「人を救いたい? 俺の膝に座って、キスしろ」 聞き間違いかと思った。 東條恭介は応接用のソファに深く腰掛けたまま、真帆を見上げている。冗談を言った顔ではなかった。「……本気で言ってるの?」「助けてほしいと頼みに来たのはお前だろ」 恭介が自分の膝を軽く叩く。「嫌なら帰ればいい」 帰れるなら、最初からここには来ていない。 三年前、真帆はこの男との婚約を一方的に破棄した。家族が決めた相手ではなく、自分が愛した拓海と一緒になるために。 あの時の恭介に何を言ったのかも覚えている。二度と関わることはないと思っていたから、言いたいことを言って背を向けた。 そしてその婚約がなくなったことで、高槻家と東條家の協力関係まで途切れている現状。 真帆はその恭介に、今さら娘を助けてほしいと頭を下げている。 恥ずかしいとか、惨めだとか、そんなことを考えていられるならまだ余裕があった。 真帆はバッグの持ち手を握り直すと、恭介の前まで歩いていき、その膝に腰を下ろした。「これでいい?」「まだだ」 何のことかは分かっている。 真帆は一度だけ目を閉じ、恭介の唇に自分の唇を重ねた。 触れて、すぐに離れる。「……これで」「それがキスか?」 恭介は笑いもしない。「やり直せとは言わない。嫌ならそれで帰れ」「本当に、嫌な男ね」「今さら気づいたのか?」 言い返したところで何も変わらない。 ここで意地を張って困るのは真帆ではなく、娘である小春だ。 もう一度顔を寄せ、今度はすぐには離れなかった。近すぎる距離に恭介の呼吸を感じる。それでも恭介は真帆の身体に手を回すこともなく、真帆が離れるまでそのままだった。 顔を上げると、恭介と目が合った。「これがお前の選んだ男のすることか」 低い声と同時に、恭介の手が真帆の服の裾にかかった。 身体が強張る。 けれど、真帆はその手を払わなかった。 恭介の手はそこで止まる。 その言葉で、朝の拓海との会話を思い出した。 病院から小春に適合するドナー心臓が見つかったと聞かされた時、ようやく娘が助かるかもしれないと思った。 小春の病気が分かってから、何度その知らせを待ったか分からない。 なのに、その直後だった。「今回見つかった心臓、花音に譲ってほしい」 隣にいた拓海からそう言われ、真帆はしばらく返事ができなかった。
最終更新日 : 2026-10-10 続きを読む