「そのバッグ、開けないでください」真帆の声が廊下を走った。医療バッグを持つ男の手が止まる。「月城澪さんの保護搬送要請は、正式に受理されています。現場を落ち着かせるために、必要な処置だけを――」「処置を受ける本人の同意は?」「保護者の要請があります」「成人した本人の意思に代わる、法的根拠を聞いているんです」真帆が書類を受け取った。澪はバッグの側面のラベルから目を離さなかった。【月城澪/27歳/静脈内鎮静】処方日も、担当医の名前も空欄だった。それなのに、薬は用意されている。澪はラベルを拡大して撮影した。名前の下には病院の登録番号ではなく、仮の識別コードが印字されていた。通常の外来処方なら残っているはずの、受付記録が見当たらない。最初の人生で自分を眠らせた注射も、こんなふうに用意されていた。あのときは、パニックを鎮めるための処置だと信じた。目覚めたときには、もう封印室の中だった。その記憶まで説明するつもりはない。澪はそのまま動画の撮影を始めた。「どうして、私の名前が貼ってあるんですか?」男の目が、一瞬だけ泳いだ。「搬送中、過度に興奮される可能性に備えたものです」「誰が、私が興奮すると判断したんですか?」「通報の内容から――」「通報者の名前は?」返事はなかった。そのとき、またエレベーターが開いた。怜司が沙耶とともに降りてきた。陽介の顎に力が入った。「異変管理庁が、なぜここまで?」怜司が最初に見たのは、陽介ではなく澪だった。そして医療バッグに目を留め、足を止めた。「その薬は、投与しないでください」澪は鋭く彼を見た。「なぜですか?」「現在の月城さんの霊力波形と干渉します」「まだ薬の名前も見ていませんよね」短い沈黙が落ちた。怜司は、とっさに言い換えたりはしなかった。「バッグの管理コードで確認しました」真帆がバッグを見た。「あのコードが、見えたんですか?」「はい」澪は信じなかった。十メートル近く離れていた。しかもコードは、指の一節ほどの大きさしかない。怜司は、疑われていることを承知している顔だった。「調べていただいて構いません。この系統の鎮静剤は、霊力抑制剤と混合して使うと、急性の逆流を起こす可能性があります」「混合して?」澪は低く聞き返した。医療スタッフの一人が、バッグのファスナーを閉めようとした。
Last Updated : 2026-10-02 Read more