七年前に別れた元恋人と、息子の病室で再会しました ~世界的CEOになった彼は、失われた家族を取り戻そうとする~ のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

28 チャプター

第1話 その子は誰の子だ

第1話 その子は誰の子だ 病院の自動ドアが開いた瞬間、消毒液の匂いと冷たい空調の風が美月の頬を撫でた。 十月に入ったばかりだというのに、外は妙に蒸し暑かった。朝から降ったりやんだりを繰り返している雨のせいで、髪の毛先は少しだけ湿っている。相沢美月は肩に掛けたバッグの位置を直し、隣を歩く息子へ目を向けた。「陽翔、疲れてない? 予約までまだ少しあるから、あそこの椅子で休んでいてもいいのよ」「大丈夫。ぼく、もう六歳だよ。病院まで歩いたくらいで疲れないって」「六歳になると急に体力が無限になるの?」「そこまでは言ってないよ」 真顔で返してきた息子に、美月は思わず笑った。 相沢陽翔は、母親の手を借りなくても何でもできる年頃になりたがっている。最近は特にそうだった。靴紐も自分で結びたがるし、スーパーの袋も軽いほうなら持ちたがる。今朝も「診察券くらいぼくが持つ」と言い張ったのだが、さすがにそれだけは美月が断った。 六歳児の「大丈夫」は、大人のそれよりずっと信用ならない。「じゃあ、無理そうになったら言ってね。今日は検査もあるんだから」「うん。でもママのほうが疲れてそう」「どうして?」「朝、コーヒー二回飲んでた」 痛いところを突かれ、美月は返事に詰まった。「よく見てるわね」「だって一緒に住んでるもん」 陽翔は当然のように言ってから、少しだけ胸を張った。 その姿を見ていると、美月はときどき怖くなる。 この子は自分が思っているよりずっと多くのことを見ているのではないか。生活費を計算しながらスーパーで商品を棚へ戻したことも、夜中に請求書を前にため息をついたことも、保育園時代からずっと使っているバッグの持ち手が傷んでいることも。 だから陽翔は欲しい物を滅多にねだらない。 その健気さを「いい子だから」で済ませてしまうのは、親として少し卑怯な気がしていた。「検査が終わったら何か食べようか。今日はご褒美」「本当?」「うん。何がいい?」 陽翔はすぐには答えなかった。六歳の子供なのだからハンバーグでもパフェでも好きなものを言えばいいのに、眉間に小さなしわを寄せて本気で悩んでいる。「高いやつじゃなくていい?」「そういうことを気にしなくていいの」「じゃあオムライス」「決まり」「でも、ママもちゃんと食べてね。ぼくの残りで済ませたらだめだよ」「……
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第2話 六歳です

第2話 六歳です 怜司の問いかけが落ちた瞬間、美月には病院の廊下が妙に広く感じられた。 人の足音も、遠くで鳴る電子音も、受付で交わされる声も、すべてが薄い膜の向こうへ押しやられたように聞こえる。そのくせ、陽翔の小さな手が自分の袖をつかんでいる感触だけは、痛いほど鮮明だった。「……ママ?」 陽翔は怜司ではなく、美月の顔を見ていた。何かまずいことをしてしまったのかと、不安になっているのだろう。 その表情を見た瞬間、美月の中で何かが切り替わった。 怜司が何を疑っていようと、今ここで守るべきなのは七年前の自分ではない。目の前にいる息子だった。「陽翔、先に検査室へ行っていて。書類を書き終わったら、ママもすぐに行くから」「でも、この人……ママの知り合いなんでしょ?」「そうよ。昔の知り合い。少し話すだけだから心配しなくていいの」 知り合い。 七年前、世界で一番好きだった男を表すには、ずいぶん乾いた言葉だった。 怜司の眉がわずかに動いたものの、陽翔の前だからなのか、何も口を挟まなかった。「本当にすぐ来る?」「行くよ。検査を一人で受けさせたりしないから、先に先生のところへ行っていて」 陽翔はまだ納得しきっていない顔をしていたが、そばにいた看護師に促され、何度か振り返りながら廊下の先へ歩いていった。 小さな背中が検査室の扉の向こうへ消えるまで見届け、美月はようやく息を吐いた。 振り向きたくなかった。 けれど、このまま逃げても怜司が諦めるとは思えない。昔から彼は、一度疑問を持てば、自分なりに納得できるところまで確かめずにはいられない男だった。 その性格が今の彼を世界的企業の経営者にしたのかもしれないが、美月にとっては迷惑でしかない。「今みたいなこと、もう陽翔の前では聞かないで。あの子には何の事情も分からないんだから」 美月が声を抑えて言うと、怜司はわずかに顎を引いた。「それは分かった。あの子の前では聞かない。でも、二人で話せるなら答えてほしい」「そういう意味で言ったんじゃないわ。あなたが何を知りたいのかは分かってるけど、私には答える義務なんてないでしょう」「義務の話をしてるんじゃない」 怜司の声も低かった。怒鳴ってはいないが、感情を押し殺していることは分かる。「じゃあ何の話? 七年ぶりに偶然会って、息子を見た途端に『自分の子かもしれな
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第3話 俺がお前を捨てた?

第3話 俺がお前を捨てた? 翌朝、美月は目覚まし時計が鳴るより先に目を覚ました。 カーテンの隙間から差し込む光はまだ弱く、部屋の中には夜の冷たさが少し残っている。隣の布団では陽翔が毛布を蹴飛ばし、片足だけを外へ出して眠っていた。 いつもの朝だった。 美月はそう思いたかった。 昨日、病院で七年ぶりに神代怜司と再会したことも、彼が陽翔の顔を見て立ち尽くしたことも、「その子は、俺の子か」と聞かれたことも、眠って起きれば少し現実味を失っているのではないかと期待していた。 けれど、そんな都合のいいことは起きなかった。 目を開けた瞬間から、昨日の出来事は一つ残らず頭の中に戻ってきた。 怜司の顔。 六歳という年齢を告げたときの表情。 そして最後に見せた、何かを疑い始めた目。 美月は布団から抜け出し、陽翔へ毛布を掛け直した。 寝顔だけを見れば、まだ幼い。 眠っているときくらいは何も気にせず、何も考えずにいてほしいと思う。「……面倒なことになったな」 誰にも聞こえない程度の声で呟き、台所へ向かった。 冷蔵庫から卵を取り出し、朝食の準備を始める。フライパンを温めながら昨日の会話を思い出してしまい、卵を一つ割り損ねて殻を落とした。「もう」 箸で殻を拾っているうちに、自分が妙に腹を立てていることに気づく。 怜司に対してなのか。 七年前の自分に対してなのか。 それとも、たった一度再会しただけで生活のリズムを乱されている今の自分に対してなのか。 どれも少しずつ当たっている気がした。     ◇「ママ、今日もコーヒー二杯?」 着替えを済ませた陽翔が、椅子へ座りながら聞いた。「今日は一杯。ちゃんと見てて」「じゃあ昨日より元気なんだ」「あなた、最近ママのコーヒーの量で健康管理してない?」「だって分かりやすいから。二杯のときは疲れてるし、三杯だとちょっと怖い」「三杯飲んだことあった?」「去年、仕事が忙しかったとき」 そこまで覚えているらしい。 美月は味噌汁を並べながら苦笑した。「子供はもっと子供らしく、好きなアニメとかゲームのこと覚えてなさい」「それも覚えてるよ。ママのことも覚えてるだけ」 さらりと言われ、美月は少し言葉を失った。 この子は、こういうところがずるい。 本人にそのつもりはないのだろうが、ときどき何気ない一言で母
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第4話 会わせてもらえなかった日

第4話 会わせてもらえなかった日 七年前、美月は病院という場所がこれほど怖いところだとは知らなかった。 それまでの彼女にとって病院は、風邪をひいたときに診察を受けたり、祖母の見舞いに行ったりする場所に過ぎなかった。白い廊下も消毒液の匂いも、決して好きではなかったが、人生そのものを変えてしまう場所だと思ったことはない。 けれど、その日の美月は自動ドアをくぐった瞬間から、足元が自分のものではなくなったような感覚に襲われていた。 神代怜司が事故に遭った。 知らせを受けたのは、その日の午後だった。 二十四歳だった怜司は仕事先から戻る途中、乗っていた車が交差点で大型車との事故に巻き込まれた。詳しいことは分からない。ただ、救急搬送され、意識が戻っていないとだけ聞かされた。 電話をしてきたのは怜司本人ではなく、共通の知人だった。 美月は最初、その言葉の意味が理解できなかった。『怜司が事故に遭った』 事故という言葉は知っている。『意識がないらしい』 その意味も分かる。 なのに、二つを怜司に結びつけようとすると、頭が拒絶した。 つい数時間前まで彼は生きていて、美月へくだらないメッセージを送ってきていた。『今日遅くなる。飯食ってていい』 それに美月は、『言われなくても食べます。自分がいないと私が夕飯も食べない女みたいに言わないで』 と返した。 すると怜司から、『帰りにプリン買う』 と来た。 美月は、『話聞いてる?』 と返している。 それが最後だった。     ◇「神代怜司さんのお見舞いなんですけど」 受付でそう告げたとき、美月の声は自分でも驚くほど震えていた。 受付の女性が端末を確認し、困ったように眉を下げる。「恐れ入りますが、現在、神代様へのご面会はご家族と病院側が許可した方のみに限られております」「私は……恋人です」 言ってから、自分で情けなくなった。 恋人だから何なのだろう。 法律上は家族ではない。 けれど、美月にとって怜司は家族と同じくらい大切な人だった。「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」「相沢美月です。本人に伝えていただければ分かります。あの、意識がないって聞いてるので、今すぐ会話できないのは分かってるんですけど……顔を見るだけでもいいんです。邪魔はしませんから」 受付の女性は申し訳なさそうだっ
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第5話 君は金を受け取って消えた

第5話 君は金を受け取って消えた 怜司が最初に取り戻した感覚は、痛みだった。 頭の奥で鈍いものが脈打ち、胸のあたりには重たい石でも乗せられているような圧迫感があった。息を吸うたびに体のどこかが軋み、自分の体なのに、まるで借り物のように思うように動かない。 目を開けるまでにも時間がかかった。 白い天井。 ぼやけた照明。 耳元で規則正しく鳴る機械音。 何が起きたのか理解できないまま、怜司は何度か瞬きをした。「怜司?」 聞き慣れた女性の声がした。 ゆっくり顔を動かすと、母の沙耶がベッド脇に立っていた。 いつも隙のない人なのに、その日は髪が少し乱れ、目の下に薄い影があった。「……母さん」 声を出した瞬間、自分の喉がひどく乾いていることに気づく。「無理に話さなくていいの。先生を呼ぶから」 沙耶がナースコールへ手を伸ばした。 怜司はその手首をつかもうとしたが、腕はほとんど持ち上がらなかった。「待って」「何?」「……美月は?」 自分でも驚くほど、最初に出てきたのはその名前だった。 事故のことも、仕事のことも、会社のことも聞かなかった。 美月。 最後に覚えているのは、移動中の車内でスマートフォンを見ていたことだ。『帰りにプリン買う』 そう送った。 相手から、『話聞いてる?』 と返ってきて、それを見て笑ったところまでは覚えている。 そのあと。 大きな音。 体が強く引かれた感覚。 ガラスの割れる音。 それから記憶がない。「美月に……連絡した?」 沙耶の表情が、ほんのわずかに変わったように見えた。 けれど意識がまだはっきりしていなかった怜司は、それを深く考えなかった。「今はあなたの体のことだけ考えなさい。かなり大きな事故だったのよ」「美月は無事なんだな?」「彼女は事故に関係していません」「なら、呼んで」「怜司」「会いたい」 自分でも子供じみた言い方だと思った。 それでも、目を覚ましたら最初に会いたかった。 事故に遭う前の自分にとって、それは当たり前のことだった。 沙耶はすぐには答えなかった。 ちょうどそのとき、医師と看護師が病室へ入ってきた。「神代さん、分かりますか? ここがどこか認識できますか?」 診察が始まり、美月の話はそこで途切れた。     ◇ 事故から目を覚ました直後の数日間
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第6話 ママをいじめないで

第6話 ママをいじめないで 怜司から連絡が来たのは、あの朝から三日後だった。 美月は昼休みの職員休憩室で、冷めかけたお茶を飲みながらスマートフォンの画面を見つめていた。『突然家まで行ったことは謝る。もう勝手には行かない。七年前のことについて、確認したいことがいくつかある。ただ、美月が話せると思ったときでいい。場所と時間はそっちに合わせる』 続けて、もう一通。『陽翔くんのことも、今は勝手に調べない。本人にも近づかない。そこは約束する』 何度読んでも、以前の怜司なら最後まで書かなかったような文章に思えた。 七年前の彼なら、自分が正しいと思えば先へ進んだ。美月の気持ちを軽視していたわけではない。ただ、問題を解決することに夢中になると、相手が気持ちを整理する時間まで「無駄な待ち時間」として扱ってしまうところがあった。 だから、美月は少しだけ困った。 強引に来られれば怒れる。 勝手なことをされれば拒絶できる。 なのに相手がこちらの境界を守ろうとすると、今度は自分がいつまでも逃げているような気がしてくる。「相沢さん、さっきから同じ画面ずっと見てない?」 向かいの席から同僚に声を掛けられ、美月は慌ててスマートフォンを伏せた。「見てないよ」「いや、見てたって。しかも、ものすごく難しい顔してた。保護者対応で何かあった?」「そういうのじゃない。ちょっと昔の知り合いから連絡が来ただけ」「その『昔の知り合い』って言い方、大体ろくな相手じゃないよね」「どうして?」「普通に会いたい相手なら友達って言うもの。昔の知り合いって言いたくなるのは、元彼か借金取りか、昔すごく嫌いだった同級生くらい」「選択肢が極端すぎるでしょう」 美月は苦笑した。 同僚もそれ以上は追及せず、午後の予定表へ目を戻した。 美月はもう一度、伏せたスマートフォンへ目を落とす。 元彼。 それだけなら簡単だった。 七年前に別れた恋人。 それだけなら、今さら会う必要はない。 しかし怜司は陽翔の父親かもしれない男で、美月自身、その「かもしれない」をもう否定できなくなっている。 いや、自分だけは最初から知っている。 陽翔は怜司の子だ。 問題なのは、それをいつ、どんな形で怜司へ伝えるのかだった。 そして何より。 陽翔本人へ、どう説明するのか。 その答えだけは、いまだに見つ
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第7話 六年間、私一人で育てた

第7話 六年間、私一人で育てた 公園を出る頃には、夕方の風が少し冷たくなっていた。 遊具で十分に遊んだ陽翔は満足したらしく、帰り道では美月の手を握りながら、さっきできるようになったことを熱心に報告している。ジャングルジムの上から隣の鉄棒へ移れたこと、そのとき一度だけ足を滑らせそうになったこと、でも自分で踏ん張ったから大丈夫だったこと。 美月は「足を滑らせそうになったところを先に言いなさい」と叱りながらも、声にはどこか笑いが混じっていた。 少し後ろを歩いていた怜司は、そんな二人の背中を見ていた。 さっきまでなら、美月と話し終えた時点で帰るつもりだった。 実際、運転手にも近くで待機するよう連絡してある。 それなのに陽翔から「怜司さんも駅まで行くの?」と何気なく聞かれ、否定する理由をとっさに見つけられなかった。「駅までは一緒でいい?」 怜司が確認すると、美月は少し迷ったあと、「人の多いところなら」 と答えた。 まるで要注意人物の扱いだ。 七年前なら冗談の一つでも返したかもしれないが、今は文句を言う立場ではない。「ママ、怜司さんって本当に社長なの?」 陽翔が歩きながら尋ねた。「本人に聞いたら?」「怜司さん、本当に社長なんですか?」「一応な」「一応って何?」「自分で『立派な社長です』と言うのも変だろ」「じゃあ、立派じゃない社長?」「陽翔、失礼でしょう」 美月が慌てて止めると、怜司は思わず笑った。「いや、いい。会社の人間にも似たようなことを思ってる奴はいるかもしれない」「いるんだ」「たぶんな」「社長って何するの?」「会社で一番偉そうに見えて、実際は一番いろんな人に怒られる仕事かな」「嘘教えないで」 美月が横から口を挟む。「嘘じゃない。取締役にも株主にも社員にも客にも怒られる」「六歳の子に会社経営の世知辛さを教えなくていいの」「じゃあ、ママの仕事は?」「知ってるでしょ。子供のリハビリのお手伝いをする仕事」「ママも怒られる?」「大人はみんな何かしら怒られるの」「じゃあ、やっぱり大人になりたくないなあ」 真剣に悩む陽翔へ、美月は笑った。「でも大人になると、自分のお金でアイス買えるよ」「なる」「早いな」 怜司が言うと、陽翔は当然のような顔で振り返った。「アイスは大事だから」「それは分かる」「怜司
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第8話 知らなかった六回の誕生日

第8話 知らなかった六回の誕生日 十一月十九日。 怜司は、美月から届いたその日付を何度も見返していた。 たった五文字の数字に、これほど重さを感じたことはない。 陽翔が生まれた日。 六年前の十一月十九日。 病院で六歳と聞いたときから、時期が重なっていることは分かっていた。それでも「六歳」という年齢と、「十一月十九日」という具体的な一日とでは、まるで意味が違った。 年齢は数字だった。 誕生日は、その子が実際にこの世界へ生まれてきた日の記録だ。 怜司は返信欄を開いた。『教えてくれてありがとう』 そこまで入力して手が止まる。 何を続ければいいのか分からなかった。『その日はどうだった?』 違う気がして消した。『大変だったのか?』 そんなことは聞くまでもない。 一人で出産したのか。 誰かが付き添ってくれたのか。 陽翔は何時に生まれたのか。 体重は。 美月は泣いたのか。 最初に抱いたとき何を思ったのか。 知りたいことは次々に浮かぶのに、どれも今の自分が尋ねていいことなのか分からない。 結局、怜司は最初の一文だけを送った。『教えてくれてありがとう』 すぐには返事が来なかった。 当然だ。 美月は、怜司の疑問に一つずつ答えるために生きているわけではない。 スマートフォンを置き、寝室の窓を開ける。夜の空気が入り込み、部屋の中にこもっていた暖かさを少しずつ追い出していった。 十一月十九日。 怜司は頭の中で、その日を六年前まで遡った。 当時、自分は何をしていた。 事故から数か月。 体はすでにかなり回復し、仕事へ戻っていた頃だ。 美月に捨てられたと信じ、何かを考えないために働いていた。 十一月十九日が平日だったか休日だったかさえ、すぐには思い出せない。 手帳のデータなら残っているかもしれない。 そこまで考えて、怜司は自分でも嫌になる。 仕事の予定は七年前まで残っているのに、息子かもしれない子供が生まれた日は知らなかった。 もちろん知らされたことがなかったのだから、覚えていなくて当然だ。 頭ではそう理解している。 それでも感情は、理屈ほど聞き分けがよくなかった。     ◇ 翌朝、怜司は予定より一時間早く会社へ入った。 秘書がまだ出社したばかりで、デスクの整理をしている。「おはようございます。今日は九時
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第9話 DNA検査をしてほしい

第9話 DNA検査をしてほしい 翌朝九時ちょうど、怜司の執務室に秘書が入ってきた。 手にしているのは薄いファイル一冊だけだったが、怜司には妙に重そうに見えた。「七年前の振込記録について、現時点で確認できた範囲をまとめました」「そこに置いてくれ」 怜司は机の前を示したものの、すぐには手を伸ばさなかった。 数日前までなら、資料が届いた瞬間に中身を確認していただろう。だが今は、ページを一枚めくるだけで七年間信じてきたものがまた一つ崩れるかもしれないという予感があった。 秘書はファイルを置き、必要以上のことを言わずに説明を始める。「まず、当時神代家側から支出された金額自体は記録に残っています。そこは以前ご覧になった資料と一致しています。ただし、問題は送金先です」 怜司がようやく顔を上げた。「相沢美月名義じゃなかったのか」「振込処理時の摘要欄には『相沢美月様 生活補償金』とあります。しかし、実際の送金先口座名義については、今回確認できた内部資料では完全には一致していません」「どういうことだ」「当時の処理担当者が残した控えに、別の管理番号が記載されています。現時点では、その番号が何を示していたのか確認中です。ただ少なくとも、社内に保存されていた一覧表だけを見て『相沢美月本人の口座へ送金した』と断定することはできません」 怜司は何も言わず、ファイルを開いた。 数字、日付、処理者名、承認印。 七年前に見せられた資料は、これらの一部だけを抜き出したものだった。 当時の自分は、そこに美月の名前があるというだけで信じた。 事故から目覚めたばかりだったことも、連絡がつかなかったことも理由ではある。 しかし結局、自分が確かめなかった事実は変わらない。「処理担当者は?」「退職しています。ただし連絡先は確認できそうです。正式に事情を聞く場合は、法務を通したほうがいいと思います」「そうしてくれ。圧力をかけるような形にはするな。あくまで事実確認だけでいい」「承知しました」「あと、母にはまだ何も伝えるな」 秘書は一瞬だけ間を置いた。「……分かりました」 怜司はファイルを閉じた。 これで美月が金を受け取っていない証明になったわけではない。 だが、少なくとも「受け取った」という前提は完全に崩れ始めている。 昨日までなら、すぐ美月へ知らせていたか
last update最終更新日 : 2026-10-03
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第10話 父親かどうかを知りたいだけなら

第10話 父親かどうかを知りたいだけなら 美月が怜司へ「見せたいものがある」と連絡したのは、日曜日の午後だった。 陽翔は朝から友人親子に誘われ、近所の科学館へ出かけている。迎えは夕方でいいと言われたため、久しぶりに数時間だけ一人になった。 本来なら掃除や買い物を済ませて、余った時間には眠りたかった。 それなのに美月は、七年前の白い封筒をバッグへ入れ、以前怜司と話した公園近くのカフェへ向かっていた。 何度も捨てようとして、結局捨てられなかった手紙。 かつては失恋の証拠だった。 今は、誰かが二人を引き離した証拠かもしれない。 同じ紙なのに、意味だけがまるで違っている。 指定した席には、怜司がすでに来ていた。「待った?」「いや、今来たところだ」「そういう台詞、昔も言ってたね。あなた、絶対十分前には来る人だったのに」「覚えてるのか」「忘れたいことほど変に覚えてるものよ」 美月が向かいへ座ると、怜司は少しだけ困ったように笑った。それ以上は昔話を続けない。 以前なら、懐かしさを口実に距離を詰めていたかもしれない。 今は、お互いにそこまで無神経ではなくなっている。「それで、見せたいものって?」 怜司に促され、美月はバッグから封筒を取り出した。 テーブルへ置く。 怜司の表情が変わった。「これが、例の手紙」「……七年前の?」「そう。あなたのお母さんから渡された。『怜司からです』って」 怜司はすぐには触れなかった。 美月の顔を見て確認する。「読んでもいい?」「そのために持ってきたの」 怜司は封筒を手に取り、ゆっくり便箋を取り出した。 美月は、その指先を見ていた。 七年前、自分はこの紙を何度読んだだろう。 十回では足りない。 内容を覚えてしまってもなお読み返し、行間に「本当は違う」という意味が隠れていないか探した。 当然、そんなものはなかった。 怜司は一枚目を読み、二枚目へ進む。 表情はほとんど変わらなかった。 けれど最後まで読み終えたあと、便箋を持つ手に力が入った。「俺じゃない」 美月は返事をしなかった。「この文章、俺は書いてない」「うん」「筆跡も俺じゃない。似せてはあるけど、少なくとも俺が書いた字じゃない」「七年前の私は、そこまで見られなかった」「責めてない」「分かってる。でも、自分でも思うの
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