FAZER LOGIN綾香は苦しそうに息をしながら、それでもかすかに笑った。「みんな、私がずっと日菜を守ってきたって思ってるよね。でもね、本当は逆だったんだよ。私がここまで生きてこられたのは、日菜がいてくれたから。私は親に捨てられて、何度か別の家庭に引き取られても、そのたび施設に戻されて……嫌われたり、いじめられたりするのが当たり前だった。だから、ずっと強いふりをしてた。そうでもしないと、やっていけなかったから。初めて日菜を見たとき、1人で泣いてる姿が昔の自分みたいで、ただ放っておけなかった。それだけだったの。なのに日菜は、あのときから20年もずっと私のそばにいてくれた。何があっても私のことを大事にして、ずっと頼ってくれて……」綾香の目から、また涙がこぼれた。「日菜がいてくれたから、私、今まで何とかやってこられたんだよ。ずっとそばにいてくれたこと、それだけで何度も救われた」涙が次々とこぼれ、声を出そうとしてもうまく出なかった。それでも私は、わざときつい口調で言った。「もういいから、しゃべらないで!そんなことより、ちゃんと生きてよ!もし綾香に何かあったら、私、その子のことなんて絶対育てないからね」綾香は苦しそうに息をしながら、それでも少しだけ笑った。「それなら……渉のご両親にお願いすればいいよ。日菜にはもう、何にも縛られずに、自分のために生きてほしい。それが私の一番の願いだから」私は何度も首を振った。「違うよ。そんなの、私が望んでることじゃない。私が医者になろうって決めたのは、今度こそ私が綾香を助けられるようになりたかったからだよ。あのときみたいに、何もできないまま綾香が苦しんでるのを見るなんて、もう嫌なの」私は綾香の手を強く握った。「だからお願い、綾香。生きて。綾香までいなくなったら、私、一生自分を許せないよ」それから数時間、懸命な処置が続いた。幸い、綾香は無事に女の子を産んだ。ただ、出産の際に大量出血したため、体はかなり弱っていた。医師からは、今後の妊娠は難しく、体に負担のかかる仕事も避けるように言われた。これから先も、無理をせず、体調に気をつけながら暮らしていかなければならなかった。それでも、今の私には、綾香とこの子を支えていけるだけの力があった。……それから、数年が過ぎた。
胸騒ぎがして、私は渉の両親を追うように病院へ入った。すると、廊下に倒れている綾香が目に入った。すぐに駆け寄り、近くの看護師に声をかけた。綾香はそのまま処置を受け、しばらくして出血も落ち着いた。お腹の子も、どうにか無事だった。けれど、渉は助からなかった。怪我があまりにも重く、懸命な救命処置もむなしく、息を引き取った。その知らせを聞いた綾香は、ベッドの上で泣き崩れた。「私が悪いんだよ……渉が死んだのも、日菜がいなくなったのも……私が全部めちゃくちゃにしたんだよ……」綾香が泣き続ける中、突然、病室のドアが開いた。渉の両親だった。渉の母はそのままベッドまで来ると、綾香に詰め寄った。「お腹の子、渉の子なんでしょう?だったら絶対に産みなさい。渉はもういないのよ。せめてこの子だけは、ちゃんと産んであげなさいよ!」渉の父も厳しい顔で口を挟んだ。「渉が残した子なんだ。勝手に堕ろすなんて、認められるわけがない。そんなことをしたら、この先ずっと後悔するぞ。よく考えてから決めろ」2人がなおも綾香を責め続けるのを見て、私はベッドの前に出た。昔、綾香が私を守ってくれたように、今度は私が綾香を守る番だった。「もうやめてください。綾香はさっきまで出血してたんです。今はとにかく休ませてあげてください。この子をどうするかは、綾香が自分で決めることです。誰かが無理に決めていいことじゃありません。渉の子だからって、産むことまで押しつけないでください。まして、それを償いみたいに言うのはやめてください。綾香は今だって十分自分を責めています。これ以上追い詰めないでください」私は2人を見たまま、続けた。「これ以上ここで綾香を責めるなら、病院にも事情を話します。必要なら、面会も断ってもらいます」そこまで言うと、渉の両親も、それ以上は言い返してこなかった。それからしばらく、私はできる限り綾香のそばにいた。入院中は面会できる時間ぎりぎりまで付き添い、退院してからも、眠れない夜には話し相手になった。食欲がない日は、少しでも口にできそうなものを用意した。妊婦健診にも付き添った。綾香が何か話したくなったときは、無理に励ましたりせず、ただ黙って話を聞いた。そうして過ごすうちに、綾香も少しずつ元気を取り戻していった。
私が海外にいる間、渉は何度も2人で撮った写真を見返していた。残業で帰りが遅くなった日は、いつも温かいご飯を用意して待っていてくれた。私が自信をなくして落ち込んだときも、何も急かさず、そばで話を聞いてくれた。いつか渉と家庭を持てることを楽しみにして、綾香も一緒に3人のこれからをあれこれ話していたこともあった。そんなことを思い出すたび、渉は胸が痛んだ。綾香もまた、私のことを思い出さずにはいられなかった。私が休学して働き、賠償金を工面したこと。いつも綾香のことを優先し、2人の気持ちに気づいてからも責めることなく、最後は何も言わずに離れていったこと。今になって、2人はようやく気づいた。臆病だと言っていた私が、2人のためなら何度も勇気を振り絞り、本当なら背負わなくてもよかったことまで抱えてきたのだと。それからも2人は、互いを責めながら離れられずにいた。会えば傷つけ合うのに、きっぱり終わらせることもできなかった。そんな日が続いたある夜、酒に酔った勢いで、2人は一線を越えた。それからしばらくして、綾香の妊娠がわかった。検査結果を受け取った日、綾香は渉に、子どもは産まないつもりだと告げた。渉はすぐに反対した。「駄目だ。俺たちの子だろ」「……この子は、産んじゃいけないの。私たちの関係は最初から間違ってた。この子がいたら、この先もずっと離れられなくなる。それに、これ以上日菜に顔向けできなくなるようなことはしたくない。だから、もうここで終わりにしないと」その一言をきっかけに、2人は激しく言い争った。これまで胸の内にため込んできた後悔も、やりきれなさも、互いへの不満も、全部ぶつけ合った。言い争いが終わる頃には、綾香の気持ちはもう決まっていた。渉とは、今度こそきっぱり別れるつもりだった。けれど、何日もまともに気持ちが休まらず、綾香は上の空のまま歩いていた。交差点に差しかかっても、近づいてくる車には気づかなかった。そのとき、1台の車が突然大きくふらつき、そのまま綾香のほうへ突っ込んできた。すぐ後ろにいた渉がとっさに駆け寄り、綾香を力いっぱい突き飛ばした。次の瞬間、渉は車にはねられ、そのまま路面に叩きつけられた。激しいブレーキ音が響き、倒れた渉の下に血が広がっていった。近くにいた人がすぐに救急車を呼び、2
【私を捜さないで。2人とも、元気でね】最後まで読み終えたところで、綾香はとうとうその場に崩れ落ち、声を上げて泣いた。「私のせいだ……私が渉を好きになったりしなければ、こんなことにはならなかったのに……20年もそばにいてくれた日菜を、私が傷つけたんだよ。絶対に見つける。ちゃんと会って、話さなきゃ……このまま会えなくなるなんて嫌……!」綾香は涙を拭うこともなく立ち上がり、そのまま家を出ようとした。渉もすぐに後を追い、綾香の手首をつかんだ。「俺も行く。そんな状態で1人で行かせられない。傷だってまだ治ってないだろ」「来ないで」綾香は渉の手を振りほどいた。「渉がいなくても、今までずっと1人でやってきた。つらいことだって何度もあったけど、そのたびに何とかしてきたの。だから今は、1人で行かせて」綾香はそのまま家を飛び出し、タクシーで空港へ向かった。空港に着くと、綾香は航空会社のカウンターを次々と回り、私がどの便に乗ったのか尋ねて回った。けれど、どこで聞いても乗客の情報は教えてもらえなかった。研修先や詳しい日程も、関係者以外には知らされていなかった。何ひとつ手がかりはなかった。それでも綾香は出発ロビーを歩き回り、案内モニターに並ぶ便名を何度も確認した。けれど、私がどの便に乗ったのかは最後までわからなかった。やがて窓際で足を止め、次々と飛び立っていく飛行機をただ見送った。もうどこを探せばいいのかもわからなくなり、綾香は空港の隅にしゃがみ込んだ。遅れて駆けつけた渉が見つけたときには、泣き疲れて、もう動けなくなっていた。……飛行機は無事に到着し、私はそのまま研修先の病院へ向かった。そこからは、息をつく暇もないような毎日だった。手術室に入る日が続き、カンファレンスや勉強会、難しい症例の検討にも追われた。朝から晩まで仕事のことばかりで、余計なことを考えている暇はほとんどなかった。研修先には、重い希少疾患を抱え、治療を求めて各地からやってくる患者が多かった。中には、裕福な家庭の人も少なくなかった。どれだけお金をかけても、できる治療をすべて試しても、それでも救えない命があった。そんな場面を何度も目にするうちに、それまであれほど大きく思えていたことが、少しずつ違って見えるようになった。お金のことも、恋の
そうすれば、綾香は賠償金を払わずに済んで、前科もつかない。それでも私は怖くて、どうしてもその条件を受け入れられなかった。結局、休学して働く道を選んだ。昼も夜も働き続け、1年かけてようやく賠償金を払い終えた。そのことは、それから9年間、誰にも話していなかった。綾香への申し訳なさは、ずっと消えなかった。それでも、本当のことを打ち明ける勇気はなかった。だから、2人の気持ちに気づいてからも何も言えなかった。口にしてしまえば、3人の関係が壊れてしまいそうで怖かった。どうしたらいいのかわからないまま、最後は1人で逃げることを選んだ。その頃、渉と綾香は重い沈黙の中にいた。そこへ、2人のスマホがほとんど同時に震えた。画面には、私が出発前に送ったメッセージが表示されていた。【渉、綾香。2人で幸せになってね】そのメッセージを見て、2人はようやく確信した。処置室での話を、私は全部聞いていたのだと。2人は慌ててメッセージを送り始めた。事情を説明し、謝り、戻ってきてほしいと必死に呼びかけた。それでも一向に届かず、電話をかけてもつながらない。聞こえてくるのは、電源が切られていることを知らせるアナウンスだけだった。綾香はみるみる顔色を失っていった。「まさか日菜、変なこと考えてないよね……?昔から何でも1人で抱え込んで、つらくても誰にも言わないから……もし、思い詰めてたら……」言っているうちに、綾香の声は震え始めた。渉はうつむいたまま、かすれた声で言った。「……俺が悪かった。俺がこんな気持ちにならなければ、日菜をここまで傷つけずに済んだのに……」綾香は泣きはらした目を上げ、渉を見た。「もし日菜に何かあったら……私、渉のこと一生許さないから」渉は何も言い返せなかった。そのとき、渉は枕の下から白い封筒が少しのぞいているのに気づいた。宛名はなく、封筒の角には何度も触れたような跡が残っていた。私が残していった手紙だった。渉はすぐに封を開け、綾香と一緒に手紙を読み始めた。【綾香、渉へ。これを読んでいる頃には、私はもう飛行機の中にいると思う。実は、2人がやり取りしていた1000件以上のメッセージを見つけたあの日から、全部わかってた。それでも何も言えなかったのは、私が臆病だったから。大切な2人を、どちらも
処置室では、長く続いた言い争いもようやく収まり、渉も綾香もすっかり疲れ切っていた。2人ともまだ傷が痛み、ガーゼにはうっすら血がにじんでいた。綾香は頬に残った涙を拭うと、ふと時計に目をやった。「日菜、会計に行ってから結構経ってるよね。まだ戻ってこないけど……」その言葉に、渉もはっとした。さっきまで綾香のことで頭がいっぱいで、私がいつまでも戻ってこないことにさえ気づいていなかった。渉は痛む腕をかばいながら立ち上がった。「ちょっと看護師さんに聞いてくる」ナースステーションで看護師に声をかけると、すぐに答えてくれた。「若松さんでしたら、30分ほど前に会計を済ませて、もうお帰りになりましたよ」その瞬間、2人の顔からさっと血の気が引いた。綾香は一歩よろめき、壁に手をついた。「帰ったって……まさか、さっきの話、聞かれてたんじゃ……」渉は何も言わず、青ざめた顔でスマホを取り出し、すぐに私へ電話をかけた。けれど、何度かけてもつながらず、どうやら電源も切られているようだった。綾香もすぐに電話をかけたが、やはり応答はなかった。「家に戻ろう。日菜なら、もう帰ってるかもしれない」渉は上着をつかむと、傷の痛みも気にせず、綾香と一緒に病院を飛び出した。2人はそのまま車で私の家へ向かった。玄関を開けた瞬間、2人は足を止めた。部屋はしんと静まり返っていた。クローゼットは空っぽで、本棚にあった医学書も消えていた。ドレッサーもベッド脇の棚も、きれいに片づけられていた。私がここで暮らしていた痕跡は、ほとんど残っていなかった。ただ、渉からもらったものだけが、部屋のあちこちに残されていた。綾香はふらつき、ドア枠に手をついた。渉は何も言わず寝室へ入り、机の前で足を止めた。引き出しには、細身の銀のブレスレットが残っていた。去年の誕生日に、渉がくれたものだ。あの頃は手術が立て込んでいて、私はよく手首がつらいとこぼしていた。少しでも負担にならないようにと、渉が軽いものを選んでくれた。部屋の隅のガラス瓶には、白いトルコキキョウがドライフラワーになって残っていた。去年のバレンタインデーに、渉が病院まで届けてくれた花束だった。私は写真を撮ってSNSに載せ、優しい彼氏だと少し自慢していた。周りからもずいぶん







