ログイン私・小暮ひより(こぐれ ひより)はいつも、人より少しだけ遅れてしまう。 幼なじみの鳴海朔(なるみ さく)と親友の瀬川汐里(せがわ しおり)は、そんな私とは正反対で、何をするにもせっかちだった。 一緒に食事をすれば、私がまだ半分も食べ終わらないうちに、二人は隣のゲームセンターへ行こうと言いだし、私を店に置いていく。 一緒に泳ぎに行ったときは、途中で足がつって助けを求めたのに、二人はとっくにプールから上がり、姿を消していた。 大学への入学手続きをする日、私がまだ入力画面すら開けずにいるうちに、二人は東央大学への入学手続を終えて、さっさと席を立った。 「ひよりは遅すぎるんだよ。汐里のためにライブのチケットを取らなきゃならないから、もう待っていられない。俺たちは東央大にしたから。間違えるなよ」 そう言い残すと、朔は汐里に手を引かれ、足早に出ていった。 あまりにも急いでいたせいで、私の言葉は二人の耳に届かなかった。 「私、東央大には行かないよ。だからもう、私を待たなくていい」
もっと見る言葉を遮られた朔は、傷ついた顔をした。「ひより、どうして南陵大なんだよ。俺たち、一緒に東央大へ行くって約束しただろ?どうして何も言ってくれなかったんだ?」長年の情は、そう簡単には消えない。もう朔を好きではないのに、そんな姿を見ると、ため息がこぼれた。「朔。私が東央大を目指していたのは、朔が行きたがっていたからだよ。私が本当に行きたかったのは、ずっと南陵大だった。東央大を選ばなかったのは、もう朔のあとを追いたくなかったから。疲れたの。進学先を決めた日に伝えようとしたけど、朔は聞いてくれなかった。そのあとは、もう言う必要もないと思った。山へ行く約束を破られて腹が立っていたから、黙っていたかった気持ちも少しはあるよ。でも、これでおあいこ。明日は入学式なんだから、早く東央へ戻って」話せば話すほど、朔の顔から血の気が引いていった。私が話し終えたころには、今にも崩れ落ちそうだった。「どうしてだよ。俺は汐里とは何でもない……好きなのは、ひよりなんだ」私は目を見開いた。過去の出来事が、次々と脳裏をよぎる。朔は、私を好きだったのだろうか。初めのころは、私もそう思っていた。私に近づく男子を追い払い、ほかの女子からもらったラブレターを破り捨てたからだ。けれど、いつからか信じられなくなった。「俺が汐里と親しくしていたのは、お前を嫉妬させたかったからで……」一瞬、言葉を失った。あまりにも馬鹿げていて、乾いた笑いが漏れた。「朔は子どもなの?好きな子ほどいじめたくなる、なんて言い訳が通じると思ってる?私が好きなら、どうしてまっすぐ言わなかったの?どうして、あんなやり方で……」言いかけて、首を振った。「でも、もうどうでもいい」その言葉を口にした途端、これまでの悲しみも恨みも、胸の中で静かにほどけていくようだった。「ひより、もう一度だけ、機会をくれないか?俺も浪人して、来年は南陵大を受ける。二度とあんなことはしないから……」「無理だよ」入学式を控え、正門前を行き交う人は増える一方だった。入学早々、噂の的にはなりたくない。私は朔をまっすぐ見た。「私を嫉妬させるために汐里を利用しようと決めた時点で、朔にはもう機会なんてなかった。人を傷つけて愛情を確かめるなんて、気持ち悪いよ」それだけ告
出発の日、東央の新居へ大半の荷物を先に送っていた朔は、いつもより早く実家を出た。遠回りをしてひよりの家へ寄り、一緒に大学へ向かうつもりだった。けれど、玄関から出てきたのは、ひよりの母だった。朔を見ると、ひよりの母は、昨日置いていったスーツケースを急いで差し出した。「朔くん、ちょうどよかった。これ、ひよりから」朔は全身から血の気が引くのを感じ、呆然と立ち尽くした。ひよりの母は、この3年間に二人の間で何があったかを知っていた。とはいえ、相手は自分の娘と同じ年の子だ。まして、これほど傷ついた顔を見れば、責める気にはなれなかった。ため息をつき、静かに言った。「ひよりが選んだのは、南陵大学なの。私たち夫婦と朔くんのご両親は昔から親しいし、あなたたちも一緒に育ってきたでしょう。こんなことになるなんて、誰も思っていなかった。でも、もう決まったことよ。これからは、それぞれ自分の道を歩きなさい」耳鳴りがした。朔は差し出されたスーツケースを受け取らず、自分の荷物までその場に残して走りだした。南陵大学へ行って、ひよりを連れ戻さなければならない。……南陵空港に着くと、琴葉と律希が到着ロビーの外で待っていた。私が何か言うより先に、二人はほとんど同時に口を開いた。「私たちも今来たところ。ひより、ちょうどいい時間だったよ」律希が何も言わずに私のスーツケースを受け取り、琴葉が手を握った。「お兄ちゃんが新入生サポートのスタッフをしてるから、大学行きのバス、前の席を取っておいてもらったの」律希の背中を見つめていると、胸の奥が温かくなった。大学へ向かうバスでは、律希が私と琴葉の後ろに座った。しばらく走ったころ、後ろから水のペットボトルが差し出された。驚いて振り返った。「琴葉の話し相手は疲れるだろ。水を飲んで、少し休め」琴葉はすぐに振り向き、律希と言い合いを始めた。おかげで、私は少し目を閉じて休めた。ところが、スマホが何度も鳴り始めた。スマホを見ると、画面は朔からのメッセージで埋め尽くされていた。【ひより、南陵大にしたなら、どうして俺に言わなかった?】【まだ俺に怒ってるんだろ?】【山へ一緒に行く約束を破ったのは悪かった。でも汐里に、南島へ行くのは亡くなった母との約束だから一緒に来
最初のうちは、狙いどおりだった。朔が汐里と同じタクシーで校門へ着いた途端、ひよりの笑顔はほんのわずかに曇った。ほかの人には分からなくても、朔にはひよりが不機嫌になったと分かった。幼いころから一緒にいる朔には、ひよりのわずかな変化も手に取るように分かった。落ち込むひよりを見てうれしくなる一方で、胸も痛んだ。だからその日、汐里に連絡先を聞かれても、すぐには教えなかった。代わりに、ひよりへ尋ねた。「なあ、ひより。俺たち、ずっと一緒に育った幼なじみだろ。ほかの女子に連絡先を教えてって言われたんだけど、教えてもいいと思う?」ひよりの顔が真っ赤になるのを見て、朔は内心、してやったりと思った。「好きにすれば!」けれど、期待していた「教えないで」は返ってこなかった。頬を膨らませ、そのまま行ってしまった。朔は一瞬戸惑ったが、ひよりは恥ずかしがり屋だから、まだ刺激が足りないのだと思った。そこで汐里と連絡先を交換した。偶然にも、汐里は二人と同じクラスだった。それから3年間、朔は汐里を、ひよりのヤキモチを誘うための当て馬にした。狙いどおり、ひよりが寂しげな顔や傷ついた顔を見せることは増えた。朔はそれを、自分を想っている証拠だと受け取った。ひよりが朔を大切に思っていたこと自体は、間違いではない。けれど、どれほど大切な相手でも、傷つけられ続ければ心は疲れ、やがて手放すことを覚える。朔はあまりにも自信過剰だった。ひよりの顔から悲しみが少しずつ消えていることにさえ、気づかなかった。卒業祝いで告白をはやし立てられたとき、朔が真っ先にひよりを見たのは、その反応を確かめたかったからだ。朔が想いを告げたかった相手は、初めからひよりだけだった。けれど、ひよりは気にしないと言った。恥ずかしさと恐怖が、同時に胸へ押し寄せた。朔は腹を立てたふりでごまかした。だが今、ひよりと一緒に山へ行かなければ、二度と機会は巡ってこないような気がした。ところが荷物を引いて家を出ると、目を赤くした汐里が玄関の前に立っていた。「朔、この3年間、どこへ行くにも3人だったよね。今回だけは、私と一緒に行ってくれないの?南島へ行くのは、亡くなった母との約束なの。知ってるでしょう?」朔は苛立たしげに眉を寄せ、断ろうとした。そ
私のどの言葉が気に障ったのか、朔は顔を真っ赤にして立ち上がった。「ずいぶん分かってるじゃないか!」そう吐き捨て、ドアを乱暴に閉めて出ていった。残されたのは、お土産の詰まったスーツケースだけだった。中にまだ少し隙間があるのを見て、私は考えた。これまで朔からもらったものを全部集め、どこへ行くにも連れていったウサギのチャームも一緒に詰め込んだ。スーツケースはいっぱいになり、ふたを閉めるのに苦労するほどだった。母には、明日、朔から連絡が来てから彼の家へ届けてほしいと念を押した。それから、とっくに用意を済ませていた自分の荷物を持って家を出た。南陵へ向かう飛行機に乗った。今回も、空港に着いたのは搭乗手続きの締切ぎりぎりだった。けれど、急げと責める人はもういない。律希から届いたのは、こんなメッセージだった。【焦らなくていいから、気をつけて来い。乗り遅れたって次があるし、大学は逃げない。それに、琴葉はまだ起きてない】画面を見つめているうちに、自然と頬が緩んだ。スマホの電源を切る前に返信した。【南陵大で会おうね】……ひよりが5つの名峰を巡ると知った瞬間、朔は高校1年のころに二人で交わした約束を思い出した。ひよりの足元に置かれた荷物を見ていると、前日の卒業祝いで、皆に汐里へ告白しろとはやし立てられても、ひよりがまるで気にしていなかったことが脳裏をよぎった。急に不安になった。「俺も一緒に山へ行く。駅で待ってろ」そう告げると、朔は家へ戻り、慌てて荷物を詰め直した。汐里には電話で、一人で南島へ行くように伝えた。彼女が怒ろうが、朔にはどうでもよかった。汐里が自分に好意を抱いていることは、ずっと前から知っていた。それでもそばに置いていたのは、朔も汐里を好きだったからではない。ひよりの気持ちに、どうしても確信が持てなかったからだ。幼いひよりを診た医師が言ったように、彼女の心身の成長は、確かにほかの子より少しゆっくりだった。朔が、ひよりに近づく男子へ嫉妬するようになったころも、ひよりは子どものころと変わらなかった。何をするにもゆっくりで、いつも穏やかに笑っていた。ほかの女子から、朔にラブレターを渡してほしいと頼まれれば、何の疑いもなく引き受けてしまう。淡い桃色の封筒を見たと
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