彩也子が弾かれたように振り返り、建物の中へ駆け戻ろうとした。克己がとっさに彼女の腕を強く引いた。「だめだ。お前は子供の頃に肺を患っている。煙を吸ってはいけない」彩也子は焦りで目を真っ赤にしていた。「じゃあ、遥華はどうなるの……!」小織がその肩をそっと抱き寄せる。「消防隊の人が、きっと助けてくれるよ」幸い、私が消防隊に救出されるまで、そう時間はかからなかった。救急車の中で、彩也子は私を見つめたまま、涙で目を赤くしていた。「遥華……ごめんなさい」大丈夫、と言おうとした。けれど口を開いた途端、喉が痛んで、声が出なかった。代わりに口を開いたのは小織だった。「遥華はあなたを責めたりしないよ。悪気があって置いていったわけじゃないんだし」慎一もそれに同調する。「遥華は昔から物分かりのいい子だろ。何もかも自分のせいにするな」克己が、彩也子の髪をそっと撫でた。「今は自分の体のことだけ考えろ」病院に着くと、医師が「ご家族の方はいらっしゃいますか」と尋ねた。3人が、ほとんど同時に足を止めた。克己は私をちらりと見やり、それからまだ咳の止まらない彩也子に目を移す。「妻が担架の上です。先にそちらを診てください」そう言って、私のあとを2、3歩追ってきた。彩也子の脇にいた看護師が、喘息の既往はないかと尋ねる。克己はすぐに足を止めた。7歳の時の肺炎、12歳の時の呼吸器のけいれん症状、去年の秋のアレルギーによる入院。彼は淀みなく答えてみせた。看護師はそれを書き留めると、今度は私を指して聞いた。「あちらの患者さんに、持病は?」克己は一瞬、黙り込んだ。「……特には、なかったと思います」私はそっと目を閉じた。結婚して3年。彼は彩也子の子供の頃の入院歴を、ひとつも忘れていない。なのに、私が2年前に肺の手術を受けたことすら知らずにいる。処置室の照明は、刺すように白い。検査報告に目を通した医師が、克己の方を向いた。「患者さんに肺の手術歴がありますね。何年前のことですか?切除の範囲は?術後、長く注意すべき点は聞いていますか」克己が固まり、ちらりと私を見る。その顔には見覚えがありすぎた。私自身の話になるたび、彼が一拍遅れて戸惑いながら理解しようとする、あの表情だ。「手術?」
Read more