FAZER LOGIN足首を捻挫してベッドで寝込んでいた私、朝山遥華(あさやま はるか)のもとへ、友人たちが見舞いに来てくれていた。その矢先だった。突然、台所から火の手が上がったのは。 真っ黒な煙が、瞬く間に室内を呑み込んでいく。 夫の朝山克己(あさやま かつみ)は白澤彩也子(しろさわ さやこ)の手を引くと、外へと駆け出した。 私の兄、小原慎一(おはら しんいち)はそこにあった防災マスクを彩也子の顔へ押し当てる。 私の親友、樋上小織(ひのうえ さおり)は何かが落ちてきても怪我をしないようにと、彩也子の頭を抱え込むようにして庇っていた。 一行が階段を下りきったところで、彩也子がふと足を止め、背後を振り返ったらしい。 「遥華は?まだ下りてきてないんじゃ……!」 克己が窓を見上げる。そこからは、なおも黒煙が噴き出していた。 「てっきり、後ろに続いているものだと……」 慎一がつぶやく。 「俺も、小織が一緒に連れてきているものとばかり」 小織が何かを言いかけて、ふっと言葉を呑み込んだ。 「私……彩也子のことで頭がいっぱいで、気が回らなくて……」
Ver mais離婚から3か月目、私は最後の段階的な肺機能検査を終えた。医師は報告書を見終えると、予想より回復が良いと言った。「これからも気をつけてくださいね。喫煙は禁止、換気の悪い場所に長くいるのも避けて。定期検査は必要ですが、それ以外は普通に生活して大丈夫です」私はその報告書をファイルにしまった。前回、肺の報告書を受け取った時、私は家族への指導事項の欄に赤い線を引いた。あの紙は、防災用の非常持ち出し袋の中に2年間、入れたままだった。誰も、開かなかった。今回、看護師が登録票を渡してきた。「緊急連絡先、まだ空欄のままですか」少し考えて、かかりつけの病院については医療情報欄に書き込み、緊急連絡先には新しい会社の総務担当者の連絡先を書いた。看護師はそれを見ても、特に何も聞かず、ただ急病時のカードを常に携帯するようにと念を押しただけだった。病院を出ると、慎一が門の前で待っていた。今回は事前に知らせてくることもなく、以前のように勝手に何かを決めてくることもなかった。「金を返しに来たついでに、送っていこうかと思ってな」彼はひとつの封筒を差し出した。中には、2回目の返済分を振り込んだ明細が入っていた。慎一は、ほとんど乗っていなかった車を売り払い、堅い仕事に就いていた。以前は「起業には付き合いが必要だ」と言い訳して、クレジットカードの滞納はただの一時的な融通だと言っていた。今では毎月の支払いを自分で済ませていて、もう誰かが穴を埋めることもない。「タクシーで行くから」「わかった」彼はそれ以上強く言わず、私が手にした検査報告書にちらりと目をやった。「結果はどうだった」「悪くないよ」慎一は頷いた。数歩歩いたところで、また私を呼び止めた。「遥華、あの日の防災マスクのことだけど……」彼の声に苦渋がにじんだ。「後で消防署に聞きに行ったんだ。もし俺があのマスクをお前に渡してたとしても、彩也子がすぐに命に関わるようなことにはならなかったはずだって」私は何も言わなかった。ある種の答えは、遅すぎて届いても、もう意味を持たない。「あの時はただ、あの子の方が体が弱いから、お前なら持ちこたえられると思っただけだった」「わかっている」「すまなかった」「聞いたわ」慎一の目が赤くなったが、それ以上
離婚届を提出する日、克己は1時間も早く役所に着いた。離婚届と、すでにサインを済ませた協議書を持っていた。遥華がやってきた時、淡い色の上着を羽織っていた。足首はもう固定の必要がなくなっていたが、歩き方は以前よりまだ遅い。「調子はどうだ」「まあまあ」克己は朝食を差し出した。「お前が昔好きだった店のやつだ」遥華はそれを受け取らなかった。「もう食べてきた」彼が買ってきたのは、山芋の入った雑炊だった。彼女が口をつけようとしないのを見て、克己はようやく思い出した。術後しばらくは、粘り気の強いものや喉に引っかかりやすい食べ物を控えるよう言われていたことを。以前は、知らなかった。今は知っていても、やはり間違えてしまう。慎一と小織は、道の向かい側に立っていた。近づいてはこず、弁護士に2つのものを託していた。慎一が託したのは、最初の返済分を振り込んだことが分かる明細。小織は、プロジェクトの収益の清算書を返却し、長い謝罪の手紙を添えていた。遥華は、明細と清算書は受け取った。けれど、その手紙は開封しなかった。手続きの前に、克己が尋ねた。「もう少し、待ってもらえないか」「どうして?」「俺はまだ、お前を失うことに慣れてないんだ」遥華は彼を見つめた。「私はもう、とっくに慣れているわ」職員がふたりの番号を呼んだ。克己は、座ったまま動かなかった。「遥華、もしあの火事の日、俺が振り返っていたら、俺たちは違ってたんだろうか」「違っていたでしょう」その答えに、彼の目にわずかな光が宿った。遥華は続けた。「私が離れるのが、少し遅くなったかもしれない」離れなかった、ではない。ただ、少し遅くなっただけ。2年前のあの手術、数えきれないほど後回しにされてきた約束、そして長い結婚生活の中で、誰にも気づかれなかった数々の瞬間。それらは、すでに積み重なっていた。あの火事は、ただ最後の一押しだっただけだ。克己はうつむいた。「今日の手続きが終わった後も、お前に会えるか」「仕事で必要なら」「それ以外では?」「必要ないわ」手続きは、あっという間に終わった。役所の窓口で、離婚届が受理された。克己はその受理証明書を受け取る手を、かすかに震わせていた。役所を出る時
彩也子が訪ねてきたのは、ちょうどその日の仕事を終えて会社を出たところだった。彼女は駐車場の出口に立っていた。化粧もせず、全体にやつれた様子だった。「遥華、ちょっと話せない?」「話すことなんてない」「映像、復元できたの」「もう知ってる」彼女の涙がこぼれた。以前なら、彼女の涙を見れば、私はハンカチを差し出していた。今回は、何もしなかった。「私、あなたに死んでほしかったわけじゃない」「そう」「あの時、みんなが私を庇ってくれてた。あなたが倒れたのを見て、ふと知りたくなったの。もし私たちが同時に危険な目に遭ったら、あの人たちが最後に選ぶのはどっちなんだろうって」「もう、答えは分かってるでしょう」彼女の顔が引きつった。「私はただ、『遥華はもう外に出た』って言っただけ。あの人たちだって確かめもせず、私について階段を下りたのよ。全部私のせいにしないで」「全部あなたのせいだとは言っていない」彩也子は呆気にとられた。いくつもの言い訳を用意していたのだろうが、私が責任をすべて彼女に押しつけるつもりなど最初からないとは、思っていなかったようだ。「私のこと、恨んでないの?」「恨んだことはある」黒煙の中で死を待っていたあの時、私は当然彼女を恨んだ。けれど後で気づいた。彼女を恨んだところで、克己が振り返るわけでも、慎一がマスクを外すわけでも、小織がこちらを見てくれるわけでもない。「今は?」「あなたはもう、私にとって大事な存在じゃない」この一言の方が、責め立てる言葉よりも彼女を苦しめたようだった。彼女は涙を拭った。「みんな、もう私を相手にしてくれない。克己は出ていけって言うし、慎一は私をブロックしたし、小織とも縁を切るって」「それは私には関係ないこと」「でも、あなたはもうすぐ望んだ結果を手に入れようとしてるじゃない」彼女の口調に、ようやく悔しさがにじんだ。「みんな今、あなたにひどいことをしたって気づいて、埋め合わせをしたいと思ってる。結局、あなたの勝ちってわけね」「あなたと競っていたつもりはない」彼女はずっと、すべての人間関係を、どちらかを選ぶものとして捉えてきた。誰かが自分を選べば、私が負け。けれど私は、とっくにその競争から降りていた。「遥華、私は小さい頃か
最後の映像が復元された時、克己は彩也子に知らせなかった。リビングには、彼と慎一、小織だけがいた。映像は、玄関のスマートドアベルに残っていたものだった。数人が部屋から飛び出していく中、慎一がこう尋ねていた。「遥華は?」克己に支えられた彩也子が、はっきりと答えていた。「小織が支えて出てきてる」小織の顔から、一瞬で血の気が引いた。「私、してない」慎一は画面を見つめた。まさにその一言のせいで、彼は振り返らなかったのだ。非常階段に入ってから、小織はずっと彩也子を庇っていた。2階分ほど下りたところで、彼女はふと尋ねていた。「遥華、まだ上にいるんじゃない?」彩也子は答えなかった。全員が外へ逃げた後、彼女はようやく黒煙を噴き上げる窓を見上げ、泣きながら、遥華が逃げ遅れたのではないかと尋ねたのだった。克己は映像を巻き戻した。一度、二度、三度。彩也子が嘘をついたあの瞬間、咳き込んでもいなければ、意識が朦朧としている様子もなかった。その声は、他の誰よりも落ち着いていた。慎一が彼女を呼びつけた。映像を見た彩也子は、長い間黙り込んでいた。「……怖すぎたの」小織が尋ねる。「何が怖かったの」「みんなが、彼女を助けに戻るのが怖かった」その言葉が発せられた瞬間、リビングから一切の音が消えた。彩也子は顔を覆った。「克己が私を引いてくれて、慎一がマスクをくれて、小織もずっと私を庇ってくれた。あの瞬間、私はただ思ったの。遥華さえ出てこなければ、みんなはずっと私を選び続けてくれるって」慎一が、テーブルの上のグラスを勢いよく払い落とした。「あいつは俺の妹だぞ!」「でも、振り返らなかったじゃない」彩也子が泣きながら彼を見た。「私が一言言っただけで、あなたはそれを信じた。もともと、彼女を助ける必要なんてないって思ってたからでしょう」慎一の顔が強張った。小織が一歩、後ずさった。「だから外へ逃げた時、わざと彼女がどこにいるか聞いたの?」「後悔したの」「後悔なんかじゃないっ」小織の声が震える。「あなたが怖かったのは、彼女を見殺しにした後で、私たちに『どうして言わなかったの』って責められることでしょう」彩也子は必死に首を振った。手を伸ばして小織の腕をつかもうと