置き去りにされた私が、君を置いていくまで のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

12 チャプター

第1話

私は昔から、何をするにも人より少し遅かった。ようやく南陵大学への入学手続きを終えて時計を見ると、手続き期限まで、あと1分しか残っていなかった。もう進学先を変更することはできない。これから4年間、朔とは簡単に会えないほど遠く離れて暮らすことになる。そう思うと、胸の奥がひどく痛んだ。落ち込んでいると、突然スマホが鳴った。「ひより、まだ終わらないのかよ。何時だと思ってるんだ?クラス委員が6時から店を予約してるんだぞ。あとは俺たちだけなんだから、少しは急げないのか?」電話越しに聞こえる朔の苛立った声にせかされ、私は慌てて立ち上がった。勢い余って椅子の角で脚を擦りむいたが、確かめる余裕もなく外へ飛び出した。それでも校門に着いたときには、タクシーはすでに走り去るところだった。呆然と立ち尽くしていると、再び着信があった。朔からの電話に出たはずなのに、聞こえてきたのは汐里の声だった。「ごめんね、ひより。呼んでたタクシーが来ちゃって、待たせると追加料金がかかるって言われたの。私たちは先に行くから、ひよりも別の車で来て」胸の奥が、少しずつ冷えていく。まただ。待っていると言いながら、二人はいつも、私が着くほんの少し前にいなくなる。遊園地へ行ったときもそうだった。山へ出かけたときも、同じだった。本当に、あとわずかな時間さえ待てなかったのだろうか。私には分からない。ただ、喉の奥に何かがつかえ、口の中に苦いものが広がった。「君、さっきの二人の友達だよね?」声をかけられ、ぼんやりと顔を上げた。校門の守衛が、プリクラを1枚差し出していた。印字された日付は今日。そこには、寄り添って笑う朔と汐里が写っていた。親密そうな二人を見つめていると、昨日、朔に言われた言葉がよみがえった。「ひより、ずっとプリクラを撮りたいって言ってただろ。明日、手続きが終わったら一緒に撮りに行こう」
続きを読む

第2話

高校の3年間で、朔のほうから私を誘ってくれたのは、それが初めてだった。うれしくて昨夜はなかなか眠れず、今朝は動画を見ながら、慣れないメイクまでした。けれど朔は、進学先の手続きに付き合ってくれなかっただけでなく、私と交わした約束まで別の人と先に果たしていた。悲しすぎて、言葉がひとつも出てこなかった。私はその場に立ち尽くし、守衛の話を聞くしかなかった。「あの二人、ずいぶん優秀なんだってね。そろって東央大へ進むらしいじゃないか。恋愛にかまけて勉強をおろそかにする子もいるのに、大したものだよ。見た目もお似合いだしな」そこまで言うと、守衛は一度言葉を切り、私を上から下まで眺めた。「君みたいな地味な子が、あの二人と友達だとは思わなかったよ」いたたまれなさが一気に込み上げた。私は曖昧に笑った。「そうですね。私も、そう思います」それだけ言い残し、タクシーで卒業祝いの食事会へ向かった。朔が電話で言っていたこととは違い、個室に入ってみれば、まだ来ていないクラスメイトは大勢いた。朔と汐里は部屋の隅でぴったり寄り添って座り、頭を寄せ合ってスマホをのぞき込み、ときおり笑いながらじゃれ合っていた。「ひより、何を突っ立ってるの?座れば?」誰かに声をかけられて、朔はようやく顔を上げた。何事もなかったように私を手招きする。「早く来いよ。面白いものがあるんだ」いつもの癖で、足が勝手に朔のほうへ向かった。腰を下ろした途端、クラス委員がからかうように笑った。「朔たち、3年間ずっと3人でくっついてたよな。大学へ行っても、そのままなのか?」私が選んだのは南陵大学だ。もう同じではいられないと口にしかけたとき、朔が両腕を広げ、私と汐里の肩をそれぞれ抱いた。「当たり前だろ。ひよりは何をするにも遅いし、お人よしだからな。俺と汐里が同じ大学にいなかったら、誰かにいじめられても言い返せないだろ」汐里も笑って同調した。「そうそう。ひよりったら、私たちに追いつくために、高3の1年間ずっと個別指導を受けてたんだって。ずいぶんお金もかかったみたい」肩に回されていた朔の腕が、わずかにこわばった。個室のあちこちから、小声でささやき合う声が聞こえてくる。誰かが私を、朔にまとわりつく金魚のふんだと言っていた。聞こえないふり
続きを読む

第3話

顔が一気に熱くなった。テーブルの下で、両手をきつく握り締めた。私のいたたまれなさに気づいたのか、朔はグラスを乱暴にテーブルへ置いた。「勝手なことを言うな。俺たち3人は、ただの友達だ」「へえ、ただの友達ねえ」クラス委員が、わざと語尾を引き延ばした。汐里は慌てて両手を振った。「もう、変なこと言わないで。うちの母、恋愛は大学に入ってからって厳しかったの。高校のうちは駄目だって」汐里は否定したつもりなのだろう。けれど、その言い方では火に油を注ぐだけだった。「何だ、汐里の家が厳しいから付き合えなかっただけか。それなら今こそ告白しろよ!」「両思いなんだろ?朔、怖じ気づくなって!」はやし立てる声は、どんどん大きくなる。けれど朔は、いつまでたっても口を開かなかった。「ひより、朔が告白するっていうのに、どうしてそんな顔してるの?」頭の中が真っ白になった。返事に窮していると、汐里と親しい女子が口を挟んだ。「本当の友達なら、朔が誰と付き合っても怒ったりしないよね。そうでしょ、ひより?」そう言われては、皆の前でうなずくしかなかった。私はどうにか笑みをつくり、うなずいた。「うん。怒らないよ」まるで私の返事を待っていたかのように、朔が不機嫌そうに口を開いた。「人前で告白する趣味はない」汐里は明らかに落胆していたが、すぐに屈託のない笑顔をつくった。「そうだよ。私たち3人はただの友達なんだから、もう変なこと言わないで。ほら、早く注文しよう」二人が話題を変えてしまったため、皆は残念そうに席へ戻った。注文用のタブレットが私のところへ回ってきた。手を伸ばした瞬間、汐里が横から取り上げ、笑顔で目配せした。「ひよりは選ぶのに時間がかかるから、私と朔で決めてあげる。好きなものなら、二人ともちゃんと知ってるし」反論する隙も与えられないまま、二人は顔を寄せ合って料理を選び始めた。「激辛チキン、スパイシーシーフード、それから白身魚の香草焼き」朔は3品挙げると、私を振り返った。「俺たち3人が好きなものを、ひとつずつな」そう言って、タブレットを次の人へ渡してしまった。私は湿疹のできた手を見下ろし、苦い思いを押し隠してうなずいた。白身魚の料理は好きだった。けれど医師からは、湿疹が治ま
続きを読む

第4話

スマホを見つめたまま固まっていると、朔が私の腕を軽く小突いた。どこか気まずそうな声だった。「学校の近くは回線が不安定で、一度に1枚しか取れなかったんだ。ひよりも行きたいなら、あとで探してやるよ。ただ、俺たちとは席が離れるけどな」汐里も慌てて謝った。「ひより、本当にごめんね。行きたいなら、私のチケットを譲るよ」「駄目だ!」朔は即座に遮り、不満げに私を見た。「汐里は何年もMIRAのファンなんだぞ。譲る必要はない。ひよりも、少しは空気を読めよ」私は何も言っていない。それなのに、なぜか私だけがわがまま扱いされた。さすがに腹が立った。「私、最初から行くつもりないよ」嘘ではない。MIRAを好きになって10年になるが、公演日は大学の入学式前日で、会場は東央にある。南陵大学からは遠すぎて、とても行けない。本当のことを言ったのに、朔は信じなかった。「チケットは探してやるって言ってるだろ。何をすねてるんだよ。俺と汐里がいなかったら、お前みたいにのろまで方向音痴なやつは、チケットを持ってても遅刻して見逃すに決まってる」もう10年以上、一緒にいる。朔にここまで言われたのは初めてで、たちまち目の奥が熱くなった。「ひより……」「失礼します、お料理をお持ちしました」店員の声が、朔の言葉を遮った。朔は気まずそうに私を見ると、白身魚の皿を黙って私の前に置いた。けれど、アレルギーが出ている私は、最後まで一口も食べなかった。朔が人目を盗んで骨をきれいに外し、私の取り皿へ置いた魚にも、気づかないふりをした。「朔、休みに予定がないなら、皆で旅行しない?」解散するとき、クラス委員がふいに声をかけた。朔は一瞬固まり、気まずそうに唇を結んだ。汐里も困ったように笑う。「ごめん。私と朔、明日から南島へ行くことになってるの……」
続きを読む

第5話

朔が後ろめたそうに言い訳する声が聞こえた。「ひより、勘違いするなよ。お前は海が苦手だから言わなかっただけで、仲間外れにするつもりじゃなかったんだ。どうせ俺たちは東央大で一緒なんだし、冬休みになったら、お前が行きたいところへどこでも付き合う。汐里抜きでもいいから」顔を上げて朔を見た。その目は、これからも3人でいられると信じ切っているように輝いていた。喉元まで出かかっていた言葉を、もうのみ込めなかった。「朔、私、東央大には――」「朔、今日撮ったプリクラ、見てない?守衛さんに見せたとき、落としたのかな……」汐里の声が、私の言葉を遮った。バッグからプリクラを出すより先に、汐里は朔の腕を引いて立ち去った。しばらくして、朔からLINEが届いた。【プリクラは、お前を待ってる間に汐里が撮ろうと言いだしただけだ。今度、二人で撮ろう】【もう遅いからタクシーを呼んでおいた。配車情報を送る。乗ったら連絡しろ】迷った末、私はプリクラをクラス委員に預け、朔へ渡してほしいと頼んだ。そして、朔のアカウントをブロックした。帰りのタクシーの中で、最初に登る山へ向かう切符を取った。高1のころ、朔と約束したことがある。二人とも志望大学に合格できたら、大学入学までの春休みを使って5つの名峰を巡ろう、と。朔は忘れていたが、私は覚えていた。彼が果たさないなら、一人で約束の場所へ行けばいい。そう決めて、これで吹っ切れたつもりだった。けれど荷造りの途中、朔にもらったウサギのチャームを見つけると、涙が止まらなくなった。それは小学校に入学した年、朔がくれたものだった。あの春、両家で海へ出かけた。波を追いかけていた朔が海に落ちたとき、近くに大人はいなかった。私は朔を助けようとして溺れ、3日間も意識が戻らなかった。一命は取り留めたものの、医師からは、心身の発達がほかの子より少し遅れる可能性があると言われた。当時の私たちには、その「少し遅れる」という言葉の意味が分からなかった。歩くのが遅くなるだけだと思っていた。幼い朔は私の手を握り、こう言った。「ひより、怖がらなくていいよ。ひよりが遅いなら、俺が待つから」朔は実際、それから高校1年になるまで、ずっと私を待ってくれた。高校の入学式の日、私は初めて朔よ
続きを読む

第6話

朔をもう一度ブロックすることはしなかった。けれど夏休みの間、私たちは互いに一度も連絡を取らなかった。ただ、それぞれ自分の旅を続けていた。最初の山では夜通し歩き、山頂から壮大な雲海と朝日を見た。下り道では脚がひどく震え、私はカタツムリのように、少しずつしか進めなかった。旅の途中で知り合った真壁琴葉(まかべ ことは)は、そんな私を嫌がらなかった。立ち止まって待ちながら、何度も励ましてくれた。「ひよりって、本当にすごい!そんなに脚が震えてるのに、自分で最後まで下りようとしてるんだよ。今日から私の憧れ!」あまりに褒められ、恥ずかしくて顔が熱くなった。「先に下りていいよ。私、遅いから。このあとの予定まで狂わせたら悪いし」琴葉が答えるより先に、同行していた兄の真壁律希(まかべ りつき)が笑った。「心配しなくても、予定は狂わないよ。琴葉は、ひよりにもっとゆっくり歩いてほしいくらいだ。そうすれば、自分も堂々と休めるから」琴葉は兄をにらみつけた。「黙ってよ。ひよりの前で、私の印象を悪くしないで!私たち、これから同じ大学なんだから!」そう言ってから、律希も南陵大学の先輩だと思い出したらしい。すぐに言葉を足した。「同級生って意味ね。2学年も上の誰かさんとは違うから!」律希は片眉を上げたが、何も言わなかった。ただ、私が地面に置いていたリュックを持ち上げた。「そうか。じゃあ、ひよりの荷物は俺が持つ。琴葉は自分で背負えよ」遠ざかる律希の背中を見て、琴葉はむっと頬を膨らませた。私が代わりに持とうかと言っても、きっぱり断られた。「大丈夫!お兄ちゃんに持てるなら、私にだって持てる。女だからって甘く見ないで!」二人の軽口を聞いているうちに、私の気まずさも少しずつ消えていった。時間をかけて山を下りたあと、私がこの夏にあと4つの名峰を巡るつもりだと話した。兄妹は顔を見合わせ、その場で一緒に行くと決めた。「すごい偶然!ひより、どうして私の夢が5つの名峰を全部巡ることだって分かったの?」旅の仲間ができたことは、素直にうれしかった。けれど、この3年間の記憶が胸によみがえる。朔や汐里と出かけるたび、歩くのが遅い、食べるのが遅いと責められ、置いていかれた。そのせいで、どうしても不安を拭えなかった。
続きを読む

第7話

琴葉と律希が一緒に来てくれたおかげで、残る4つの山を巡る旅は、心から楽しいものになった。二人は約束どおり、旅の間、一度も私を急かさなかった。山を登っていて、私が疲れを感じ始めたころには、二人のほうから声を上げた。「もう無理。ちょっと休もう!」店で私がなかなか料理を選べなくても、二人は先に決めたりしなかった。メニューと口コミをじっくり見比べ、最後は3人で相談して決めた。私の手に湿疹が出ていると気づいても、二人は何も言わなかった。ただ、その時期だけは、刺激の強いものや魚介料理を一度も注文しなかった。二人があまりにもさりげなく気遣ってくれたから、SNSで朔と汐里の写真を見かけても、寂しいとは思わなくなった。汐里が以前と同じように、私へ見せつけるようなメッセージを送ってきても、そのまま読み流せた。朔がときどき、私の好きそうな小物の写真に、こんな言葉を添えて投稿しても、心は少しも揺れなかった。【ある人へのお土産、またひとつ追加】旅が終わり、それぞれの家へ帰る日だけは、別れがつらくて目が潤んだ。「琴葉、大学が始まっても絶対に連絡してね」私は何度も念を押しながら、琴葉の手を握った。琴葉も涙を浮かべ、名残惜しそうに抱きついてきた。「もちろん。ひよりも、私のこと忘れないでね。メッセージしたら、絶対に返してよ。お兄ちゃんからのは、無視していいから」琴葉は律希をにらむと、私の耳元で声を潜めた。「あの人、ひよりに下心があると思う。私たち、これから大学生になるんだよ。素敵な人にたくさん会えるんだから、あんな人にさらわれちゃ駄目」思わず笑ってしまった。そのせいで、律希に別れの挨拶をするときは、妙に意識して言葉がぎこちなくなった。私の戸惑いに気づいた律希は、何も言わず、私の手のひらに絆創膏を載せた。「さっき、また脚を擦っただろ。貼っておいたほうがいい」驚いて、自分の脚を見る。以前の傷痕のそばに、ごく小さな切り傷ができていた。自分でも痛みに気づかなかったほどの傷を、律希は見つけ、絆創膏まで買ってくれていた。「ありがとう」どうにか礼を言ったものの、耳は熱くなる一方だった。律希は楽しそうに片眉を上げた。「じゃあ、大学でな。後輩ちゃん。琴葉にだけ返事をして、俺のメッセージは無視するなんてこ
続きを読む

第8話

顔が一気に熱くなった。ちょうど改札の案内放送が流れたため、小さく返事をして、その場から逃げるように駆けだした。背後ではすぐに、琴葉が律希をたたく音と、兄妹の言い合う声が聞こえた。家へ戻った時点で、入学式まであと1週間だった。必要なものを買いそろえ、東央へ進学する友人たちとも、何度か食事をした。私が一人で南陵大学を選んだと聞くと、皆は初めこそ信じられない顔をしたが、やがて大きくうなずいた。「ひより、私も朔たちとは離れたほうがいいと思う」「朔は誰にでもいい顔をするし、汐里は人を振り回す。あの二人と一緒にいたら、ひよりが消耗するだけだよ」二人に否定され続け、自分には何の取り柄もないと思い込んでいたころを思い出す。私は笑ってグラスを上げた。「うん。これからは、きっとよくなるよ」友人たちに別れを告げ、あっという間に出発前日になった。荷物の最終確認をしていると、インターホンが鳴った。玄関を開けると、思いがけない人が立っていた。「ひより、お土産をたくさん買ってきたぞ!」私が返事をする間もなく、朔は大きなスーツケースを引いて家へ入ってきた。ふたを開けると、貝殻の風鈴やバッグ、ブレスレット、小さなアクセサリー、土地の名産品が次々と現れた。「ほら、全部お前に買ってきたんだ。わざわざ今日に間に合うように帰ってきたのも、お前が東央へ持っていきたいものを選べるようにするためだぞ」朔はそう言って笑った。ひと夏会わないうちに、肌は少し焼け、体も少し細くなっていた。ずいぶん変わったように見えた。けれど、次の言葉を聞いた途端、何ひとつ変わっていないと思った。「早く選べよ。お前は荷造りだって遅いんだから、さっさと決めて準備しないと、明日も俺と汐里を待たせるぞ。どうせ切符も取ってないんだろ。俺が取っておいたから安心しろ。ただ、買うのが遅くなって、並びの席が取れなかったんだ。俺と汐里は隣で、お前だけ後ろの席になる」私が黙って見つめていると、朔は眉を寄せ、からかうように笑った。「どうしても俺の隣がいいなら、代わってやってもいい。その代わり、ひとつ言うことを――」「朔」彼の言葉を遮った。私は南陵大学へ行く。そう告げようとして、朔に長いこと待たされた日のことを思い出した。私も初めて、少しだけ意
続きを読む

第9話

私のどの言葉が気に障ったのか、朔は顔を真っ赤にして立ち上がった。「ずいぶん分かってるじゃないか!」そう吐き捨て、ドアを乱暴に閉めて出ていった。残されたのは、お土産の詰まったスーツケースだけだった。中にまだ少し隙間があるのを見て、私は考えた。これまで朔からもらったものを全部集め、どこへ行くにも連れていったウサギのチャームも一緒に詰め込んだ。スーツケースはいっぱいになり、ふたを閉めるのに苦労するほどだった。母には、明日、朔から連絡が来てから彼の家へ届けてほしいと念を押した。それから、とっくに用意を済ませていた自分の荷物を持って家を出た。南陵へ向かう飛行機に乗った。今回も、空港に着いたのは搭乗手続きの締切ぎりぎりだった。けれど、急げと責める人はもういない。律希から届いたのは、こんなメッセージだった。【焦らなくていいから、気をつけて来い。乗り遅れたって次があるし、大学は逃げない。それに、琴葉はまだ起きてない】画面を見つめているうちに、自然と頬が緩んだ。スマホの電源を切る前に返信した。【南陵大で会おうね】……ひよりが5つの名峰を巡ると知った瞬間、朔は高校1年のころに二人で交わした約束を思い出した。ひよりの足元に置かれた荷物を見ていると、前日の卒業祝いで、皆に汐里へ告白しろとはやし立てられても、ひよりがまるで気にしていなかったことが脳裏をよぎった。急に不安になった。「俺も一緒に山へ行く。駅で待ってろ」そう告げると、朔は家へ戻り、慌てて荷物を詰め直した。汐里には電話で、一人で南島へ行くように伝えた。彼女が怒ろうが、朔にはどうでもよかった。汐里が自分に好意を抱いていることは、ずっと前から知っていた。それでもそばに置いていたのは、朔も汐里を好きだったからではない。ひよりの気持ちに、どうしても確信が持てなかったからだ。幼いひよりを診た医師が言ったように、彼女の心身の成長は、確かにほかの子より少しゆっくりだった。朔が、ひよりに近づく男子へ嫉妬するようになったころも、ひよりは子どものころと変わらなかった。何をするにもゆっくりで、いつも穏やかに笑っていた。ほかの女子から、朔にラブレターを渡してほしいと頼まれれば、何の疑いもなく引き受けてしまう。淡い桃色の封筒を見たと
続きを読む

第10話

最初のうちは、狙いどおりだった。朔が汐里と同じタクシーで校門へ着いた途端、ひよりの笑顔はほんのわずかに曇った。ほかの人には分からなくても、朔にはひよりが不機嫌になったと分かった。幼いころから一緒にいる朔には、ひよりのわずかな変化も手に取るように分かった。落ち込むひよりを見てうれしくなる一方で、胸も痛んだ。だからその日、汐里に連絡先を聞かれても、すぐには教えなかった。代わりに、ひよりへ尋ねた。「なあ、ひより。俺たち、ずっと一緒に育った幼なじみだろ。ほかの女子に連絡先を教えてって言われたんだけど、教えてもいいと思う?」ひよりの顔が真っ赤になるのを見て、朔は内心、してやったりと思った。「好きにすれば!」けれど、期待していた「教えないで」は返ってこなかった。頬を膨らませ、そのまま行ってしまった。朔は一瞬戸惑ったが、ひよりは恥ずかしがり屋だから、まだ刺激が足りないのだと思った。そこで汐里と連絡先を交換した。偶然にも、汐里は二人と同じクラスだった。それから3年間、朔は汐里を、ひよりのヤキモチを誘うための当て馬にした。狙いどおり、ひよりが寂しげな顔や傷ついた顔を見せることは増えた。朔はそれを、自分を想っている証拠だと受け取った。ひよりが朔を大切に思っていたこと自体は、間違いではない。けれど、どれほど大切な相手でも、傷つけられ続ければ心は疲れ、やがて手放すことを覚える。朔はあまりにも自信過剰だった。ひよりの顔から悲しみが少しずつ消えていることにさえ、気づかなかった。卒業祝いで告白をはやし立てられたとき、朔が真っ先にひよりを見たのは、その反応を確かめたかったからだ。朔が想いを告げたかった相手は、初めからひよりだけだった。けれど、ひよりは気にしないと言った。恥ずかしさと恐怖が、同時に胸へ押し寄せた。朔は腹を立てたふりでごまかした。だが今、ひよりと一緒に山へ行かなければ、二度と機会は巡ってこないような気がした。ところが荷物を引いて家を出ると、目を赤くした汐里が玄関の前に立っていた。「朔、この3年間、どこへ行くにも3人だったよね。今回だけは、私と一緒に行ってくれないの?南島へ行くのは、亡くなった母との約束なの。知ってるでしょう?」朔は苛立たしげに眉を寄せ、断ろうとした。そ
続きを読む
前へ
12
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status