All Chapters of 慰謝料が十億?私は一万円しか貰ってないけど: Chapter 1 - Chapter 10

22 Chapters

第1話

昼休み。お腹を空かせた奈々美は、食べ残された唐揚げを見つけると、小さな手を伸ばした。「奈々美!」私は慌てて、その手を引き戻す。「前も言ったでしょう。人が残したものは食べちゃだめだって」奈々美はしょんぼりしながらも、目だけは唐揚げから離れない。「でも、お皿に残ってるだけだよ。まだゴミ箱には入ってないもん。奈々美、食べられるよ」胸の奥が、きゅっと痛んだ。私は慌てて、朝残しておいた半分のパンを出し、奈々美に渡した。その時、背後から聞き覚えのある声が落ちてきた。「……あずさ?」全身が強張った。ゆっくり振り返ると、食堂の入口には、院長や記者たちに囲まれた裕翔が立っていた。5年ぶりに見るその姿は、昔と何も変わっていない。仕立てのいいスーツに、隙のない身なり。袖口で光るカフスボタンひとつでさえ、奈々美に唐揚げを10年食べさせられそうなほど高価に見えた。そんな裕翔の視線が、私の制服へと落ちる。何度も洗濯を繰り返して、すっかり色褪せた服。そして、その隣にいる奈々美の手元へ。半分のパンを握りしめた、小さな手。裕翔の顔から、少しずつ表情が消えていった。「……どうしてここに?」私は表情を変えないまま、パンを奈々美の手から受け取り、バッグへ戻した。「病院は人手が足りないから。私は、お金が必要だったから」淡々と答えると、裕翔が眉を寄せる。「離婚の時、俺が振り込んだ10億は?」「……10億?」思わず聞き返した。その瞬間、裕翔の後ろにいた由梨の顔が、さっと青ざめた。裕翔は私を見据えたまま、低い声で続ける。「お前は金を受け取って、中絶同意書にもサインした。なのに、由梨から聞いた話では――『10億じゃ足りない。海外へ行って、別の男と結婚する』と言っていたそうだな」私は堪えきれずに笑いが漏れる。「藤田社長、あなたの秘書が私に渡したのは、1万円だけだったよ。中絶がうまくいかなくて、運が悪かったら、私も奈々美も死んでいたんだよ」裕翔の視線が、私から奈々美へ移る。奈々美は、突然向けられた鋭い視線に怯えたように、私の脚をぎゅっと抱きついた。そして、私の後ろに隠れながら、そっと顔を出す。「ママ……この人が、ママが死んだって言ってた、ケチなパパなの?」その場に、しんと静寂が落ちた。裕翔
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第2話

検査結果が出ると、医師は私だけを診察室へ呼んだ。「お子さんは血液を固める力がかなり弱く、血小板の数値にも異常があります。入院して、さらに詳しい検査を受ける必要があります。退院までかかる費用はまだ分かりませんが、ひとまず400万を用意したほうがいいでしょう。今後、手術が必要になれば、費用はさらにかかるかと」私は検査結果の用紙を握りしめたまま、しばらく口を開けなかった。「……支払い期限はいつですか?」「3日後です」私は手元にあった貯金をすべて引き出し、さらに医療費の支援制度にも申請した。昼間は食堂で働き、夜は付き添いの仕事をする。1日の睡眠時間は、たったの3時間ほどだった。翌日の明け方。年寄りの患者の介護をしていた時、廊下の端に裕翔が立っているのが見えた。眉間に皺を寄せた裕翔は、私の腕をつかむと、そのまま廊下へ引っ張り出した。「……俺に見せつけるために、こんなことをしてるのか?」「……離して。まだ仕事中なの」「あずさ、実の娘が危ないのに、俺が何もしないわけがないだろう?どうして俺に頼ろうとしない?まさか、同情を引いて、俺のほうから必要以上の金額を提示させようとしているんじゃないだろうな?」そう言って、裕翔は1枚の書類を差し出した。「治療費は俺が出す。ただし、お前には金を渡さない。由梨がすべての支出を確認する。必要な検査や治療にかかる費用は俺が負担する。必要のない薬は、自分で払え。それから、お前と奈々美の食費も、一日合わせて2千円までだ。それを超えた分は出さないし、余った分を勝手に引き出すことも認めない」私は書類をめくり、最後のページに目を止めた。管理責任者のところに、「遠藤由梨」という名前が書かれている。私はその書類を裕翔に返した。「遠藤さんは医師免許すら持ってないのに、どうして娘に何の薬を使うかまで、決める権利があるの?」裕翔は苛立ったように眉をひそめた。「由梨はお金を管理するだけだ。医師が必要だと言ったものなら、当然認める」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、エレベーターの扉が開いた。姿を現した由梨は、見るからに高級そうなドレスを身にまとっていた。そのドレスを見せつけるように、彼女は私を一瞥してから、裕翔を見た。「社長、今夜のパーティー用のジュエリーが届きました。ドレスとアク
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第3話

5歳の奈々美は、ひどく痩せ細っていた。腕の太さは、大人の手首ほどしかない。それでも、私を守ろうと必死になっていた。裕翔がしゃがみ込み、奈々美に近づこうとする。「奈々美、俺はパパだ。悪い人じゃない」「奈々美にパパなんかいない!」奈々美は顔を真っ赤にして叫んだ。裕翔が一瞬、言葉を失う。その隙に、由梨が慌てて近づいてきた。「あずささん……お金のことを理由に、娘さんに実の父親を知らせないなんて、さすがにひどすぎますよ」裕翔はゆっくり立ち上がった。その視線は再び冷えていく。「……あずさ。こんなやり方で俺から金を引き出せると思ったなら、当てが外れたな」私はもう、彼らと話す気になれなかった。奈々美の手を引き、痛みを我慢しながら医師を探した。掌の傷は、7針も縫うことになった。医師は傷口を縫い終えると、麻酔がまだ切れていないうちに私を廊下へ呼び出した。「お子さんの今後の検査についてですが、骨髄穿刺や遺伝子検査が必要になりそうです。入院費や薬代もあるので、この間お伝えした400万は、なるべく早く用意しておいてください」――400万。今、口座に残っているお金は、2万にも満たなかった。病室の前では、裕翔が待っていた。手には、先ほどの書類を持っている。「費用は俺が直接、病院に払う。お前が心配しなくていい」そう言ってから、裕翔は一拍置いた。「ただし、支出は全部由梨に確認させる」「……あの人に、娘の生死を委ねるっていうの?」「由梨は俺の代わりに金の流れを確認するだけだ。治療を口実に、お前が必要以上の金を請求しないようにな」私は書類に記された由梨の名前を見つめた。ふと、笑いが込み上げてくる。5年前、由梨は私に何も知らせずに、10億円を横取りした。そして5年後、今度は、娘の命をつなぐためのお金まで、由梨が管理するという。「……サインしない」裕翔は何の感情も見せず、書類をカバンにしまった。まるで、大したことのない取引を打ち切るような、淡々とした口調だった。「なら、自分でなんとかしろ」それだけ言い残し、裕翔は立ち去った。その後、私は持ち物を一つずつ確かめた。今の私が持っているもので、一番価値があるのは――1つの指輪だけだった。指輪はひどく古びていた。ダイヤモンドだって、米粒ほどの大きさしかない。
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第4話

翌朝、目が覚めると、看護師たちから異様な視線を感じた。病室の外には、スマホを手にした人たちがひしめいている。何人もの配信者が廊下を塞ぎ、私と奈々美に向けて、ひっきりなしにカメラを回していた。「あいつ、中絶の費用と慰謝料として10億も受け取ったのに、こっそり子どもを産んだんだよ」「10億を5年で使い果たして、病気の娘を連れて資産家の元夫に金をせびってるらしいよ」「昨日なんて、結婚指輪まで売ったんだろ?それで同情を誘って、まだお金を出させようとしたって話だ」私はSNSを確認すると、ようやく状況を理解した。昨日の深夜、由梨が長文の投稿を公開していた。そこには、10億円の振込記録、海外不動産の購入履歴、ブランド品の購入明細などが添えられ、さらに、私が買取専門店で結婚指輪を売る様子を撮影した動画まで載せられていた。けれど、その動画からは――裕翔が200万を払って指輪を買い戻しても、私には1円たりとも渡さなかったことがきれいに切り取られていた。映像に残っているのは、私がカウンターの前で指輪を査定してもらっている場面。そして、私が去った直後、険しい顔をした裕翔が店へ乗り込んだ場面だけだった。由梨は投稿の最後に、こう書いていた。【藤田社長は、お子さんに必要な治療費であれば、すべて負担する意思があります。それにもかかわらず、あずささんは支出の管理を拒み、現金を直接渡すよう要求しています。さらには結婚指輪を売却し、病気のお子さんまで利用して、藤田社長に罪悪感を抱かせようとしているのです】コメント欄は、すっかり炎上していた。【子どもまで利用して同情を引こうとするなんて、最低】【こんな親に育てられる子どももかわいそう】病院名だけでなく、病棟や病室まで特定されていた。配信機材を抱えた人たちが次々と押しかけ、まるで見世物でも眺めるように、私たちのいる病室を覗き込んでいる。私は看護師に頼んで警察を呼んでもらった。けれど、人の波はなかなか収まらない。そのうちの一人が、奈々美の前にスマホを突きつけた。「ねえ、お嬢ちゃん、君のママに、病気のふりをしてパパからお金をもらおうって言われたの?」奈々美が怯えて、私の胸へ身体を縮める。私はすぐに奈々美の顔を手で覆った。「この子はまだ5歳ですよ。カメラを向けないで!」とこ
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第5話

裕翔は2枚目の画像を開いた。それは、5年前、あずさが救急搬送された時の記録だった。薬を飲んだあと大量に出血し、病院へ運ばれたあずさは、すでにショック状態に陥っていた。その際にかかった費用は35万2千円。その支払いをしたのは、裕翔が手配した弁護士でも、藤田グループの経理でもなく、あずさの大学時代の友人・佐藤陽菜(さとう ひな)だった。その画像と一緒に、買取専門店の記録や借用書、そして過去5年間の銀行口座の取引明細まで並んでいた。最も金額の高い入金は、奈々美を出産したあとに受け取った40万円の出産育児給付金。――10億円を受け取った形跡など、どこにもなかった。配信のコメント欄は騒然としていた。【10億も受け取ったなら、どうして自分の治療費すら人に出してもらってるんだ?】【森下さんは海外で不動産を買ったって、遠藤さんが言ってたよね?出入国の記録はどうなってる?】【藤田グループの秘書が、偽造された資料をネットにあげてたってこと?ちゃんと説明してくれよ】スタッフが慌ててコメント欄を閉鎖した。由梨は青ざめていたが、すぐに冷静さを取り戻した。「1万円は、私が立て替えた医療費です。あの10億円は、あずささんが持っている別の口座に振り込みました。必要な手続きも、彼女自身の署名も残っています。あの人がそのお金をどう使ったのかなんて、私が全部把握しているわけではありません」いつものように、もっともらしい説明だったが、裕翔はそれを鵜呑みにはしなかった。「5年前の振り込み記録を見せろ」「それは……難しいかもしれません。もう5年も前のことですから、記録が残っているとは――」「今すぐだ」スタッフがすぐに銀行と経理部へ連絡を入れた。一方、裕翔は5年前にあずさが運ばれた病院へ電話をかけた。当時の記録を確認した医師は、こう答えた。「患者さんが運ばれてきたとき、付き添っていたご家族はいませんでした。本人は何度も『赤ちゃんを守ってほしい』と話していました。ただ、自分が何の薬を飲まされたのか分からない、とも言っていました」裕翔はスマホを握ったまま、しばらく声が出なかった。ずっと、あずさが中絶に同意し、そのうえ金を受け取ったのだと思っていた。だが、もし彼女が中絶を望んでいなかったのなら、10億はどこへ消えた?3
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第6話

裕翔が会社へ戻る頃には、銀行から5年前の振り込み記録が届いていた。口座の名義は、確かにあずさの名前だが、登録されていた電話番号は、5年前に由梨が使っていたものだった。10億が振り込まれたその日から、金は次々と別の口座へ移されていった。4億円は海外の不動産会社へ。2600万は金融商品の運用に。残りは3つのペーパーカンパニーへ、何度にも分けて送金されていた。そして、あずさが購入したことになっていた高級車や宝飾品、ブランド品。その受取人は、すべて由梨とその母親・遠藤美江(えんどう よしえ)になっていた。昨夜のチャリティー配信で由梨が着ていたドレスでさえ、関連口座から支払われている。由梨はそれらの取引明細をざっと確認すると、必死に平静を装った。「私は、あずささんの代わりにお金を保管していただけです。当時の彼女、精神的にかなり不安定だったので、無駄遣いをしないよう、私が代わりに管理していました」「誰がそうしろと言った?」「……社長ご自身が、私にすべて任せるとおっしゃったじゃないですか」裕翔が由梨を見る。由梨の目に、たちまち涙が浮かんだ。「社長……私は社長のために、今まで頑張ってきたんです。そもそも、あずささんには10億円なんて受け取る資格がありません。それなのに、まさかあずささんはお金を全部使い切った挙げ句、私に罪をかぶるなんて……」そのとき、会議室の扉が開いた。すでに定年退職していた元経理担当者が入ってくる。そして、1枚の書類を机の上へ置いた。「5年前、遠藤さんから、この振込記録の原本を処分するよう頼まれました。規定に反すると思ったので、念のためコピーだけ手元に残しておいたんです」その記録から、裕翔は自分の口座から10億円が送金されたことは確認できた。けれど、その金が振込先の口座へ入ったあと――あずさが実際に使っていた痕跡は一度もなかった。さらに銀行側は、当時の窓口付近の防犯カメラ映像も復元していた。映像に映っていたのは、マスクで顔を隠した由梨だった。送金用の委任状を提示したうえ、金が由梨の管理する会社へ送金されている。そこまで見届けた由梨が観念したのか、身を翻し、会議室を出ようとする。だが、扉の前にはすでに警備員が立っていた。「こんなもの、いくらでも偽造できます!」由梨は声を荒らげた。「あ
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第7話

由梨は数秒黙り込んだあと、突然、泣き出した。「お金なら、まだ残っています。全部、あずささんに返せます。ただ……あずささんがお金を持って逃げてしまうのが怖かったんです」裕翔は、由梨を冷たく見下ろした。「……あいつは、金がなかったせいで死にかけたんだぞ!」「それは……事故だったんです!」「じゃあ、奈々美が治療を受ける金がないのも、事故なのか?」「いや、それは……」由梨がすがるように手を伸ばす。けれど、裕翔は一歩身を引き、その手をかわした。ほどなくして、警察が到着した。由梨のパソコンや口座関係の資料が押収され、証拠として確保された。連行される直前まで、由梨は「全部社長のため」だと、声を張り上げていた。けれど、裕翔は一度も振り返らなかった。……その日の午後、私は診察室を出たところで、廊下の端に立つ裕翔を見つけた。裕翔は手にしていた書類の束を、私へ差し出した。「由梨の口座は凍結した。取り戻せる金は、すべてお前に返す。奈々美のこれからの治療費も、俺が全部負担する。もう誰にも金の管理を任せない」私は、書類を受け取らなかった。「……全部、分かったの?」裕翔の手が、宙で止まる。「ああ。10億円は、1円もお前の手に渡っていなかった……悪かった」私は裕翔を見つめた。その顔を見ていると、病院で「母親失格だ」と言われたときのことを思い出す。あのとき、奈々美は血を流していた。それでも裕翔は、私の言葉には耳を貸さず、偽造された書類だけを信じた。「もし、あの1万円の振込記録がなかったら……あなたは今も、私が頭を下げるのを待っていたの?」裕翔の唇が、かすかに動く。けれど、答えは返ってこなかった。「奈々美は、医療支援を受けられることになった。私も弁護士に頼んで、嘘の情報を流した人たちを訴える準備をしている。だから、あなたのお金は、もう必要ない」病室では、奈々美がガラス越しに裕翔の姿を見つけていた。看護師の服の裾をそっとつかみ、小さな声で尋ねる。「……あの人が、奈々美を捨てて、ママが嘘ついてるって言ったおじさん?」裕翔の顔から、一瞬にして血の気が引いた。一歩、奈々美のほうへ踏み出す。けれど奈々美は、すぐに看護師の背中へ隠れてしまった。そのとき、警察がやって来た。私に、復元された録音データを渡し
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第8話

警察は、録音データが入っているスマホを机の上に置き、再生を続けた。5年前、由梨は執務室で、私のことを二度、裕翔に報告していた。一度目は、私が中絶を拒み、自分から裕翔に事情を説明したいと言っていることを伝えたときだ。そのとき、裕翔は会議中だった。「慰謝料は示談書どおりに支払え」裕翔が出した指示は、それだけだった。二度目は、私が大量出血で病院へ運ばれたあと。由梨は裕翔に、中絶がうまくいかず、しばらく入院が必要になるかもしれないことを伝えていた。裕翔は数秒黙ったあと、「騒ぎを起こさせないよう、弁護士に連絡しろ」と、そう指示した。――最初から最後まで、裕翔は私の体調について何も聞かなかった。お腹の子が生きているのかどうかさえ、一度も尋ねなかった。録音が終わる。沈黙の中、私の弁護士が調停の申し立てについて、私の意見を聞いた。由梨は、まだ使っていない金をすべて返し、さらに6000万円を支払う意思を示している。その代わり、私が示談書に宥恕文言を記載し、書類の偽造や傷害については、これ以上追及しないと約束してほしい。私は迷わず答えた。「調停はしません」警察官が静かに説明する。「一部の資産は海外へ移されています。すべてを取り戻すには時間がかかるでしょう。調停をすれば、少なくとも一部は早く受け取れます」「それなら、時間をかけて追えばいいです」私は向こうにいる由梨へ目を向けた。「お金は、全部取り戻します。罪も、きちんと償ってもらいます」ガラス越しに、由梨が私を睨みつけている。今この瞬間になっても――5年前の手術が、それほど重大なことだとは思っていないのだろう。私が死ななかったのは、ただ運がよかっただけ。奈々美もまた、生まれるはずのなかった子ども。彼女が本当に残念に思っているのは、凍結された不動産と資産だけだ。廊下の向こうには、裕翔が立っていた。弁護士が私に財産譲渡に関する書類を持ってきた。裕翔が10億を用意すると言っているらしい。由梨から取り戻した金については、後から裕翔のもとへ戻せばいいという話だった。私は、書類を開こうともしなかった。「そのお金は、もう事件の対象になっているんでしょう。どう処理するかは、裁判所に決めてもらいます」「奈々美の治療には金が必要だろ?」「病院の医療
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第9話

翌日。ネット上の空気は、すっかり変わっていた。かつて私を「子どもを利用して金をせびっている」と叩いていた人たちは、今度は由梨に説明を求め始めた。藤田グループ子ども医療基金の公式アカウントにも批判が殺到し、コメント欄は閉鎖された。提携していた病院も次々と藤田グループに対し、5年前の資金の流れを公表すること、そして今回、奈々美の診療情報を誰が外部に流出させたのかを明らかにするよう求めた。そんな中、最初に私のところへやって来たのは、あの日、奈々美にカメラを突きつけた配信者だった。彼は病室の前まで見舞いの品を抱えてやって来た。後ろには、撮影スタッフまでついている。「森下さん。この間は、偽造された書類に騙されて、大変失礼なことをしてしまいました。本当に申し訳ございません。でも、僕も騙されただけなんです。だから……僕のことも被害者だったと、みんなに説明してもらえませんか?」私は看護師に目を向けた。「警備の方を呼んでください」配信者は慌てて私に迫った。「待ってください!僕、もう何十万人もフォロワーを失ったんです。アカウントも停止されそうで……あなたが一言言ってくれれば済む話です。謝罪もしましたし、もう見逃してくれませんか?」私は彼を見た。「あなたが、鼻血を出している5歳の子にカメラを向けたとき、彼女の気持ちを少しでも考えました?」「……僕は普通に取材をしただけです!」「奈々美が嫌だと言ったのに、あなたは追いかけて撮り続けました。それを取材とは言わないでしょう」私はスマホを取り出し、あの日の動画を再生した。画面の中では、奈々美が壁際に追い詰められていた。泣きながら、「ママを撮らないで」と訴えている。それでも配信者はカメラを止めなかった。それどころか、「病気のふりをしてるんじゃないの?」と問い詰めた。その直後、奈々美は救急処置室へ運ばれた。動画を見つめる配信者の顔から、みるみる血の気が引いていく。「……僕のこと、こっそり撮ってたんですか?」「これは病院の防犯カメラの映像です。すでに警察に提出しています。あなたたちが奈々美の診療記録や名前、病室まで公開したことで、この子の病状が悪化しました。その責任をどう取るべきかは、裁判所に決めてもらいます」ほどなくして警備員がやって来て、配信者の男を連れていった
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第10話

骨髄検査は、午前中に行われることになった。奈々美は穿刺針を見た途端、顔からさっと血の気が引いた。それでも、泣いたり騒いだりはしなかった。ただ、私の手をぎゅっと握って尋ねる。「ママ。これが終わったら、おうちに帰れる?」「それはまだ分からないけど、検査が終われば、先生がどう治していけばいいのか分かるからね」「分かった。じゃあ、怖くないよ」そう言った奈々美の指は、ずっと小刻みに震えていた。私は奈々美と一緒に処置室へ入り、麻酔が効くまで、その手を握り続けた。扉が閉まった瞬間、膝から力が抜けそうになった。私は壁に手をつき、その場でじっと待った。2時間後、医師から検査結果を聞かされた。白血病や、生まれつきの悪性血液疾患の可能性は、ほぼないという。最終的な診断は、免疫性血小板減少症が疑われるとのことだった。「症状は比較的重いですが、治療法がないわけではありません。まずは免疫グロブリンとステロイドで症状を抑え、反応を見ながら、その後の薬を調整していきます。きちんと治療を続ければ、多くの患者さんは回復できます」何日も張り詰めていた心が、ようやく少しだけ緩んだ。「手術は必要ですか?」「今のところ、その必要はありません。ただ、治療は長期にわたる可能性があります。感染症には十分注意して、転倒や衝突、激しい運動も避けてください」医療支援で、薬代の大部分はまかなえることになった。残りの費用についても、分割で支払えるという。私は必要な書類に署名を済ませた。その時、看護師が近づき、奈々美をもっとも設備の整った私立病院へ転院させたいという申し出が来ていると言った。それは誰の申し出なのか、聞かなくても、すぐに分かった。裕翔は、医局で私を待っていた。机の上には、私立病院への転院に必要な書類が揃えられている。個室も、専門医による診察も、専属の看護体制も、すでに手配済みらしい。「向こうのほうが、設備も環境もいい」私は椅子に座らなかった。「奈々美は転院させない」「今の病室は4人部屋だ。薬も、申請して順番を待たなきゃならない」「ここの先生が奈々美を助けてくれたの」「医師を疑っているわけじゃない。ただ、もっといい環境で治療を受けさせたいだけだ」「あなたの言う『もっといい環境』って――また、あなたが正しいと思
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