「何の取り柄もない妻はいらない」と離婚された翌日、私の正体が世界にバレました のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

27 チャプター

第1話 結婚三周年の屈辱

第1話 結婚三周年の屈辱 御堂家が都内の高級ホテル最上階を貸し切って開いた創業記念パーティーは、結婚三周年の祝いとは名ばかりだった。 少なくとも、御堂澪にはそう思えた。 壇上では義父の御堂宗一郎がグループの新規事業について語り、巨大スクリーンには御堂グループの歴史と今後の海外展開を紹介する映像が流れている。招待客は政財界の関係者や取引先、著名人ばかりで、シャンパンのグラスが触れ合う乾いた音と、相手の肩書きを確かめながら交わされる上品な笑い声が会場を満たしていた。 澪は壁際に近い場所で、その光景を静かに眺めていた。 淡い銀白色のドレスは、身体の線を必要以上に強調しない、ごく端正な形に仕上げてある。胸元から腰にかけて繊細な刺繍を施し、照明を受けた時だけ細い光が浮くように糸を選んだ。派手さではなく、着る人間の立ち姿を美しく見せるための一着だった。 自分でデザインし、自分のためだけに縫わせた。 けれど、そのことを知る者はここにはいない。「澪さん、そのドレス、ずいぶん思い切ったのね」 柔らかな声に振り向くと、高城玲奈が立っていた。 深い赤のドレスに、控えめながら一目で価値のわかる宝飾品。隙のない化粧も姿勢も、長年こうした場所で生きてきた人間のものだった。 玲奈の隣には、美佐子がいる。 義母は澪の姿を上から下まで眺め、それから口元だけで微笑んだ。「本当に。いつもはもう少し地味でしょう? 三周年だから頑張ったのかしら」「お義母様にそう言っていただけるなら、頑張った甲斐がありました」 澪が穏やかに返すと、美佐子は一瞬だけ眉を動かした。 言い返したつもりはない。ただ、以前の澪なら曖昧に笑って受け流していたから、少し意外だったのだろう。 玲奈は興味深そうにドレスの裾を見つめた。「でも、どこかで見たことがある気がするのよね。特にこの刺繍の入れ方。MIOの初期作品に少し似ていない?」 近くにいた女性たちが反応した。「まあ、言われてみれば」「本当ね。肩の落とし方なんて、少しそれっぽいかも」 笑いを含んだ声だった。 澪はグラスを持つ指に力を入れなかった。こういう場で、相手が何を期待しているかはよく分かっている。 困った顔。 恥じ入った態度。 あるいは、必死な否定。 そのどれかを見せれば、会話はもっと盛り上がる。「MIOを参考になさったの
last update最終更新日 : 2026-10-02
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第2話 妻からの最後の質問

第2話 妻からの最後の質問 パーティーを終えて御堂邸へ戻ったのは、日付が変わる少し前だった。 車寄せに停まった黒いセダンから降りると、夜気に冷やされた石畳から薄い湿気が立ち上っていた。ホテルを出る頃から降り始めていた雨はすでに止んでいたが、庭木の葉には細かな水滴が残り、玄関灯を受けるたび静かに光っている。 澪は運転手に礼を言い、ドレスの裾を持ち上げて玄関へ向かった。 蓮司は後ろから歩いてきたものの、ホテルを出てからここまで、二人の間にまともな会話はなかった。 車内では蓮司が仕事用のタブレットを開いていた。澪も話しかけなかった。三年間の結婚生活では珍しいことではない。帰宅途中まで仕事をしている夫と、その隣で外の景色を眺める妻。それは何度も繰り返してきた日常だった。 ただ今夜だけは、同じ沈黙でも意味が違った。「お帰りなさいませ」 玄関で待っていた家政婦が頭を下げる。「ただいま戻りました。遅くまでありがとうございます。もう休んでください」 澪がそう声をかけると、年配の家政婦はほっとしたように笑った。「奥様こそお疲れでしょう。お飲み物をご用意いたしましょうか?」「大丈夫です。自分でしますから」「では、おやすみなさいませ」 この家の使用人は、御堂家から派遣された者が多い。その中で、この家政婦だけは結婚当初から澪に変わらない態度で接してくれていた。 誰かに優しくされると、今夜は少し困った。 ほんの少し気を抜いただけで、自分でも扱いきれない何かがこぼれてしまいそうだったからだ。 リビングへ入るなり、蓮司はネクタイを緩めた。「先に着替えてくる。明日の資料を確認しないといけない」「まだ仕事をするんですか?」「朝一番で海外との会議がある」 そう答えながら、蓮司はもうスマートフォンに目を落としていた。 澪はしばらく夫を見ていた。 ホテルのテラスで聞いた言葉が蘇る。 ――君は俺の妻だろう。 あの一言を、三年間の自分なら何日も大切に抱えていたかもしれない。 蓮司なりに必要としてくれている。 そう解釈して、また自分を納得させただろう。 けれど今夜は、どうしても同じようにはできなかった。「蓮司さん」 呼びかけると、夫の指が画面の上で止まった。「何だ?」「着替える前に、少しだけ話せませんか」「さっきの母の話なら、気にする必要はない
last update最終更新日 : 2026-10-02
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第3話 離婚届

第3話 離婚届 翌朝、澪が目を覚ました時、窓の外には薄い朝日が差し込み始めていた。 ほとんど眠れなかったはずなのに、不思議と頭は冴えていた。長い夜の間に何度も考え直し、何度も迷い、それでも最後には同じ結論へ戻ってきたからかもしれない。 隣の寝室は静かだった。 正確には、二人は結婚してしばらく経ってから寝室を分けている。蓮司の帰宅時間が不規則で、澪を起こさないためというのが始まりだった。最初は「仕事が落ち着いたら戻そう」と言っていたが、いつの間にかそのままになった。 澪はベッドから降りると、昨夜脱いだドレスを見た。 銀白色の布地は、椅子の背に静かに掛けてある。 三周年のために作った一着だった。 蓮司に褒めてもらえたら嬉しいと思っていた。 けれど、結局彼は一度もドレスについて何も言わなかった。「それも、もういいか」 口にした自分の声は、思っていたより穏やかだった。 澪はシャワーを浴び、簡単に髪を整えると、白いブラウスと黒のパンツに着替えた。結婚前から持っている服で、御堂家の人間から見ればずいぶん地味に映るだろう。 けれど今は、このくらいでちょうどいい。 鏡の前で立ち止まり、左手を見る。 薬指は空いている。 そこに指輪がないだけで、知らない人の手のように見えた。 昨夜外した指輪は、小さなケースに収めてある。 澪はそれを旅行鞄の中へ入れかけ、やめた。 持っていくべきではない。 これは自分のものではない。 三年前、御堂家の嫁として与えられたものだ。 澪はケースを持ったまま、リビングへ向かった。 まだ家政婦たちが来る前の時間で、家の中は驚くほど静かだった。 普段ならこの時間、澪はキッチンに立っている。 蓮司の朝食を作り、コーヒー豆を挽き、新聞をテーブルへ置く。出勤時間に合わせてシャツやネクタイを確認し、天気が悪ければ傘を玄関へ出しておく。 誰かに命じられたわけではない。 自分がしたかったからしてきた。 それを今さら「尽くしてきた」と数えるつもりはなかったが、今日初めて何もしない朝を迎えると、自分の日常のほとんどが蓮司を中心に回っていたことがよく分かった。 澪はダイニングテーブルへ離婚届を置いた。 自分の署名は昨夜すでに済ませてある。 その横に、結婚指輪。 さらに、御堂家から渡されていたクレジットカードと家族用カー
last update最終更新日 : 2026-10-02
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第4話 妻のいない家

第4話 妻のいない家 朝食のない食卓というものが、これほど広く見えるとは思わなかった。 蓮司はダイニングの中央に立ったまま、しばらく動けずにいた。 澪が出ていった玄関の扉は、もう閉まっている。車の音もとっくに遠ざかり、家の中には壁掛け時計の針が進む音だけが残っていた。 テーブルには離婚届と結婚指輪、それから短い手紙がある。 三年間、毎朝この場所には何かしら匂いがあった。 焼いたパン。淹れたてのコーヒー。出汁の利いたスープ。時には季節の果物を切った甘い香り。 そのどれもない。 あるのは、紙と金属だけだった。「……馬鹿馬鹿しい」 蓮司はそう呟き、手紙を折り直した。 感情的になっているだけだ。 昨日のパーティーで母に侮辱され、自分も十分に庇わなかった。その不満が積み重なり、澪は勢いで家を出た。少し時間を置けば落ち着くだろう。 そう考えた方が合理的だった。 離婚という言葉まで出したのは驚いたが、本気で三年間の結婚を終わらせるつもりなら、もっと前から何か兆候があったはずだ。 蓮司はそう思い、すぐに自分の考えに引っかかった。 兆候。 本当に、なかったのか。 昨日の夜、澪は言った。 喧嘩をしなかったのではなく、自分が言わなかっただけだと。 寂しいとも、もっと一緒に食事をしたいとも、休日に出かけたいとも言わなかった。 蓮司はそれを「不満がない」と受け取っていた。 今になって考えれば、随分都合のいい解釈だった。 だが、まだ離婚を受け入れる理由にはならない。 蓮司は離婚届を手に取った。 澪の署名がある。 筆跡は普段と同じだった。震えてもいない。怒りに任せて殴り書きしたものでもない。 そこが妙に腹立たしかった。 これほど大きな決断をしておきながら、なぜこんなに落ち着いて書けるのか。「社長、お時間です」 背後から秘書の声がした。 いつの間に来ていたのか、玄関側の廊下に片桐が立っていた。 四十代前半の男で、蓮司が社長に就任した頃から秘書を務めている。私生活へ踏み込みすぎないことを信条にしている男だが、今だけはさすがにテーブルの上を見て表情を変えた。「……奥様は?」「出た」「出た、というのは」「家を出た」 片桐は一瞬だけ離婚届へ目を落とした。「本日のお車はどうなさいますか」 さすがに何も聞かない。 そういうところ
last update最終更新日 : 2026-10-02
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第5話 彼女は何も持っていかなかった

第5話 彼女は何も持っていかなかった 翌朝、蓮司はいつもより一時間早く目を覚ました。 眠ったのは明け方近くだったはずなのに、身体だけが勝手に起きた。枕元の時計を確認し、まだ六時前だと分かってから、しばらく天井を見つめる。 静かだった。 以前からこの家は静かな方だったが、澪がいなくなってからは、静けさそのものが形を持ったように感じる。 廊下を歩く足音。 キッチンで食器が触れる小さな音。 コーヒーミルの低い音。 そんなものが消えただけで、家という場所はこれほど無機質になるらしい。 寝室を出てダイニングへ向かうと、家政婦の坂下がすでに朝食の支度をしていた。「おはようございます」「ああ」「朝食は和食になさいますか、それともパンを――」「コーヒーだけでいい」 そう答えたところで、自分が昨日も同じようなことを言ったのを思い出した。 坂下は少し迷った後、柔らかく言った。「奥様がいらした頃でしたら、今頃もうスープを出されていたところですね」 蓮司は彼女を見る。「何が言いたい」「申し訳ありません。余計なことを申しました」「いや。続けろ」 坂下は布巾を畳みながら、少し困ったように笑った。「奥様は、社長が朝食を抜きそうな日は、飲める形にしてでも何か召し上がれるようにされていました。御本人は『朝から食べろと言うと嫌がるから、口に入るものなら何でもいいんです』と仰っていましたけれど」「そうか」 それ以上、言葉が出なかった。 澪はそんなことを一度も自分には言わなかった。 言わずにやっていた。 だから、自分もそれを当然だと思っていた。「坂下」「はい」「澪が出ていくことは知っていたか」 家政婦の手が止まる。「いいえ」「昨日まで何も変わらなかったか」「……変わらなかった、と申し上げてよいのかは分かりません」「どういう意味だ」 坂下は慎重に言葉を選んだ。「数日前から、奥様はご自身の持ち物を整理していらっしゃいました。ただ、衣替えか何かだと思っておりました。お洋服もアクセサリーも、一つずつ確認されていたので」「何を持っていった」「そこまでは、私には……」「確認する」 蓮司はそのまま澪の部屋へ向かった。 結婚当初は夫婦共用の寝室だったが、生活時間の違いから、やがて澪は隣室を使うようになった。 昨日も一度中を見た。 だ
last update最終更新日 : 2026-10-02
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第6話 消えた妻

第6話 消えた妻 御堂ライフスタイル本社の役員会議室には、朝から張り詰めた空気が漂っていた。 大型モニターには海外事業の収支見込みが表示され、各部門の責任者が順に説明を続けている。蓮司は資料に目を落としながら必要な数字だけを拾い、問題点を指摘し、修正期限を決めていった。 表面上は、いつもの御堂蓮司だった。 けれど会議が始まってから一時間の間に、机の上へ伏せたスマートフォンを三度確認している。 澪から連絡はない。 当然だ、と頭では分かっていた。 昨日、離婚については代理人を通すと明確に伝えられている。それでも、何か来ているかもしれないと思ってしまう。「以上が、第四四半期までの予測となります」 財務担当役員が説明を終える。 蓮司は資料を閉じた。「広告費の増額分に対して、新規顧客獲得率が低すぎる。媒体ごとの効果測定をやり直して、来週までに再提出してくれ。数字を増やすことが戦略ではない」「承知しました」「他にあるか」 誰も手を挙げない。「では終わる」 席を立とうとしたところで、片桐が耳元へ声を落とした。「社長。奥様について、昨日ご指示いただいた範囲で確認が取れました」 蓮司の動きが止まる。「執務室で聞く」 それだけ言い、先に部屋を出た。 廊下を歩きながら、自分でも嫌になるほど足が速くなる。 妻のことを調べる。 言葉だけにすれば、随分と情けない行為だった。 三年間同じ家で暮らしてきた女性について、今さら部下から報告を受けなければ何も分からない。 だが、澪に直接聞くことはできない。 正確には、聞く機会を自分で失った。 執務室へ戻ると、片桐がタブレットを置いた。「公開情報と、婚姻時に御堂家側で確認していた資料の範囲です。私的な尾行や、不正な照会はしておりません」「分かっている。話せ」「まず、奥様は結婚前まで旧姓の佐伯姓を使用されています。ご実家として届けられていた住所について確認しました」「そこへ行けば会えるか」 口にしてから、蓮司は自分が性急になっていることに気づいた。 片桐は首を横に振った。「難しいと思います」「なぜだ」「現在、その家には誰も住んでいません」 蓮司の眉が寄る。「どういうことだ」「都内郊外の一戸建てですが、少なくとも二年以上前から空き家です。所有者名義もすでに変更されています」「二
last update最終更新日 : 2026-10-02
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第7話 世界的デザイナーMIO帰還

第7話 世界的デザイナーMIO帰還 澪が三年ぶりにアトリエの扉を開けた時、最初に感じたのは懐かしさではなく、布と紙とアイロンの熱が混ざった独特の匂いだった。 都内の古いビルを一棟改装したその場所は、表向きにはアルカディア・グローバル傘下のデザイン研究施設として登録されている。けれど最上階だけは別だった。世界中で名を知られながら、長い間その素顔をほとんど公表してこなかったデザイナー「MIO」の専用アトリエであり、澪が結婚を機に封印した、自分自身の一部でもある。 扉の向こうには、三年前とほとんど変わらない景色が残っていた。 大きな作業台。壁一面の生地見本。色別に並んだ糸。人体の動きを確認するためのトルソー。そして窓際には、澪が最後に使ったままの古い木製椅子が置いてある。「勝手に処分したら、戻ってきた時に怒るでしょうからね」 後ろから神崎征司が言った。 澪は振り向かず、椅子の背へ指先を滑らせた。「三年間も戻らなかった人間に、そこまで気を遣う必要がありました?」「ありましたよ。あなたの場合、捨てた後になって『あの椅子が一番座りやすかったのに』と言い出す可能性が高いので」「私、そんなに面倒ですか?」「今さら確認しますか」 あまりに真顔で返され、澪は思わず笑った。 御堂家を出てから、まともに笑ったのは初めてだったかもしれない。「ひどいですね」「三年間、会社の重要判断には遠隔で口を出すくせに、本人は絶対に表へ出ない。私が何度『せめて年に一度くらい社員の前に顔を出してください』と言っても、『今は普通の主婦なので』の一点張りでした。十分面倒です」「普通の主婦になりたかったんです」「なれましたか」 澪の指が椅子の背で止まった。 神崎はすぐに言葉を続けなかった。 からかうつもりで聞いたのではないことくらい、長い付き合いの澪には分かる。「なれたと思っていました」 しばらくしてから答えた。「朝ごはんを作って、夫を送り出して、家のことをして、夕飯を考えて。帰りが遅い日は一人で先に食べて、たまに一緒に食事ができたら嬉しくて……そういう生活を、ずっとしてみたかったんです」「それは普通の主婦というより、あなたが想像した家庭生活でしょう」「同じじゃないですか?」「違いますよ。普通なんて、人によって違いますから」 澪は神崎を見た。「昔より説教臭く
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第8話 偽物ではなかった

第8話 偽物ではなかった 翌朝、高城玲奈は目覚ましが鳴るより先に目を覚ました。昨夜はほとんど眠れていない。枕元のスマートフォンを手に取ると、画面には通知が何十件も並んでいた。仕事関係の連絡に混じり、友人や知人から送られてきたメッセージの多くに、同じ画像が添付されている。 銀白色のドレスと、顔を伏せた一人の女性。長い黒髪に、耳元の銀色のイヤリング。MIO公式アカウントが昨夜投稿した写真だった。『これ、御堂さんの奥様じゃない?』『一昨日のパーティーで着ていたのと同じドレスに見えるんだけど』『玲奈、あの日そばにいたでしょう? 何か聞いてない?』 最後の一件を読んだところで、玲奈はスマートフォンを伏せた。「違うわよ」 誰に言うでもなく口にし、ベッド脇のカーテンを開ける。秋の朝日が部屋へ入り込み、白い床に細長い光を落とした。いつもなら、それだけで気持ちを仕事へ切り替えられるのに、今日はどうにも落ち着かなかった。 澪がMIOであるはずはない。その結論だけは、まだ手放せずにいた。昨夜公開された写真は後ろ姿だけだ。髪型も体格も似た女性などいくらでもいるし、イヤリングだって市販品なら同じものを持っていて不思議ではない。 問題は、ドレスだった。 一昨日、玲奈はかなり近い距離であれを見ている。あの時、自分は確かにMIOの作風を思い出したからこそ、『MIOを参考になさったの?』と口にした。 そして澪は、『いいえ。参考にはしていません』と答えた。 今思えば、あの返事には妙なほど迷いがなかった。真似を疑われて気分を害した様子もなければ、見栄を張った人間特有の焦りもなかった。ただ事実を訂正するように、静かに否定しただけだった。「だからって……」 玲奈は自分の中に生まれた続きを打ち消すように、ベッドから立った。シャワーを浴び、髪を整え、淡いベージュのスーツを選ぶ。鏡の前へ座れば、そこにいるのはいつもの高城玲奈だった。 大手化粧品会社の令嬢であり、自ら経営にも携わり、海外案件も任され、人前へ出ることにも慣れている。誰かの妻になることだけを目的に育てられたわけではない。それでも幼い頃から、周囲は当然のように「蓮司君とはお似合いね」と言い続け、玲奈自身も、いつからかそれを未来だと思うようになっていた。 だから三年前、蓮司が澪と結婚すると知らされた時は理解できなかった。
last update最終更新日 : 2026-10-02
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第9話 夫だけが知らない

第9話 夫だけが知らない 午後六時を過ぎる頃、御堂ライフスタイル本社の社長室には、普段より早く夜の気配が入り込んでいた。 大きな窓の向こうでは、ビル群の明かりが少しずつ増えている。蓮司はデスクの上に積まれた資料へ目を通していたが、内容はほとんど頭に入ってこなかった。時計を見るのはこれで何度目だろう。イベント開始は午後七時。会場までは車で三十分もかからない。 片桐はすでに隣室で出発準備を整えている。 あと少しすれば、答えが出る。 それまで仕事をしようと何度も自分に言い聞かせた。だが、書類を一枚めくるたび、銀白色のドレスが頭に浮かぶ。 あの夜、澪が着ていた一着。 自分はそれをろくに見もしなかった。 綺麗だと思わなかったわけではない。むしろ、ホテルの照明の下に立つ澪を見た瞬間、いつもとは違うと思った。ただ、それを言葉にするという発想がなかった。 妻なのだから、褒めなくても伝わる。 夫婦なのだから、いちいち言葉にしなくても分かる。 それがどれほど傲慢な考えだったのか、この数日で嫌というほど思い知らされている。「社長」 ノックの後、片桐が入ってきた。「そろそろ出発のお時間ですが、その前に一点、ご報告しておいた方がよろしいかと思います」「何だ」「昨日から調べていた、奥様のドレスについてです」 蓮司の指が止まる。「分かったのか」「ある程度は」 片桐はタブレットをデスクの上へ置き、画面を蓮司の方へ向けた。「公式発表では価格は未定ですが、複数の業界関係者へ確認したところ、『Farewell』が仮に市場へ出た場合、最低でも一億円前後、条件によってはそれを大きく上回る可能性があるそうです」 蓮司はしばらく何も言わなかった。「……一億?」「はい」「服一着が?」「MIOの一点物です。さらに、三年ぶりの復帰作で、本人が着用したプロトタイプ。作品としての希少価値まで含めれば、通常のオートクチュールとは比較にならない、と」 蓮司は椅子へ深く座り直した。 一億円。 金額そのものに驚いたわけではない。 御堂家にとって、一億円という数字は現実離れしたものではない。投資でも不動産でも、日常的にもっと大きな数字を扱う。 問題は、澪がその価値を持つ服を着て、自分の隣に立っていたことだ。 そして自分は、それを何も知らずに見過ごした。「本人が着て
last update最終更新日 : 2026-10-02
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第10話 MIO

第10話 MIO その名前が会場に落ちた瞬間、空気そのものが変わった。「これまでMIOとして作品を発表してまいりました、佐伯澪です」 たったそれだけの自己紹介だった。 けれど、数秒前まで静まり返っていたホールは、次の瞬間には無数のシャッター音と低いざわめきに包まれた。前列に座る海外メディアの記者たちまで一斉に身体を乗り出し、同時通訳用のイヤホンに手を当てながら壇上へカメラを向けている。 蓮司は動けなかった。 予想していなかったわけではない。 むしろ、この数日で出てきた情報を並べれば、他の結論を出す方が難しいところまで来ていた。澪が着ていた銀白色のドレス、復帰時期、声、作業中の手、結婚指輪、アルカディアとのつながり。何度も自分の中で否定しながら、それでも最後には同じ可能性へ戻っていた。 だから驚く資格などないはずだった。 それなのに、実際に本人の口から聞かされると、理屈では受け止めきれなかった。 壇上に立つ女性は、間違いなく澪だ。 三年間、自宅のダイニングで向かいに座っていた女。 朝、蓮司が新聞を読んでいる間にコーヒーを淹れ、出張前には忘れ物がないか確認し、帰宅が深夜になっても玄関の小さな灯りを消さなかった妻。 その同じ女に向かって、今、世界中のカメラが集中している。 しかも彼女は、御堂家の宴席で見せていた控えめな姿とはまるで違っていた。 派手な服を着ているわけではない。白いシャツに黒いパンツという、ごく簡素な装いだ。それなのに壇上へ立つ澪には、不思議なほど人の目を引きつける力があった。身体を大きく見せようともせず、声を張り上げるでもない。ただ、自分がそこにいることを少しも恥じていない人間の立ち方をしている。 蓮司はその姿を見ながら、今さらになって気づいた。 澪は、人前に立てなかったのではない。 立たなかっただけなのだ。 自分の意思で。「三年間、突然姿を消すような形になってしまったことについて、まずお詫び申し上げます」 澪はゆっくり会場を見渡した。「お仕事をご一緒していた皆様にも、私の作品を待ってくださった皆様にも、ご心配をおかけしました。活動を休止した理由について、今日すべてをお話しするつもりはありません。ただ一つだけ申し上げるなら、私自身が一度、仕事でも肩書きでもない場所で生きてみたいと思ったことが大きな理由です」 
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