جميع فصول : الفصل -الفصل 10

10 فصول

第1話

私はその場にへたり込み、指先が震えて、スマホさえまともに持てなかった。それでも、まだ信じたくなかった。もっと前まで遡れば、何かの間違いだったとわかるかもしれない。そんな思いにすがるように、私は過去のやり取りを辿っていった。そのとき、「W」から新しいメッセージが届いた。【昨日、俺が抑えきれなくなってキスした。でも、綾香は拒まなかったよな。……それって、綾香も俺のこと、好きってことだよな?】スマホが手から落ち、そのまま床に転がった。胸が締めつけられるようで、うまく息ができなかった。どうして、こんなことになったんだろう。私も綾香も、親のいない子どもだった。15歳の頃、暮らしていた児童養護施設の閉所が決まり、私たちもそこを出なければならなくなった。これからどうすればいいのかわからなくて、私は泣いてばかりいた。そんな私の手を取って、綾香は一緒に施設を出てくれた。「大丈夫だよ、日菜。これからは私が働くから。日菜のことは私がなんとかする」でも、綾香だってまだ15歳だった。それどころか、私より3か月も年下だった。その後、綾香は本当に高校を辞め、昼は飲食店、夕方からはコンビニで働くようになった。きついときには、1日4時間しか眠れないこともあった。それでも、私にお金を渡すときはいつも、何でもないことみたいに笑っていた。「私、もともと勉強は苦手だったし。学校辞めて働くくらい、別に平気だよ。でも、日菜は違うでしょ。日菜は勉強できるんだから、絶対いい大学に行って、今みたいな生活から抜け出すんだよ」学費も生活費も、全部綾香が1人で出してくれた。私にとって、綾香は姉でもあり、母親代わりでもあった。自分のことはいつも後回しにして、ずっと私を支えてくれた。そんな綾香のおかげで、私は大学に進むことができた。そして、そこで渉と出会った。渉は、私がどうしてあんなに必死に勉強していたのかも、休む暇もなくバイトを掛け持ちしていた苦しさもわかってくれた。人には見せたくなかった劣等感や不安にも、何も言わなくても気づいてくれた。それでも決して踏み込みすぎず、私の自尊心を傷つけないようにそっと寄り添ってくれた。渉といると安心できたし、少しずつ自分にも自信が持てるようになった。綾香以外で、こんなふうに私を大切にしてくれたのは
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第2話

そのとき、また渉からメッセージが届いた。【熱が出てつらいって言うから、すぐ会いに行った。夜眠れないって言われたら、朝までずっと話してた】【俺の気持ち、気づいてないわけないよな】【この先どうにもならなくてもいい。綾香がどう思ってるのか、それだけ聞かせてほしい】【綾香、頼むから無視しないでくれ。何も返してくれないのは、さすがにきつい】しばらくして、ようやく綾香から返事が来た。【私が悪い。自分の気持ちに気づいたときに、ちゃんと線を引くべきだった】【でも、日菜だけは裏切れない。あの子にだけは、絶対そんなことできない】【どうすればいいのか、自分でもわからない】【でも、日菜だけは絶対に失いたくない。今はそれしかわからない】メッセージを読み終えた途端、涙がこぼれた。私が何より大切にしている2人が、互いへの気持ちに苦しんでいる。でも、そのやり取りを見ている私も、苦しくてたまらなかった。2人がどうすればいいのかわからないように、私にもどうすればいいのかわからなかった。綾香の27歳の誕生日は、もう1週間後に迫っていた。私は2週間も前から、その日のために準備していた。レストランも自分で選び、飾りつけは3回も練り直した。店内で流すBGMも、夜中まで何度も聞き比べた。忘れられない誕生日にしてあげたかった。なのに今は、綾香の顔をまともに見ることさえできそうになかった。私はもう1度、綾香の通販アプリを開いた。お気に入りには、最近追加されたばかりのワンピースがあった。アイボリーの上品なデザインで、ウエストには小さなパールボタンが並んでいた。いつもの綾香なら、まず選ばないような服だった。それでも、綾香が気に入っていることは、なんとなくわかった。昔から、綾香は何かいいものがあると、決まって私に譲ってくれた。かわいいワンピースを買うのもいつも私のためで、自分はTシャツに長ズボンという、飾り気のない格好ばかりしていた。「学校って、結局見た目で判断する子も多いからさ。日菜はちゃんとした服着てたほうが、変に目をつけられなくて済むよ。私は今ので十分。仕事するなら、そのほうが楽だし」そのうち私も働くようになり、私の収入だけでも2人で暮らしていけるようになった。もう綾香には、好きなものを買って、好きなように暮らしてほしか
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第3話

あのときの私は、渉がちゃんとプレゼントを選んでくれたのか、まだそんなことを気にしていた。今となっては、そんな心配をしていたこと自体が皮肉だった。渉が綾香へのプレゼントを適当に選ぶはずなんてなかった。綾香が少し緊張したように見守る中、私と渉はほとんど同時にプレゼントを差し出した。よく似た紙袋が並んだのを見て、胸がざわついた。そして、それぞれ箱を開けた瞬間、3人とも固まった。中に入っていたのは、まったく同じワンピースだった。私がこのワンピースを選んだのは、綾香のカートをこっそり見たからだ。じゃあ、渉は?思わず渉を見ると、明らかに動揺していた。「たまたま見かけて、綾香に似合いそうだと思って買っただけだよ」嘘だとわかった。それでも、何も聞けなかった。沈黙を破ったのは綾香だった。私の腕にそっと絡みながら、明るい声を出した。「さすが恋人同士だね。考えることまで一緒なんだ。まさかプレゼントまでかぶるなんて。大丈夫だよ。2着あるなら、その日の気分で着ればいいじゃん。せっかく2人が選んでくれたんだし、どっちも着るよ」私はなんとか笑って、小さくうなずいた。それを見て、2人とも少しほっとしたようだった。席に着くと、渉と綾香が私を挟むように座った。今日は綾香の誕生日なのに、食事が始まると、綾香はいつものように私のことばかり気にかけていた。辛いものは食べすぎないようにと念を押し、魚の骨まで丁寧に取ってくれた。渉も、エビの殻をむいたり、私の苦手な食材をさりげなくよけたりと、いつもと変わらず世話を焼いてくれた。2人とも、いつもと何も変わらないように見えた。それが、かえって苦しかった。こらえようとしたけれど、気づいたときには涙がこぼれていた。渉はすぐに私の顔をのぞき込んだ。「どうした?大丈夫か?」綾香も心配そうにこちらを見た。私は急いで涙を拭い、なんとか笑ってみせた。「何でもないよ。ちょっと感動しちゃっただけ」そう言ってグラスを持ち上げ、綾香に向けた。「綾香、乾杯しよ。今日は誕生日だし、私たちが出会って20年になる日でもあるんだから。ちゃんとお祝いしよう」綾香もすぐにグラスを上げた。笑ってはいたけれど、その目だけはどこか揺れていた。「日菜、施設にいた頃、2人でずっと一
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第4話

「彼氏、大事にしなよ。性格もいいし、見た目もいいし。誰かに取られないようにね」私は軽くうなずいただけで、何も言わなかった。帰りの車の中は、妙に静かだった。渉は何度か口を開きかけたものの、そのたびに言葉を飲み込んでいた。何か話そうとしているのはわかった。もしかして、全部打ち明けるつもりなんだろうか。もしそうなったら、私はどうすればいいんだろう。泣いて責めるのか、それとも何も知らないふりをして受け入れるのか。どちらも、できる気がしなかった。結局、家に着くまで、ほとんど会話はなかった。玄関を開けた瞬間、思わず足が止まった。部屋の中は、いつの間にかきれいに飾りつけられていた。壁にはやわらかな灯りがともり、私の好きな花がところどころに飾られていた。まだ状況を飲み込めずにいるうちに、渉が私の前まで来て、その場で片膝をつき、まっすぐ私を見上げた。「日菜、俺と結婚してくれ」その声とほぼ同時に、綾香が花束を抱えて姿を見せた。目に涙を浮かべながら、嬉しそうに笑っていた。「日菜、渉ならもう文句なしだよ。私もちゃんと認めたんだから、早く返事してあげて」目の前に広がっていたのは、何度も夢見てきたはずの光景だった。それなのに、どうしても「うん」と言えなかった。私が返事をためらっていると、突然、壁の飾りパネルが外れてこちらへ落ちてきた。とっさに動けずにいる私の前へ、渉と綾香が同時に飛び込んできた。「日菜、危ない!」私はかすり傷ひとつなかった。代わりに、2人は落ちてきたパネルで腕を切り、そのまま病院で手当てを受けることになった。会計を済ませて2人のところへ戻ると、処置室にはもう看護師の姿がなかった。中から、2人が声を潜めて言い合うのが聞こえてきた。「綾香に言われた通り、日菜にプロポーズした。でも、あんなことが起きて、結局返事は聞けなかった」渉は思いつめたような低い声で続けた。「こんなときにあんなことまで起きるとさ……もうやめろって言われてる気がするんだ。日菜も、結局返事してくれなかったし。もしかしたら、もう俺とは結婚したくないのかもしれない」「そんなわけないでしょ!」綾香はすぐに言い返した。「日菜は、初めて渉を私に会わせた頃から、ずっと渉と結婚したいって思ってたんだよ。返事できなかっ
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第5話

処置室では、長く続いた言い争いもようやく収まり、渉も綾香もすっかり疲れ切っていた。2人ともまだ傷が痛み、ガーゼにはうっすら血がにじんでいた。綾香は頬に残った涙を拭うと、ふと時計に目をやった。「日菜、会計に行ってから結構経ってるよね。まだ戻ってこないけど……」その言葉に、渉もはっとした。さっきまで綾香のことで頭がいっぱいで、私がいつまでも戻ってこないことにさえ気づいていなかった。渉は痛む腕をかばいながら立ち上がった。「ちょっと看護師さんに聞いてくる」ナースステーションで看護師に声をかけると、すぐに答えてくれた。「若松さんでしたら、30分ほど前に会計を済ませて、もうお帰りになりましたよ」その瞬間、2人の顔からさっと血の気が引いた。綾香は一歩よろめき、壁に手をついた。「帰ったって……まさか、さっきの話、聞かれてたんじゃ……」渉は何も言わず、青ざめた顔でスマホを取り出し、すぐに私へ電話をかけた。けれど、何度かけてもつながらず、どうやら電源も切られているようだった。綾香もすぐに電話をかけたが、やはり応答はなかった。「家に戻ろう。日菜なら、もう帰ってるかもしれない」渉は上着をつかむと、傷の痛みも気にせず、綾香と一緒に病院を飛び出した。2人はそのまま車で私の家へ向かった。玄関を開けた瞬間、2人は足を止めた。部屋はしんと静まり返っていた。クローゼットは空っぽで、本棚にあった医学書も消えていた。ドレッサーもベッド脇の棚も、きれいに片づけられていた。私がここで暮らしていた痕跡は、ほとんど残っていなかった。ただ、渉からもらったものだけが、部屋のあちこちに残されていた。綾香はふらつき、ドア枠に手をついた。渉は何も言わず寝室へ入り、机の前で足を止めた。引き出しには、細身の銀のブレスレットが残っていた。去年の誕生日に、渉がくれたものだ。あの頃は手術が立て込んでいて、私はよく手首がつらいとこぼしていた。少しでも負担にならないようにと、渉が軽いものを選んでくれた。部屋の隅のガラス瓶には、白いトルコキキョウがドライフラワーになって残っていた。去年のバレンタインデーに、渉が病院まで届けてくれた花束だった。私は写真を撮ってSNSに載せ、優しい彼氏だと少し自慢していた。周りからもずいぶん
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第6話

そうすれば、綾香は賠償金を払わずに済んで、前科もつかない。それでも私は怖くて、どうしてもその条件を受け入れられなかった。結局、休学して働く道を選んだ。昼も夜も働き続け、1年かけてようやく賠償金を払い終えた。そのことは、それから9年間、誰にも話していなかった。綾香への申し訳なさは、ずっと消えなかった。それでも、本当のことを打ち明ける勇気はなかった。だから、2人の気持ちに気づいてからも何も言えなかった。口にしてしまえば、3人の関係が壊れてしまいそうで怖かった。どうしたらいいのかわからないまま、最後は1人で逃げることを選んだ。その頃、渉と綾香は重い沈黙の中にいた。そこへ、2人のスマホがほとんど同時に震えた。画面には、私が出発前に送ったメッセージが表示されていた。【渉、綾香。2人で幸せになってね】そのメッセージを見て、2人はようやく確信した。処置室での話を、私は全部聞いていたのだと。2人は慌ててメッセージを送り始めた。事情を説明し、謝り、戻ってきてほしいと必死に呼びかけた。それでも一向に届かず、電話をかけてもつながらない。聞こえてくるのは、電源が切られていることを知らせるアナウンスだけだった。綾香はみるみる顔色を失っていった。「まさか日菜、変なこと考えてないよね……?昔から何でも1人で抱え込んで、つらくても誰にも言わないから……もし、思い詰めてたら……」言っているうちに、綾香の声は震え始めた。渉はうつむいたまま、かすれた声で言った。「……俺が悪かった。俺がこんな気持ちにならなければ、日菜をここまで傷つけずに済んだのに……」綾香は泣きはらした目を上げ、渉を見た。「もし日菜に何かあったら……私、渉のこと一生許さないから」渉は何も言い返せなかった。そのとき、渉は枕の下から白い封筒が少しのぞいているのに気づいた。宛名はなく、封筒の角には何度も触れたような跡が残っていた。私が残していった手紙だった。渉はすぐに封を開け、綾香と一緒に手紙を読み始めた。【綾香、渉へ。これを読んでいる頃には、私はもう飛行機の中にいると思う。実は、2人がやり取りしていた1000件以上のメッセージを見つけたあの日から、全部わかってた。それでも何も言えなかったのは、私が臆病だったから。大切な2人を、どちらも
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第7話

【私を捜さないで。2人とも、元気でね】最後まで読み終えたところで、綾香はとうとうその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。「私のせいだ……私が渉を好きになったりしなければ、こんなことにはならなかったのに……20年もそばにいてくれた日菜を、私が傷つけたんだよ。絶対に見つける。ちゃんと会って、話さなきゃ……このまま会えなくなるなんて嫌……!」綾香は涙を拭うこともなく立ち上がり、そのまま家を出ようとした。渉もすぐに後を追い、綾香の手首をつかんだ。「俺も行く。そんな状態で1人で行かせられない。傷だってまだ治ってないだろ」「来ないで」綾香は渉の手を振りほどいた。「渉がいなくても、今までずっと1人でやってきた。つらいことだって何度もあったけど、そのたびに何とかしてきたの。だから今は、1人で行かせて」綾香はそのまま家を飛び出し、タクシーで空港へ向かった。空港に着くと、綾香は航空会社のカウンターを次々と回り、私がどの便に乗ったのか尋ねて回った。けれど、どこで聞いても乗客の情報は教えてもらえなかった。研修先や詳しい日程も、関係者以外には知らされていなかった。何ひとつ手がかりはなかった。それでも綾香は出発ロビーを歩き回り、案内モニターに並ぶ便名を何度も確認した。けれど、私がどの便に乗ったのかは最後までわからなかった。やがて窓際で足を止め、次々と飛び立っていく飛行機をただ見送った。もうどこを探せばいいのかもわからなくなり、綾香は空港の隅にしゃがみ込んだ。遅れて駆けつけた渉が見つけたときには、泣き疲れて、もう動けなくなっていた。……飛行機は無事に到着し、私はそのまま研修先の病院へ向かった。そこからは、息をつく暇もないような毎日だった。手術室に入る日が続き、カンファレンスや勉強会、難しい症例の検討にも追われた。朝から晩まで仕事のことばかりで、余計なことを考えている暇はほとんどなかった。研修先には、重い希少疾患を抱え、治療を求めて各地からやってくる患者が多かった。中には、裕福な家庭の人も少なくなかった。どれだけお金をかけても、できる治療をすべて試しても、それでも救えない命があった。そんな場面を何度も目にするうちに、それまであれほど大きく思えていたことが、少しずつ違って見えるようになった。お金のことも、恋の
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第8話

私が海外にいる間、渉は何度も2人で撮った写真を見返していた。残業で帰りが遅くなった日は、いつも温かいご飯を用意して待っていてくれた。私が自信をなくして落ち込んだときも、何も急かさず、そばで話を聞いてくれた。いつか渉と家庭を持てることを楽しみにして、綾香も一緒に3人のこれからをあれこれ話していたこともあった。そんなことを思い出すたび、渉は胸が痛んだ。綾香もまた、私のことを思い出さずにはいられなかった。私が休学して働き、賠償金を工面したこと。いつも綾香のことを優先し、2人の気持ちに気づいてからも責めることなく、最後は何も言わずに離れていったこと。今になって、2人はようやく気づいた。臆病だと言っていた私が、2人のためなら何度も勇気を振り絞り、本当なら背負わなくてもよかったことまで抱えてきたのだと。それからも2人は、互いを責めながら離れられずにいた。会えば傷つけ合うのに、きっぱり終わらせることもできなかった。そんな日が続いたある夜、酒に酔った勢いで、2人は一線を越えた。それからしばらくして、綾香の妊娠がわかった。検査結果を受け取った日、綾香は渉に、子どもは産まないつもりだと告げた。渉はすぐに反対した。「駄目だ。俺たちの子だろ」「……この子は、産んじゃいけないの。私たちの関係は最初から間違ってた。この子がいたら、この先もずっと離れられなくなる。それに、これ以上日菜に顔向けできなくなるようなことはしたくない。だから、もうここで終わりにしないと」その一言をきっかけに、2人は激しく言い争った。これまで胸の内にため込んできた後悔も、やりきれなさも、互いへの不満も、全部ぶつけ合った。言い争いが終わる頃には、綾香の気持ちはもう決まっていた。渉とは、今度こそきっぱり別れるつもりだった。けれど、何日もまともに気持ちが休まらず、綾香は上の空のまま歩いていた。交差点に差しかかっても、近づいてくる車には気づかなかった。そのとき、1台の車が突然大きくふらつき、そのまま綾香のほうへ突っ込んできた。すぐ後ろにいた渉がとっさに駆け寄り、綾香を力いっぱい突き飛ばした。次の瞬間、渉は車にはねられ、そのまま路面に叩きつけられた。激しいブレーキ音が響き、倒れた渉の下に血が広がっていった。近くにいた人がすぐに救急車を呼び、2
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第9話

胸騒ぎがして、私は渉の両親を追うように病院へ入った。すると、廊下に倒れている綾香が目に入った。すぐに駆け寄り、近くの看護師に声をかけた。綾香はそのまま処置を受け、しばらくして出血も落ち着いた。お腹の子も、どうにか無事だった。けれど、渉は助からなかった。怪我があまりにも重く、懸命な救命処置もむなしく、息を引き取った。その知らせを聞いた綾香は、ベッドの上で泣き崩れた。「私が悪いんだよ……渉が死んだのも、日菜がいなくなったのも……私が全部めちゃくちゃにしたんだよ……」綾香が泣き続ける中、突然、病室のドアが開いた。渉の両親だった。渉の母はそのままベッドまで来ると、綾香に詰め寄った。「お腹の子、渉の子なんでしょう?だったら絶対に産みなさい。渉はもういないのよ。せめてこの子だけは、ちゃんと産んであげなさいよ!」渉の父も厳しい顔で口を挟んだ。「渉が残した子なんだ。勝手に堕ろすなんて、認められるわけがない。そんなことをしたら、この先ずっと後悔するぞ。よく考えてから決めろ」2人がなおも綾香を責め続けるのを見て、私はベッドの前に出た。昔、綾香が私を守ってくれたように、今度は私が綾香を守る番だった。「もうやめてください。綾香はさっきまで出血してたんです。今はとにかく休ませてあげてください。この子をどうするかは、綾香が自分で決めることです。誰かが無理に決めていいことじゃありません。渉の子だからって、産むことまで押しつけないでください。まして、それを償いみたいに言うのはやめてください。綾香は今だって十分自分を責めています。これ以上追い詰めないでください」私は2人を見たまま、続けた。「これ以上ここで綾香を責めるなら、病院にも事情を話します。必要なら、面会も断ってもらいます」そこまで言うと、渉の両親も、それ以上は言い返してこなかった。それからしばらく、私はできる限り綾香のそばにいた。入院中は面会できる時間ぎりぎりまで付き添い、退院してからも、眠れない夜には話し相手になった。食欲がない日は、少しでも口にできそうなものを用意した。妊婦健診にも付き添った。綾香が何か話したくなったときは、無理に励ましたりせず、ただ黙って話を聞いた。そうして過ごすうちに、綾香も少しずつ元気を取り戻していった。
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第10話

綾香は苦しそうに息をしながら、それでもかすかに笑った。「みんな、私がずっと日菜を守ってきたって思ってるよね。でもね、本当は逆だったんだよ。私がここまで生きてこられたのは、日菜がいてくれたから。私は親に捨てられて、何度か別の家庭に引き取られても、そのたび施設に戻されて……嫌われたり、いじめられたりするのが当たり前だった。だから、ずっと強いふりをしてた。そうでもしないと、やっていけなかったから。初めて日菜を見たとき、1人で泣いてる姿が昔の自分みたいで、ただ放っておけなかった。それだけだったの。なのに日菜は、あのときから20年もずっと私のそばにいてくれた。何があっても私のことを大事にして、ずっと頼ってくれて……」綾香の目から、また涙がこぼれた。「日菜がいてくれたから、私、今まで何とかやってこられたんだよ。ずっとそばにいてくれたこと、それだけで何度も救われた」涙が次々とこぼれ、声を出そうとしてもうまく出なかった。それでも私は、わざときつい口調で言った。「もういいから、しゃべらないで!そんなことより、ちゃんと生きてよ!もし綾香に何かあったら、私、その子のことなんて絶対育てないからね」綾香は苦しそうに息をしながら、それでも少しだけ笑った。「それなら……渉のご両親にお願いすればいいよ。日菜にはもう、何にも縛られずに、自分のために生きてほしい。それが私の一番の願いだから」私は何度も首を振った。「違うよ。そんなの、私が望んでることじゃない。私が医者になろうって決めたのは、今度こそ私が綾香を助けられるようになりたかったからだよ。あのときみたいに、何もできないまま綾香が苦しんでるのを見るなんて、もう嫌なの」私は綾香の手を強く握った。「だからお願い、綾香。生きて。綾香までいなくなったら、私、一生自分を許せないよ」それから数時間、懸命な処置が続いた。幸い、綾香は無事に女の子を産んだ。ただ、出産の際に大量出血したため、体はかなり弱っていた。医師からは、今後の妊娠は難しく、体に負担のかかる仕事も避けるように言われた。これから先も、無理をせず、体調に気をつけながら暮らしていかなければならなかった。それでも、今の私には、綾香とこの子を支えていけるだけの力があった。……それから、数年が過ぎた。
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