All Chapters of 九度目の人生では、あなたの花嫁にはなりません: Chapter 1 - Chapter 10

36 Chapters

1話. 八度目の死

東京の灯が、足元から消えていく。月城澪(つきしろ みお)は分厚い強化ガラス越しに、闇に沈む街を見下ろしていた。正確には、見下ろしているつもりだった。地下百二十メートルにある国家霊脈の中央核に、窓などない。壁一面の観測モニターが、隅田川と道路、林立するビル群をリアルタイムで映しているだけだ。【中央安定率 18%】【第一封印室 生存信号を確認】【第二封印室 生存信号を確認】赤い警告表示の向こうから、一条陽介(いちじょう ようすけ)の声が聞こえた。――澪。聞こえるか?「うん」喉の奥に鉄の味が広がった。手の甲で口元を拭うと、赤い血に銀色の火の粉が混じっていた。背後に広がる尾は、もう二本しかない。そのうちの一本が、中央核から伸びた黒い導管に捕らわれ、半透明に揺れていた。――紗奈のほうの浄化路が先に切れた。陽介の声は、驚くほど落ち着いていた。災害現場で何千人もの命を救ってきた人の声だ。――先に白石紗奈を出さないと、浄化網が持たない。そのあと、すぐそっちへ行く。澪は向かいの画面を見た。別の封印室で、白石紗奈(しらいし さな)が意識を失ったまま宙に浮いている。彼女を包む白い光が消えるたび、東京の地図を覆う赤い領域が広がった。「両方、開けられないの?」わずかな沈黙。――今は無理だ。陽介はいつも、一番多くの命が助かる答えを選んだ。だから澪は、彼を愛した。そしてまさにその理由で、今、一人きりで取り残された。「どのくらいかかる?」――三分。持ちこたえられるよな?問いかけながら、彼はすでに澪なら耐えられると信じていた。澪は自分の指にはまった指輪を見下ろした。内側には二人の名前と、結婚式を挙げる予定の日付が刻まれている。まだ式も挙げていない指輪が、血と狐火に濡れていた。「うん。待ってる」答えた途端、第二封印室が開いた。画面の中で陽介が紗奈を抱き留める。医療班が駆け寄り、浄化網の数値が六パーセント上がった。陽介が一度、こちらを振り返った。視線など届くはずのない距離なのに、澪には彼が自分を見たように思えた。――すぐ行くから。通信が切れた。一分が過ぎた。中央核の導管が、尾の奥深くに食い込んだ。澪は悲鳴をこらえ、両手で制御卓にしがみついた。手を離せば、霊脈が先に暴走する。画面上の予想死者数が、一秒ごとに増えていった。二分が過ぎた。封印室の
last updateLast Updated : 2026-10-02
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2話. 最後に残った尾

澪はしばらく、指一本動かせなかった。死は記憶よりも先に、体に残っていた。喉には導管が食い込む痛みが、胸には心臓が止まった瞬間の圧迫感が、はっきりとある。それなのに、手で探った肌は滑らかだった。傷痕も、血もない。ベッドを降り、洗面所へ向かった。鏡に映っていたのは、二十七歳の月城澪だった。黒く焼けただれた顔でも、霊力を失って真っ白になった髪でもない。一条陽介の結婚相手として雑誌の表紙を飾っていた、見慣れた姿だ。鍵をかけ、鏡に手のひらを当てた。「出てきて」声が震えた。背後に、銀色の影が立ち上る。狐火が洗面所の明かりを押しのけ、白く長い尾が一本、ゆっくりと姿を現した。一本。澪は何度も数え直した。間違いなく、一本だった。最初の死のあとには八本残った。二度目には七本。死ぬたびに一本ずつ消えていったが、以前の人生を生きていた澪は、それを覚えていなかった。理由のわからない衰弱と悪夢だけを、次の人生へ持ち越した。今回は違う。失った八本の尾に宿っていた記憶が、最後の一本に流れ込んできた。ホテル・ラヴィアンの割れた鏡。白夜医療センターの地下病棟。月光大橋を押し流そうとする黒い水。自分との関係を否定する陽介の声。花嫁の名前を確認する、地下の婚姻室。逃げる車の窓から見えた清月山。自分が誰なのかわからない、陽介の目。そして、中央核。澪は洗面台をつかんだ。狐火が揺れると、尾の先が半透明になった。今度、この一本まで失ったらどうなるのか。説明してくれた人はいない。それでもわかった。次はない。九本目の尾は、時間を巻き戻すための最後の命。それが消えた瞬間、月城澪という魂も終わる。澪は狐火を収め、冷たい水で顔を洗った。泣いている時間はなかった。スマートフォンとノートパソコンを起動する。日付は2028年三月二日。死んでから戻る時点は、人生ごとに違っていた。何年も前に戻ることもあれば、死に近い時点までしか巻き戻らないこともあった。今回の始まりが、陽介のプロポーズの前日だということだけは確かだった。陽介のプロポーズは、三月三日。両家の共同事業発表は、三月五日。正式な婚約式は、三月二十日。結婚式は、九月九日。カレンダーには、ウェディングドレスの試着、インタビュー、財団の行事、健康診断が隙間なく並んでいた。澪が自分で入れた予定も、一条グループ
last updateLast Updated : 2026-10-02
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3話. 今度は、お断りします

三月三日、午後六時五十七分。澪はホテル・ラヴィアン三十七階へ向かう専用エレベーターの前に立った。三つの数字が、あまりにも馴染み深い。三十七階。午後七時。窓際から三番目のテーブル。一条陽介は八度とも、同じ場所でプロポーズした。季節の飾りや花の種類は少しずつ違っていたが、彼が選んだ指輪と最初の言葉は、一度も変わらなかった。エレベーターの扉が開いた。澪に気づいたスタッフが、一礼する。「月城澪様。一条専務がお待ちでございます」このまま引き返すこともできた。けれど逃げるように欠席すれば、一条家も月城家も、澪の拒絶を一時的な感情として片づけるだろう。具合が悪かったのだ、緊張していたのだ、報道されるのが負担だったのだと理由をつけ、婚約発表を強行する可能性が高かった。今度こそ、自分で言わなければならない。自分の口で。宴会場の扉が開くと、弦楽四重奏がやんだ。広々とした空間に、ほかの客は一人もいない。ガラス窓の向こうには東京の夜景が広がり、床には白い薔薇と銀色のキャンドルで道が作られていた。その先に、陽介が立っていた。濃紺のスーツ。きちんと撫でつけた髪。緊張を隠しきれていない目。澪を見ると、その表情がほどけた。「来ないかと思った」「どうしてですか?」「昨日から、連絡を避けてただろ」陽介は近づきかけて、澪の強張った顔を見て足を緩めた。無理に手を取ることはしない。その代わり、彼女が好んで飲んでいた炭酸の入っていない水を、テーブルの上でこちらへ滑らせた。「具合が悪いのか?」八度の人生で、数えきれないほど聞いてきた声だった。一晩中、そばにいてくれたこともある。澪の誕生日を誰よりも先に気にかけてくれて、財団の仕事で疲れた日には、隅田川沿いを回って家まで送ってくれた。その時間まで、嘘だったわけではない。だから今も、彼を憎むことより、彼を愛した自分を切り離すほうが難しかった。「お話があるんですよね」澪の敬語に、陽介の眉がほんの少し動いた。「二人きりなのに、どうしたんだよ」笑って、場を和らげようとする。「座って話そう。今日は、いい話だけをするつもりで準備したんだ」「私は立っているほうが楽です」陽介は、それ以上聞かなかった。用意した段取りを崩したくない人のように呼吸を整えると、窓際へ向かった。東京の夜景に、数百機の大型ドローンが浮かび上
last updateLast Updated : 2026-10-02
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4話. すでに決められていた結婚

ホテルの非常電源が入り、照明が戻った。散り散りになったドローンは隅田川のほうへ回収されたが、陽介のタブレットには、まだ赤い警告が浮かんでいた。【月の契約者の婚姻同意が確認できません】陽介は画面を消し、澪を見た。「この表示、知ってたのか?」「いいえ」それは本当だった。八度の人生で、一度もプロポーズを断ったことはなかった。指輪をはめた瞬間に、どんな契約が起動するのか。疑ったことすらない。陽介が、ゆっくり近づいてきた。「今日はひとまず帰ろう。先に霊脈網の問題を確認して、明日また話そう」「私は、もうお話しするつもりはありません」「澪」「結婚に関する資料を、すべて送ってください。両家の協定、財団の共同事業、私が当事者になっている付帯合意まで」彼の顔から、少しだけ優しさが消えた。「急に契約書なんか、どうして?」「私の結婚に関する書類ですから」「お前が、もう検討した資料だぞ」「では、もう一度見ても問題ありませんね」そのとき、宴会場の奥の扉が開いた。月城泰成(つきしろ たいせい)と一条宗一郎(いちじょう そういちろう)が入ってきた。両家の秘書と法務部の職員の後ろには、お祝いのシャンパンや花束まで見えた。二人だけの時間は、プロポーズまで。受け入れたあとの予定には、もうほかの人間が入り込んでいた。泰成が険しい顔で尋ねた。「何があった」陽介は短く答えた。「澪が、結婚を考え直したいそうです」考え直したいと言ったわけでもない。澪はすぐに訂正した。「結婚はしないと申し上げました」秘書たちが一斉に目を伏せる。泰成はしばらく娘をにらみ、周囲の者に外へ出ているよう手で示した。扉が閉まると、声を落とした。「今日がどういう場か、わからないわけではないだろう」「だから、自分で来ました」「腹の立つことがあったなら、家で話せ。こんなやり方で両家の話を壊すな」宗一郎は怒らなかった。タブレットの警告履歴を確かめ、落ち着いた様子で椅子に腰を下ろした。「澪さんが負担に感じることはあるでしょう。結婚発表を数日遅らせる程度なら、調整しますよ」「取りやめてください」「両家の結びつきは、二人の恋愛よりも長く準備してきたものです」「月城財団が管理する清月山の霊脈と、一条の国家安定網は、すでに共同運用に入っています。急に中断すれば、投資家だけの問題では済み
last updateLast Updated : 2026-10-02
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5話. 世紀の婚約を取り消します

三月五日の午前、澪は桐谷真帆(きりたに まほ)に会った。大学時代から、唯一、家の話を隠さずに済んだ友人であり、弁護士だった。真帆は偽造された電子署名の記録を三分も見ないうちに、パソコンを閉じた。「これ、あんたがやってないのは確か?」「確か」「なら、婚約より先に刑事事件よ。電子文書の偽造、個人情報の無断使用、財団の電子証明書の不正使用。誰がやったかによっては、背任の問題も出てくる」真帆が澪の顔をじっと見た。「でも、どうして今になって私のところへ来たの?」八度も死んだとは、今は言えなかった。澪は、一番単純な事実だけを選んだ。「今度は、私の言葉を信じてくれる人が必要だから」真帆はそれ以上聞かなかった。「わかった。じゃあ、今日言うことは三つ。結婚しない。署名していない。関連資料は捜査機関へ提出する。それ以上、説明してあげなくていい」「どうして?」「あの人たち、理由を聞いて理解するんじゃなくて、言い返す隙を探すから」真帆は報道陣へ配る資料と、映像の保存先を確認した。一条グループが生配信を止めた場合に備え、独立した配信用アカウントも用意した。午後二時。ホテル・ラヴィアンのグランドボールルーム前には、報道陣が詰めかけていた。二日前のプロポーズ会場で起きた停電とドローンの事故は、すでに記事になっていた。一条グループは「一時的なシステム障害」と発表し、婚約は予定どおり行われるという報道資料も、明け方から配っていた。澪が車を降りると、フラッシュが降り注いだ。「月城澪さん、一昨日、一条陽介専務のプロポーズをお受けになったんですか?」「結婚式の日取りは決まったのでしょうか?」「月城財団と一条グループの持分交換は事実ですか?」澪は何も答えず、会場へ入った。ステージの中央には、二人の名前が並んでいた。【一条陽介 × 月城澪】【二つの家が、ともに歩む新たな一歩】「ともに歩む」という言葉が、おかしかった。控室には白いドレスとダイヤモンドのイヤリング、婚約指輪が用意されていた。指輪の箱の脇には、それをはめる場面を撮影するカメラの動線まで記されている。陽介が入ってきて、扉を閉めた。「澪、十分だけ話そう」一睡もしていない顔だった。いつもは乱れのないネクタイも、少し曲がっている。「あの文書は、俺が確認してる。お前の署名じゃないなら、きちんと訂正さ
last updateLast Updated : 2026-10-02
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6話. 婚約を断った女は、正気を疑われた

「月城澪さん、今のは婚約破棄の宣言ということでよろしいですか?」「一条グループとの婚姻も、全面的に取りやめるということですか?」「突然のご決断ですが、何か健康上の問題でも?」質問が一斉に飛んできた。ついさっきまで婚約を祝っていたフラッシュが、今は獲物を見つけたかのように瞬いている。澪はマイクを置かなかった。「はい。婚約も結婚も、計画をすべて取りやめます」「一条陽介専務と話し合われた内容でしょうか?」「自分が結婚するかどうかを決めるのに、相手の許可は必要ありません」ざわめきが大きくなった。後方から、誰かが尋ねた。「最近、月城さんが不眠や幻聴の治療を受けたという情報があります。本日の発言も、衝動的な判断ではありませんか?」澪は目を細めた。まだ会場を出てもいないのに、もう医療情報が流れている。八度の人生で見慣れたやり方だった。異常な兆候がある。不安定だ。保護が必要だ。そして最後には、本人の意思が消える。「私の健康状態に関する未確認の情報を記事にされた場合は、法的に対応します」「では、治療を受けた事実そのものは否定されないのですね?」「質問の仕方を変えても、答えは変わりません」短く言い切り、澪は壇上を降りた。そのとき、陽介が前に立った。「澪。ちょっと待ってくれ」笑おうとしているのに、顔が強張っていた。「今、お前の神経が過敏になってるのはわかる。俺たち二人で、静かなところで話そう」俺たち。その言葉を聞いた途端、澪の心はかえって静かになった。八度も自分を説得してきた言葉だ。俺たちの未来のために。俺たちの家族のために。俺たちみんなのために。その「俺たち」の中で、最初に消されるのはいつも月城澪だった。「一条陽介さん」陽介の表情が止まった。「今日から、個人的な連絡も控えてください。必要なことは、代理人を通じてお伝えします」「代理人?」「私です」聞き慣れた声が割って入った。黒いスーツ姿の真帆が、記者の間を抜けてやってきた。手には、すでに名刺と書類の封筒を持っている。「月城澪さんの代理人、弁護士の桐谷真帆です」真帆は報道陣へ名刺を差し出した。「先ほどの医療情報に関するご質問については、情報源を保全しておいてください。患者情報の漏洩が確認されれば、刑事・民事の両面で対応します。会場の防犯カメラ映像と撮影原本に
last updateLast Updated : 2026-10-02
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7話. 黒い公用車

黒いセダンの助手席から最初に降りたのは、灰色のコートを着た女性だった。記者証も、一条グループの入館証もつけていない。代わりに、手帳のように開いた身分証には、見慣れない機関名が記されていた。国家異変管理庁・特殊現象捜査局。「月城澪さんでいらっしゃいますか?」澪はスマートフォンのレンズを少し上げた。「そのまま、身分証を見せてください」女性は一瞬止まり、身分証をカメラの前に差し出した。「特殊現象捜査局第一捜査班、橘沙耶(たちばな さや)です。現在、月城さんから未登録の霊力波動が検知されています。確認の手続きにご協力をお願いします」真帆がすぐに前へ出た。「任意ですか、強制処分ですか?」「現段階では任意です」「では、依頼人は拒否します」沙耶の眉がわずかに動いた。「弁護士の先生ですね」「桐谷真帆です」「桐谷先生。七分前、この建物を中心に半径三百メートルの範囲で、国家霊脈網に異常な逆流が発生しました。月城さんの生体霊力と波形が一致しています」澪の指がこわばった。婚約を取りやめると宣言した、直後だった。偶然と考えるには、あまりにも正確だ。「それで、私が何をしたと?」「それを確認したいのです」「確認に必要な資料と、法的な根拠を先に送ってください」澪はきっぱりと言った。沙耶は強要しなかった。代わりに、タブレットの画面をこちらへ向けた。赤い線が急激に跳ね上がったグラフと、地図。中心は、この会場だった。「今夜中に、二次波動が発生する可能性があります」「可能性は何パーセントですか?」「現在の計算では、六十一パーセントです」「その数字で、人を連れていってもいいんですか?」沙耶が口を閉じた。澪の中に、覚えのある不快感が湧いた。確率。危険。保護。人を管理するときに、これほど便利な言葉はない。「資料は、私の弁護士に送ってください。失礼します」澪が背を向けた瞬間、沙耶のイヤーピースから短い雑音が聞こえた。誰かの指示を聞き、彼女がうなずいた。「承知しました。強制的な移動は行いません」真帆が小さくつぶやいた。「ずいぶん簡単に方針が変わるのね」澪も同じことを考えていた。車の中に、誰かがいる。そしてその人物には、少なくとも今は、自分を連れ去るつもりはない。* * *真帆の車が発進すると、黒いセダンも一定の距離を保ってつ
last updateLast Updated : 2026-10-02
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8話. 死の果てにいた男

ドアを開けると、冷たい空気が流れ込んだ。澪は道路の端へ降り立った。怜司は三歩手前で止まった。近くで見ると、さらに確かだった。間違えるはずがない。最初の人生で、命が途切れる直前にも。五度目の人生で、血に濡れた床に倒れたときにも。八度目の人生で、最後に目を閉じる寸前にも。視界の端にあった顔。「月城澪さん」低く、短い声だった。彼が名前を呼んだ瞬間、澪の手の甲に青い炎が灯った。真帆が手を伸ばしかけ、止める。「澪」「下がって」澪は怜司から目を離さなかった。「あなたですよね」「何についてのご質問ですか」「私が死ぬたびに、そこにいた人」怜司の目が、ほんの一瞬揺れた。澪は、その沈黙を肯定と受け取った。手を突き出す。狐火が長く伸び、槍のように怜司の胸へ飛んだ。怜司は体をひねってかわした。黒いコートの裾を炎がかすめたが、反撃はしない。澪は二つ目の炎を作った。「月城さん。ここでこれ以上力を使えば、霊脈の逆流が強まります」「だから?」「あなたも危険です」「私のことを、どうしてあなたが心配するんですか?」再び、炎が弾けた。怜司が正面から、腰の後ろの剣を抜いた。短い、黒い刃だった。澪は即座に身を低くした。その刃が、自分へ向くと確信していた。八度の人生が、同時に反応した。先に斬らなければ。今度の人生では、殺される前に。けれど怜司の剣は澪には向かわず、空を裂いた。キン、と金属がぶつかるような音がした。同時に、澪の左手首から黒い光が散った。今まで見えなかった細い紋様が、一瞬肌に浮かび、断ち切れた。澪は手首を押さえた。「何をしたんですか?」怜司が剣を引いた。「監視契約だけを切断しました」「誰がつけた契約ですか?」「現在、確認中です」「嘘」「確認できていないことを、断定してお伝えするつもりはありません」澪は奥歯を噛みしめた。怒りが増すほど、声はむしろ低くなった。「私の体についていたものを、あなたは見るなり切りました。それなのに、正体もわからないと?」「正体がわからないのではなく、誰が、いつつけたのかが確認できていません」「その違いが、重要なんですか?」「月城さんにとっては、重要なはずです」怜司の返答は丁寧だった。剣を完全に鞘へ収め、両手に何もないことを見せる。「あなたを制圧するつもりなら、先ほど機
last updateLast Updated : 2026-10-02
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9話. 九度目という言葉

真帆の事務所へ戻ったのは、夜九時を過ぎてからだった。澪はコートも脱がずに、テーブルの書類を広げた。異変管理庁から届いた資料だった。【無許可監視刻印切断報告書】対象者:月城澪。切断実施者:黒瀬怜司。切断時刻:2028年3月5日 19時42分。澪は最後の一行を、長く見つめた。【刻印設置主体:未確認】「本当に、わからないって書いたんだ」真帆が向かいの椅子に座った。「少なくとも、文書で責任は取った。あとで言い分を変えたら、これが残る」「それがおかしいの」「何が?」「私の知ってる人たちは、記録を残さなかった」澪は紙をめくった。後ろには霊脈波動の分析表と、現在の措置の内容が添付されていた。強制保護は行わない。任意調査を要請。本人の同意のない薬物投与を禁止。接触時は代理人の同席を認める。最後の条項の横に、手書きの文章があった。【推測上の理由だけで、本人の判断能力の低下を認定しないこと】署名は、黒瀬怜司。澪は紙を置いた。自分を殺したのではないかと疑っている男が、誰よりも先に、自分の決定権を文書に明記していた。矛盾している。だから、いっそう危険だった。スマートフォンが鳴った。陽介だった。出ずにいると、すぐにメッセージが届いた。【澪。記事は全部、削除させている】【まず、俺たち二人で話さないと】【望むことは何でも聞く。とにかく家に戻ってきてくれ】澪は画面を真帆に見せた。「これ、脅しには見えないよね?」「まだね。でも、『家に戻れ』が繰り返されるようなら記録して」澪は短く返信した。【個人的な連絡は控えていただくよう、お願いしました。今後のご連絡は代理人を通してください】送信すると同時に、また電話が鳴った。今度は知らない番号だった。澪は出た。「月城澪さん」怜司だった。「私の番号を、どうやって知ったんですか?」「捜査上の正式な連絡先として登録されている番号です。ご希望なら、今後の連絡はすべて桐谷先生を通します」「用件からどうぞ」「今日切断した監視刻印が、再生し始めています」澪は自分の手首を見た。何も見えなかった。「今は見えません」「まだ肉眼では見えない段階です。三時間以内に再形成される可能性が高いです」「誰がつけているのかもわからないのに、どうしてそんなことがわかるんですか?」わずかな沈黙。
last updateLast Updated : 2026-10-02
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10話. 最初の死

扉を開くと、陽介がすぐ目の前にいた。ネクタイは緩み、髪も乱れている。普段なら、人前では決して見せない姿だった。「澪」陽介が一歩近づいた。澪も同じだけ下がった。「ここまで来ないでくださいと、お伝えしました」「電話にも出ない、家にも帰らない。それで黙っていられるわけないだろ」「だから、弁護士を通してくださいと言ったんです」「俺たちの間に、どうして弁護士が必要なんだ?」また、俺たち。陽介は、心から理解できないという顔をしていた。その表情を見ていると、不思議なほど何も感じなかった。憎むための力さえ、惜しかった。「婚約を取りやめたからです」「それは、お前が今日いきなり――」「いきなりではありません」「澪」陽介が声を落とした。頼むような口調だったが、結論はすでに決まっていた。「とにかく家に帰ろう。病院も俺が探す。どうしてこんなことになったのか確認してから、もう一度話そう」澪の目が冷えた。「私が病気だという前提で、話さないでください」「じゃあ、どう受け止めろっていうんだ。朝までは何も問題なかっただろ」朝までは。澪にとっては違った。あの朝、目を覚ますまでに、八度の人生があった。陽介にはなかった時間だ。「あなたが理解できなくても、私の決定は有効です」「俺は認めない」「認めていただくために、言ったわけではありません」陽介の顎が強張った。少しの間、澪を見つめ、手を伸ばす。「待ってくれ。その手、どうした?」澪の左手首に、黒い線がかすかに広がっていた。再生しかけている監視刻印だった。「触らないでください」けれど陽介は、すでに手首をつかんでいた。「陽介さん、離し――」視界が真っ白に弾けた。* * *雨が降っていた。知らない山道だった。いや。澪にとっては、知らない場所ではなかった。最初の人生の、最後の日。陽介が荒く息をつき、巨大な石の扉の前に立っていた。右手には、太陽のように赤い刻印が燃えている。石扉の内側から、澪が拳で扉を叩いた。「陽介! 開けて!」隙間から、青い狐火が漏れた。陽介の顔は青ざめていた。背後で、誰かが叫んだ。「今、封鎖を解除すれば、東部軸が崩壊します!」「予想被害は、最低でも三万人です!」陽介の手が、石扉の制御装置に乗った。扉は、開けられた。彼も知っていた。中にいる澪も、知
last updateLast Updated : 2026-10-02
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