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愛されるべき人は彼女、消えていい人は私

愛されるべき人は彼女、消えていい人は私

Por:  みかん茶太郎Completo
Idioma: Japanese
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足首を捻挫してベッドで寝込んでいた私、朝山遥華(あさやま はるか)のもとへ、友人たちが見舞いに来てくれていた。その矢先だった。突然、台所から火の手が上がったのは。 真っ黒な煙が、瞬く間に室内を呑み込んでいく。 夫の朝山克己(あさやま かつみ)は白澤彩也子(しろさわ さやこ)の手を引くと、外へと駆け出した。 私の兄、小原慎一(おはら しんいち)はそこにあった防災マスクを彩也子の顔へ押し当てる。 私の親友、樋上小織(ひのうえ さおり)は何かが落ちてきても怪我をしないようにと、彩也子の頭を抱え込むようにして庇っていた。 一行が階段を下りきったところで、彩也子がふと足を止め、背後を振り返ったらしい。 「遥華は?まだ下りてきてないんじゃ……!」 克己が窓を見上げる。そこからは、なおも黒煙が噴き出していた。 「てっきり、後ろに続いているものだと……」 慎一がつぶやく。 「俺も、小織が一緒に連れてきているものとばかり」 小織が何かを言いかけて、ふっと言葉を呑み込んだ。 「私……彩也子のことで頭がいっぱいで、気が回らなくて……」

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第1話
彩也子が弾かれたように振り返り、建物の中へ駆け戻ろうとした。克己がとっさに彼女の腕を強く引いた。「だめだ。お前は子供の頃に肺を患っている。煙を吸ってはいけない」彩也子は焦りで目を真っ赤にしていた。「じゃあ、遥華はどうなるの……!」小織がその肩をそっと抱き寄せる。「消防隊の人が、きっと助けてくれるよ」幸い、私が消防隊に救出されるまで、そう時間はかからなかった。救急車の中で、彩也子は私を見つめたまま、涙で目を赤くしていた。「遥華……ごめんなさい」大丈夫、と言おうとした。けれど口を開いた途端、喉が痛んで、声が出なかった。代わりに口を開いたのは小織だった。「遥華はあなたを責めたりしないよ。悪気があって置いていったわけじゃないんだし」慎一もそれに同調する。「遥華は昔から物分かりのいい子だろ。何もかも自分のせいにするな」克己が、彩也子の髪をそっと撫でた。「今は自分の体のことだけ考えろ」病院に着くと、医師が「ご家族の方はいらっしゃいますか」と尋ねた。3人が、ほとんど同時に足を止めた。克己は私をちらりと見やり、それからまだ咳の止まらない彩也子に目を移す。「妻が担架の上です。先にそちらを診てください」そう言って、私のあとを2、3歩追ってきた。彩也子の脇にいた看護師が、喘息の既往はないかと尋ねる。克己はすぐに足を止めた。7歳の時の肺炎、12歳の時の呼吸器のけいれん症状、去年の秋のアレルギーによる入院。彼は淀みなく答えてみせた。看護師はそれを書き留めると、今度は私を指して聞いた。「あちらの患者さんに、持病は?」克己は一瞬、黙り込んだ。「……特には、なかったと思います」私はそっと目を閉じた。結婚して3年。彼は彩也子の子供の頃の入院歴を、ひとつも忘れていない。なのに、私が2年前に肺の手術を受けたことすら知らずにいる。処置室の照明は、刺すように白い。検査報告に目を通した医師が、克己の方を向いた。「患者さんに肺の手術歴がありますね。何年前のことですか?切除の範囲は?術後、長く注意すべき点は聞いていますか」克己が固まり、ちらりと私を見る。その顔には見覚えがありすぎた。私自身の話になるたび、彼が一拍遅れて戸惑いながら理解しようとする、あの表情だ。「手術?」
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第2話
克己を見つめる私の喉には、砕けたガラスを一掴み詰め込まれたような痛みがあった。「……言ったはずよ」彼は反射的に言い返す。「そんなはずない」克己はスマホの画面を、長いこと見つめていた。「あの頃、彩也子の肺炎がぶり返して……立て続けに2回、入院してた。確かに、手が回ってなかったかもしれない」言い訳をしているわけではなかった。本当に、忘れていたのだ。彼の記憶の中で私に割かれる容量は、もともと手術のひとつも収まらないほど小さかったのだから。私は慎一とのメッセージアプリのトーク履歴を開いた。【兄さん、明後日手術なんだけど、来られる?】【終わったら連絡くれよ。今日明日、彩也子の引っ越し手伝ってて手が離せないんだ】小織とのやり取りもあった。【小織、明後日手術なの。ちょっと怖くて】【え?大がかりなの?終わったら教えてね!ここ数日彩也子の気分転換に付き合ってて……あの子、最近調子悪いから】3つのメッセージ、3人の相手、3つのバージョン。行き着く答えは、結局ひとつだった。私は、彩也子の後回し。手術が終わったその日、私はひとりで手術室から運び出された。麻酔から覚めてスマホを確かめても、新着メッセージは1件もなかった。克己に送った。【手術終わった。無事だよ】返信は早かった。【わかった、ゆっくり休んで】そのすぐ後、彼はSNSを更新していた。写真は、退院する彩也子が花束を抱えている1枚。添えられた文章は【やっと退院できた。これからは無理せず】。コメント欄には慎一の【彩也子、お疲れ】の一言と、小織からのハートマークの連打。それは、私が手術を受けた翌日のことだった。……克己は一連のやり取りを読み終えると、しばらく黙り込んでいた。「……お前のことを気にかけてないわけじゃない」「わかってる……っ」私の声は、紙やすりで鉄板をこすったようにひどく掠れていた。「ただ、私には気にかけられるまでもないと思ってるだけ」慎一がドアを開けて入ってきた。手には、見舞いに持ってきたゼリーの入った紙袋を提げている。廊下で何か聞こえたのか、その表情はわずかにこわばっていた。「遥華、お前は昔からしっかりしてて、何でも自分で抱え込む性分だろう。あのメッセージの書き方も軽い調子だったから、大したこ
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第3話
克己は出ていく前に、枕元に付き添いの人の連絡先を書いたメモを置いた。「この番号なら24時間連絡がつくから。彩也子を落ち着かせたら、すぐ戻ってくる。早めに休めよ。何かあったら、遠慮せずナースコールを押せばいいからな」扉が閉まる前、彩也子の小さな咳が聞こえた。3人の足音が、一斉に止まる。それから、少しずつ遠ざかっていった。結局、その夜、あの付き添いの人は来なかった。電話をかけてみると、今は別の病院にいて、早くても明け方にならないと来られないという。午前2時、私は眠りから目を覚ました。胸の上に、焼け火箸を押し当てられたようだった。息を吸うたび、右肺に刃物で裂かれるような痛みが走る。ナースコールを押そうとしたのに、手が震えて力が入らない。モニターが鋭い警報音を鳴らした。看護師が駆け込んできた時には、私はすでにベッドから滑り落ちていた。「SPO2、82!すぐ先生を呼んで!」酸素マスクがあてがわれた瞬間、ふと数時間前のあの火事を思い出した。あの時、たったひとつの防災マスクは、彩也子の顔にあった。そして今、午前2時、ようやくひとつの酸素マスクが、私のものになった。処置室の照明は無機質に白く、モニターがピッピッと鳴り続けていた。医師の「ご家族は」という声が聞こえる。看護師が登録票をめくった。「ご家族と連絡がつきません。ご家族が帰られる前に、付き添いの方がいらっしゃると伺っていたのですが……」医師が尋ねた。「その付き添いの方は?」「2回おかけしましたが、出られませんでした」医師はため息をつき、それ以上は聞かなかった。やがて血中酸素飽和度の値が落ち着き、私は一般病室へ戻された。天井の照明は暖色に切り替わっていて、まるで何事もなかったかのようだった。朝8時、ようやく3人が朝食を買って戻ってきた。彩也子も後ろについてきていた。克己の上着を羽織って。小織が、雑炊の入った器を私の前に置いた。「消化によさそうなものを買ってきたの。彩也子が、肺にもいいだろうって」袋の中には、くるみ和えや、とろろのかかった豆腐なども入っていた。どれも普段、彩也子が好んで食べているものばかりだった。けれど、私が手術後にもらった注意事項には、はっきりと書かれていた。ナッツ類と、山芋など粘り
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第4話
退院の日、克己は自ら迎えに来ると言っていた。午前10時まで待って、届いたのはメッセージ1通だけだった。【彩也子が昨夜、火事の夢を見たらしくて、朝から呼吸発作を起こしているんだ。先にそっちに付き添うよ。少し待っててくれ】10時半、慎一からもメッセージが来た。【お前はもう危険な状態は脱してるんだし、退院の手続きくらいひとりでできるだろ?彩也子のメンタルが心配で、様子を見に行く】11時、小織がグループLINEに彩也子の検査中の写真を送ってきた。【遥華、あんまり深く考えないでね。彩也子は体がどうこうというより、気持ちの整理がつかないだけなの。誰かがそばにいてあげないと】私はグループLINEを退出し、杖をつきながら退院窓口へ向かった。窓口に並んで精算のサインをし、薬局で薬を受け取り、次回の外来予約を取る。すべての手続きを終えても、克己は現れなかった。医師が私の背後にある、誰もいない空間に目をやった。「おひとりですか?」私は微笑んだ。「ええ、慣れてますから」病院のロビーには、明るい日差しが差し込んでいた。花束を抱えて入院病棟へ向かう人の姿もある。薬の入った袋を提げて正面玄関を出て、階段のところでしばらく立ち止まった。3年前、克己は役所の入り口で私を待っていた。白いシャツを着て、笑いながらこう言ってくれた。「遥華、これからはお前は俺のものだ」病院を出て、タクシーで家に帰った。台所は真っ黒に焼け焦げ、リビングの天井にも大きな煤の跡が広がっていた。玄関の収納棚の中に、防災用の非常持ち出し袋を見つけた。中には彩也子の喘息用の吸入器と、彼女の病歴をびっしり書き込んだエマージェンシーカードが入っていた。字は、克己の筆跡だった。一方、私の肺の経過検査の報告書は、一番下に押し込まれていた。紙はもう黄ばんでいる。そこには、赤いペンで書いた自分の字があった。【家族には、術後の緊急時対応を把握しておいてもらうこと】その報告書を、私はここに丸2年、置き続けていた。克己は毎日その前を通りながら、一度も開いたことがなかった。その時、スマホが鳴った。克己が、無事退院できたかと尋ねてきた。答える前に、向こう側から慎一の声が聞こえた。「遥華、機嫌悪いんじゃないか」克己が
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第5話
克己が家に帰り着いた頃には、もう12時近かった。彩也子は薬を飲んでも、まだ明かりを消すのを怖がっていた。小織がそばに残って付き添い、慎一は近くのコンビニまで彼女がいつも飲む牛乳を買いに走った。彩也子の呼吸が落ち着いたのを確かめると、克己は車を走らせ、帰路についた。リビングには、まだ火事の焦げた匂いが残っていた。克己は上着を脱ぎ、無造作にソファへ放った。「遥華?」返事はない。そこでようやく思い出した。今日退院したばかりの遥華は、もう眠っているのかもしれない。寝室の明かりはついていなかった。ベッドはきちんと整えられていて、彼女の枕だけがなくなっている。クローゼットの彼女の服も半分ほどなくなっていた。いつも使っているキャリーケースと、貴重品や保険証、薬まで、すべてが持ち出されていた。克己は眉をひそめ、彼女の番号に電話をかけた。電源が入っていないようだ。夫婦で共有している位置情報アプリを開くと、画面には「位置情報の共有が停止されています」と表示されている。家族アルバムも、共有カレンダーも、家計簿アプリの家族共有も、すべて解除されていた。克己はベッドの脇にしばらく立ち尽くした。彼女が本当に出ていくとは、思えなかった。結婚して3年、彼女がこんなふうに家を出たことは一度もない。たとえ言い争いになっても、彼女はただ一晩静かに過ごし、翌朝にはいつも通り朝食を用意して、空腹でコーヒーを飲むと胃に悪いって、注意してくれる人だった。今回はきっと、退院の時に誰も迎えに来なかったせいだろう。克己はメッセージを送った。【落ち着いたら、ちゃんと話そう】すぐに慎一から電話がかかってきて、妹の居場所は分かったかと聞いてきた。「荷物をいくつか持って出ていったみたいだ」「なら、しばらく外に泊まってるだけだろ」慎一の口調には確信があった。「遥華は昔からそうなんだ。悔しいことがあっても口にしない、自分で納得いくまで抱え込む性分だからな。気持ちが整理できれば、自然に戻ってくるさ」小織もグループトークで彼を宥めた。【今は追い詰めないであげて。今は一番腹を立ててる時だから。探せば探すほど、私たちが遥華を怒らせたくないだけだって思っちゃうよ】彩也子からは咳混じりのボイスメッセージが届いた。「
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第6話
翌日、火災保険の査定員が被害状況の確認に訪れた。克己は住宅の資料と、家電の保証書や領収書を用意する必要があった。それらは本来、すべて遥華が管理していたものだった。書斎を30分近く探し回り、ようやく「住宅関係」と書かれたファイルを見つけた。中の書類は日付順にきれいに並べられ、期限の切れた保険証書にまで付箋がついていた。慎一がそれを一目見て言った。「遥華らしいな。何でも几帳面に取っておくところが」小織はリビングで、割れたガラスの破片を彩也子と一緒に片付けていた。それを聞いて、ため息をつく。「はぁ……あの子、やることが丁寧だから。帰ってきたら、残りの面倒な手続きは任せちゃえばいいよ」誰も、その発言に何の問題も感じていなかった。まるで遥華さえ戻ってくれば、すべてが元通りになるとでもいうように。彩也子は、黒く焼け焦げた台所の入り口にしゃがみ込み、みるみる目を赤くしていった。「私が急にデザートを食べたいなんて言わなければ、みんなここに来ることもなかったし、火事にもならなかったのに」慎一がすぐに彼女を立たせた。「こんなことになるなんて、誰にも分からなかったさ」小織が彼女の膝についた灰を払ってやる。「もう十分自分を責めたでしょ。これ以上、背負い込まないで」克己も、煙にむせて赤くなった彩也子の目を見て言った。「台所はちゃんと直る」彩也子はうつむいた。「でも、遥華がまだ帰ってこない……」リビングが、一瞬静まり返った。先に口を開いたのは慎一だった。「あいつはただ怒ってるだけだ。失踪したわけじゃないんだから」小織がスマホを取り出し、SNSで心当たりのある人に呼びかけてみようかと尋ねた。克己はそれを断った。遥華は大人で、保険証も薬も持っている。退院の手続きも自分でできるのだ。むやみに騒ぎを大きくすれば、かえってあいつを気まずくさせるだけだ。午後、リフォーム業者から電話が入った。台所の修復プランはすでに確定し、工事の着手金も支払い済みで、来週には着工できるという。克己は着信番号を見つめた。「誰が確認したんですか」「朝山遥華様です」業者が設計図を送ってきた。システムキッチンの色はそのまま、冷蔵庫もオーブンもダイニングテーブルの配置も変わっていない。克己がコーヒーメー
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第7話
リフォーム工事が完了した日、立ち会いの電話が私にかかってきた。弁護士が、同席が必要かと尋ねてくる。私は机の上に置いた離婚届と協議書を見つめた。「お願いします」帰り道、私はずっと穏やかな気持ちでいた。あの家に住んだ3年間、家の中にあるもののほとんどは、私がひとつひとつ揃えてきたものだった。克己は明るい色を好まないから、グレーのソファを選んだ。慎一はたまに泊まることがあったから、彼専用のスリッパと寝間着を用意した。小織はミネラルウォーターにこだわるから、冷蔵庫にはいつも彼女の好きな銘柄を切らさなかった。やがて彩也子が加わってからは、家の中に彼女の喘息用吸入器や常備薬、好きなお菓子まで増えていった。ただ、私の物だけが少しずつ減っていった。エレベーターの扉が開くと、ドアの隙間から料理の匂いが漂ってきた。鍵はかかっていなかった。克己は玄関に立っていて、まるでずっと待っていたかのようだった。私の姿を見ると、張り詰めていた表情が、目に見えて緩んだ。「……帰ってきたのか」私は靴を脱がなかった。小織が台所から顔を出す。「遥華、やっと帰ってきてくれたね。あなたの好きな料理、作っておいたから。あとでちゃんと話そうね」慎一が近づいてきて、私の鞄を受け取ろうと手を伸ばした。「帰ってきたならそれでいい。今回はさすがにこっちも肝を冷やしたけどな。まあ、兄として今回はもう水に流してやるよ」彩也子はダイニングテーブルの脇に立ち、目を赤くしていた。「遥華、ごめんなさいね。全部私のせいで、みんなあなたのことを見落としちゃったの。怒っていいから、私を責めて」彼女が口を開いた途端、ほかの3人の視線がいっせいに彼女へと向いた。克己が眉をひそめる。「今日はその話はやめよう」小織が彼女の手を握った。「遥華はもう帰ってきたんだから、もう泣かないで」彼らの、見慣れたその動きを見ながら、私はふと思った。何も変わっていない、と。彼らは、私に謝るために集まったわけではない。ただ、私が昔と同じように戻れるよう、そのきっかけを用意して、私がこちらへ歩み寄ってくるのを待っているだけだった。弁護士が、私の後ろからドアをくぐって入ってきた。リビングの声が止んだ。克己は彼の手にある書類を見て、わずかに
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第8話
克己は、その協議書を受け取ろうとしなかった。机の上に置かれた鍵を見つめながら、彼はようやく気づいたようだった。彼女が戻ってきたのは、よりを戻すためではないということに。「遥華、話し合おう」「話すべきことは、全部そこに書いてあるわ」弁護士が書類を開き、住宅や預金、その他の共有財産の処理方法を説明していく。遥華は過失に対する慰謝料を求めることすらなく、ただ正当な財産分与だけを求めていた。未練など微塵も感じさせない淡々とした態度が、かえって克己を不安にさせた。彼女は、彼に対する恨みさえ残そうとしていなかった。慎一が協議書を手に取り、数枚めくった。「夫婦なんだから、喧嘩くらいするだろう。今、お前は体調も悪いんだ、冷静になれ」遥華は彼を見た。「もう、決めたことだから」「離婚なんて大事を、どうして先に相談しなかった」彼女は答えなかった。慎一は忘れているようだった。彼女が肺の手術を受けた時、ちゃんと彼に相談したことを。あの時、彼は「手術が終わってから知らせてくれればいい」と言ったのだった。小織が近づいてきて、なだめるように声をかける。「遥華、今回のことは、私たちがあなたを後回しにしちゃった。それは認めるよ。でも彩也子だってわざとじゃないの。私たちにどうしてほしかったのか、ちゃんと言ってくれればよかったじゃない。だからって、離婚まで持ち出すことないでしょ?」遥華はそれを聞き終えると、ただこう尋ねた。「私が今まで言ってきたこと、みんな、ちゃんと耳を傾けてくれたことがあった?」リビングが静まり返った。彩也子はダイニングテーブルのそばに立ち、すでに涙をこぼしていた。「遥華、もし私のせいなら……私、この家を出ていくから」そう言うと、彼女は上着を取りに行こうとしたが、小織がすぐにその腕をつかんで引き留めた。「あなた、まだ本調子じゃないのに。どこへ行くつもり」慎一も眉をひそめる。「お前には関係ない話だ」克己は無意識に彩也子へと目をやった。その一瞬の間に、彼は遥華の瞳に最後に浮かんだ感情を見逃した。彼女は怒ってはいなかった。ただ、協議書を弁護士に渡し、深く頭を下げた。「あとのことは、彼らと直接やり取りしてください。よろしくお願いします」弁護士が書類をまとめ、彼女に付き添って
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第9話
慎一が療養先のマンスリーマンションを訪ねてきたのは、ちょうど私がネブライザーでの治療を終えたばかりの時だった。彼はドアの外に立ち、差し入れを提げて、不機嫌そうな顔をしていた。「俺のこと、ブロックしたのか」「何か用?」「兄が妹を訪ねるのに、用がいるのか」私は道を空けなかった。彼は私の足首にちらりと目をやった。「足、まだ治ってないのか」「ええ」彼は何か言いかけて、結局差し入れを押し付けてくるだけだった。「中で話そう」「立ち話で十分」慎一の顔が曇った。「遥華、克己との離婚は、まあお前の勝手だ。だがなんで俺のカード代の立て替えまでやめた?カード会社からずっと連絡が来てるんだぞ。最近彩也子の世話で手一杯なのに、そんなの構ってる暇があるか」「それは兄さんのクレジットカードでしょう」「お前に払えなんて言ってない。今までずっとそうしてきただけだ」「今までは、私がそうしたかったからよ」私は差し入れをドアの脇に置いた。「今はもう、したくないだけ」慎一は数秒、呆気にとられたようだった。まるで意味が分からないとでも言うように。「お前……病院での一件で、俺を恨んでるのか」「ひとつのことじゃないわ」「じゃあ言ってみろ、俺がお前に何をしたっていうんだ」私は部屋に戻り、ひとつのファイルを取り出した。中身は、この数年間、私が彼の代わりに払い続けてきたクレジットカードの明細、家賃の滞納分、それに事故の賠償金の記録だった。彼は卒業後に起業して失敗し、「3か月だけ立て替えてくれ」と言った。それが半年になり、半年が3年になった。彼が口を開くたび、私は一度も断ったことがなかった。両親が亡くなってから、彼は私にとって唯一の肉親だったから。かつての私は、自分が彼に十分尽くしていれば、いつか自分が困った時、彼がそばに立っていてくれると信じていた。けれど私が肺の手術で入院したあの日、彼は彩也子の引っ越しを手伝っていた。火事が起きた時、彼はたったひとつの防災マスクを彩也子に与えた。「総額で960万円よ」私はその明細を彼に差し出した。「今すぐ返せとは言わない。来月から、約束どおりに振り込んで」慎一はその最後の数字を見つめた。「実の兄妹相手に、そこまで割り切るのか」「兄さんが聞
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第10話
克己が病院の呼吸器内科で遥華を見かけた時、彼女はちょうど呼吸リハビリの最中だった。ガラス越しに、彼女がマウスピースをくわえ、看護師の指示に合わせてゆっくりと息を吸い込んでいるのが見えた。呼吸訓練器の目盛りは、目標値に届いていなかった。看護師が休むよう促すと、遥華は首を振り、もう一度マウスピースをくわえ直した。3度目の訓練を終えた時、彼女の額は冷や汗でびっしょりになっていて、椅子の背もたれにつかまりながら長く咳き込んだ。克己はドアの外に立ったまま、中には入らなかった。結婚して3年、彼女のこんな姿を見たことは一度もなかった。彼の記憶の中で、遥華はめったに体調を崩さなかった。たまに風邪をひいても、自分で薬を飲むだけで、翌日の仕事に響かせたことはない。彼はずっと、彼女は体が丈夫なのだと思い込んでいた。訓練を終えると、看護師が記録表を渡した。「今日は先週より少し良くなってますね。でも焦らないで。以前、肺の部分切除を受けているうえに、大量の煙を吸い込んでいますから、回復にはかなり時間がかかります」「わかってます」「ご家族は、今日もいらっしゃらないんですか」「いません」克己はドアの取っ手を握った。看護師が彼に気づき、尋ねる。「朝山遥華様のご家族の方ですか」遥華が振り返った。その表情はとても落ち着いていた。「いいえ」克己の手が、宙で止まった。看護師はそれ以上尋ねず、薬を取りに向きを変えた。遥華が荷物をまとめ、彼の脇を通り過ぎていく。「遥華」彼女は足を止めた。「肺の経過検査の報告書を届けに来た」克己はファイルを差し出した。「家の玄関の棚で見つけたんだ」彼女はそれを受け取り、封を確かめた。「ありがとう」「さっき看護師が、回復が遅いって言ってたな」「普通のことよ」「どうして、俺に言わなかったんだ」そう尋ねた瞬間、克己自身が先に黙り込んだ。彼女は、言っていた。手術の前も、手術の後も、火事の後も、彼女はちゃんと口にしていた。ただ、彼女が話そうとするたびに、いつも彩也子の方に、もっと急を要する何かがあっただけだ。「これから、リハビリに付き添うよ」「別にいらない」「ひとりじゃ心細いだろう」遥華は彼を見つめた。「私はひとりで手術を受けて
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