All Chapters of 出生の秘密を知った日、私の命はもう尽きかけていた: Chapter 1 - Chapter 10

14 Chapters

第1話

「こんな夜中に、何騒いでるの?」母が寝室のドアを開け、眉をひそめた。廊下の照明は薄暗かった。それでも、母の目に浮かぶ嫌悪だけは、嫌になるほどはっきり見えた。母との距離は2メートルもない。足元には、割れたグラスが散らばっていた。顔を上げる。39度の熱で視界はぼやけているのに、母の表情だけは妙にはっきり見えた。警戒するような目。その奥には、夜中に邪魔された苛立ちまでにじんでいる。「……落としただけ」小さく答え、ゆっくりしゃがんでガラスの破片を拾い始めた。母はため息をつき、立ったまま私を見下ろした。「ほんと、いつもそそっかしいんだから。紗月は明日ピアノコンクールなのよ。起こしたりしたら、お父さんに怒られても知らないわよ」寝室の奥から、父の不機嫌そうな声が飛んできた。「もういい。片づけたら、さっさと部屋に戻らせろ。いつまでもそこにいられたら邪魔だ」母は腕を組んだまま、冷たい目で私を見た。「聞こえたでしょ。ちゃんと片づけなさい」顔が熱で真っ赤になっていることも。しゃがんでいるだけなのに体が震えていることも。母は何ひとつ聞かなかった。黙ったまま、最後に残った破片を拾い上げる。鋭い縁が人差し指に食い込み、すぐに血がにじんだ。赤い雫がぽたりと落ち、ウールのカーペットに小さな赤黒い染みを広げていく。重症の再生不良性貧血で、血小板はひどく減っていた。こんな小さな傷でも、血はなかなか止まらない。あっという間に、掌まで真っ赤になった。そこでようやく、母も気づいた。けれど、心配するより先に息を呑んだ。「朝葉、まさかわざとじゃないでしょうね?そのカーペット、紗月が気に入ってるのよ。わざと汚して、私たちへの当てつけでもしてるつもり?」指先を伝う血を見つめていると、体の芯まで冷えていくようだった。19年。6歳のとき、父と母から「朝葉はうちの本当の子じゃない」と聞かされてから、私はずっと、この家で何をするにも遠慮して暮らしてきた。新しい服が欲しいとも言えなかった。お小遣いもねだれなかった。具合が悪くても、病気だと口にすることさえ怖かった。捨てられるのが怖かったから。けれど、今はもう分かっている。私は、この家に遠慮して生きる必要なんてなかった。実の父と
Read more

第2話

「ちゃんときれいにするから」母は鼻で笑うと、私の目の前で勢いよく寝室のドアを閉めた。廊下にひとり残された私は、カーペットについた血を少しずつ拭き取った。それから、窓もない狭い使用人部屋へ戻った。硬いベッドに横になると、骨の奥の痛みがまた波のように押し寄せてきた。3日前。榎森総合医療センターの血液内科。医師は検査結果を手に、気の毒そうな目で私を見た。「重症の再生不良性貧血です。かなり厳しい状態です。できるだけ早く造血幹細胞移植を検討する必要があります。血縁者がいれば、まずHLAを調べたいところですが、ご両親とは連絡が取れますか?」薄い検査結果の紙を指先でつまんだまま、私は静かに首を横に振った。「実の親はいません」私は養子だ。血のつながった家族なんて、どこにいるのかも分からない。だから、治療を諦めた。子どものころから飲食店のバイトや家庭教師をして貯めてきた140万円を、榎森市郊外の樹木葬霊園に墓所を取るための頭金に充てた。残りは24万円。あと2か月生きられれば、どうにか払いきれる。そう思っていた。けれど、ついさっき知ってしまった。全部、嘘だった。私にはちゃんと、血のつながった父と母がいた。もしHLAが合えば、どちらかがドナーになってくれるかもしれない。助かる可能性は、最初からすぐそばにあった。でも、もう頼る気にはなれなかった。翌朝。体中の痛みをこらえて起き上がり、いつものようにキッチンで朝食の支度をした。紗月は真新しい高級ブランドのワンピースを着て、お姫様みたいにダイニングテーブルについていた。そのワンピースには見覚えがある。半月ほど前、百貨店のショーウィンドウで、長いこと見つめていたものだ。あのとき母は言った。「高すぎるわ。うちの本当の娘でもないあなたが着るような服じゃないでしょう」なのに、そのあとすぐ同じものを紗月に買っていた。「お姉ちゃん、今日すごく顔色悪くない?」紗月は目玉焼きを切りながら、何も知らないような顔で首をかしげた。「昨日、ちゃんと眠れなかったの?この牛乳、飲む?もういらないから」半分ほど残ったグラスを、こちらへ押してくる。母はすぐにやってきて、グラスをつかむと、そのまま中身をシンクへ流した。「紗月が親
Read more

第3話

せめて、実の親に命を助けてほしかった。けれど今、その血縁照合登録票は父の手にある。「朝葉、お前には本当に失望した」父はシートにもたれたまま、怒りではなく、見下すような冷たい目を向けてきた。「久留島家は19年もお前を育ててきた。食べるものも着るものも与えてきた。それなのに、これが恩返しか?家族に黙って血縁照合に登録して実の親探しか。そんなにこの家が嫌で、さっさと次の居場所を探したかったのか?」登録票を見つめる。喉の奥に、血を含んだ綿でも詰まっているように苦しかった。実の親を探したのは、生きるためだった。父の目には、育ててもらった恩も忘れた恩知らずにしか見えていない。「違うよ」静かに書類を茶封筒へ戻した。「自分がどこから来たのか、知りたかっただけ」父は鼻で笑い、ハンドルを切った。「そこまで知りたいなら、望みどおりにしてやる。家に戻るぞ」車は勢いよく走り出し、久留島邸の前で止まった。リビングでは、母と紗月がソファに座っていた。その向かいには、くたびれた服を着た中年の男女が、落ち着かない様子で腰を下ろしている。男は日に焼け、手はごつごつと荒れていた。女は乱れた髪のまま、部屋の中をきょろきょろと見回していた。父は中へ入ると、2人を指した。「朝葉、こっちへ来い」言われるままローテーブルのそばまで行く。「実の親を探してたんだろ?」父は、どうでもいい話でもするような口調だった。「人に頼んで調べてもらった。この2人がお前の実の両親だ。樫尾勝治(かしお かつじ)さんと、樫尾久美子(かしお くみこ)さんだ」久美子はすぐに立ち上がると、私の手をつかみ、無理やり涙を浮かべた。「朝葉ちゃん、やっと会えた。お母さん、ずっと会いたかったのよ。昔は本当にお金がなくて、どうしても育てられなくてね。それで仕方なく道端に置いていったの。恨んでないわよね?」近づいた瞬間、安いタバコのにおいと、すえた汗のにおいが混じって鼻についた。私は冷たく手を引いた。父と母を見る。あまりにも芝居が見え透いていた。昨夜、真実を聞いていなければ、本当に信じていたかもしれない。自分はこんな家の生まれだったんだ、と。でも、私はもう知っている。私は久留島家の実の娘だ。目の前の2人は、父と
Read more

第4話

勝治は私のバッグを乱暴にひったくると、吐き捨てるように言った。「行くぞ。いつまでお嬢様気分でいるつもりだ」私は2人のあとについて玄関へ向かった。父はソファに座ったまま、こちらを振り返りもしない。「朝葉」母に呼び止められ、足を止めた。「向こうに行ったら、ちゃんと言うことを聞きなさい。ここにいたときみたいに、いつまでも不満ばかり言うんじゃないのよ。自分がどれだけ恵まれてたか分かったら、いつでも電話してきなさい。そのときは迎えに行くから」振り返ると、母の向こうに、壁いっぱいに飾られた大きな家族写真が見えた。父と母、そして紗月。3人とも幸せそうに笑っている。そこに、私の姿だけがなかった。「分かった」玄関のドアを開ける。「でも、電話はしないから」長く、ひどく揺れる道のりだった。長距離バスで山道を4時間ほど走り、途中からは古びた軽バンに乗り換えた。車内には、肥料と湿った土のにおいが染みついていた。奥白村に着いたころには、すっかり夜になっていた。連れて行かれたのは、今にも崩れそうな古い木造家屋だった。窓の隙間から風が入り込み、庭には湿った薪や農具が雑然と置かれている。家に入った途端、それまで勝治と久美子の顔に浮かんでいた遠慮や愛想は、跡形もなく消えた。久美子は私のバッグを奪い取ると、中身を土間へぶちまけた。何度も洗って色の落ちた古着が数枚。画面にひびの入った古いスマホ。あとは、少しばかりの現金だけ。「これだけ?」久美子は顔をしかめ、床に落ちた服をつま先で蹴った。「都会の金持ちの家で十何年もいい暮らししてたんでしょ?アクセサリーの1つも持ってないわけ?」勝治は悪態をつくと、こちらへ歩いてきて肩をつかんだ。指が骨に食い込むほどの力だった。「金ばっかりかかる厄介者だな。迎えに行くだけで、こっちは交通費まで払ったんだぞ。明日から庭の片づけも、薪割りも、飯の支度も全部お前がやれ。タダで置いてもらえると思うなよ」熱はずっと下がっていなかった。何日も移動の疲れも重なり、骨の一本一本を叩かれているように痛む。肩をつかむ手から逃れようとした瞬間、勝治に強く突き飛ばされた。地面に倒れ、膝を尖った石にぶつける。皮膚が破れ、血がすねを伝って流れた。重症の
Read more

第5話

3日間、重い仕事を続け、ろくに食べられなかったせいで、体調は一気に悪化した。4日目の午後。庭で薪を運んでいる途中、前触れもなく足から力が抜け、そのまま倒れ込んだ。鼻血が止めどなくあふれ、汚れた土の上にぽたぽたと落ちる。勝治が近づいてきて、倒れている私の脇腹を靴先で蹴った。「死んだふりしてないで、起きて働け!」顔を上げ、かすかな声を絞り出す。「病気なの……病院に、連れていって……」久美子も寄ってきたが、私の顔を見るなり口を曲げた。「病院?病院だってお金がかかるのよ。向こうの金持ちからは、しっかり鍛えて少しくらい苦労させてくれって言われてるの。病人のふりなんかしても無駄だからね!」2人は私を引きずるように物置へ戻すと、外から鍵をかけた。暗闇の中、手探りでポケットから画面の割れた古いスマホを取り出す。弱い光が、血まみれの手をぼんやり照らした。連絡先を開き、母の番号を押す。あの家に助けを求めるのは、これで最後。生き延びるためじゃない。あの人たちが、どこまで私に冷たくなれるのか、最後に知りたかっただけだ。長い呼び出し音のあと、ようやく電話がつながった。「もしもし?」母の声には、少し苛立ちが混じっていた。電話の向こうでは、紗月のピアノが流れている。「……お母さん」弱々しく呼ぶと、勝手に涙がこぼれた。「痛いの……血が、たくさん出て……殴られるし、ご飯ももらえない……お母さん、お願い。迎えに来て……」「もういい加減にして、朝葉!」母が鋭い声で遮った。「いつまでそんな芝居を続けるつもり?向こうへ行かせたのは、少しくらい苦労して考え方を改めてもらうためよ。そんな同情を引く真似をさせるためじゃないの。紗月は今、コンクール前の大事な時期なの。余計な電話で気を散らさないで。いつまでも甘えたり、人を困らせて思いどおりにしようとしたりするのをやめたら、迎えに行くか考えるわ」通話が切れた。スマホを握ったまま、短い電子音を聞いた。口元に、自嘲するような笑みが浮かぶ。考え方を改めさせる。その言葉を理由に、あの人たちは私をここへ置き去りにした。私にとっては、死ねと言われたのと同じだった。目を閉じ、スマホを部屋の隅へ放った。「……分かった。もう、病気のふりなん
Read more

第6話

けれど、私の体の下に広がった血と、青黒くなった顔を見た瞬間、久美子もようやく様子がおかしいことに気づいた。「か、勝治……この子、息……ほとんどしてないんじゃない?」声が震えている。勝治は一瞬固まり、それから近づいてくると、木の棒で私の腕をつついた。「おい!死んだふりしてんじゃねえ!」私は動かなかった。目は半分開いたまま、瞳の焦点も合わなくなっている。それでも、冷たく2人を見ていた。勝治もようやく慌てた。木の棒を放り出し、鼻元に手を近づけると、びくりとしてすぐに手を引っ込めた。「くそっ!あの金持ち、こんな重病だなんて聞いてねえぞ!ここで死なれたらどうすんだよ。警察に来られたら、どう説明するんだ!」久美子はその場にへたり込んだ。「じゃ、じゃあどうするの?早く病院に連れていかないと!」「病院なんか連れていけるか!金だってかかるし、こっちが殴ったせいだって言われたらどうする!勝手に病気で死んだことにする。鍵をかけろ。誰にも言うな!」2人は逃げるように物置を出ていった。外から、鍵のかかる鈍い音がした。暗闇の中で、完全に逃げ道がなくなった。もう、どうにかしようとは思わなかった。力を抜き、最後のときを静かに待った。そのとき。部屋の隅に放り投げたスマホが、突然明るくなった。ひび割れた画面には、【お父さん】の文字が浮かんでいた。残っている力を振り絞り、床を這うようにしてスマホまで近づく。震える指で、どうにか通話ボタンを押した。「朝葉、いつまで拗ねてるつもりだ?」父の声は、いつもと変わらず冷たく、威圧的だった。「お母さんから聞いたぞ。昼間も病気のふりをして電話してきたそうだな。そんなことして面白いのか?田舎で不便なのは分かる。だが、あそこにいるのはお前の実の親だろ。文句を言える立場か?」口を開いた。けれど、声が出ない。喉の奥は血の泡でいっぱいで、息をするたびにかすかな音が漏れるだけだった。父は構わず続ける。「明日は紗月のピアノリサイタルだ。本当なら一度迎えに行って、見せてやろうと思ってたんだ。紗月と自分がどれだけ違うか、少しは分かるだろうからな。その態度なら、まだ向こうにいろ。しばらく反省しろ。俺がいいと言わない限り、あの2人だって勝手にお前を帰したり
Read more

第7話

母の手から、ダイヤのネックレスが床に落ちた。「……何ですって?」スマホを握る手が大きく震え、声が一気に高くなる。「冗談でしょう?私は朝葉の母親です。あの子、今日の午後にも病気のふりをして電話してきたんですよ。死んだなんて、そんなはずないでしょう。どこの詐欺師なの?久留島家を騙せるとでも思ってるの?」電話の向こうの警察官は、声を変えず、事務的に答えた。「久留島さん、冗談ではありません。ご遺体はこちらで確認しています。医師の確認では、亡くなったのは1時間ほど前とみられています。通報したのは樫尾勝治さんと樫尾久美子さんです。朝葉さんは、久留島さんご夫妻から預かったと話しています。ご主人の久留島隆成さんと一緒に、至急、奥白村までお越しください。事情を伺ったうえで、ご遺体の身元確認をお願いします」電話が切れた。母は顔から血の気を失い、凍りついたようにその場に立っていた。書斎から出てきた父が、そんな母を見て眉をひそめる。「どうした。誰からだ?そんな顔して」「あなた……」母の声は震えていた。「今、警察から電話があって……朝葉が……朝葉が死んだって……」父は一瞬、動きを止めた。だが、すぐに鼻で笑った。「ばかばかしい。今度はそんな手まで使うのか。誰かに警察のふりをさせて、俺たちを迎えに来させるつもりなんだろ。そんなことができるくらいなら、19年もこの家でびくびくしてない」私はもう体を失い、薄い影のようになって、リビングのシャンデリアの下に浮かんでいた。ただ静かに、2人を見ていた。何でも自分の思いどおりになると思っている父。私の前でだけ、いつも偉そうにしていた母。2人とも、私が本当に死ぬなんて考えもしなかった。2人にとって、私の命はその程度のものだった。どんな扱いをしても、私は黙って耐えて、いつまでもそこにいる。そう思っていたのだろう。そこへ、あの新しいワンピースを着た紗月が出てきた。わざと驚いたように口元を押さえる。「お姉ちゃん、そんな冗談まで言うなんて……警察のふりをさせるのは、さすがにまずいんじゃない?お父さん、お母さん……一度迎えに行ったほうがいいんじゃないかな。本当に向こうでつらい思いをしてたら……」「迎えになんか行かない!」父がテーブル
Read more

第8話

廊下の白い照明が、冷たく目に刺さった。相馬は表情を変えず、司法解剖の所見が記された書類を父に差し出した。「まず、ご遺体の身元確認をお願いします」遺体安置室の扉が開く。ホルマリンの強いにおいが流れてきた。解剖台の上には、白い布をかけられた遺体が横たわっている。父は足を引きずるように、一歩ずつ重く進んだ。母は父の腕にしがみつき、爪が食い込むほど強く握っている。相馬が白い布を静かにめくった。現れたのは、見る影もなく痩せ細った私の体だった。重症の再生不良性貧血で、体は骨ばかりが目立つほど痩せ、肌は血の気を失って青白く、ところどころ青紫色に変わっていた。額や腕、脚には、古いあざと新しい内出血、棒で殴られた跡がいくつも残っている。鼻や口の奥には、拭いきれなかった暗い色の血の塊が残っていた。「いやああっ!」母が悲鳴を上げ、大きく後ずさった拍子に、そのまま床へ崩れ落ちた。「違う!朝葉じゃない!こんなの、絶対に朝葉じゃない!家を出たときは元気だったのよ!たった4日よ!4日しか経ってないのに!」父は私の顔をじっと見つめていた。血で汚れ、頬はこけ、目も深く落ちくぼんでいる。それでも分からないはずがなかった。19年間、同じ家で暮らしてきた娘の顔だ。父の両手が激しく震えた。私の頬に触れようと手を伸ばす。けれど、その指は途中で止まった。「……朝葉に、何があったんだ」相馬は、身なりの整った父と母を冷ややかに見た。「何があったのか、ですか。朝葉さんは重症の再生不良性貧血でした。重い感染症を起こし、血小板の減少による出血も続いていました。そのうえ、亡くなる前の数日間、十分な食事を与えられず、繰り返し暴力を受けていたとみられています」病院から取り寄せた診療記録を、父の前へ突きつけた。「重い病気の娘さんを、あなた方は自分たちの手で、あの2人のところへ『少し苦労させるため』に送ったそうですね。久留島さん。あなたは娘さんを反省させたかったんですか。それとも、死んでも構わないと思っていたんですか?」「重症の……再生不良性貧血……?」父は診療記録を食い入るように見つめた。声はひどく乾き、目には赤い筋が浮かんでいる。「そんな……朝葉は、一度も病気だなんて……家を出た日だって、移植医療
Read more

第9話

死んだ今になって、母は私の遺体を壊れそうなほど強く抱きしめようとしていた。女性警察官が2人、前に出て母を引き離した。紗月は入口に立ち、ハンカチで口元を押さえながら、ぽろぽろと涙をこぼしていた。「お姉ちゃん、どうしてこんなに無茶したの……病気だったなら、お父さんとお母さんに言えばよかったのに……私がお姉ちゃんの居場所を奪ったって思ってたのかな。それで、これ以上みんなに迷惑をかけたくないって……」父が突然振り返り、怒りに顔を歪めて紗月を睨んだ。「黙れ!」怒鳴り声に、紗月の体がびくりと震えた。作っていた悲しげな表情が、一瞬だけ崩れる。父は脇にいた警察官を振り切って遺体安置室を飛び出し、ちょうど警察官に連れられてきた勝治と久美子のもとへ駆け寄った。勝治の胸ぐらをつかむ。「お前ら2人とも人でなしだ!朝葉の面倒を見てくれって頼んだだけだぞ!あの子に何をした!」そのまま拳を振り上げ、勝治の顔を殴った。勝治は鼻から血を流しながら、大声でわめき始める。「なんで俺を殴るんだよ、久留島さん!最初にあんたの秘書が言ったんだろ!あの娘は都会で言うことを聞かないから、きつく躾けてくれ、死なない程度なら手荒にやっても構わないって!あんな重い病気だなんて、俺たちは何も聞いてねえよ!熱を出して血まで流してたけど、また芝居してるんだと思って、物置に閉じ込めたままにしただけだ!」久美子もその場でわめき立てた。「そうよ!金持ちだからって、私たちに汚れ役を押しつけておいて、今さら全部こっちのせいにする気?そもそも、あんたたちが偽物の親なんか用意しなきゃ、あの子がうちで死ぬことだってなかったでしょう!」その言葉を聞くたび、父と母は息を詰めた。全部、自分たちが仕組んだ嘘だった。私をあの2人のところへ送り込んだのも、自分たちだった。父の指から力が抜けた。勝治の胸ぐらを離し、2歩ほどよろめくと、冷たい壁に背中を預ける。人垣の向こうにある遺体安置室へ目を向け、もう一度、台の上の私を見た。「……連れていってください」かすかな声だった。警察に言ったのか。それとも、もう死んだ私に何かを詫びていたのか。私には分からなかった。3日後。火葬を終えた私の骨壺が、久留島邸へ戻ってきた。葬儀は行わず、親戚
Read more

第10話

【そこまで紗月のことが大事なら、もう私のためにドナーになってほしいとは思いません。この家にも、もう戻りません】母はその数行を、目を見開いたまま食い入るように見つめていた。「知ってたの……朝葉、全部知ってたの……」唇を震わせながら手を離す。便箋が、ひらりとカーペットの上に落ちた。数日前、私が指を切って血を落とした、あのカーペットだった。染みはもう、きれいに消えている。それなのに母はその場所を見た途端、何かに取りつかれたように床へ飛びつき、両手で必死にカーペットの毛をかき分け始めた。「朝葉の血……朝葉の血が、まだここに……あの子、実の娘だって知ってたのよ。知ってて、私たちが紗月ばかり大事にするのを見てた。知ってて、私たちにあんなところへ送られたのよ……どうして何も言わなかったの?どうして私たちの嘘を暴かなかったの!」母の声はかすれ、ほとんど悲鳴になっていた。ようやく、死ぬ前の私が黙っていた理由に気づいたのだろう。譲ったわけでも、従ったわけでもない。もう、何も期待していなかっただけだ。私の死によって、この家にはもう二度と埋められないものが残った。父は力が抜けたようにソファへ座り込み、両手で顔を覆った。仕事では何事にも動じなかった父が、今は肩を激しく震わせている。「俺だ……俺が、自分の娘を殺したんだ……」紗月は階段の踊り場に立ち、取り乱す2人を見ていた。その目にいくつもの感情が浮かんでは消える。やがて階段を下り、床に落ちた手紙を拾った。目を通した瞬間、わずかに動揺したが、すぐに隠した。「お父さん、お母さん。お姉ちゃんは全部知ってたとしても、2人にこんなに苦しんでほしいなんて思ってないよ。お金だって残してくれたんでしょ?だったら、お姉ちゃんの中にはちゃんと、この家への気持ちが残ってたんじゃ……」乾いた音が、リビングに響いた。父が立ち上がり、紗月の頬を思いきり平手で打った。紗月は数歩よろめき、そのままソファへ倒れ込んだ。赤く腫れた頬を押さえ、信じられないという顔で父を見上げる。「お父さん……私を叩いたの?」「黙れ!」父は紗月を指さした。目は真っ赤に充血し、怒りで顔が歪んでいる。「この家への気持ちが残ってた?あの金は、自分の墓を用意するために必死
Read more
PREV
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status