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All Chapters of 薔薇と梔子: Chapter 21 - Chapter 30

39 Chapters

第二十一話 薔薇と同志

 先生への慕情以外、心臓移植の手術のことも、夢のこともすべて打ち明けると、瑞希くんは再び私を抱きしめた。「話してくれて、ありがとう」 瑞希くんは私から離れて水の入ったグラスを差し出す。私はそれに甘えた。 外は明るくなり始めていて、瑞希くんの顔が良く見える。 彼は考え事をしているようにも見えたし、どこかへ思いを馳せているようにも見えた。 もう、泣いていた瑞希くんはどこにもいない。憂いも涙の痕もなく、いつも通りの端正な顔だ。爽やかで、裏表がなくて、どこまでもまっすぐ。 やがて、外から差し込んだ朝日が瑞希くんの精悍な顔を照らした。 瑞希くんは私のほうへ向き直り、寝台に腰かける私の手を握る。「みぃは、まだ実習を続けるつもりか?」「……瑞希くんが、お許しくださるのであれば」「でも、もう心臓移植のことはこれ以上わからないかもしれないんだろう?」「それは、そうですが……。元々、それが目的ではありませんから。偶然、調べる機会があっただけですもの。私が看護婦になりたいと思う気持ちに変わりはありませんわ」 心臓移植の手術についてわかったのは、本当に偶然だ。そこで知り得たことも、先生の過去もすべて。 看護婦になりたいと思う気持ちとはまったくの無関係。 私が瑞希くんの手を握り返すと、瑞希くんは決断したのか苦悩の色を隠した。「……わかった。実習は続けても良い」 瑞希くんは私を安心させるためか笑みを浮かべる。手のかかる子供に向けた諦念や脱帽
last updateLast Updated : 2026-09-27
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第二十二話 薔薇と変化

 残り一週間の実習期間は瞬く間に過ぎていってしまった。 私に余計なことを考える暇を与えない忙しさで、また熱がぶり返してしまうのではと思ったほどだ。普段元気な菜々ちゃんでさえ、残り三日となったところで病院の大変さや理不尽さについて愚痴をこぼしていた。 今日、私たちは初日に座学を受けた病院の講義室に会している。実習終了の証書を受け取るためだ。「本当に終わるのね」「やっとだわ」「でも、あっという間だったわよね」 久しぶりに会った学友――内科に配属されていた三名――の目元には私と菜々ちゃんよりうんと濃い隈ができていた。 私たちは互いに、この実習をやり遂げたことが夢のようだと称え合い、長いようで短かった二週間を振り返った。 急患の対応、医薬品の扱い、患者からの苦情。対して、楽しかったことや、食堂で食べた食事のことなど、私たちの話は多岐にわたった。 とはいえ、私は、自身の最も主要な話題である心臓移植の件については、菜々ちゃんにも学友にも話さないことに決めた。 この病院に抱いた皆の信頼や夢をみすみす壊すようなこともしたくなかったし、なにより、私自身がまだこの出来事をうまく咀嚼できていない。瑞希くんが色々と調べてくれているらしいことだけは、行き帰りの車内で聞く話からわかっている。だが、肝心なところはまだなにもわからないことだらけだ。 それに。 嫌でも、近いうちにわかる。 看護実習が終われば、私たちはまた日常に戻る。すなわち、私はまた先生と顔を合わせることになるのだから。「美羽?」「えっ、あ、ごめんなさい。ちょっとぼーっとしちゃった」 お喋りに参加しない私に、菜々ちゃんがにやりと口元を歪める。
last updateLast Updated : 2026-09-28
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第二十三話 薔薇と医者

 家庭教師の日、緊張する私に対し、先生は灰色の和装に黒い羽織といういつも通りの姿で現れた。当たり前だ。先生にとって今日はなんてことはない、二週間ぶりの家庭教師というだけで、まさか私に過去を暴かれるなんて思っていない。 だというのに、先生は私を一目見て、私の額に手をやった。突然のことに私のほうが驚いてしまう。「せ、先生?」「ああ、失礼。お嬢さまがやけに強張った顔をしていらっしゃったので、もしかしてまた体調を崩されたのかと。ですが、熱はなさそうですね」 そんなにわかりやすいのだろうか。それとも、先生がよく見てくださっているのか。 私は離れてしまった先生の手を名残惜しく感じつつ、「大丈夫よ」と顔の筋肉を意識的に緩める。「課題はしなくて良いと言ったはずですが、進めていらしたと奥さまからお聞きしましたよ。随分遅くまで勉強に励まれていたとか」「だって、ちょうど良い機会だったのよ。実際に学んだことをすぐに活かせるんですもの」「それでも、体調を崩されては元も子もありません」「……わかってるわ」 両親から実習期間中のことは筒抜けのようだ。私の拗ねた返答に先生は苦笑しつつも、私に話の続きを促した。「それで? 実習はいかがでした?」「今日の課題は良いの?」「今日は少しお話をしましょう。せっかく現場で色々と体験されたのですから、そこでの質問や気になったことがあれば、僕のお答えできる範囲でお話しますよ」 先生はいつもの定位置に腰かけ、私が話し出すのを待っていた。 明確に一つ、聞かねばならないことがあるとわかっているはずなのに、私は逡巡
last updateLast Updated : 2026-09-29
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第二十四話 薔薇と素性

 学校と家を往復する日々は味気なく、まるで世界が白黒になってしまったようだった。 先生は今月限りでと言っていたけれど、私がそれを断った。先生はすぐにでも私から離れたがっている。それを仁義を通して猶予をくださっただけだとわかっていたから。 先生を失い、私は明らかに抜け殻よろしく生きているだけの人形と成り下がった。両親や瑞希くん、菜々ちゃんに心配されても、その理由を説明することすらできないほど。 皆に迷惑をかけていることも、気を遣わせていることもわかっているのに、私は覇気のない笑みを浮かべてやり過ごすしかなかった。 なにも、考えたくなどなかった。 そんな私に「話があるから予定を開けておいてくれ」と瑞希くんから声がかかったのは、庭に咲き誇っていた梔子が枯れ始め、先生の契約満了日を明日に控えた夏真っ盛りのことだった。 場所は休日の百貨店、その最上階にある洋食屋だ。カフェーと同じ階に最近できたばかりだという。 私を元気づけようとしてくれているのがわかり、失恋真っ只中の私にはその瑞希くんの優しさがやはり嬉しくも悲しくもあった。 両親と給仕に目いっぱいのお洒落を施され、私は煌びやかな洋装を纏って父の車で百貨店に降り立つ。今日は瑞希くんが先に店に着いているとのことで、私は早速指定された店へと向かった。 瑞希くんからの話に、良かった思い出は一つもない。だが、今はそんな話にすら縋りたい思いだった。 洋食屋は洗練された雰囲気だった。シャンデリアと言うのだったか、豪奢なガラス製のランプが天井から吊るされ、ここが百貨店の中であることを忘れさせる。店内の演奏に導かれるように毛の長い絨毯に一歩足を進めると、店員がやって来た。「お客さま、どなたかお待ち合わせでございますか?」「えっと、丸井、
last updateLast Updated : 2026-09-30
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第二十五話 薔薇と記憶転移

「記憶転移?」 首を傾げた私に、瑞希くんは一から丁寧に説明してくださった。「心臓に限らず、臓器移植をした患者に提供者の記憶が移ることがあるらしい。世界的にも、まだ臓器移植の手術の成功例自体が多くないからあくまでも噂程度って話だが……」「記憶って……、夢の話みたいなことですか?」「ああ。具体的には、提供した人の経験や性格の一部、食の好みも含めて、趣味嗜好が変化することがあるそうだ」 瑞希くんは前菜の皿に残っていた夏野菜を綺麗に食べ、口元を拭いた。「みぃは、そうした経験は?」「私は……」 私もまた、前菜の残った皿に視線を落とす。 元々、幼少期の頃に手術を受けたせいか、あまり自分自身の変化を明確に感じられたわけではない。だが、思い返してみると、一つ思い当たる点があった。「そういえば、甘味が急に好きになって。両親に驚かれたことがあります」「みぃの甘味好きは元からじゃなかったのか」「私もあまりよくは覚えてないんですが……、父の話によると、手術を受けるまでは塩っ気のあるものが好きだったみたいで。よく父の酒のつまみを勝手に食べていた、とお小言をいただいたんです」「なるほど。じゃあ、きっと記憶転移の典型的な例かもしれない。他に変わったことは?」「うーん……、そう、ですね」 記憶を辿り、私は「あっ」と声を上げる。 日常に溶け込みすぎて、今まですっかり忘れていた。
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第二十六話 薔薇と訪問

 なんとか瑞希くんの元へ戻ったものの、それ以上の食事も会話も続けられなかった。 瑞希くんに先生への想いを打ち明けることはできない。結局、瑞希くんには「想像したら気持ち悪くなってしまって」とごまかすにとどめた。 心臓移植の話はこれで終わりにしよう。そう瑞希くんが提案してくれたことに、私は心から賛同した。瑞希くんとこれ以上、この話を続けることはできそうになかった。 そこから家までの道中も、自室に戻ってからしばらくの間のことも、私はあまり覚えていない。私を気遣い、瑞希くんが明るく別の話をしてくれていたに違いない。 化粧も落とされているし、洋装は寝間着に変わっているから、最低限の身支度だって自力でしたのだろう。その記憶すらも曖昧だ。 気づけば窓の外が明るくなっていた。今の私に、日の光は眩しすぎる。 窓帷を閉めようと窓辺に近づき、梔子の花が枯れていることに気づく。 雪のようだと思っていた白い花弁はすっかり黄変して萎れている。美しかった姿は一つとしてなかった。「……こんなことなら、看護婦になりたいだなんて、実習に行きたいだなんて、思わなければ良かったわね……」 自嘲が漏れた。 欲張った罰だ。瑞希くんという素晴らしい婚約者がいるのに、先生を想っていたことも。先生が隠していた過去を無理やりに暴いたことも。体が弱いのに看護婦になりたいと高望みしたことも。無理を押して、実習を受けたことも。なにもかも。「本当に、最低で、最悪な女だわ」 心臓移植を受ける前から、きっとそうだったに違いない。それが本当の私で、偶然にも先生の妹さんの高尚な心臓をいただいてしまったがために、それなりの令嬢として振舞うことができるようになっただけなのだ。
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第二十七話 薔薇と過去

 家庭教師をしていた時と同じく、私は学習机の椅子に、先生は長椅子に腰かけた。違うのは、向き合う形で座っていることくらいだ。先生は黒の羽織を綺麗に畳み、鞄へしまうと、改まって私を見据えた。「すでにお嬢さまはご存じのことと思いますが、改めて僕からお話させてください」 私に医学を説く時の穏やかな声なのに、その表情に一切の笑みはなかった。「こうなるくらいなら、もっと早くに僕からお伝えすべきだったのかもしれません。あるいは、言わずに去ることもできたはずでした」「……どちらが、幸せだったのかしらね」「どうでしょう。以前は考えていたことですが、今となってはもうわかりません」「ええ、そうね。私も、そう思う。……でも、待って。どうして先生は、私が全部知ったって?」「どこまでご存じか、最初はわかりませんでしたよ。だから、お嬢さまにお会いしたかったのです。お嬢さまのことは見ればわかりますから」 先生は微かに口角を持ち上げた。眦が下がり、笑みに哀愁が漂う。けれどもその儚い微笑も一瞬のうちに消え去り、先生はまた表情を引き締める。「実は、こうなるかもしれないとは思っていたんです。お嬢さまが実習に行かれた日から。院長からあなたが実習生として来たことを手紙でお教えいただきましたから」「先生は、院長とお知り合いだったのね」「彼は、僕の行った手術や僕が病院を辞めた理由とは無関係ですが。偶然、交流が続いていましたので」 先生は一つ咳払いすると、本題に戻した。「実習前に、僕に心臓移植のことを尋ねたでしょう? 実習期間の内にどこまで調べきれるかは定かではありませんでしたが、この期間にお嬢さまが心臓移植につ
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第二十八話 薔薇と別れ

 私は椅子から立ち上がり、先生の元へ歩み寄る。 先生の目に涙が浮かんでいないことは明らかだったのに、なぜか泣いているように見えて。私はどうしようもなく、そんな先生を守りたかった。 私だって傷ついている。自分が何者であるかを知ったうえで、深く、深く傷ついた。 それでも、先生のことを大切にしたい。先生が悲しむ姿は見たくなかった。「先生」 私は先生の前に跪いて、彼の頬に触れる。真珠のように透き通ったきめ細かな肌は冷たく滑らかで、陶器でも触っているかのように現実離れしている。 視線を合わせると、彼の湖面のような瞳が揺らいだ。「先生のことを教えて。私、どんな先生でも、先生がなにをしていても許すわ。世界中の誰が、なんと言おうと」 先生の瞳に映っている私は、先生にどう見えているのだろう。 未だにかつての妹の面影が重なるものなのだろうか、それとも、高嶺美羽として映っているだろうか。「私は先生が……、司さんが好きよ」 どちらにせよ、関係のないことだった。 私の先生を想う気持ち、そこに先生の妹が持つ家族愛が含まれていようと、心臓移植によって生まれた私本来の気持ちでなかったとしても。 伝えずにはいられなかった。 だって、夢で見た先生はとても美しくて――、妹にとっても先生は愛おしい人だったとわかるから。 私が先生を想う気持ちと、妹が先生を思う気持ちに大きな差はないように思えた。 先生の喉仏がごくりと上下する。 ややあって、先生は頬に添えていた私の手を
last updateLast Updated : 2026-10-04
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第二十九話 薔薇と向日葵

 先生が家庭教師を辞め、私の前から去って半月が経った。 本格的な夏が到来したにも関わらず、私の気分は暗いままだ。 先生と最後に別れを告げた翌日、先生のことは潔く諦めると決めたのに。どうしてだろう。先生と会わない日が増えれば増えるほど、先生とは本当にもう二度と会えないのだと実感して泣きそうになる。 ここ一週間はなんとかそんな自分をたしなめるように、女学校へ行って菜々ちゃんや学友たちと勉学に励み、休日はできる限り瑞希くんや両親と出かける予定を詰めた。先生のことを考えないように、看護婦になる夢と、瑞希くんと結婚するという現実を追いかける日々を送る。 瑞希くんと会う時は、ちょっとした言動から瑞希くんの良いところを探し、その日を楽しもうと努力すらしている。 そのはずなのに。 どうしていつも、私の眼は黒い羽織や地味な着物を見つけては一喜一憂してしまうのだろう。どこかで会えるのではないかと、会ってどうすることもできないのにそんなことを考えている。 私がぼんやりとしていると、「大丈夫か?」と声がかかった。 顔を上げると心配そうに眉を下げた瑞希くんの姿がある。先生は絶対に選ばないであろう明るい青の背広を着ている。「……平気ですわ」 私は瑞希くんの手に引かれて立ち上がった。 ――そうだ、今日は瑞希くんとの時間を楽しまなければ。 私は自分に言い聞かせ、瑞希くんの青い背広姿を目に焼き付ける。今日、なにかあった時に探すべき人は彼なのだと。 近頃、家庭教師が辞めたと聞いたからか、家にいても暇をするだろうと瑞希くんは仕事の合間を縫っては私を様々な場所へ連れ出してくれている。 今日
last updateLast Updated : 2026-10-05
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第三十話 薔薇と海

 菜々ちゃんとの待ち合わせ場所である駅舎は人の往来が多かった。 先生の面影を探す行為がすっかり癖になっている私は、相変わらず、駅舎なら会えるのではないかと淡い期待を抱いて和装姿の男性を視界の隅で追いかけていた。 それどころか最近は、先生が背広姿かもしれないと服装だけではなく背丈や髪形にも注意を払っている。 百貨店へ本を買いに行ったあの日が夢のようだ。背広姿の先生を今でも鮮明に思い出せる。綺麗な立ち姿は雰囲気があって、もしかして医者の時代は背広だっただろうかと妄想に耽った。 先生のことは忘れなくてはいけないのに。思えば思うほど、先生の影は日増しに色濃くなっていく。 もはや、望さんの心臓に関係なく、私自身の理性がそうさせているのではないかと思える。 私が思考を追い払うように首を横に振ったところで、私の名を呼ぶ声が聞こえた。「美羽!」 呼ばれたほうへ顔を向けると、日傘を手にした菜々ちゃんがいた。「あっ、菜々ちゃん」「ごめん、お待たせ。……なんか、体調悪い?」「い、いいえ! 平気よ。少し暑くてぼんやりしちゃっただけ」 私は慌てて笑顔を作る。 数日前から学校が夏休みに入り、今日は久しぶりの菜々ちゃんとの再会だ。菜々ちゃんが一緒にかき氷を食べに行こうと誘ってくれた。 夏休み直前、菜々ちゃんには失恋をしたことも、先生とお別れしたことも伝えてあるが、暗い顔を見せて心配させたくはなかった。「平気そうな顔しちゃって。まだ失恋を引きずってるんでしょ?」「……違う
last updateLast Updated : 2026-10-06
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