Mag-log in私の名前は森下あずさ(もりした あずさ)。 妊娠3ヶ月の頃、夫の藤田裕翔(ふじた ゆうと)は「妊娠すると夫婦生活に影響が出るから」と言い、幼なじみでもある秘書・遠藤由梨(えんどう ゆり)を通して、私に1万円を渡し、中絶するよう迫った。 私は中絶を拒み、署名済みの離婚届を残し、裕翔の前から姿を消した。 それから5年。 裕翔と再会したのは、市立こども病院だった。 彼はその日、病院に60億円もの寄付をしたらしい。 一方私は、娘・奈々美(ななみ)の面倒を見ながら、病院の食堂で働いていた。
view more1年後、奈々美の体調は、ようやく安定した。定期検査の日、新しい制服を着た奈々美は、病院に着くなり、顔なじみの医師や看護師たちに元気よく挨拶して回った。血小板の数値は正常に戻り、薬も少しずつ減らしていけるという。医師が奈々美の頭を撫でる。「これからは普通に学校へ通って大丈夫。でも、運動するときは気をつけてね。転んだりしないように」「はい!」奈々美は真剣な顔で頷いた。診察室を出ると、奈々美が言った。「ママ、病院の食堂で唐揚げが食べたい!」病院の食堂は改装され、テーブルも椅子も明るい色に替わっている。私は唐揚げ定食を注文した。お皿には、唐揚げがいっぱい乗っている。奈々美が席につくと、隣のテーブルにいた男の子が、奈々美の皿をじっと見つめて、ごくりと唾を飲み込んだ。男の子の母親はポケットの中を何度も探った。けれど、小銭が少ししか出なかった。結局、買えたのはおにぎりだけだった。奈々美は、唐揚げに手をつけなかった。席を立つと、もう1つ唐揚げ定食を注文して戻ってくる。そして、トレーを男の子の前に差し出した。「よかったら、どうぞ」男の子の母親が慌てて首を振った。「いえいえ……今手持ちがなくて、お返しできるものが……」奈々美は振り返り、私を見た。「ママがね、人を助けてもいいけど、お返しを求めちゃダメだって言ってた」女性の目に、みるみる涙が浮かんだ。何度も頭を下げながら、トレーを受け取る。奈々美は私のところへ戻ってくると、耳元で小さく囁いた。「ママ。さっきの子、前の私みたいだった」私は奈々美の頭を撫でた。「だから、助けてあげたかったの?」「うん。でもね、その子、私のことをお姉ちゃんって呼ばなくていいし、私の言うことを聞かなくてもいいの」思わず笑ってしまった。奈々美は、もう分かっている。誰かを助けるということは、見返りを求めることでも、何かを条件にすることでもない。そんなことを考えていたときだった。食堂の入口が、ふと静かになった。顔を上げると、少し離れたところに裕翔が立っていた。病院で行われているプロジェクトの監査会議に出席するために来たらしく、何人かのスタッフを連れている。この1年で、裕翔が奈々美に会ったのは3回。いずれも、奈々美自身が会うこ
面会は、児童心理治療施設で行われることになった。部屋には低いテーブルと、色とりどりの椅子がいくつか置かれている。カウンセラーも、同席することになっていた。裕翔は約束の30分前に来ていた。奈々美が部屋に入ってくると、裕翔はすぐに立ち上がった。けれど、近づこうとはしなかった。半年ぶりに見る奈々美は、少し背が伸びていた。頬にも、以前よりふっくらとなっている。黄色い上着を着て、髪には新しいイチゴのヘアピンをつけていた。私は部屋の入り口近くに座り、2人の会話には口を挟まなかった。裕翔はテーブルの上に、パズルのおもちゃを置いた。「これ、奈々美に」奈々美はパズルを一目見ただけだった。「ママが、人から物をもらっちゃダメって言ってた」「これは、お父さんからのプレゼントだ」奈々美は少し考えてから答えた。「あなたは私のお父さんだけど、私たち、そんなに親しくないよね」裕翔の手が止まった。カウンセラーが静かに声をかける。「奈々美ちゃんの言葉を、そのまま受け止めてあげてください」裕翔はパズルの箱を引き寄せた。「……分かった。いらないなら、持って帰るよ」奈々美は、裕翔から一番離れた椅子に座った。「どうして、あのとき私を助けてくれなかったの?」裕翔は、由梨に騙されたからだとは言わなかった。「俺が間違えたからだ。人の言うことを信じて、お母さんの言葉を信じなかった。奈々美が助けを必要としていたときも、俺はお母さんに折れてほしいと思っていた」奈々美は少し考えてから、もう一つ尋ねた。「あのとき、私があなたの娘だって知ってた?」「最初に会ったときは、知らなかった。でも、そのあとで知った」「……知ったのに、助けてくれなかった」その言葉に、裕翔の顔から血の気が引いた。「……そうだ」奈々美は袖口を指先でいじりながら、ぽつりと言った。「じゃあ、いいお父さんじゃないね」「そうだな」「ママが言ってた。悪いことをしたら、ごめんなさいって言うんだって」裕翔は奈々美を見る。「……ごめんなさい。お母さんが嘘をついてるって決めつけて、奈々美を交渉材料に利用して、それから……奈々美やお母さんが傷つくような動画を見せたことも、本当にごめんなさい」「それと、ママを押してたよね」「……ごめんなさい」
奈々美が退院する日は、よく晴れていた。看護師も、入院中に仲良くなった患者さんたちも、みんな見送りに来てくれた。奈々美は花束を抱え、助けてくれた人たち一人ひとりに、真剣な顔でお礼を言っていく。病院の玄関まで来ると、奈々美は足を止め、降り注ぐ陽の光を見上げる。まるで初めて、外の空がこんなにも広いことに気づいたようだった。私は病院からほど近い場所に、部屋を借りた。広い家ではないけれど、南向きの部屋が2つある。奈々美は大きな窓がある部屋を選び、壁いっぱいに自分で描いた小さな太陽を貼った。「ママ、ここが私たちのお家?」「そうだよ」「もう、誰にも出ていけって言われない?」「言われないよ」「お薬を買うのも、誰かに許可をもらわなくていい?」「うん、これからは、ずっとね」奈々美は嬉しそうに笑うと、そのまま私の胸に飛び込んできた。生活が落ち着いてから、私は返還されたお金の一部を使い、NPO法人を立ち上げた。組織名に私や奈々美の名前はつけなかった。藤田グループからの資金も受け取らない。力を入れている活動は主に3つ。経済的な支配を受けている女性への法的支援。個人情報を晒された子どもたちの被害回復と責任追及。そして、すぐに医療費を用意できないひとり親家庭への緊急支援。陽菜も仕事を辞め、私を手伝ってくれることになった。最初に相談に来た女性は、結婚して7年になるという。夫の許可がなければ、生理用品を買うことさえできない。離婚を望んでいるのに、自分の給料が振り込まれる口座のカードすら、夫に管理されているそうだ。彼女は事務所の椅子に座ったまま、何度も私に尋ねた。「やっぱり私の考えがおかしいでしょうか……殴られたわけじゃないですし」私は、彼女に法律相談の申込書を差し出した。「支配されるという苦しみは、目に見える傷として残るとは限りません」彼女は書類に目を落とした。しばらくして、ぽろぽろと涙をこぼし始める。私も、かつてはそう思っていた。裕翔から直接、暴力を振るわれたわけではない。だから、夫婦の間で起きていることも、そこまで深刻な問題ではないと思っていた。けれど、実際には違った。妊娠中、必要なサプリメントを買うだけでも、その必要性を説明しなければならなかった。自分の体のことも、お腹の子ど
奈々美の治療が第2段階に入ってしばらく経った頃、突然、薬が効かなくなった。高熱が何日も続き、何を食べても吐いてしまう。血小板の数値も、再び下がり始めた。「長期間の栄養不良で、同年代の子どもに比べて体の蓄えが少ないんです。薬への耐性もあまり良くないので、治療方針を見直す必要があります」私はICUの前から離れられず、2日間、一睡もしなかった。病院のスタッフが、何度も私に休むよう勧めてくる。「治療費の手配は済んでいます。先生方も今、合同で治療法を検討してくださっていますから、森下さんも少し休んでください」私は首を横に振った。5年前、私が一人で救命処置を受けていたとき、家族として同意書に署名してくれる人はいなかった。手術室の外で、私を待っている人もいなかった。だから、奈々美が目を覚ましたときまで、私はここにいたかった。この子に、目を覚ましたらお母さんがいない、なんて思わせたくなかった。3日目、医師から新しい治療法を提案された。これまでより費用はかかる。けれど、確立された治療法の一つで、リスクが低いうえ、転院する必要もないという。私はすぐ同意書に署名し、返還されたお金から治療費を支払った。会計を済ませたあと、看護師が領収書を持ってきた。少し遠慮がちに尋ねる。「お父さんのほうからも病院に連絡があったそうです。治療費はあちらで負担するとおっしゃっていましたが……」「いえ、自分で支払います」「……分かりました」裕翔からは、それ以上連絡が来なかった。ただ、弁護士を通じて、私が選んだ治療方針を尊重し、そして、裁判所で定められた養育費については、これまでどおり支払い続けると伝えた。今回、彼はお金を出すことで、無理に私たちの意思を曲げようとしなかった。奈々美が新しい薬を使い始めたその夜、熱が少しずつ下がっていった。翌朝、奈々美が目を開ける。「……ママ、ご飯食べた?」最初に出てきた言葉がそれだった。「食べたよ」そう答えると、奈々美がじっと私の顔を見る。「ママ、元気がない」「ちゃんと食べてるから大丈夫」「嘘」仕方なく、私は看護師に頼んでおにぎりを買ってきてもらい、奈々美の目の前で食べた。それを見届けて、ようやく奈々美は安心したように微笑んだ。1週間後、奈々美の血小板の数値