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第3話 誘拐された妻を信じない夫

Author: 甲賀流
last update publish date: 2026-10-11 11:00:00

 小春が眠っているのを確かめてから、真帆は病室を出た。

 熱は下がっていた。今すぐ容体が急変する状態ではないと医師からも聞いている。それでも病室を離れるのは不安で、看護師に声をかけてから何度もベッドを振り返った。

 雅子からは、これ以上小春の治療費を出す必要はないと言われた。

 昨日、恭介から渡された封筒はバッグの中にある。けれど、これからどれだけ治療が続くのかも分からない。

 拓海はどう考えているのか。

 それだけは本人から聞きたかった。

 病院を出る前にもう一度電話をかけたが、やはり出ない。

 花音から送られてきた写真が頭に浮かんだ。

 昨日からずっと付き添ってくれていて。

 まだ花音のそばにいるなら、直接会って話すしかない。

 真帆は病院を出た。

 タクシー乗り場へ向かいながら、もう一度だけ拓海へ電話をかける。

 呼び出し音が続く。

 出ないまま切れた。

「すみません」

 後ろから声をかけられた。

 振り返ると、知らない男が立っていた。

「はい?」

 道でも聞かれるのかと思った。

 次の瞬間、腕を強く掴まれた。

「え――ちょっと、何?」

 振りほどこうとしたところで、後ろからもう一人に肩を押さえられる。

「離して!」

 手からスマートフォンが落ちた。

 拾おうとするより先に男が持っていく。すぐ横に止まっていた車のドアが開いた。

「やめて! 誰か――」

 口を塞がれた。

 足を踏ん張っても、身体ごと車へ押し込まれる。

 ドアが閉まった途端、車が走り出した。

「何するの! 降ろして!」

「騒ぐな」

「娘が病院にいるの。戻らないと――」

「黙ってろ」

 低い声で言われ、真帆は唇を噛んだ。

 ここで逆らって何をされるか分からない。

 小春のところへ戻らなければならないのに。

 窓の外へ顔を向けると、隣の男に肩を掴まれた。

「見るな」

 どこを走っているのかも分からない。

 真帆は膝の上で手を握った。

 ***

 車を降ろされた先は、見覚えのない古びた建物だった。周りを見ても、ここがどこかさっぱり分からない。

 中へ入れられ、バッグもスマートフォンも取り上げられる。両手まで前で縛られた。

「ここ、どこ?」

 誰も答えない。

 壁際に座らされると、男たちは少し離れたところで話し始めた。

「写真より面倒そうな女だな」

「連れてくる時間まで指定したのは向こうだろ」

「金さえ払えば何でもいいけどな。あの女、注文多すぎんだよ」

 あの女。

 真帆は顔を上げた。

 拓海に支えられながら、二度こちらを見た花音。

 翌朝に送られてきた写真。

 頭に浮かんだ名前を、すぐに打ち消した。

 証拠なんて何もない。

 今はそんなことより、ここから出なければ。

「ねえ」

「黙ってろ」

「その依頼主から、いくらもらうの?」

 男たちがこちらを見る。

「何だよ」

「私を傷つけるより、夫からもお金を取った方がいいんじゃない?」

 一人が鼻で笑った。

「旦那が払う保証あんのか?」

「妻が誘拐されたって分かれば、払うわ」

 言った瞬間、昨日から何度かけても出なかった電話を思い出した。

 それでも他に方法が浮かばない。

「依頼主からのお金に加えて、夫からも取れる。その方が得でしょう?」

 男たちが顔を見合わせる。

 少しして、一人が真帆のスマートフォンを持ってきた。

「一回だけだ。余計なこと言ったら切る」

「分かった」

 男が拓海の番号を押し、スマートフォンを真帆の耳元へ持ってくる。

 呼び出し音が続いた。

『真帆?』

「拓海、お願い。私、誘拐されてる」

 電話の向こうが一瞬黙った。

『……何言ってんだ?』

「本当なの。病院を出たあと、知らない男の人たちに車へ押し込まれて――」

『母さんから聞いてる。お前、小春の病院にいるんだろ』

「さっきまでいたの。あなたと話したくて出たら——」

『また花音のことで怒ってるのか?』

「違う!」

『そんな嘘までついて、俺を呼び戻したいのかよ』

「嘘じゃない! お願い、ちゃんと聞いて。今、男の人たちに囲まれてて、お金を——」

『お兄ちゃん……』

 花音の声がした。

 続けて、大きな物音が聞こえる。

『花音? おい、花音!』

「拓海、待って!」

『今それどころじゃない。あとでかける』

「待って、切らないで!」

 通話が切れた。

「……もう一回」

 真帆はスマートフォンを持つ男を見た。

「お願い。もう一回だけ」

「今の聞いてまだかけんのか?」

「お願いだから」

 男は面倒そうにもう一度発信した。

 今度は呼び出し音の途中で切られた。

「使えねえ旦那だな」

「他に金出すやついないのか?」

 その言葉に、恭介の顔が浮かんだ。

 けれど名前を出していいのか迷った。

「もういい。こいつから金取るのは無理だろ」

「待って。別の人に連絡すれば——」

「散々時間取らせやがって」

 男が近づいてくる。

 真帆は壁際まで下がった。

「来ないで」

「顔も見られてるんだ。大人しくしてろよ」

 腕を掴まれた。

「離して!」

 身体を捻る。

 床へついた指先に、硬いものが触れた。

 錆びた鉄片だった。

 真帆はそれを掴み、目の前の男へ向ける。

「触らないで」

「そんなもんで何する気だ?」

 手が震えていた。

 男が一歩近づく。

「来ないでって言ってるでしょう!」

 伸びてきた腕へ鉄片を振った。

「この女!」

 肩を掴まれ、壁へ押しつけられる。

 息が詰まった。

 鉄片を持つ手首まで押さえられ、もう一人も近づいてくる。

 振りほどけない。

 小春の顔が浮かんだ。

 まだ帰れていない。

 建物の外で、タイヤが強く地面を擦る音がした。

「何だ?」

 男たちが振り返る。

 続けて車のドアが閉まる音が重なり、複数の足音が近づいてきた。

「おい、誰か来たぞ」

 入口が開く。

 先に入ってきた数人の男たちが、迷うことなくこちらへ向かってきた。

 その後ろから、一人の男が姿を現す。

 見覚えはない。

 男は真帆を見つけると、そのまま真っ直ぐ歩いてきた。

「申し訳ありません、高槻さん」

 落ち着いた声だった。

「お迎えに上がるのが遅くなりました」

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