんですね」パソコンから目を離さない結衣が食べやすいように、おかずの容器から角煮を一つ摘まみ上げて彼女のご飯に乗せてやろうとしていた俺の箸が、宙でピタリと止まった。結衣は俺の様子にも気づかず、黙々と自分の箸を動かし続けている。柊が部屋を出て行き、社長室には再び俺と結衣の二人だけになった。「あいつ……随分とお前のことを理解してるんだな」「え?」「柊だよ。お前が昼食を抜くことも、コーヒーしか飲まないことも知っていた」結衣はカチャリと箸を置いた。「健人、彼は私のアシスタントよ。上司の仕事のルーティンを把握するのも、彼の仕事のうちでしょ?」「……そうか?」「もう、また変なこと考えてるんでしょ?私の心にはあなたしかいないのに」彼女はわざとら
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第3話
その日の夜11時。結衣は家の書斎で残業を続けていた。俺はホットミルクをマグカップに淹れ、書斎へと向かった。ドアは完全には閉まりきっておらず、数センチの隙間が開いていた。中から、結衣が誰かと電話をしている声が漏れ聞こえてくる。それは、ここ最近俺の前では決して見せなくなった、甘く、とろけるような優しい声だった。「うん……先に寝てて。続きはまた明日ね。……私も、会いたいよ」通話を終えた結衣がふと顔を上げると、ドアの隙間に立っている俺の姿が見えたのだろう。ビクッと肩を震わせ、固まった。「……どうして、まだ起きてるの?」「部下に対して、随分と甘い声で話すんだな」「ただの普通の会話じゃない。変な勘ぐりするのはやめてよ」俺は何も言い返さず、きびすを返してその場を離れた。背後で、書斎のドアが「カチャリ」と冷たい音を立てて閉まるのが聞こえた。以前の彼女は、家で仕事をする時、書斎のドアを閉め切ることなど絶対に一度もなかったのに。俺はベッドに腰掛けたまま、彼女が書斎から出てくるのを20分ほど待っていた。やがて寝室のドアが開き、入ってきた結衣は、俺がまだ起きているのを見て少し驚いたような顔をした。「結衣、一つだけ聞いてほしいことがあるんだ。俺には昔から、ある特殊な能力がある。人の肌に触れると、その人が『今、一番愛している人間』の顔が脳内に視えるんだ」上着を脱ごうとしていた彼女の手が、ピタリと止まった。「7歳の時、初めてお前と手を繋いだ日。俺の目に映ったのは、俺自身の顔だった。18歳で初めてキスをした時も、俺だった。俺にプロポーズしてくれたあの日も、ずっと俺だったんだ。でも……結婚3周年の記念日の朝。お前の肌に触れた時、初めて二つの顔が視えた。俺と、あの柊とかいう男の顔だ」長い沈黙が寝室に下りた。やがて、結衣はふっと鼻で笑った。「あなた、随分と想像力が豊かなのね。最近、一人で家にいる時間が長くてストレスでも溜まってるんじゃない?」「冗談なんかじゃない。俺は真実しか言ってない」彼女の顔から、すっと笑顔が消え失せた。「健人、やっぱりあなた少し疲れてるのよ。一度、心療内科でも受診してみたら?」俺は無言で立ち上がり、結衣の腕を強く掴んだ。「なら、今ここで証明してやる。目を閉じて、誰か一
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第4話
数日後。俺はメッセージで、精密検査を受けに行くのに付き添ってほしいと彼女に頼んだ。結衣からは【分かった】とだけ返信があった。だが翌朝の7時。彼女から一通のメッセージが届いた。【ごめん、急な出張が入っちゃった。明後日には帰るね。具合が悪いならタクシーで行って。愛してるよ】すぐに電話をかけたが、電源は切られていた。嫌な予感がして彼女の会社の受付に問い合わせると、電話口の女性社員は「本日は社長の出張の予定は入っておりませんが……」と困惑した声で答えた。俺は一人でタクシーに乗り、病院へ向かった。待合の廊下では、長椅子に座る夫のマフラーを妻が甲斐甲斐しく直している姿や、足元のおぼつかないお爺さんに肩を貸してゆっくりと歩いていくお婆さんの姿が目に入った。誰もが、一番傍にいてほしい人に寄り添われている。行き交う人々の中で、俺だけがぽつんと独り、冷たい長椅子に座っていた。担当医からは、胃の腫瘍が悪性かどうかを調べるため、早急に病理検査をする必要があると告げられた。「ご家族は……来ていらっしゃらないのですか?」「自分でサインします」俺がそう答えると、担当医は気の毒そうな目で俺を見た。「奥様は……?」「出張に、行っています」医師はそれ以上、深く聞いてこなかった。検査の順番を待っている間、何気なく開いたSNSで、柊の投稿がタイムラインに流れてきた。海辺に沈む夕日の写真が、何枚もアップされている。添えられたテキストにはこう書かれていた。【ストレスが溜まると海が見たくなるっていうある人に、今日は強引に連れ出されました。さすがウチのボスは行動力が違う(笑)】そして、最後の一枚。写真の右下に、車の助手席に置かれた女性の左手が写り込んでいた。その薬指で光っているプラチナの指輪は――俺の左手にあるものと、全く同じペアリングだった。その日の夜10時。突如として、胃を直接抉られるような激しい痛みに襲われた。俺は一人でタクシーを呼び、夜間救急へと駆け込んだ。ストレッチャーに乗せられ、慌ただしく処置室へと運ばれる。医師の診断は、胃の腫瘍から大量出血を起こしており、一刻も早い内視鏡による緊急止血処置が必要だというものだった。「ご家族の方は……まだ到着されていませんか?」「俺が、自分で同意書にサイ
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第5話
結衣が家を飛び出していった後の、夜9時。俺は親友の瑞樹に電話をかけた。「迎えに来てくれ」「今からか?」「ああ」20分もしないうちに、彼はマンションの下に車を寄せてくれた。部屋に入り、リビングのテーブルに残された同意書の控えや俺の荷物を見た彼は、深く詮索することなく、無言でボストンバッグを車に運んでくれた。マンションを出て車が走り出した直後、スマホの画面が光った。結衣からのメッセージだった。【柊くん、熱がかなり酷くて。今病院で点滴打ってるから、もう少し付き添うね。あなたが言ってた話は、明日帰ってからゆっくり聞くから】運転席の瑞樹が、片手でハンドルを操りながらチラリとこちらを見た。「どこに向かう?」「……とりあえず、お前の家に泊めてもらっていいか」「あいつはどうした?」「別の男の点滴に付き添ってるよ」瑞樹はギリッと唇を噛み締めると、それ以上は何も聞いてこなかった。俺は冷たい窓ガラスに頭をもたれかからせ、服の上からそっと自分の胃のあたりを押さえた。昨夜の緊急処置のせいで、そこはまだ重くズキズキと痛んでいる。なぁ、結衣。お前は、俺が病気を抱えていることに全く気づいていなかったわけじゃない。ただ、俺の命に関わる話よりも、別の男の熱の方が「緊急事態」だと判断しただけなんだろう。……翌日の午後。俺のスマホに結衣から電話がかかってきた。着信に出る。「健人!?あなた、今どこにいるの?家にいないみたいだけど……それに、リビングのテーブルに置いてあったあの紙、どういうこと!?」電話の向こうから、パニックに陥ったような慌てた声が響く。「俺の受けた、緊急処置の同意書の控えだよ。お前の夫のな」電話口の気配が、凍りついたように静まり返る。「昨日、お前が帰ってきた時に言おうとしていた検査結果の話だ」「…………え、待って、健人、処置って……?」「もう終わったよ。胃の腫瘍から大量出血してな」「健人、私、本当に知らなくて……!てっきりまた普通の健康診断の話だと思って……!柊くんが本当に苦しそうだったから、放っておけなくて……っ!」「ああ、分かってる」俺は、震える彼女の声を冷たく遮った。「彼が38度5分の高熱を出して苦しんでいたこと、俺の耳にもはっきり聞こえていたからな。
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第6話
結衣が出張で家を空けている隙に、俺は自分の荷物をすべて運び出した。事前に見つけておいた新しいアパートの契約を済ませ、段ボールに荷物を詰め、引っ越し業者を手配した。3年前にこのマンションを購入してから積み上げてきた思い出を清算するのに、かかった時間はたったの3時間だった。クローゼットから俺の服が消え、リビングのテーブルから俺の読んでいた雑誌が消えた。ベッドサイドのテーブルに置いていた読みかけの文庫本、愛用していたマグカップや万年筆。引き出しの奥にしまっていた俺の分の結婚指輪。キッチンにあった俺の茶碗と箸。ベランダで育てていたジャスミンの鉢植え。――そのどれもが、この部屋から跡形もなく消え去った。手伝いに来てくれた瑞樹が、ガランとしたリビングを見回して言った。「他の家具は持って行かないのか?」「ああ、もういらない」「あのマッサージチェアは?お前、お祝いにって半年も悩んで選んでただろ」俺は、リビングの隅に鎮座するそのチェアを見つめた。「デカすぎる。新しい部屋には置けないよ」瑞樹はそれ以上、何も言わなかった。俺は寝室へ向かい、最後にクローゼットを開けた。彼女の服が隙間なく並んだ空間の横で、俺のスペースだった場所には、空っぽのハンガーだけが虚しく揺れていた。再びリビングに戻り、すでに自分のサインと押印を済ませた離婚届をテーブルに置いた。その紙の上に、一本の赤いミサンガを乗せる。7歳の時に彼女が編んでくれたもので、結び目に付いている小さな鈴はすっかり錆びついていた。横に添えた付箋には、短いメッセージだけを書き残した。【重すぎて、もう着けていられない】俺は自分の合鍵を玄関のシューズボックスの上に置いた。ドアを閉める前、最後に一度だけ部屋の中を振り返る。二人で一緒に選んだソファ。俺が裾上げをしたカーテン。ダイニングテーブルには、昨日俺が活けた花がそのまま残っている。そのどれ一つとして、俺は持って行かなかった。マンションの下に停めた車で、瑞樹が待っていた。助手席に乗り込むと、彼が静かにエンジンをかける。「泣いたのか?」「……いや」瑞樹はチラリとこちらを見たが、それ以上追及してくることはなかった。新しく借りたアパートの部屋は北向きで、決して広くはなかった。開け
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第7話
家に置いてきた離婚届には一向にサインされる気配がなかったため、俺は改めて記入した離婚届を、今度は書留郵便で結衣の会社へと送った。追跡番号の控えは手元にあったが、数日が経っても彼女から返送されてくる気配はなかった。瑞樹からの電話は、当の俺よりも焦ったような口調だった。「あいつ、まだサインしてないのか!?」「ああ、まだだな」「催促したのか?」「してない」「お前、焦らなくていいのかよ?」俺は窓の外のプラタナスの木を眺めた。秋も深まり、葉はもうほとんど落ちかけている。「瑞樹。協議離婚を拒まれたとしても、調停に持ち込めばどうせ決着はつく。あいつがどれだけ引き延ばしたところで、時間の問題だよ」瑞樹は少し口ごもり、声を落として言った。「……会社の連中から聞いたんだけどな。あいつ、最近かなりヤバいらしいぞ。やつれてボロボロになってて、会議中も上の空だし、深夜になっても社長室に籠もりきりで、誰が声をかけても帰ろうとしないって」「それはあいつの問題だ」「……お前、本当に少しも心配じゃないのか?」俺はスマホを握る手に力を込め、爪が手のひらに食い込むのを感じた。「瑞樹。俺は胃から血を流して生死の境を彷徨ったんだ。あいつが海辺ではしゃぎながら別の男の写真を撮っていた時、俺は一人きりで冷たい処置台の上に横たわり、自分で同意書にサインしたんだぞ。……これ以上、あいつの何を心配しろって言うんだ?」電話の向こうで、瑞樹は完全に言葉を失った。長い沈黙の末、彼が「……ごめん」と短く謝罪する。「謝るなよ」通話を切った後、俺は窓の前に立ったまま、しばらく動けなかった。足が痺れてくるのを感じてようやく振り返り、デスクに向かってデザイン画の作業を再開した。数日後。結衣から一通のメッセージが届いた。【健人、一度だけ会ってくれないかな。ちゃんと話をしたいの】その文字を2秒だけ見つめ、俺は【分かった】とだけ返信した。待ち合わせは、オフィス街の交差点にあるカフェだった。俺はわざと、約束の時間から10分遅れて店に向かった。ドアを開けて店内に入ると、冷たい隙間風が首筋を撫で、思わず身をすくめる。結衣は一番奥の隅の席に座っていた。彼女の目の前には、コーヒーのカップが二つ置かれている。カフェラテと、アメリ
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第8話
数日後、ついに結衣は離婚届にサインをした。ただし、そこには二つの条件がつけられていた。一つは、これまでの21年の補償として俺の口座に1億円を振り込むこと。当然、俺はその金を受け取らなかった。そしてもう一つの条件は、「3ヶ月間だけ離婚の手続きを保留にし、その間にもう一度だけ私にあなたをアプローチさせてほしい」というものだった。瑞樹からその話を聞かされた時、彼の声には複雑な響きが混じっていた。「あいつ、お前にまともなアプローチをしたことがないから、最後にその埋め合わせをしたいんだとさ。7歳から28歳までずっとお前が追いかけてきたんだから、今度は自分が追いかけたいって」「……勝手にすればいいさ」翌日、俺のオフィスにさっそく花束が届いた。エントランスを塞ぐほどの、巨大な深紅のバラの花束。添えられたメッセージカードには【1日目】と書かれていた。俺は受付に指示を出し、受取を拒否してそのまま送り返させた。3日目にもまた花が届いた。受付のスタッフが困り顔で「送り返してもまた配達されてしまうんです」と言ってきたので、俺は「隣の花屋に譲ってあげてくれ」と答えた。4日目、受付が苦笑いしながら報告してきた。「隣の花屋の店長さんが『送り主の方に感謝します。おかげで最近、バラの売り上げが絶好調です』と伝えてほしいそうです」やがて、彼女は花以外のものを送りつけてくるようになった。高級な腕時計は、受け取らずにそのまま返送させた。カフスボタン。箱には【結婚3周年のやり直し】と書かれていたが、俺は中身を見ることすらなく宅配業者に突き返した。結衣から【お願いだから、一度でいいから箱を開けてみて】とメッセージが来たが、返信はしなかった。ついに彼女は、直接オフィスに押しかけてくるようになった。ある日のことだ。俺はクライアントとブランド全体のデザインに関する重要な打ち合わせをしていた。途中でアシスタントが部屋に入ってきて、「受付に岡崎結衣(おかざき ゆい)様という方がお待ちです」と耳打ちした。「そのまま待たせておけ」俺がそう指示を出し、午後2時から始まった打ち合わせが終わったのは5時だった。結衣は3時間もの間、ずっと受付の待合スペースで座り続けていた。その間、アシスタントが3回お茶を出したが、彼女は
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第9話
瑞樹が、前の職場の同僚から直接聞いた話だという。結衣は柊を社長室に呼び出し、ドアを開け放ったまま、フロアにいる全社員の目の前で言い渡したらしい。「柊くん。あなたは今日付けで解雇よ。今日中に退職の手続きを済ませなさい」柊は呆然とし、すぐに目を真っ赤にして「どうしてですか」と尋ねた。「理由は、自分が一番よく分かっているはずよ」柊はその場で泣き崩れ、フロア全体に響き渡るような大声で喚き散らしたという。あの海での出来事はなんだったのか。あのプラタナスの木は、あのレストランはなんだったのか。いつか自分の両親にも会わせてくれると言っていたじゃないか、と。結衣は、彼の言葉を冷酷に遮った。「二度と私の前に姿を見せないでちょうだい」そこまで語り終えると、瑞樹は俺の顔を覗き込んだ。「あいつ、本当にあの男をクビにしたんだぜ。オフィス中が唖然としてたらしい」「……だからなんだ」「お前、何も感じないのか?」「あいつが誰をクビにしようと、俺には何の関係もない。あいつが自分の会社の従業員を切った、ただそれだけの話だろ」その翌日、結衣が俺のオフィスにやって来た。彼女は入ってくるなり、一枚の書類を俺のデスクの上に置いた。『解雇通知書』の控え。そこには会社の社印と、柊が震える手で書いたであろう署名が残されていた。」彼女は俺の目の前に立ち、褒めてもらうのを待っている子供のような、すがるような目で俺を見つめていた。「健人、私、彼をクビにしたわ。もう二度と、彼は私たちの前には現れないから」俺は持っていたペンを置き、ゆっくりと顔を上げて彼女を見た。「……それで?」彼女は用意していた言葉を喉の奥に詰まらせた。「……喜んでくれると、思ったのに」「結衣。問題は、あいつのことじゃないんだ」「分かってる、私が悪かったの。全部私が間違ってたわ。これからは心を入れ替える。あなたが望むように何だってするから。スマホの中身も全部見せるし、SNSのパスワードも全部あなたに預ける!」「結衣。いつから、お前の心の中に俺の居場所がなくなったか、分かるか?」俺の問いかけに、彼女は息を呑んだ。「お前が初めて嘘をついた時じゃない。……あいつがカフェラテを好むことは覚えていたくせに、俺がコーヒーを一滴も飲まないことすら忘れていた
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第10話
それから1年後。俺の個展が、都内のギャラリーで開催されることになった。個展のタイトルは『七歳』。子供の純粋な視点や記憶をインスピレーションの源にした作品群だった。キュレーターからは「静かな落ち着きの中に、強い意志を感じる」と高く評価された。個展の開催に合わせて、デザイン雑誌のインタビューを受けた。インタビュアーの記者が、作品に多く登場する「手を繋ぐ」というモチーフに込められた意味を尋ねてきた。「特別な意味はありません。……誰かと手を繋いで歩けるのは、とても素晴らしいことです。ですが、もしその手を繋ぎ続けることができなくなったら、その時は一人で前を向いて歩いていけばいい。ただそれだけです」そのインタビュー記事が掲載された雑誌が発売された後、瑞樹が俺に奇妙なことを教えてくれた。結衣がその雑誌を何冊も買い占め、自宅の寝室のベッドの片側――かつて俺が寝ていたスペースに、それを大事そうに置いているのだという。彼女は寝室のクローゼットも半分だけを空っぽのままにしており、自分の服はもう半分にぎゅうぎゅうに詰め込んでいるらしい。かつて俺の荷物があった場所には、絶対に何も置こうとしないのだと。会社でも、以前のように仕事に打ち込むことはなく、パソコンのデスクトップに設定した俺たち二人の結婚写真を、ただ何時間もぼんやりと見つめている日が多いそうだ。「なんでお前、そんなことまで知ってるんだよ」俺が呆れて尋ねると、瑞樹は溜め息をついた。「会社の連中が心配して俺に連絡してくるんだよ。この一年、社長がまるで抜け殻みたいになっちまったって。周りの連中も、見ていられないくらい痛々しいってさ」「……それは、あいつの問題だ」俺はそれだけ言うと、新しいデザイン画の準備に取り掛かった。11月。俺は少し遠くの街まで、色づいたプラタナス並木を見に出かけた。枯れ葉が敷き詰められた道を歩く。足を踏み出すたびに、カサカサと乾いた小さな音が響いた。しばらく歩いていると、前方の大きな木の下に、見覚えのある人影が立っているのが目に入った。結衣だった。彼女が着ているグレーのロングコートは、5年前に俺が買ってやったものだ。袖口は擦り切れ、ほつれた糸が飛び出しているというのに、彼女はそれを買い替えようともせずに羽織っていた。結衣も俺の
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