午後9時25分。出張先の地方都市で、私は1人でおでん屋に入った。夕食は取引先との会食で済ませたはずだった。でも、緊張していたせいかほとんど食べられなかった。ホテルへ戻る途中、路地の角に小さな赤提灯を見つけた。〈おでん〉その3文字に負けた。カウンター8席。湯気。だしの匂い。私は端に座り、大根と卵を頼んだ。「辛子つけます?」店主に聞かれる。「少しだけ」そう答えた瞬間。2つ隣から声がした。「まだ辛子苦手なんだ」手が止まった。聞き覚えのある声。でも、そんなはずない。ゆっくり横を見る。黒いジャケット。白いシャツ。少し短くなった髪。目元に、昔はなかった細い皺。それでも分かった。「……先輩?」大学時代、2学年上だった人。サークルで同じだった。そして。私が2年間、片思いしていた人。先輩も驚いた顔をした。「やっぱりそうだ」「なんでここにいるんですか」「出張」「私も」2人とも数秒黙った。それから同時に笑った。「すごい偶然」「ほんとに」店主が大根を置く。私はまだ少し現実についていけない。卒業してから、たぶん12年。SNSでもつながっていない。共通の友人の結婚式で名前を聞いたことはある。でも、会うのは本当に久しぶりだった。「変わった?」私が聞く。先輩は少し私を見る。その視線が昔より長く感じる。「変わった」「どこ?」「大人になった」
Last Updated : 2026-10-11 Read more