All Chapters of ねえ、5分だけ付き合ってーーNight Side: Chapter 21 - Chapter 30

39 Chapters

先輩、覚えてたんですか

午後9時25分。出張先の地方都市で、私は1人でおでん屋に入った。夕食は取引先との会食で済ませたはずだった。でも、緊張していたせいかほとんど食べられなかった。ホテルへ戻る途中、路地の角に小さな赤提灯を見つけた。〈おでん〉その3文字に負けた。カウンター8席。湯気。だしの匂い。私は端に座り、大根と卵を頼んだ。「辛子つけます?」店主に聞かれる。「少しだけ」そう答えた瞬間。2つ隣から声がした。「まだ辛子苦手なんだ」手が止まった。聞き覚えのある声。でも、そんなはずない。ゆっくり横を見る。黒いジャケット。白いシャツ。少し短くなった髪。目元に、昔はなかった細い皺。それでも分かった。「……先輩?」大学時代、2学年上だった人。サークルで同じだった。そして。私が2年間、片思いしていた人。先輩も驚いた顔をした。「やっぱりそうだ」「なんでここにいるんですか」「出張」「私も」2人とも数秒黙った。それから同時に笑った。「すごい偶然」「ほんとに」店主が大根を置く。私はまだ少し現実についていけない。卒業してから、たぶん12年。SNSでもつながっていない。共通の友人の結婚式で名前を聞いたことはある。でも、会うのは本当に久しぶりだった。「変わった?」私が聞く。先輩は少し私を見る。その視線が昔より長く感じる。「変わった」「どこ?」「大人になった」
last updateLast Updated : 2026-10-11
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星は触れないくらいがいい

午後9時15分。川沿いの広場で、小さな星空観察会をやっていた。仕事帰りに通りかかって、足を止めた。望遠鏡が3台。折りたたみ椅子。スタッフらしい人が、順番に星を案内している。雲は少ない。空気は少し冷たい。「見ていきます?」声をかけてきたのは、30代前半くらいの男性。黒いパーカー。首から小さなライト。たぶんスタッフ。「無料ですか?」「無料です」「じゃあ見ます」現金。彼が笑う。「今ちょうど土星見えます」「土星?」急に興味が出る。列に並ぶ。前の人が見終わる。「どうぞ」望遠鏡の前へ。「ここに目を近づけて」言われた通りにする。暗い。何も見えない。「見えない」「もう少し右」私は顔を少し動かす。「そこ」急に、小さな光。輪。「……ほんとに土星?」「はい」「小さい」「距離ありますから」「もっと大きいと思ってた」「望遠鏡の期待値高すぎ」笑う。もう1度見る。輪がある。不思議。「写真みたい」「実物です」「分かってるけど」彼が望遠鏡を少し調整する。私のすぐ横に立つ。「今、少しピント変えました」「もう1回?」「どうぞ」また覗く。今度は少しはっきり。「きれい」「でしょう」彼の声がすぐ横。私は望遠鏡から顔を離す。近い。思った
last updateLast Updated : 2026-10-13
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番号、忘れました

午後10時25分。駅のコインロッカーの前で、私は完全に止まっていた。荷物を預けたのは朝。昼間、少し大きな紙袋を持ち歩くのが邪魔で入れただけ。問題は。「……何番だっけ」ロッカーの番号を覚えていない。しかもスマホで決済したつもりが、履歴の場所も分からない。自分でも嫌になる。ロッカーの前を右へ。左へ。見る。どれも同じ。「困ったねえ」横から声。60代くらいの女性。紺色のコート。大きめのスーツケース。「分かります?」「顔が」「そんなに?」「かなり」恥ずかしい。「番号忘れました」「私も昔やった」「ほんと?」「私はホテルの部屋番号も忘れたことある」急に安心した。「それは上ですね」「でしょう」なぜか得意そう。女性は自分のスーツケースを壁際に置いた。「まずレシートとかないの?」「スマホ決済で」「便利になると紙が消えるねえ」「ほんとに」スマホを開く。アプリ。決済履歴。メール。見つからない。女性が覗き込む。「字小さいね」「老眼?」「失礼ね。まだ軽い」「すみません」2人で笑う。「朝、どのへんに入れた?」聞かれる。「たぶんこの列」「たぶん多いね」その通り。ロッカーを1つずつ見る。小さい。中。大きい。私は大きいロッカーだった気がする。「荷物何?」「紙
last updateLast Updated : 2026-10-14
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赤い灯りの下では、少し近い

午後9時10分。夜の暗室体験に来ていた。駅近くの古い写真店で、月に2回だけ開かれる小さなワークショップ。スマホで何でも撮れる時代に、フィルム写真を自分で焼く。正直、少し面倒そうだった。でも、その面倒さをやってみたくなった。参加者は4人。講師は40代くらいの女性。そして補助をしているのが、30代前半くらいの男性。黒いTシャツ。袖口に少し薬品の跡。「暗室、初めてですか?」彼に聞かれる。「はい」「じゃあ最初、かなり赤いです」「怖い?」「慣れるまでちょっと」説明のあと、照明が落ちた。赤い灯りだけ。急に世界が変わる。さっきまで普通に見えていた人の顔も、輪郭だけになる。「うわ」思わず声が出る。彼が少し笑う。「見えます?」「なんとなく」「足元だけ気をつけて」作業台へ。ネガフィルムを引き伸ばし機にセットする。ピントを合わせる。「ここ、触ってみて」彼がつまみを示す。でも暗くてよく分からない。「どれ?」「この辺」私の手のすぐ横に、彼の手が来る。指先が軽く触れる。「そこ」低い声。赤い灯り。見えにくいぶん、触れた感覚だけが妙にはっきりする。「分かった」「ゆっくり回して」少しずつ。像が紙の上に浮かぶ。「これ?」「そう」「すごい」まだ写真じゃない。でも、輪郭だけで少し嬉しい。印画紙をセットして、露光。次に現像液。ピンセットで紙を入れる。「触らないように」
last updateLast Updated : 2026-10-15
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今夜だけ、昔のままで

午後10時40分。金曜の夜。スマホに、珍しい名前が出た。〈今、駅前にいるんだけど〉大学時代の友達。最後に会ったのは、たぶん4年前。連絡は年に数回。誕生日。年末。たまに「元気?」。それくらい。私はすぐ返した。〈私も近く。どこ?〉5分後。駅前の小さな広場。ベンチの前に彼女が立っていた。昔より髪が短い。眼鏡も変わっている。でも、笑い方は同じ。「久しぶり」「ほんとに」どちらからともなく抱きつくほどではない。でも、少し近く立って、顔を見る。「変わった?」彼女が聞く。「髪」「それだけ?」「ちょっと疲れてる」「そっちも」再会して最初に疲れを指摘し合う。私たちらしい。「何してたの?」「この近くでご飯。友達と別れたところ」「私も帰り」「じゃあ10分だけ?」「いいよ」近くの自販機で温かい飲み物を買う。私はコーンポタージュ。彼女はミルクティー。「まだそれ飲むんだ」彼女が笑う。「昔から?」「冬になると毎回」「覚えてる?」「めちゃくちゃ振って最後のコーン取ろうとしてた」恥ずかしい。「それ高校生みたい」「大学生のときもやってた」昔の自分が急に近くなる。ベンチに座る。缶が熱い。両手で持つ。「結婚した?」いきなり聞かれる。「してない」「彼氏は?」「今はいない」「ほんと?」「何その顔
last updateLast Updated : 2026-10-16
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 息、止めないで

午後8時50分。土曜の夜。私は屋内アーチェリー場にいた。理由は単純。昼に見つけた広告。〈初心者体験 30分〉弓を引くなんて、たぶん今まで一度もない。でも夜なら、少し変なことをしてもいい気がした。受付を済ませる。腕当て。指を守るタブ。弓。思ったより道具が多い。「右利きですか?」声をかけてきたのは30代前半くらいの男性インストラクター。黒いポロシャツ。短い髪。肩幅が少し広い。「右です」「じゃあ左手で弓、右手で弦」「逆じゃないんだ」「最初みんな言います」笑う。的までは近い。初心者用。丸い的の真ん中に黄色。「まず構えてみましょう」弓を持つ。重い。「思ったより重い」「ずっと持つときますよ」「腕に?」「明日」嫌な予告。彼が見本を見せる。足を肩幅。体は横。弓を上げる。弦を引く。静か。一瞬で姿勢が変わる。「格好いい」思わず言う。彼が少し笑った。「仕事なので」「その返し多いね」「よく言われるので」今度は私。足を置く。弓を持つ。「左肩、上げない」「もう?」「かなり上がってます」「緊張してるから」「的に?」「弓に」「僕じゃなく?」急に言う。顔を見る。彼は普通の顔。「そこ聞く?」「すみません。夜なので」また夜を
last updateLast Updated : 2026-10-17
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昔は、こんなに近くなかった

午後9時35分。日曜の夜。私は郊外の駅のホームで、止まったままの電車を見ていた。信号トラブルで、運転再開は20分後。ホームには同じように諦めた顔の人が何人かいる。私はベンチへ座り、バッグから水を出した。そのとき。「……もしかして、真由?」名前を呼ばれて顔を上げる。一瞬、誰か分からなかった。背が高い。黒いコート。髪は昔より短い。でも、笑ったときの目元を見て思い出した。「亮介さん?」高校時代の親友、奈緒のお兄さん。私より4歳上。放課後、奈緒の家へ遊びに行くたびに見かけた人。大学へ進学して家を出るまで、何度も会った。そして。誰にも言わなかったけれど、当時の私はかなり好きだった。「うわ、久しぶり」彼が笑う。「何年ぶり?」「10年以上じゃない?」「そんなに?」「奈緒の結婚式以来かも」「あれ8年前」「じゃあ8年」普通に話しているのに、胸の奥だけ少し落ち着かない。高校生のころ、玄関で「お邪魔します」と言うだけで緊張していた相手。その人が今、私の隣に座った。「帰り?」「うん。そっちは?」「友達とご飯。今帰るところ」電光掲示板を見る。まだ動かない。「最悪ですね」私が言うと、彼が少し笑った。「まだ敬語なんだ」「え?」「昔から俺には敬語だったよね」そうだった。奈緒には何でも言えたのに、亮介さんにはずっと敬語。「だって年上だったから」「今も年上だけど」「4歳なんて今は誤差でしょ」「じゃあやめれば?」急に
last updateLast Updated : 2026-10-18
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今夜は選ばなくていい

午後10時05分。月曜の夜。ドラッグストアの入浴剤コーナーで、私は30秒くらい動けずにいた。柚子。ラベンダー。森林。炭酸。「疲労感に」「温浴タイムに」「ご褒美バスタイム」どれも今の自分に必要そうに見える。でも、今日は薬を買いに来たわけではない。家のシャンプーが切れていた。それだけ。なのに、気づけば入浴剤の前。「決まらない?」隣から声がした。50代くらいの女性。黒いコート。買い物かごの中には、ティッシュ、ヨーグルト、歯磨き粉、チョコレート。生活が全部入っている。「全部効きそうに見えて」私が言うと、女性が笑った。「その時点で疲れてるね」「やっぱり?」「元気なとき、入浴剤に人生変えてもらおうと思わないから」そこまで期待してない。たぶん。女性が棚から濃い紫の袋を1つ取った。「私はこれ」「ラベンダー?」「匂いが好き。それだけ」「効能は?」「読んでない」強い。私は黄色い柚子を手に取る。裏を見る。細かい文字。成分。説明。「また読んでる」女性が言う。「せっかくだから一番いいの選びたい」「お風呂1回分に?」「そう言われると」急に大げさに感じる。彼女が紫の袋を私のかごへ入れた。「じゃあ今日はこれ」「勝手に?」「嫌なら戻して」嫌ではない。むしろ決めてもらって楽になった。「じゃあラベンダーにします」「はい、人生決まりました」「入浴剤だけ
last updateLast Updated : 2026-10-19
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離したほうがいい?

午後9時20分。火曜の夜。私は銀細工のワークショップで、自分の指を見ていた。細いリングを1本作る。それだけの体験。仕事帰りに寄れる夜枠があると知って、勢いで予約した。参加者は私を含めて3人。講師は30代半ばくらいの男性。黒いエプロン。シャツの袖は肘までまくっている。机の上には、細い銀の棒。やすり。小さな金槌。「まずサイズ決めます」彼がリングゲージを持ってくる。たくさんの金属の輪。「どの指にします?」「右手の人差し指」「珍しいですね」「そう?」「薬指が多いので」「誰かにもらう予定ないから」言ってから、余計だったかなと思う。彼は普通に、「じゃあ自分用ですね」と言った。それだけ。少し安心。リングゲージを1つ渡される。入れる。きつい。「抜ける?」「ちょっと待って」引く。抜けない。「あれ」彼が笑う。「無理に引っ張らないで」「入ったのに」「指って関節ありますから」当然。「手、貸してください」右手を出す。彼が私の人差し指を軽く持つ。「力抜いて」「抜いてる」「かなり曲がってます」「取れないから」「大丈夫」彼がリングを少し回しながら、ゆっくり引く。指先。第1関節。第2関節。彼の親指が私の指の横をなぞるように動く。ただ外しているだけ。分かっている。でも、妙に丁寧。「痛い?」
last updateLast Updated : 2026-10-20
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