All Chapters of ねえ、5分だけ付き合ってーーNight Side: Chapter 11 - Chapter 20

39 Chapters

その曲、知ってます?

午後9時40分。小さなジャズライブハウスに入った。理由は、雨。傘はあった。でも、駅まで歩く気になれないくらい強くなった。近くに、〈本日21:30〜 2nd set〉と書かれた看板。30分くらい雨宿り。そのつもりだった。店内は暗い。丸いテーブル。小さなステージ。ピアノ。ベース。サックス。私は一番後ろの空いた席へ。と思ったら。「すみません、そこ相席でもいいですか?」スタッフに聞かれる。小さなテーブル。先客が1人。30代後半くらいの男性。濃い色のシャツ。手元にはウイスキー。彼が軽く会釈する。「どうぞ」「すみません」向かいに座る。演奏が始まる。会話はできない。ピアノの音。ベース。サックス。近い。生の音って、思ったより体に響く。私はホットコーヒーを頼んだ。雨宿りのつもりなのに、少し本気で聴いている。1曲目が終わる。拍手。向かいの彼が少し身を寄せた。「その曲、知ってます?」店内がまだざわついていて、聞こえにくい。「何?」彼がさらに近づく。耳元。「今の曲」低い声。近い。「知らない」私も小声で返す。「有名なの?」「結構」「じゃあ私が知らないだけ」「僕も最近知りました」なんだ。彼が笑う。次の曲。今度は少しゆったり。演奏中、テーブルの下で私の膝が何かに触
last updateLast Updated : 2026-09-30
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粉、ついてますよ

午後8時50分。夜の少人数料理教室。今日のメニューは、手打ちパスタ。我ながら、ずいぶん健全な夜だと思う。参加者は6人。2人1組。そして私は、初対面の男性と同じ台になった。30代前半くらい。黒いTシャツ。エプロン。腕まくり。「よろしくお願いします」「こちらこそ」先生が説明を始める。小麦粉。卵。オリーブオイル。塩。混ぜて、こねて、休ませる。聞くだけなら簡単。実際にやると、手がべたべた。「これ合ってます?」私が聞く。隣の彼が自分の生地を見る。「僕のほうがひどいです」確かに。彼の手には、生地がほぼ全部くっついている。「どうしたらそうなるの」「愛情込めすぎました」「重い」2人で笑う。先生が回ってきて、水分が少し多いと教えてくれた。粉を足す。またこねる。彼が言う。「粉、お願いします」私は少しずつ振る。「もう少し」また。「もう少し」「多くない?」「たぶん」「たぶんで料理しないで」結局、今度は粉っぽくなる。「ほら」「責任取ります」「どうやって?」「食べます」それならいい。生地を休ませる間、ソースを作る。トマト。にんにく。ベーコン。フライパンからいい匂い。私はベーコンを切る。彼はにんにく。「細かいですね」私が言う。「性格出ます」「料理できる人?」
last updateLast Updated : 2026-10-01
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今夜は手だけ、きれいにする

午後9時30分。金曜の夜。私はネイルサロンの椅子に座っていた。予約したのは3日前。理由は単純。手が疲れて見えたから。爪は短い。乾燥している。ささくれも少し。別に誰かに見せる予定はない。でも、1週間ずっと使った手を、今夜くらいきれいにしてもいい気がした。担当は30代後半くらいの女性。淡いグレーのシャツ。髪は低い位置でまとめている。「今日はカラーどうします?」「迷ってます」「仕事向け?」「それもあるけど、今日は自分が見て機嫌いい色」彼女が少し笑う。「いいですね」色見本を並べる。赤。ピンク。ベージュ。グレー。深い青。「派手すぎないけど、地味すぎないの」「その注文、結構難しいです」最近よく言われる。私はくすんだローズを選んだ。「これ」「似合うと思います」「まだ塗ってないのに?」「手の色に」ちゃんと理由がある。まずケア。ぬるま湯。甘皮。爪の形。彼女が私の手を取る。「乾燥してますね」「ですよね」「ハンドクリーム使ってます?」「買ってはあります」「使ってない?」「バッグに入ってます」「一番使われない場所ですね」耳が痛い。彼女は笑いながらオイルを塗る。指先を1本ずつ。親指。人差し指。中指。ゆっくり。「手、結構凝るんですよ」「手も?」「スマホ、パソコン、荷物。意外とずっと働いてます」
last updateLast Updated : 2026-10-02
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閉店まで、あと12分

午後9時48分。閉店12分前の書店に入った。読みたい本があったわけではない。ただ、家に帰る前に少しだけ静かな場所に寄りたかった。夜の書店は昼より人が少ない。レジの音も、ページをめくる音も小さい。私は新刊台をひと回りして、そのまま奥の文庫コーナーへ向かった。一番上の棚に、見覚えのあるタイトル。昔読んだ小説の新装版だった。懐かしい。手を伸ばす。届かない。あと少し。背伸びをした瞬間、後ろから腕が伸びた。「これですか?」低い声。振り返る前に、本が棚から抜かれた。30代半ばくらいの男性。黒い薄手のニット。片手に別の文庫本。「……ありがとうございます」「違った?」「合ってます」本を受け取ろうとする。でも彼は表紙を見て少し止まった。「これ、好きなんですか?」「昔読んだことがあって」「僕も」「ほんと?」「かなり前ですけど」急に少し嬉しくなる。知らない人と同じ本を読んでいた。それだけ。「どこが好きでした?」聞かれて困る。内容は覚えている。でも細かいところはかなり忘れている。「最後のほう」「ざっくり」「昔だから」「僕も人のこと言えないです」彼が笑う。閉店を知らせるアナウンスが流れた。〈閉店まであと10分です〉「急かされてる」私が言う。「じゃあ10分だけ本の話します?」「ここで?」「静かに」変な提案。でも、悪くない。2人で棚の前に立ったまま、昔読んだ本の
last updateLast Updated : 2026-10-04
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今夜は湯気の向こうで

午後10時35分。月曜の夜。駅から少し外れた路地に、小さなラーメン屋があった。普段なら入らない。夜10時を過ぎてラーメン。胃がどうとか、明日の顔がどうとか、いろいろ考える。でも今日は、もう考えるのをやめたかった。暖簾をくぐる。カウンター7席。先客は女性が1人だけ。店主も女性。60代くらい。白いTシャツに黒い前掛け。「いらっしゃい」メニューを見る。醤油。塩。味噌。「一番軽いのどれですか?」店主が私を見る。「軽いもの食べたいなら、ラーメン屋来ないほうがいいよ」正しい。隣の女性が吹き出した。30代後半くらい。髪をひとつにまとめている。「私もそれ聞きました」「何頼んだんですか?」「味噌」全然軽くない。「じゃあ私、塩で」「味玉つける?」店主。「迷う」「明日に回せないよ」「味玉を?」「今日作ったやつだから」妙に説得力がある。「じゃあつけます」「はい」注文が決まった。店主が麺をゆでる。湯気。鍋の音。スープの匂い。カウンターに座っただけで、少し力が抜ける。隣の女性の味噌ラーメンが先に来た。「おいしそう」私が言う。「もう変更遅いですよ」「一口ほしい」「知らない人に?」「言ってみただけ」2人で笑う。店主が横から言う。「塩もすぐ出るから我慢しな」母親みたい。数分後。塩ラーメン。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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そのまま振り切って

午後9時30分。仕事帰りでも、家にまっすぐ帰る気分じゃない夜がある。今日はそれだった。駅から少し離れたゴルフ練習場の明かりが見えて、私はふらっと入った。ゴルフ経験。ほぼなし。昔、友達に1回だけ連れていってもらった程度。なのに、受付でクラブを借りた。夜の打席は思ったより静かだった。遠くまで続く緑のネット。照明。ボールが当たる音。カン。パシッ。私は一番端の打席へ。ボールを置く。構える。振る。空振り。「……うそ」もう1回。今度はボールの上をかすめただけ。ころころ。目の前2メートル。「かわいい距離ですね」隣から声がした。見る。30代半ばくらいの男性。黒いポロシャツ。腕まくり。手袋は片手だけ。「見てた?」「ちょっと」「忘れてください」「難しいです」彼は笑った。「初心者?」「ほぼ」「じゃあ仕方ない」「そっちは?」「たまに」見るからにたまに以上。「教えてくれる?」言ってから、自分でも少し意外だった。彼は一瞬こちらを見る。「僕でよければ」まず握り方。「左手、もう少し上」彼が自分のクラブで見本を見せる。「こう?」「違う」「難しい」「じゃあ手、見せて」私はクラブを持ったまま左手を出す。彼がグリップの上で私の指の位置を直す。人差し指。中指。親指。
last updateLast Updated : 2026-10-06
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水、こっち飛ばさないで

午後9時55分。セルフ洗車場に来ていた。こんな時間に何をしているんだろう。自分でも思う。週末に借りていた姉の車を返す前に、少しくらいきれいにしておこうと思った。それだけ。でも高圧洗浄機を持った瞬間、ちょっと後悔した。「これ、どうやるの?」説明書を見る。ボタン。レバー。ノズル。分かるようで分からない。隣の洗車スペースでは、男性が慣れた手つきで黒い車を洗っていた。30代前半くらい。グレーのTシャツ。黒いパンツ。腕まくり。水が飛ぶたび、袖のあたりが少し濡れている。見ていたら目が合った。「初めてですか?」「そんなに分かる?」「機械持って3分止まってるので」恥ずかしい。「これ、押せばいい?」「最初にコース選びました?」「……まだ」彼が少し笑う。「そこからです」教えてもらう。水洗い。泡。すすぎ。私は一番簡単なコースを選んだ。「ノズル、両手で持ったほうがいいですよ」「そんなに強い?」「結構」彼が自分の場所へ戻る。私はレバーを握る。次の瞬間。ものすごい勢いで水が出た。「うわ!」反動で腕が上がる。水が車ではなく、斜め横へ。隣のスペースへ少しかかった。「ごめんなさい!」彼が避ける。でもTシャツの肩に水滴。「水、こっち飛ばさないでください」笑いながら言う。「ほんとにごめん」「大丈夫です」私は今度こそ車へ向ける。水。
last updateLast Updated : 2026-10-07
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ポテトは残していい

午後10時50分。家に帰る前に、ファミレスへ入った。お腹が空いていたわけではない。家に帰ってすぐ寝るのも、なんとなくもったいなかった。夜のファミレスは不思議だ。1人で本を読む人。パソコンを開いている人。学生。家族。みんな同じ明るい店内にいるのに、それぞれ別の夜を過ごしている。私は窓際の2人席へ。メニューを見る。温かいスープ。小さなサラダ。ポテト。デザート。「ポテトだけでもいいかな」独り言。隣の席から声がした。「いいと思います」見ると、40代くらいの女性が1人で座っていた。髪は肩くらい。テーブルには、コーヒーと大きなパフェ。「聞こえました?」「かなり」恥ずかしい。「でもポテトだけって夕飯になる?」女性がパフェを指す。「私はこれが夕飯みたいなものだから、人のこと言えない」「強いですね」「木曜だから」また曜日が便利に使われている。私は結局、ポテトとコーンスープを頼んだ。「バランスいい」隣の女性が言う。「そうかな」「黄色と黄色」「色の話?」2人で笑う。注文が来るまで、彼女はパフェを食べる。私はスマホを見ようとして、やめた。何となく、今日は画面を見たくなかった。「疲れてます?」女性が聞く。「顔に出てる?」「スマホ開いて3秒で閉じる人はだいたい疲れてる」「そんな統計ある?」「今作った」適当。ポテトが来た。細いタイプ。熱い。1本。塩。
last updateLast Updated : 2026-10-08
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もう1往復だけ

午後10時05分。金曜の夜。私はスポーツクラブのプールにいた。泳ぐためというより、1週間を水に沈めるため。そんな気分だった。夜のプールは静かだ。昼間より人も少ない。水の音。天井の照明。少し湿った空気。私はゆっくり25メートル泳いで、壁につかまった。息を整える。「久しぶりですか?」隣のレーンから声。30代前半くらいの男性。黒いスイムキャップ。肩まで水に浸かっている。「そんなに分かる?」「最初の5メートルだけ速くて、そのあと急にゆっくりだったので」見られていた。「ペース配分失敗しただけ」「それを久しぶりって言うんじゃないですか?」少し笑う。彼は見るからに泳ぎ慣れている。「そっちは?」「週2くらい」「じゃあ聞く相手間違えた」「何を?」「疲れずに泳ぐ方法」「ゆっくり泳ぐ」「それだけ?」「だいたい」役に立つような立たないような。私はもう1往復。今度は意識してゆっくり。戻る。「どう?」彼が聞く。「さっきより楽」「でしょう」「得意そう」「今だけ」プールサイドの時計を見る。あと20分で終了。私は壁につかまりながら、肩を回した。少し張っている。彼が言う。「肩、痛い?」「ちょっと」「泳ぐ前、ちゃんと回しました?」「軽く」「軽すぎたんじゃないですか」「先生?」「違います」彼は水から上がり、プールサイドに腰掛ける。水滴が
last updateLast Updated : 2026-10-09
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その指、まだ使えます?

午後8時35分。土曜の夜。私はボルダリングジムの壁を見上げていた。高い。思っていたより、ずっと高い。カラフルな突起が壁いっぱいについている。赤。青。黄色。緑。簡単そうに登っている人を見ると、自分にもできそうな気がする。たぶん、その考えが間違いだった。初心者説明を受けて、少しきつめのシューズを借りる。私は一番簡単なコースへ。最初のホールド。右手。左手。足。もう1つ上。そこまではよかった。次。手が届かない。「無理」壁に張りついたまま止まる。下から声。「右足、もう1個上です」誰?見る余裕はない。「どれ?」「青い丸の右」「青いっぱいある」「あなたの膝の横」30代前半くらいの男性が、下から見ていた。黒いTシャツ。腕には白いチョークの跡。かなり慣れていそう。「そこ」言われた場所へ右足を上げる。急に体が少し高くなる。「あ、いける」「次、左手」伸ばす。届く。「すごい」「まだ半分です」現実を言わないで。あと数個。最後のホールドへ手が届く。両手で触る。「できた!」下から拍手。「そのまま降りるか、飛んで」「飛ぶ?」怖い。私は慎重に下りることにした。最後の1メートルで諦めて、マットへ。着地。少しよろける。彼が半歩近づく。「大丈夫?」「大丈夫」
last updateLast Updated : 2026-10-10
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