冬真は離婚届を手に取らなかった。向かいの椅子に深く腰を下ろし、私の顔を見上げただけだった。「昨日のことで、まだ怒っているんですか?」会議の席と変わらない、冷静な口調だった。「怒ってはいません」私たちは結婚して九年になる。それでも、二人きりのときでさえ敬語を崩したことは一度もなかった。それが礼儀なのだと、以前は思っていた。今なら分かる。私たちは最初から、夫婦になれるほど近づいたことがなかったのだ。昨日も、いつもどおり午前五時半に起きた。冬真は胃が弱いため、脂の多いものは避ける。午後に重要な商談がある日は、においの強いおかずは避ける。悠生は野菜が苦手なので、細かく刻んで卵焼きに混ぜる。季節の行事がある日は、蓋を開けた瞬間に笑ってくれるよう、彩りにも時間をかけた。そうして毎朝作る二つのお弁当を、当たり前のように二人へ渡してきた。けれど昨日、冬真は包みを見ただけで言った。「今日は必要ありません。昼は絵里さんと会食です」「昨日のうちに、教えていただけませんでしたか?」「今朝決まったことです。お弁当一つで、そんな顔をしないでください」何も言わず、差し出した手を引いた。その様子を見ていた悠生が、自分のお弁当まで押し返してきた。「パパが持っていかないなら、僕もいらない」「悠生、今日は給食がない日ですよ」「大丈夫。絵里ちゃんが、かわいいお弁当を届けてくれるって」初めて聞く話だった。「冬真さんは、ご存じだったんですか?」「昨日、悠生から聞きました」「それなら、なぜ教えてくださらなかったんです?」「わざわざ報告するほどのことではないでしょう」冬真は腕時計を確かめ、椅子から立ち上がった。「絵里さんは帰国したばかりで忙しいのに、悠生のために時間を作ってくれています。真帆も感謝してください」朝倉絵里(あさくら えり)。冬真が大学時代に交際していた、初恋の相手だった。「絵里さんは、いつから悠生にお弁当を届けているんですか?」「前にも何度かありました。それが何か問題ですか?」「母親の私が知らなくても?」冬真は、わずかに息を吐いた。「家にいる真帆には分からないでしょうが、僕たちは新規事業の準備で忙しいんです」「そのことと、悠生のお弁当に何の関係があるんです?」「何でも悪いほうに受け取るのは、やめてください」悠生は私たち
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