LOGIN――これは、先生を愛してしまった罰なのでしょうか? 婚約者がいるにも関わらず、家庭教師に恋をしている美羽。美羽のこの恋心には「とある秘密」が隠されていて……? 自由な夢と恋を追い求める少女の少し歪な純愛物語が今、花開く。 病弱な令嬢・高嶺美羽は長年、家庭教師の木梨司へ好意を寄せている。しかし、美羽には婚約者がいた。 美羽は先生への気持ちを隠し、看護婦になる夢を追いかけて勉学に励んでいるが、婚約者からは夢を諦めるように諭される日々。 夢と恋のどちらの自由も奪われている美羽は、ある日、看護婦になるためのチャンスを得る。 しかし、そのことがきっかけで美羽は自身の恋心に関わる「とある秘密」を知ってしまい……?
View More私が先生と出会ったのは、しとやかな雨が降る日だった。
庭に植わった
先生の泣きそうな淡い笑みには雨の匂いに混ざった梔子の香りが漂っていた。
あれから五年、私はずっと許されない恋をしている。
「お嬢さま、お体がすぐれませんか?」
心配そうな声音に、私は自分がいつの間にかぼんやりとしていたことに気づいた。
「平気よ。まとめかたを考えていたの」
万年筆を握りなおし、手元の原稿用紙にそれらしい言葉を書き連ねていく。
窓
先生が用意した今日の課題は二つ。
月に一度、特別に与えてくださる課題で、私にとっては一番の楽しみでもある。
いつもならば喜々として筆を走らせる私が、今日は窓の外を見て呆けているともなれば、先生が憂慮するのも無理はない。
「ほら、できたわ。確認して頂戴」
私は本当に体調が悪いわけではないと先生へ示すために、わざとらしいほど無邪気を装って先生へ原稿用紙を手渡す。
先生はそれを丁寧に読み、下げていた眉と口角をようやく持ち上げた。
「うん、よくできていますね。考察も素晴らしいです」
私へ原稿用紙を戻して、先生は懐中時計を開く。時刻を確認した先生は顔を上げた。
「今日はここまでにしておきましょうか」
「もう? いつもより一時間も早いわ」
「ですが、きりも良いですし。お嬢さまもあまり無理をしてはいけませんよ」
課題に対する反応から、てっきり先生を説得できたものと思っていた。が、それは思い違いだったらしい。先生はいまだ私を気遣わしげに見つめている。梅雨の時期は特に私が体調を崩しやすいということを知っているからだろう。
「今日は本当に調子が良いのよ」
私がむっと頬を膨らませると、先生は苦笑した。
「お嬢さまのお体は、お嬢さまが思っている以上に繊細なんですよ」
「あら、看護婦になるためにはたくさんの勉強が必要だとおっしゃったのは先生でしょう?」
「体あってこその勉強ですから」
「もう。いくつの頃の話をしているの? 私が心臓移植を受けたのは七つの時だし、お医者さまからお墨付きをいただいて退院したのは十二の時よ。五年も経ってるんだから」
「それは、そうですが……」
先生はいよいよ言葉に詰まり、嘆息混じりに私たちの間に置かれていた分厚い植物学書の
「仕方ありませんね。では、この項目で最後にしましょう」
「ふふ、そうこなくっちゃ」
書かれた蘭語に指を滑らせ、辞書を引き、紙に文字を書き留める。
外に降る雨のことも、咲き誇る梔子のことも忘れて、ただ先生をこの場に引き止めるために私は万年筆を動かした。
その間、先生は難しそうな小説に目を落としていた。
辞書で調べるふりをして、私は時折、先生の横顔を盗み見る。
絹のように艶やかな黒髪が先生の切れ長な目元に影を作っていた。
――綺麗な人。
初めて会った時から先生の印象は変わらない。作られたような美しさであるのに、どこからか家族のような親しみと胸を締め付けるような切なさがこみ上げてくる。
先生の夜空を閉じ込めたような瞳が文章を追って小刻みに揺れる。
あまり見ていると気づかれてしまいそうだと、私も慌てて辞書へ視線を戻した。
――こんなことをしなくても、なんの理由もなく、ずっと傍にいられたら良いのに。
叶わない願いを胸の奥にしまい、私は再び原稿用紙に向き合った。
最後の読点を書き、うんと伸びをする。
「先生」
声をかけると、先生は文庫本を静かに閉じた。
「できましたか?」
「ええ」
原稿用紙を渡す手に少しばかりの緊張が走る。
先生が確認を終えたら、今日の授業は終わりだ。家庭教師の先生が次に来るのは三日後。ここから先生を待つ長い三日が始まると思うと、どうしたって憂鬱な気持ちに苛まれる。
先生はそんな私の気持ちも知らずに原稿用紙を読み込むと、できの良い生徒にそうするみたいに穏やかな笑みを浮かべた。
「こちらもほとんど完璧ですね。僕が教えることがなくて申し訳ないくらいです」
「そんなことないわ。先生のおかげで医学の勉強ができるんだもの」
「お嬢さまは、教材さえあればお一人でも問題ないと思うんですがね」
「でも、私、先生がいないと不安だわ。女学校でも医学のことは教えてもらえないし」
だから、いつまでも先生にいて欲しい。暗にそう伝えたつもりだったが、先生はまるで子供か妹をあやすように目を細めた。
「大丈夫ですよ。お嬢さまはすでに充分立派な志をお持ちですから」
「立派? 幼少の頃に世話になったから、恩返しがしたいって思うのは普通のことでしょう?」
「普通は、病院に世話になることも多くありませんよ。なっても、恩を返さぬ人がほとんどです」
「知ってるように言うのね」
私の返答に、先生は返事をしなかった。
先生は過去の話をしたがらない。個人的な話も。
きっと、今の私との会話に
「……とにかく、先生は家庭教師なんですから。きちんと働いてくださいませ」
因循な気持ちをごまかすように言えば、珍しく先生が笑声を上げた。
「はは、そう言われては返す言葉がありませんね」
くしゃりとした幼い笑みに心が跳ねる。
こういうところがずるいのだ。いつもは十七も年が違うと言って大人ぶるくせに、時々少年のような笑顔を見せる。
「……まったく」
呆れが口から漏れ出た。
これ以上は心臓に悪い。私の場合冗談でなく、それこそ物理的に負荷がかかれば、また体調を崩してしまうかもしれない。
私はなけなしの理性と持ち前の我慢強さを発揮して教材を片付けた。今日はお開きだ。先生が持ってきてくださった植物学書と蘭語の辞書を返却すると、彼は恭しくそれを受け取って鞄にしまう。
「それでは、そろそろ失礼いたします」
先生は長椅子に畳んでかけていた黒い羽織を手に取る。彼がそれを羽織った瞬間、ふわりと梔子の香りが広がった。
甘く、異国情緒を感じさせる独特な香り。私の好きな先生の匂い。
今日何度目か胸が締め付けられる。甘く切ない痛みに慣れることはない。
思わず胸元に手を添えると、
先日、婚約者からもらったものだ。苦い思いが顔を覗かせ、私を現実に引き戻す。
――これは、望んではいけない恋なのよ。
自身に言い聞かせて顔を上げると、身支度の済んだ先生が私を怪訝な顔で見つめていた。
「お嬢さま? やはり体調が……」
「なんでもないわ、行きましょう」
私が看護婦になりたいと願うよりも、もっと叶わない恋。早々に諦めるべきもの。
私と先生はただの家庭教師と生徒なのだ。たとえどんなに先生が私に優しくしてくださり、私が先生を恋しく思っていようとも。
私には婚約者がいるのだから。
雪は次第に強くなった。客間から庭を覗くと、先生が下したばかりの雪がすでに生垣に積もっている。 あっという間に町はまた白く覆われてしまうのだろうと眺めていると、後ろから声がした。「今日は、ここにいてください」 顔を洗ってくるとお手洗いに立った先生が、いつの間にか戻って来ていたらしい。手には急須と新しい茶器が載ったお盆が握られている。私の茶碗が空になったことに気づいていたのだろう。泣いていたのに相変わらず敏い人だ。「良いの?」「ええ。宿まではそう遠くありませんが、この雪の中で帰るのは危険です。じきに、少しも前が見えなくなりますよ」 雪の多い街では良くあることなのだそうだ。先生はすっかり慣れた様子で、私の茶碗を新しいものに交換し、お茶を注いだ。 私としては、カフェーでお茶をすることでさえためらっていた先生が、こんな風に自然と家へ泊まっていくことを提案することに違和感を覚えた。「婚約者さまのことは聞かないの?」 違和感を口にすれば、先生がピクリと反応する。彼は急須を置いて、茶碗を私のほうへ寄せると、改まって私の前へ腰かけた。目元がまだ少し赤くて色っぽいなどと言えば、先生はどんな反応をするだろうか。私ももう子供ではない。先生は、それに気づいているだろうか。 先生はまた顔を隠そうとして、けれど、諦めたようにふっと口角を上げた。「もう、そういうのは辞めにしようかと」「え?」「……実は、僕にも、美羽さんに直接お伝えしたいことがあります」「先生が?」
雪の中、黒い羽織は良く映えた。「先生!」 彼は、庭の生垣に降り積もった雪を落としているところだった。先生はその手を止め、驚いたようにこちらを見つめている。視線は合っているはずなのに、先生はまるで夢幻でも見ているというようで、完全に硬直していた。 生垣からどさりと雪が落ちる。その音で、先生はようやく真正面から私を見つめ返した。「……お嬢さま、ですか?」「もう、お嬢さまじゃないわ」 私が言えば、先生はややあって、雪解けのように顔をほころばせる。あの頃のように少し困ったような、呆れたような、柔らかな笑みだ。「では、僕ももう先生ではありませんよ」「嘘。先生は先生よ。女将さんから聞いたもの。先生って呼ばれてるんでしょう?」「……ああ」 先生にはそれだけでピンと来たようで、宿のある方角を少し恨めしそうに見つめる。だが、やはりそれも少しすると苦笑に変わった。 先生の背格好も、姿も、最後に見たままだと思ったが、三年前に比べるとより穏やかな雰囲気を纏っているような気がする。この街の長閑さがそうさせるのか、あるいは、先生にもなにか変化があったのかもしれない。「立ち話もなんですから、どうぞ中へ」「雪かきは良いの?」「どうせまた降ってきますから。雪に強い品種ですし、多少は大丈夫でしょう」 先生は軽く生垣の上を払って、道具をしまうと玄関先へ回った。玄関から中庭が見え、私はその既視感に足を止める。 縁側と、その向かいにある生垣。砂利の敷かれた枯山水風の庭
汽車が目的地へ着く頃、外はすっかり暗くなっていた。 駅舎に下り立ち、私はその光景に目を見張る。「わぁ……」 一面の雪景色。駅舎についている明かりに照らされて地面はキラキラと白銀に輝いていた。 乗車中は、途中から窓帷を閉じてしまったから気づかなかった。 こんなことなら開けておけばよかったと思いながら、人生初めての雪に恐る恐る足を踏み入れる。サクリと氷が削れるような音がして、足元がじんと冷えていくのがわかった。もっとふわふわとしたものかと思っていたが、意外にも硬い。踏みしめるたびにギュムギュムと雪は沈んで固まり、うっすらと半透明になってまた凍る。「すごいわ、不思議なものね」 吐き出した息は白く、それすらも情緒を感じさせた。 数名の足跡が駅舎の出口に伸びている。雪原では足跡が残るのだということも今日初めて知った。 夜の帳が下りた人気のない駅舎に残る、微かな人の気配。凍てつくような寒さと、踏みしめるたびに響く雪の音。 幻想的な景色を噛みしめながら、私も駅舎の出口へと向かう。 出口に続く二重扉を開けると待合室になっていた。石炭ストーブが我が物顔で鎮座している。寒冷地では暖房機器が駅舎の中にまで普及しているのかと驚きながら、まだ燃えているそれに近づく。ほんのりと暖かな熱が伝わってきて、私は冷えた体を少しだけ暖めることにした。知らない土地で緊張していたのか、寒さのせいか、強張っていた体がほぐれていくのを感じる。 待合室の外へ目をやると、切符の回収箱が置かれているだけだった。すでに駅員の姿はなく、どうやらそこへ切符を入れておけば良いらしい。 朝早くに来なければ、帰りの切符は購入できないだろうと想像する。ま
看護婦養成所を卒業し、看護婦として病院勤めが始まって半年と少しが過ぎた。 養成所の二年はあっという間に過ぎ、病院での時間はもっと一瞬だった。命に関わる仕事ということもあって中々息をつく間もなく、この二年と半年で私はすっかり自立したと言える。 二十歳。私も正式に成人だ。相変わらず虚弱な体質は変わらないが、この体との付き合いかたもわかってきた。少なくとも、女学校時代に比べれば随分と良くなった。今では知恵熱を出しても一日眠れば大抵の場合は翌日回復している。看護婦としての知識も役に立っているのかもしれない。「だから、本当に平気なんですよ。あまりそう心配なさらないで」 私がお父さまにそう言い聞かせると、お父さまはようやく「わかった」と笑みを浮かべた。 今日は、久しぶりの実家帰省だ。心配性な両親が毎週のように「元気にしているか?」「顔を出せ」と手紙をよこすので、月に一度こうして実家へ顔を出すのが私の恒例行事となっている。毎回、病院での仕事や週末の過ごしかた、体調を報告するのがすっかり決まりとなってしまった。 とはいえ、今日の用事はそれだけではなかった。 両親との会話を終えた私は「忘れ物があって」と自室へ向かう。すでに娘は家を出たというのに、部屋をそのままにしてくれているのは両親なりの気遣いだろう。 私は学習机の引き出しを開けた。 そこには、三年前と変わらず一枚の切符が入っている。北の街へ行くための片道切符。「……先生」 本当は、もっと早くに会いに行きたかった。看護婦になったと伝えたかったし、高嶺美羽として、やはり先生が好きだともう一度伝えたかった。 だが、春は養成所の退寮と病院近くの家への引っ越しがあって休みなどなかったし、病院には夏休みもな





